2020年2月21日金曜日

記事紹介|多くの人が何気なくできることなのに、 意識しなければその価値に本当に気付くことはない

何も感じられなくるうつの世界に一度行ったからこそ、私は皆さんに伝えたいことがあります。

手が動くのであれば、大切な人を抱きしめてください。

耳が聞こえるのであれば、親しい人の声を聴いてください。

口が動くのであれば、誰かに「いつか話そう」と思っていることを素直に伝えてください。

体が動くのであれば、日本中の行きたいところへ出かけましょう。

好きなものを好きなだけ感じる大切さを、私はうつを克服して初めて知りました。

どうか、健康な心と体を、我慢して苦しいことをするためだけに使わず、一度きりの人生を精いっぱい楽しんでください。

後生川 礼子

(出典)五感を使う|今日の言葉

2020年2月19日水曜日

記事紹介|遠くを見る力

迷った時ほど遠くを見よ

近くを見れば見るほど船酔いする

あらが見えてくる

遠くまで見ていると、実はそんなものは誤差だとわかる

孫 正義


遠くというのは物理的な視野を指す場合もあれば、時間的な尺度を指すこともあるでしょう。

だから人は悠久の歴史から学ぶことも大事なのです。

「賢者は歴史から学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉もあります。

または大きな目標を見据えることも、遠くまで見ることになるでしょう。

ソニー創業者の井深大氏の言葉に、「鍬を持って耕しながら、夢を見る人になろう」と語っています。

最後にサン・テグジュペリの言葉も紹介します。

「船を作りたいのなら、材木を集めるために人を集めたり、彼らに仕事や作業を割り当てたりしてはいけません。

彼らに、海の無限の広さを夢見るように教えてあげなさい」

夢を見る力が大事ですね。

(出典)遠く|今日の言葉

記事紹介|野村克也語録

勝ちに不思議の勝ちあり

負けに不思議の負けなし

野村克也


先日2月11日に亡くなられた野村元監督の言葉です。

元々は剣術の達人でもあった平戸藩主の松浦静山の言葉だそうです。

故人を偲び、過去にご紹介した野村氏の言葉をお届けします。

  • プロの世界は、当たり前ですが、どこまでも自分との闘いです。夜、僕が素振りをしていると、先輩が若い奴を連れて繁華街に行くんです。“おまえもどうだ”とよく声を掛けられましたが、お金もないし、着ていく服もないから、“僕はいいです”って言って残って、自分でつくった個人メニューをこなしていました。
  • 素質は一流でも、思想が二流の人間は伸びない。
  • 人生に大きな夢を持っている人というのは敏感である。目標意識がはっきりしている人は敏感である。目標がしっかりしていると、物事に肯定的になるから、それが敏感にするのであろう。人間の最大の悪はなんであるか、それは「鈍感」である。
  • 不器用を恥じる必要はありません。不器用なことを認識していれば熱心に研究するし、対策を考える。それに第一手抜きをしません。この手抜きをしないことこそ一流選手への必要条件。

努力、思想、熱心さ、夢、目標、手抜きをしない。

そうした一貫した姿勢が野村氏の魅力だったのでしょう。

(出典)ぼやき|今日の言葉

2020年2月12日水曜日

記事紹介|知識と行動は表裏一体

中国の朱子学の考え方の一つに「先知後行(せんちこうこう)」がある。

先知後行とは、先に正しい知識を得たのち、それをもとに行動しなさい、という考え方。

それに対する概念として、王陽明は「知行合一(ちこうごういつ)」を唱えた。

知識と行動は、分けることのできないものであり、表裏一体であるとの考え方だ。

本当の知とは実践を伴うものであるということ。

正しい知識や思想を得るために、まずは勉強しなければいけない、という人は多い。

今の学校教育がまさにそれだ。

知識を得るのがいけないと言っているのではない、ただ頭に知識を詰め込むだけ詰め込んで、それをアウトプットしない人が如何に多いかということだ。

本来は、知識と行動というアウトプットは表裏一体のもの。

準備もなしに「とにかく走り出せ」というのは少し乱暴ではあるが、現代人はそのくらいのスピード感でちょうどいい。

薩摩には、西郷隆盛や大久保利通らをつくり上げた、郷中教育というのがあった。

その中にこんな言葉が残されている。

「泣こかい 飛ぼかい 泣こよか ひっ飛べ」

高いところから、飛び降りようかどうしようか迷って泣く子供に向かって、「泣くくらいなら、サッサと飛び降りろ」と言ったのだ。

ぐずぐず考えてないで行動しろ、ということだ。

「地球は行動の星」

ぐずぐず考えていないで、さっさと行動できる人でありたい。

記事紹介|政治に屈した思考停止や政府方針の忖度の中でしか政策を考えられず、ねじ曲げられた文教行政が定着してしまうことを恐れる

文部科学省の「大学入試のあり方に関する検討会議」が7日、第2回会合を開催した。まずは経緯の検証ということで、英語と記述式の別に報告書が示された。12人もの外部弁護士が協力したという詳細なものだ。

ただ、これには大きな限界がある。「議事録や報告書等から整理した」(各報告書)ということだ。もっとも会議の間や背景に何があったのか、ますます疑念を浮かび上がらせることができると評価することもできよう。 

実際に議論でも、まず益戸正樹・UiPath特別顧問が民間企業人の立場から「どうも結論が先にありきで、20年度というターゲットイヤーに縛られすぎていたのではないか」と口火を切った。それに続いて末冨芳・日大教授が、必ずしも英語民間活用に積極的ではなかった高大システム改革会議最終報告の2016年3月から8月までに積極的な流れが形作られたことを指摘。検討組織体が位置付けられない中の5カ月間にどのような意思決定がなされたことをただした。

これに対して文科省事務局は、「英語力評価及び入学者選抜における英語の資格・検定試験の活用促進に関する連絡協議会」(14年12~17年9月)と「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)検討・準備グループ」(16年5月~、現「大学入学共通テスト」検討・準備グループ)で流れができたと説明した。

しかし、事務方の説明を素直に聞くことはできない。その間、まさに省内でどういう「意思決定」と指示があったかこそが問われなければならないだろう。審議会は行政の「隠れみの」とも言われる通り、資料提出や進行・質疑応答、裏表の調整で役人がいかようにもコントロールできる。今回の一件も議事録や報告書等の「表」を見るだけでなく、まさに「裏」で何があったかを解明しなくてはならない。

となれば、話は簡単だ。第2次安倍政権の発足から文部科学相(12年12月~15年10月) として強力に英語教育や入試改革を推し進めた下村博文氏や、「5カ月」の間に文科相(15年10月~16年8月)を務めた馳浩氏に問いただせばよい。14年7月から文部科学審議官、16年6月から文部科学次官を務めていた前川喜平氏を呼ぶのも一興である。

第2次政権以降、政務三役主導の文科行政が進行したことは明らかだ。ならばその「責任」は、政治が負わなければならない。しかし萩生田光一・現文部科学相は、この日の会合でも中座前に「課題があるまま進んでしまったのは、もしかすると大きな課題は文科省そのものの体質にもあったかなと自分自身の反省を含めて思う」と述べた。まるで「職員」に判断ミスがあったかのような口ぶりである。

重ねていうが、二つの柱の見送りでますます現場の混迷を深めたのは萩生田文科相の「責任」である。どうも安倍政権は国民の理解を得るまで何度も何度も同じ説明を繰り返し、しれっと次の改善に移すのが「責任」だと思っているふしがある。これでは役人の士気が下がって当然だろう。

というより政治に屈した思考停止や政府方針の忖度(そんたく)の中でしか政策を考えられず、ねじ曲げられた文教行政が定着してしまうことを恐れる。純粋に教育の在り方を考えようとする古き良き文科省の体質を回復させることこそが、教育界のためにも国民・住民のためにも必要だ。

国会で追及が続いている「桜」問題も、決してさまつな話ではなく現政権と行政運営の在り方を問うものだろう。検討会議でも、そうした本質を突き詰めるよう委員の一層の奮起を求めたい。

記事紹介|「運」は「動」より生ず

小林正観さんは、「「運」は「動」より生ず」と言う。

これを「運動」と呼んだ。

実践すること、行動することが、「結果」を生むからだ。

実践すれば必ず、「運」がやってきて、楽しく、おもしろい現象が起こるという。

あの伊藤博文が「一たび動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。周りの者は、ただただ驚き、呆然とするばかりで、敢えて正視する者すらいない。それこそ我らが高杉さんのことだ」と評した、高杉晋作はこんな唄を残している。

「真(しん)があるなら今月今宵(こんげつこよい) あけて正月だれも来る」

このままでは幕府によって長州はつぶされる、もし、国を思う気持ちがあるなら、今集まれ、という思いを込めて即興で作った唄だと言われる。

それを、幻冬舎の見城徹氏は翻訳してこう言った。

「情けあるなら今宵来い。明日の朝なら誰も来る」

人は、2回、3回と誘っても来ない人は、二度と誘おうとは思わない。

情けが感じられないからだ。

人と人との関係は、すべからく「情」によって動く。

理論や理屈ではない。

情の人は、動の人だ。

「行動範囲を広げること」

まわりから誘われ、声をかけられる人でありたい。

(出典)行動範囲を広げること|人の心に灯をともす

2020年2月5日水曜日

記事紹介|文部科学省の能力

私立学校法改正に伴う学校法人の寄付行為改正の手続きが進められているが、学校法人に対して他の法人類型の制度を押し付けるような法改正に対して、私学の経営者たちは、反発を隠そうとしていない。私学の独自性を否定されているとまで表現する向きもある。

また、文部科学省は、結局のところ、地方及び小規模の私立大学から切り捨てる方針なのではないかと私学関係者は危惧している。財政支援は抑制する一方、統治ばかり強化するとして、文部科学省への不満は高まるばかりである。

さらに、修学支援措置の対象機関となる要件に対しても不満は強い。学生への個人補助であるにもかかわらず、学生と関係がない要件を持ち出して、私学の自主性に介入することへの不当性を指摘する声は大きくなっている。

この件では、既存の個人補助との整合性に不安を述べる関係者も多い。教育無償化が修学支援に変質し、既存制度との整合性を示さないままに、当面は既存制度も維持という程度でみなが納得するわけがない。

文部科学省には、官僚=テクノクラートとしての信用もないのである。加えて、国公私立の役割見直しは店ざらしのままで、やるべきことを先送りし、やるべきでないことばかり急いでいる国=文部科学省への批判は留まることを知らない。

文部科学省は、高等教育の規模について、中教審においても明確な指標を示せていない。人口減少⇒経営環境の悪化⇒競争の激化⇒優勝劣敗で統廃合⇒大学数・入学定員の減少という暗黙のシナリオは意識せざるを得ないが、国立を含めて、正々堂々と2040年までの縮小目標を提示すべきではなかったのか?

こうした重要な議論を避けていながら、官邸主導で決まってしまった新規施策だけは、命令通りに何も考えず実施しようとするのでは、高等教育の8割を担う私学からは迷惑以外の何物でもない。

人口減少期に入っているために、私学経営は、未来が見通せず余裕が持てなくなっている。私財を投げ打って法人を設立しているので、破綻すれば、経営者には地位も財産も残らない。もっとも、国立大学からも、同様に好意的な評価を聴かない。大学業界からの不審の眼を、文部科学省の幹部はどう考えているのだろうか?

国連が推進するSDGs(持続的開発目標)の17ゴールのうち、日本は、教育分野では達成度合いが高いとされているが、経営環境の悪い地方及び小規模の大学を他と一律に扱うことによって、事実上切り捨てれば、教育機会の格差は拡大に向かう。

当初は教育無償化がうたわれていた修学支援の個人補助の制度設計・配分にも、一工夫あってよいのではないか?

私の懸念が外れなければ、この新規施策によって、費用対効果の観点から、歳出の無駄が積み上がっていく。そうなれば、国民からの痛烈な批判(文部科学省無用論)は避けられないのではないか?

私学を始めとする大学業界は、既に文部科学省を当事者能力の面で見限っていると思うが、このままでは組織的に敵視するようになる日も近い。果たして、霞が関で影が薄い文部科学省は、大学からの四面楚歌でやっていけるのだろうか?

2020年2月4日火曜日

記事紹介|取り残される大学のSDGs

昨年からSDGsに関する著作物の出版が急速に増えている。民間企業や地方自治体へのSDGsの普及が進んでいるためであろう。

日経新聞が開催しているSDGsフォーラムも満員の盛況であった。この関心の盛り上がりは、世界的な金融の世界において、SDGs指標の活用が投資家の視野に入ってきていることも、大きな要因である。地方企業の価値評価をSDGsの観点から行って差別化を図ろうという新手法も、長野県などから始まっている。

主要な企業や地方自治体の相当数が実践を開始したことについては、政府の旗振りが功を奏したのか、世界の潮流に乗り遅れないという経営者の防衛本能のなせる技かは詳らかではないが、2030年の目標達成への具体的な取り組みが始まっていることは確かである。

しかし、学部学生の大半が席を置いている私立大学の多くは、SDGsに反応しているように見えない。経営陣にSDGsへの認識があるのかも相当怪しい。

SDGsが定める17の目標が多数の専門分野に分割されるために、教授の数だけ専門店が並ぶショッピングモールのような大学の構造上、SDGsを取りまとめて推進する中核が存在しないことも、認識の低さの原因である。

このままでは、企業や地方自治体に比して、意味のある取り組みが遅れ、社会的な落伍者になりかねない。

政府におけるSDGsの推進役は、内閣府(地方自治体対応)、外務省(国連対応)、経済産業省(産業界対応)だろうが、大学という組織体を誘導するのは、文部科学省の役割になるだろう。

しかし、今のところ、実質的に何の動きもない。東京2020大会の組織委員会のようなところでは、きちんとSDGsの観点からの計画を立案決定している。やらないわけにはいかない状況に追い込まれないと、何もしないのだろうか?

意識の高い自治体の小中高校では、SDGsを学習・実践する機会は多くなっているにも拘らず、大学業界だけが取り残される懸念がある。

大学という組織体で、SDGsへの取り組みを検討する際には、教育研究機関という事業体のインプット、アウトプット、内部のオペレーションの3領域に分けて考えると分かりやすい。

第1に、インプットについては、調達という業務に際して、契約先の選択に、SDGsの観点を加味することが考えられる。

電力さえも調達先が選択可能な時代になっており、再生可能エネルギーの割合が高い企業を選択するなどが考えられる。

また、長野県が推進しているようなSDGsへの優れた取り組みを実践する企業への認証制度を活用して、調達の際に有利な扱いをすることも考えられる。

大学が直接調達する物品・サービスに限らず、学生・保護者が大学やその関連会社の斡旋で購入するものを含めれば、大規模大学であれば、軽く億単位の桁になるので、調達を通じてSDGsを推進することは、相当の影響力になる。

第2に、アウトプットについては、大学全体の教育成果として、SDGsの観点を卒業生の種々の社会的行動に反映させることが最も重要である。

また、授業科目以外に、学生の課外活動として、貧困、飢餓、気候変動、海の環境保全などに関連するボランティア活動の実践に取り組むことを支援することも考えられる。その際、地方自治体との連携も視野に入れると良いだろう。

研究面では、成果を社会的イノベーションに結びつける大学発のスタートアップが生まれれば素晴らしい。そこまで行かないまでも、SDGsの実現に貢献するため、産学連携による研究成果の社会的還元に、大学全体として取り組むことが求められる。

さらに、地方自治体に協力して、例えば防災等の専門的知識をまちづくりに生かすという取り組みも考えられる。

第3に、オペレーションの面では、テレワークの推進など働く場としての環境改善、食品廃棄の削減、3Rの観点からの循環型経済の実現、ジェンダー平等への行動計画の策定など、幅広い取り組みが考えられる。

特に、ジェンダーや循環型経済に関しては、気候変動とともに、我が国は全体として最低評価となっており、目標達成が厳しい状況の課題となっているため、大学という組織体としても、企業における取り組みを参照しつつ、積極的な改革への意識を持たなければならないだろう。

大学に関する評価は、メディア等により、種々の軸で行われているが、是非SDGsという軸も取り入れることを検討してもらいたい。文部科学省自身が評価を行うことは無用だが、評価基準の策定などを施策化することは可能だろう。

内閣府がやっているように、意欲的な計画を策定している大学をモデルとして選定することも考えられる。2030年のゴールに向けて、SDGsは啓発から実践のフェーズに入っているので、実践する大学をどう増やしていくか、どう差別化するかを考えたらよい。

SDGsから大学が取り残されていては、我が国の目標達成は覚束ない。ただ、現場の感覚としては、このまま放置しておいて、大学自身がSDGsに目の色を変えるようには決してならない。残された時間は限られている。

記事紹介|仕事のスピードを上げる方法

大学の業務にも当てはまる経営スピードを上げるための5つの方法

1 メール文章の簡略化

日本の場合、ビジネスメールの書き方の基本として、「お世話になります。XXX社の〇〇です」から始め「よろしくお願いします」で〆ることがマナーとさている。そしてその内容もかなり丁寧に書かなければならない。

おそらくこのようなメールの書き方一つをとっても、日本全体でのGDPの1%ぐらいを浪費してしまっているのではないか、と感じてしまう。そもそも、そんなメール、モバイルのプレビューで見たら、全部「お世話になっております」しか表示されなく、可視性がかなり低くなってしまう。

アメリカでは、メールを書くときには短い方が良いとされる。というのも、読む人の時間を極力奪わないために、ごく単純にわかりやすく書く方が逆に良い印象を与えやすい。

2 スタッフを信頼し、性善説で物事を進める

そもそも企業が「管理」したがるのは、スタッフを十分信頼していないから。社内のコミュニケーションにおけるスピードを上げたければ、スタッフ同士が強い信頼関係を持てるカルチャーを醸成するのが最も効果的である。報告書一つとっても、信頼度が低くなるとその分量がどうしても増えがちで、自ずと作成と読解に費やす時間も増えてしまう。

そのためには、スタッフ同士が思いやれる環境と、正しい人選が重要になってくる。例えば、どれほど優秀だったとしても、他のスタッフに嫌な思いをさせるような人間を社内にいないようにしなければならない。

信頼関係を高めていけば、「管理職」の必要性すら無くなってくる。

3 場所と時間で縛らない

スタッフそれぞれに自主性を与え、結果を重視するべきであるが、ワークスタイルや場所、勤務時間などの「形」にフォーカスしすぎると無駄なストレスと時間が生まれてしまう。日本企業にありがちな日報やタイムカード、出張報告書などは、自主性を育むという点においては、弊害にしかならない。

例えば、長い時間だらだら働いて、質の低い結果を出すよりも、短時間でもすごいモノを作り出した方が良いという考え方。どのように働くかよりも、どんなアウトプットを出せるかに比重が置かれる。

そのためには、仕事中に遊ぶのも全然ありだし、むしろ楽しんでいる時間が増えれば増えるほど、プロダクティビティ (生産性) がアップすることもあるだろう。

また、リラックスしている時の方が面白いアイディアが思いつく (シャワー浴びている時にひらめく系) ので、自宅やカフェなど、リラックスできるスペースを設置するのもありだ。

ちなみに、WeWorkなどの素敵な環境で働けばクリエイティブなアイディアが出る、というのは全くの妄想で、”クリエイティブに仕事している感”を出すのは良いが、手段が目的にならないように要注意。

4 上司は情報をもっと公開する

日本の大企業複数社と仕事をしてみて一番驚いたのが、役職が上の人が自身のチームメンバーにあまり情報をオープンにしないこと。アメリカの企業だと、なるべく多くの情報を与え、スタッフが自主的に動くこと、でリーダーとしての仕事をしやすくするのが一般的であるのに対し、日本企業の場合はその逆になっているケースを何度も目撃した。

当事者の方々に聞いてみても、はっきりとした答えが出ないので、日本の組織に詳しい友人に聞いてみた。すると、意図的にそうしているという。最初は全く理解に苦しんだが、どうやらそうすることで権力を保持できるという。部下が知らないことを知っていることで、その人の存在価値を出すというかなり不健全な状態に感じられた。

そうなってくると、物事を進める際には毎回上司に聞かなければならなくなり、身動きが取りにくくなる。そして、全体のコミュニケーションコストも上がる。結果的に組織としてのスピードは下がり、競争力も下がってしまうカラクリ。

逆にスピードが速かったり、イノベーティブな企業に共通しているのは、上司と部下の情報格差が少ないこと。これを実現するには、クラウド系のサービスなどを活用する事で、毎回報告しなくても、スタッフがアクセスできる場所に情報を置いておけば良い。

5 年一の人事査定よりも頻繁なフィードバックを

人事評価を楽しみにしている人は少ないだろう。特にそれが1年に1回のペースだと、評価する側もされる側も心地悪い。数ヶ月前の事象などを取り上げてそれに対して良いか悪いかを伝えてもあまりピンとこない。

それよりも、その都度フィードバックを出したり、定期的な1on1ミーティングを設けて会社と個々のスタッフの目標と課題設定と、現状に対するディスカッションをする方が健全であり、素早い変化にも対応しやすくなる。

(出典)2020年に日本企業の経営スピードを上げる5つの方法

記事紹介|指示待ち大学

政治の冷酷さ、恐ろしさ

大学入試の2020年度改革が迷走している。萩生田光一文部科学相の「身の丈」発言が切掛で批判が高まり、野党が国会で取り上げて政治問題化すると、首相官邸は英語の民問試験の活用をあっさりと見送った。閣僚辞任が続いた直後だけに、政局安定最優先の政治決定だった。記述式問題にも批判が高まり、改革は風前の灯火である。

改革論義に関わった人たちは、改めて政治の冷酷さ、恐ろしさが身にしみたことだろう。民間試験も記述式も専門家が口を酸っぱくして問題点を指摘してきたのに、文部科学省は聞く耳を持たなかった。「明治以来の大改革」と大風呂敷を広げたはいいが、改革の中身は当初構想から後退に次ぐ後退だった。「最後に残ったこの2つは、面子に賭けてもやり抜く」。そんな思いがあったのだろう。文科省幹部は最後まで見送り回避に動いた。だが、政治決断で虎の子はあっけなくひっくり返された。

議論は一貫して政治主導だった。2012年10月、自民党総裁に復帰した安倍晋三氏は「経済再生」と「教育再生」を「日本再生の要」と位置付け、総裁直属の「教育再生実行本部」を設置した。実行本部は11月に「中間とりまとめ」を公表、12月の総選挙で政権を奪取すると、13年4月に第1次提言、5月に第2次提言を公表する。一連の改革は概ねこの第2次提言に端を発する。党の再生実行本部で示された方針(背後には相談に乗った文科官僚がいた)をもとに、官邸で「教育再生実行会議」が肉付けし、制度設計の詳細は「中央教育審議会」に委ねた。中教審は政治の下請け機関化した。

始まりも見送りも、決めたのは政治(官邸)。専門家が訴えた疑義は、制度設計の段階でも実施見送りの決断においても、真摯に検討される事はなかった。重視されたのは政権の目玉政策としての入試改革であり、政権のダメージ回避方策だった。

先輩の政治記者との会話を思い出す。「政治主導と言うが、政治家は本当に政策を吟味して発言しているのだろうか」と問うと、身も蓋もない答えが返ってきた。「政治家の関心は政局だけ。政策じゃない」。まさに慧眼で、それが政治のリアリズムなのだ。

しかも、こうした政治手法は文教政策だけではない。外交や社会保障分野の方が顕著だ。党や官邸が中心となり、政権の目玉政策を次々と打ち出す。確かな成果が出たかどうかの検証もないままに、次のイシューへと乗り換える。その繰り返しだ。

今日の日本は閉塞感に覆われてぃる。それを打破するには、縦割りで既得権益擁護に凝り固まる官庁の旧弊を打破する、トップダウンの政策決定プロセスが必要だとは思う。議院内閣制である以上、政治主導は当然でもある。ただ、今回の騒動は、専門家の知見を無視した"上から目線"一辺倒の改革では限界がある事も露呈した。それにも関わらず政治は、責任を文科省に押しつけるだけで、自らを省みる気配はない。振り回される方は堪ったものではない。

当事者意識はあるのか?

11月末、政府の英語民間試験の活用見送りを受け、全国の国立大が個別試験での対応を公表した。国の方針転換前は、82校中78校が入試で活用するとしていたが、一転して66校が取りやめを決めた。

個々の大学が受験生の成績を取り寄せ、判定に使うのは手問暇がかかる。国の成績提供システムが運用されなくなった以上、活用を止めるのは理解できなくはない。そもそも、民問試験活用に懐疑的な声が燻っていたわけだから。

でも、それで本当に良いのだろうか。大学入試は大学が自らの責任で行うものだ。国が介入する権限はない。国があれこれ言おうが言うまいが、自らの判断で必要ならやる、不要ならやらない。それが大学の矜持ではないか。

民間試験の活用は、入試で英語の4技能(読む・書く・聞く・話す)を測るのが目的だ。一旦は78大学が活用を決めたという事は、それだけの大学が4技能測定の必要性を認めた事になる。萩生田文科相が国立大学の姿勢を「非積極的だ。(活用自体が不適切だという)間違ったメッセージを与える」と指摘したのは無理もない。「国が言うから付き合ってきたが、国が止めるならこれ幸い。止めた!」。そう受け止められても仕方ない。主体性がなさ過ぎないか。対応を変えるなら、今後4技能の測定にどう取り組むのか、大学ごとに具体的プランを説明すべきだ。国が再び方針を出すまで様子見というのは完全な思考停止。「知的専門家集団」の体をなしていない。

今回の迷走の原因は国立大学協会の無為無策にもある。目的も実施方法も異なる複数の試験を、本当に入学者選抜の資料に使えるのか。50万人規模の共通試験で記述式問題の採点を、公平・公正かつ迅速にできるのか。大学が多様化する中で、現状規模の共通試験をやる意味があるのか.....。様々な疑問や不安が噴出し、論点は多くあったのに、個々の大学も国大協も正面からのオープンな議論を避けてきた。個別大学では言いにくい事でも、大学団体なら言える事がある。団体の存在理由はそこにあるのに、「文科省の方針が固まっていない」と言って議論を封印してしまったのだ。

11月の国大協総会では執行部のこんな発言があった。「大臣の表明だけで、文科省から正式文書が届いていない以上、対応しにくい」。そこに当事者意識は全く感じられない。全では文科省の思し召しのまま.....。

近年、国と大学の関係が様変わりした。それは国公私立を問わない。少子化で経営環境は厳しくなるばかり。国際競争力の観点からも教育研究環境の改善は急務だ。資金はいくらあって足りないのに、国家財政は火の車。国の機嫌を損ねたら予算確保で不利になり、大学の存立が危うくなる。大学がそう考えるのは仕方ない面もある。

一方の官僚も潤沢な予算を自らの裁量で分配できる時代ではなくなった。大学に良い顔ばかりできない。文科省自身にも厳しい目が注がれる。「大学に甘すぎると他省庁から批判された」。複数の文科官僚からこんな話を聞いた。入試改革論義には、国と大学の関係の変化、政府部内での文科省の立ち位置の変化が色濃く影響している。

だが、日本を取り巻く国際環境は様変わりした。新興国、特にアジアの成長は著しい。「日本はもはや先進国ではない」とまで言われる。次世代を担う若者は世界を舞台に勝負するしかない。国際ビジネスの標準語である英語は最低限のスキルだ。異なる背景を持つ多様な人々と協働するのに、日本式の腹芸は通用しない。自分の考えを自分の言葉で的確に、相手の立場を尊重しつつ伝える力が問われる。

政治主導云々の話は別として、改革の背景にはこうした問題意識があった。そんな人材を育てるために、大学は何をすべきか、高校卒業までにどんな力をつけて欲しいか。要求水準は大学によって異なる。だからこそ、個々の大学が入試の在り方を真摯に考えるべきなのだ。国の指示を待つだけの大学からは、主体性のない指示待ち人間しか育たない。

(出典)取材ノートから|IDE 2020年1月号