2013年11月25日月曜日

日本の将来と大学

安西 祐一郎氏(独立行政法人日本学術振興会理事長、元慶應義塾長)のブログ「Yuichiro Anzai's Official Blog-安西祐一郎オフィシャルブログ」から、最近の記事を3つほど抜粋してご紹介します。



高校卒業までは親と一緒に行動、卒業して大学に入学したら(あるいは働くようになったら)独立心をもって自分で考え自分で行動しなければならない、、アメリカの大学は尞制が多いのでそれができるのですが、寮に入ること≒独立すること、というアメリカの若者が巣離れする社会的な「しくみ」が、The Blind Sideという映画の最後のほうにヴィヴィッドに出てきます。

翻って日本では、教育再生実行会議が10月31日の第四次提言で大学入学者選抜のあり方について提言しました。とくに、「達成度評価テスト:基礎」、「達成度評価テスト:発展」の実現が提言され、これらを含めた大学入学者選抜のあり方についての議論が中教審などで始まっています。

こうした議論の大切さはもちろんのことですが、それに加えて、というよりもっと本質的なこととして、高校生と大学生の「違い」は何か、ということについては、あまり議論がされていないように思います。もちろん、日米の社会は歴史的にも文化的にも違いますからアメリカの高校生と大学生の違いを日本に直接持ち込んでも意味はありません。ただ、日本の高校生と大学生はどこが違う「べき」なのか、今は高校生がなんとなく大学生になって、高校3年生と大学1年生では明確な違いがそれほどないようにみえますが、それは「当然」のことなのでしょうか。

大学生になると家庭を離れ自立(かなりの大学生は自活)するのが当たり前という社会は、日本の高校生や大学生が国内で遭遇する社会とはかなり違う、という点は、高大接続の議論をする際の参考にしてもよいのではないでしょうか。


真の科学技術とは「人」なり、だ。科学技術を進めるには金も組織も必要だが、一番もとには人がある。人がいてはじめて経済が成長し、科学技術が発展し、大学もいいものになっていく。

ノーベル賞の自然科学3賞の受賞者数を見ると、日本は今世紀に入って世界3位。日本がトップレベルの研究者を生み出してきたことは間違いない。一方で、批判的な思考力、独立して考える力、自分で実行する力を養うことが、日本を含めたアジアの教育の中では長い間抜け落ちていた。

実用化された技術は、さかのぼれば、いろんな基礎研究にたどり着く。車も飛行機も、電気製品も、何でもそうだ。異種分野の多様な基礎研究を、非常に広い土壌でやっていることが、実用化にとって極めて大事な条件になる。

イノベーションをもたらすのは人間であり、人間の主体性だ。大学、大学院の本当の使命は、人間の主体性がはぐくまれ、それをもとに新たな知が生み出される環境を作ることにある。それには、規制緩和や研究環境の多様化、国際化が急務だ。主体性、創造性は異なる考え方の人たちがともにはげむ環境から生まれる。女性、若手人材育成の強化なども重要だ。

激変する世界をしっかり踏みしめなければ、人材育成も科学研究も成り立たない時代に我々はいる。大学自体が主体性を持ち、自己規制を打破していくことが、科学技術立国への道だと思う。

さて、「主体性」という言葉を私自身いつごろから使い始めたか定かではないのですが、振り返ってみるとかなり多用していることに気づきます。

いずれにしても、主体性を育むことは、日本が世界の平和と安定に貢献していくうえで極めて大事な要点になっていきます。このことは、科学技術立国についても同じことで、科学技術のイノベーションを起こし、それを経済成長につなげていくには、主体性をもって科学技術、イノベーション、社会変革に貢献する人間がたくさん出てきてくれることが最も大事なことだと思います。また、不必要な規制(その多くは組織の自己規制です)を取り払ってそういう人たちを応援していくことが必要だと思うのです。


ピッツバーグの初雪-カーネギーメロン大学の学長就任式に寄せて(2013年11月24日)

CMCの学長になったDr.SureshはNSFの長官から引き抜かれたのですが、学長の探索は3年前から始まっていたとのこと。アメリカの大学の学長には一般に任期はありませんが、その一方で学長の評価は常に理事会や評議会が厳しくチェックしています。とくにfund raisingは学長の第一の仕事といってもよく、学長は資金を集めて大学のレベルを上げていかなければ、突然代えられてしまう可能性があります。

日本の大学改革の議論に伴って、今ようやく学長のガバナンスの議論が始まっています。その中でアメリカの大学における学長のあり方との関連も議論されることがありますが、その多くは的を射ていません。

実際には、アメリカの学長はfund raisingの評価を常時受けているようなもので、理事会などによる厳しいチェックのもとで、いつ退任させられるか分かりません。一般論ではありますが、(少なくともこれまでは)任期の間に退任させられることはほとんどなく、しかも寄付を募る必要もないと言ってよい日本の国立大学の学長とは質的に異なる仕事だと言っても過言ではないと思います。

今回の旅で一番印象に残ったことは、カーネギーメロン大学という、科学技術やビジネス教育で知られ、演劇でもブロードウェイに多くの人材を輩出している、学生数はそれほど大きくはありませんが、TIMES大学ランキング(2013-2014)では24位(東大23位、京大52位、東工大125位)を占める大学が、その地位に甘んじることなく、改革派の学長を選任し、その学長が、CMUの今までの歴史と業績をよく理解し踏まえたうえで、これからのビジョンを就任式当初から広く世界に発信し、新たな道を歩みだそうとしている姿でした。

日本の大学だと、新しい学長が就任しても、いったいその学長が何をしようとしているのか教員にはよくわからない、というより、学長が自分たちの大学を変えることなどしないししてほしくもない、自分たちには関係ない、と思うのが、(例外はありますが)むしろ普通だったのではないでしょうか。それに対して、少なくとも今回CMUで会ったほとんどすべての教員は、新学長の人柄やビジョンを理解していましたし、自分たちのCMUが新しい時代に入っていくことに興奮しているようにみえました。

1976年にCMUのキャンパスで研究者生活を始めてから35年あまり、今になってCMUの新しい門出に立ち会えたことは、とても感慨深いことではありました。ただ、その一方で、日本の大学がいったいどうなるのか焦燥感を感じ続けている中でこうした場に居合わせたことは、米中巨大国の狭間でアジア太平洋地域の平和と安全の要としての新しい国家像を創っていかなければならない日本の将来について、そしてその将来を担うべき日本の大学について、いろいろなことを深く考えさせられる、あらためての機会になってしまったのでした。



2013年11月20日水曜日

真のガバナンス改革

吉武博通氏(筑波大学大学研究センター長・ビジネスサイエンス系教授)が書かれた論考ガバナンスの確立に向けた議論を通して大学改革の根源的課題について考える」(リクルート カレッジマネジメント183 / Nov. - Dec. 2013)を抜粋してご紹介します。(下線は拙者による)


改革の不全とガバナンス構造の問題はどう関わり合っているのか

大学のガバナンスを巡る議論が最近になって一段と活発になった背景には、グローバル化が急速に進む中、教育と研究の両面で大学への期待が高まっているにも拘わらず、我が国の大学はその役割を十分に果たしていない、という社会の苛立ちともいえる認識がある。2012年3月の経済同友会提言『私立大学におけるガバナンス改革-高等教育の質の向上を目指して-』の冒頭にそのことが顕著に表れている。

その上で、同提言は、大学側が自らの課題を認識しつつも、抜本的な改革に着手できずにいるのは改革の実行力が不足しているからであり、志を持った大学のトップが新しい取り組みや改革を実行しようとしても容易に進めることができないのであれば、大学のガバナンスの構造に問題があるということになる、という趣旨の主張を行っている。

改革の不全とガバナンス構造の問題が短絡的に結び付けられている印象は否めないが、それを批判するだけでは状況は何も変わらない。改革の不全の根本的な問題は何であり、それがガバナンス構造とどう関わっているのかを、大学自身が当事者として明らかにする必要がある。

法人化は一定の成果をもたらすも根源的な部分の変革は今後の課題

同友会提言は私立大学を対象とするものだが、「国公立大学にも適用できる部分も少なくない」とされている。2004年に実施された国立大学の法人化は百年に一度の大改革と言われ、公立大学も現在までに約8割が法人に移行している。

法人化はまさにガバナンスの改革であり、ガバナンスの構造を変えることにより、教育研究の高度化を促し、経営の効率性を高めることを狙いとしたものである。従って、国公立大学の法人化のレビューを行うことで、ガバナンス改革の有効性と課題を明らかにすることができるはずである。

客観的な検証は今後に委ねるとして、法人化により、学長・理事とそれを支える教職員を中心に自律的に運営を行うという意識が高まるとともに、学長のリーダーシップの発揮に対する学内の抵抗感が薄まってきたように思われる。その結果、教学・経営の両面で種々の意欲的な取り組みや様々な工夫が数多く見られるようになった。法人評価がそれを促した面もある。

また、学外理事、監事、経営協議会委員など、法人運営に学外者の視点が入るとともに、大学全体が社会をより強く意識するようになり、社会に一層開かれてきたことも成果と考えることができる。

その一方で、本来目的である教育研究の高度化や経営の効率化については、これからの課題と思われる。根源的な部分で改革と呼ぶに相応しい変化を起こすのはいかなる機関・組織であっても容易ではない

ここでいう根源的な部分とは何か。教員組織についていえば、教員の意欲・能力の底上げを図り、意欲のある教員がより高い教育研究成果を追求し、教育の質の持続的向上に組織的に取り組む状態を作りあげることである。

職員組織については、個々の職員が組織の目標と自身の役割を正しく理解し、絶えず改善を重ね、他の職員や教員と協調しながら新たな課題に取り組む中で、自身を成長させていく、そのような状態を作りあげることである。

このような根源的な部分の改革は、ガバナンス機能を強化することで実現できるのだろうか。

ガバナンスとマネジメントの概念を明確にした上で自校に相応しい仕組みを

大学のガバナンスに関する議論では、ガバナンスとマネジメントの概念が判然と区別されないまま使われていることが多い。それは、大学という機関の中に、経営体的組織と自治に象徴される共同体的組織という性格の異なる2つの組織が併存するからである。

経営体的組織の特徴は共通目的があることであり、指揮命令系統が確立していることである。その共通目的を、人に働きかけ、資金やモノや情報などの経営資源を活用することで実現するプロセスがマネジメントである。

国立・公立大学法人、学校法人及び法人・大学の事務組織は経営体的組織であり、そこで行われているのがマネジメントである。そのマネジメントをステークホルダーの視点に立って規律づけることをガバナンスと呼び、法人の長の任免とその執行の監督がその主たる手段となる。

大学や学部はどうであろうか。教員の多くは共同体的組織と考えており、従ってその長は選挙で選び、意思決定は合議で行うことになる。それに対して、経済界を中心に提起されたガバナンス改革に対する主張は、理事会が長を選任し、その長にリーダーシップの発揮を期待するものとなっており、大学や学部の性格づけを明確にはしていないものの、経営体的組織であることを前提にしているものと思われる。

前者は、構成員の責任で自らの組織を規律づけるガバナンス構造が基本となっており、後者は、理事会による規律づけの下、学長・学部長のマネジメントに期待する構造となっている。もちろん、前者においても学長・学部長はマネジメントの担い手であるが、教授会等との関係においてその権限が制約されることも多い。

どちらが優れた仕組みなのか、一律に判断することは難しい。大学間あるいは学部間で教授会の成熟度に大きな開きがあるはずであり、同じように理事会の成熟度も法人間で異なる。

既得権に固執するだけの教授会ならばその役割や権限を大幅に縮減すべきだが、自校の発展を願う教員達がその志や見識で議論を交わし、意思統一を図る場であるならば、教学についての機能・権限を一定程度残し、それ以外の事項についても学長や学部長が意見を求めたい場合は、その場を活用すべきであろう。

そのいずれが自校に相応しいのか、冷静かつ本質を捉えた議論を通して、その見極めを行う必要がある。

教員人事に戦略性と緊張感を持たせる仕組みを如何に構築するか

その一方で、教学事項と経営事項を明確に切り分けることは難しい。予算や施設・設備は経営事項であり、学部長が学長に要求し、学長が大学として法人に要求し、最終的には法人が決定すべきであるが、教員人事については、配置枠の問題と採用・昇任等個別人事の問題を分けて整理する必要がある。

配置枠の問題については、学部長が提案する人員計画(例えば長期計画と年度計画)を、学長が全学的な視点で評価し、法人との調整を経て承認するという方式が基本となるだろう。人的資源の配分という点で予算と同様に経営事項であり、変化の激しい時代、組織変更や学生定員の見直しに柔軟に対応するためにも、配置枠の既得権化は避けなければならない。

個別人事については、全学組織として人事委員会を常設し、個別案件ごとに専門委員会を編成し、その審査を経て、人事委員会が承認するという方式が考えられる。仮に、学部教授会に審議を委ねる場合でも、全学の人事委員会を常設し、各学部の採用・昇任基準や審査プロセスを予め承認した上で、それに則って適正に審査が行われたかのプロセス確認を行うことで、教員人事の質を担保することが望ましい。

研究業績の高い教員は知名度の高い有力校から優先的に押さえられてしまう。研究業績のみならず教育能力や人格などを多面的に評価する中で、自校に相応しい教員組織を作り上げ、競争力の源泉としていかなければならない。学部に全てを委ねた場合、ポストを埋めることが優先され、妥協を重ねた後の採用・昇任が繰り返される可能性がある。

教員人事に戦略性と緊張感を持たせる仕組みを如何に構築するか、大学の将来に関わる極めて重要な課題である。

学部長に相応しい人材をどう育成し、その運営能力を高めるか

このように教員人事の質を高めることで、根源的な課題として挙げた教員組織の改革を前に進めることができるが、それに加えて、日常の組織運営が適切に行われなければ、個々の教員の能力の伸長・発揮を促し、教育の質の高度化に向けた組織的な取り組みを定着させることはできない。学部長の手腕が問われる所以である。

教員の場合、学部長を選挙で選んでも、学長や理事会が選んだとしても、社員や職員が部課長を上司と仰ぐような上下関係にはなりにくい。少なくとも研究は個々の教員の興味・関心に基礎を置くものであり、研究成果に責任を負うのはその教員個人だからである。教育も研究に裏打ちされたものである以上、同様の性格を有する面があるが、同時に、その質の維持・向上に責任を負うのは、大学であり学部である。

このような意味からも学部長には一般的なマネジメント能力に加えて、教員組織の特性に即した固有の運営能力が求められる。選び方の問題も重要だが、人材のソースの求め方と育成方法、学部長の専決事項と教授会での合議事項の明確化、組織目標の達成に教員をコミットさせる運営方式と教員評価システム、学部長の運営を補佐する体制(例えば教員と事務長相当の職員を副学部長とする)など多面的な検討を行い、実効性ある形で整備していく必要がある。

組織や職位に如何なる役割と責任を付与するかの組織設計が重要

大学によっては学部の規模が大きく、学科が日常の運営単位となっている場合もあるだろう。学部と学科間で機能・権限をどうシェアするかも重要なポイントである。

同様に、大学と学部の関係についても、歴史的経緯、立地、学部の規模などに即して、機能・権限の分担のあり方を検討する必要がある。学部が地理的に離れていたり、一大学に匹敵する規模であったりする場合、機能・権限面で自己完結性を高めた方が運営の円滑化が図れる。その逆に、同一キャンパス内にあり、学部の規模が小さい場合、機能の共通化を進め、学部長に学長を補佐する全学的な役割を与えるなど、一体性を強めた運営を行うこともできる。

但し、いずれの場合でも、学部長はその分野の学問と社会の未来を洞察した上で、学部の立ち位置を定め、競合に対する優位性を確立するための戦略を構想し、学長の支援を受けつつそれを推進する責任を負っていることを明確にしておく必要がある。

権限はその責任を果たすために与えられたものである。ガバナンスを巡る議論では、権限に関心が集まるが、その前提として、それぞれの組織や職位に如何なる役割と責任を付与すべきかが明確でなければならない。その組織設計の考え方が重要なのである。

学長の役割・責任の明確化とリーダーシップの本質に対する理解

最大の焦点の一つである学長のリーダーシップの確立についても権限の強化を論ずる前に、その役割と責任を明確にしておかなければならない。併せて、リーダーシップの本質を明らかにし、強い権限を背景にしたトップダウンだけがリーダーシップの発揮でないことを確認しておく必要がある。

学長に求められる主たる役割は、ビジョンと戦略の構想、学部等の活動の適正な評価、それらに基づく適切な資源配分、健全な教育研究環境と働く環境の整備、ステークホルダーとの対話と発信である。

このような役割を果たすことのできる人材のソースをどこに求め、どう育成するか、その運営を支える職員組織をどう作りあげるかの2点が最も重要であり、難度も高い課題である。

学校法人においては、学長と理事会の関係も、学長の役割と責任を考える上で、必須の検討課題である。理事会と教授会の狭間で力を発揮しにくい学長もいるだろう。選挙で選出された学長が理事長を兼ね、法人と大学が一体的に運営される体制と、理事長を中心とする理事会と学長を中心とする教学体制が別建ての場合と、どちらが優れているか一概に言えない。

理事会についていえば、執行決定への関与の度合いによって理事に求められる要件、構成、運営方法なども異なってくる。

繰り返しになるが、それぞれの機関・組織・職位の役割と責任を明確化した上で、それを果たすために必要な権限を与え、それを担う人材を発掘・育成し、配置することが基本である。

組織は生身の人間で構成されており、過去の積み重ねの中で蓄積された知恵や組織文化も無視できない

形や権限の議論から入るのではなく、現状に対する正確な理解と評価に基づいたガバナンス論にしなければならない


2013年11月19日火曜日

悲しくも、幸せにもなるひと言

ブログ「人の心に灯をともす」からお身体を大切に」(2013年11月16日)をご紹介します。


アカネが配属されているJALマイレージバンクの事務局に、その電話はかかってきた。

「あの…、マイレージのことで相談に乗っていただきたいのですが…」

それは年配の女性の声だった。

「はい、どのようなご用件でしょうか」

「マイレージの名義を夫から変更したいのです」

「と申しますと…」

「夫が亡くなりまして」

「それは… ごしゅうしょうさまでした」

こうアカネが答えると、女性は沈黙してしまった。

「お客様、どうかなさいましたか」

「いいえ、なんでもありません。大丈夫です」

アカネは、その女性が「大丈夫です」と口にしたことがかえって気になった。

「それでは恐れ入りますが、まずお客様のご主人様のお名前を教えていただけますか?

もし、お手元にマイレージカードがございましたら、お得意様番号をお知らせください」

「はい、はい。…ええと」

アカネは、普段どおりに相続手続きの方法について説明をした。

遺産分割協議書などの書類をすでに作成しているかなどを訊き、印鑑証明の添付が必要な旨を説明。

もし、それがなければ、こちらから相続手続きに関する所定の用紙を送付することを告げた。

女性は、その間、ほとんどうなずくかのように聞くだけ一方といった感じだった。

それが、一層、アカネには不安に感じられた。

「お手数ではございますが、よろしくお願いいたします」

「はい」

「それでは、奥様、どうぞお身体を大切になさってください」

そう言って、アカネが電話回線のスイッチを切ろうとしたそのときだった。

「ぐっ」

言葉にならない、ため息のような、いや、おえつにも似た声が聞こえた。

アカネは、思わず問いかけていた。

「どうかなさいましたが、お客様」

「うう…」

今度は、明らかにそれが泣き声だとわかった。

「お客様…」

何か自分は悪いことを口にしてしまったのだろうか。

この5分間ほどのことが頭の中を駆け巡った。

通常の業務内容、ありきたりの会話だったはずだ。

「お客様、大丈夫ですか?」

一拍おいて返事があった。

「ごめんなさい。嬉しかったものだから…」

(え!? 嬉しかったですって?)

女性は、続けてこんな話をしてくれた。問わず語りに。

3か月ほど前、30年近く連れ添った夫を亡くした。

もうすぐ定年。

「時間ができたら、思い切って海外旅行へ行こうよ。

それも、できたらヨーロッパのどこかの町に長期ステイがいいな」と話していた矢先のことだった。

ご主人は、商社に勤めていたという。

そのため、海外出張が年に10回以上。

家を留守にすることも多かった。

「悪いな」と言いつつ、子育ては妻任せ。

「苦労のかけ通しだったな」と口にはするが、会社がすべてのような人だったという。

それだけに、二人でヨーロッパへ行くというのは夢のような話だった。

ところが…

会社から、夫が出張先の札幌のホテルで倒れたという知らせが入った。

心筋梗塞だった。

一人で出張だったので、救命処置が遅れた。

ホテルの人が気づいたときには、心肺が停止していたという。

そして、そのまま帰らぬ人となってしまった。

呆然とした。

しかし、悲しむ時間さえも許されなかった。

なきがらを家まで運ぶ手続き。

通夜と告別式の準備。

会社の人たちが主になって動いてくれたが、喪主としてただ座っているわけにはいかない。

病院への支払い。

区役所への死亡届と埋葬許可証の申請。

次から次へと訪れる弔問客は、知らない顔ばかりだった。

ひろうこんぱいで葬儀を終えた後、寂しさに襲われた。

ひと月が経ち、ちょっと落ち着いた頃、預貯金や株式、自宅不動産などの名義変更の手続きを始めた。

これが、なんともやっかいだったという。

銀行も証券会社も、提出する書類の多いことに参った。

「これでいいはず」と持っていく。

ところが、あれが足りないこれが足りない…と何度も追加や訂正を迫られた。

血が通っていないというか、お役所仕事のような冷たい対応だった。

他にも区役所の住民課、国民健康保険、国民年金課、そして社会保険事務所、税務署などへ毎日のように通った。

おおよその相続、名義変更の手続きが終わったとき、ふと頭に浮かんだのが、夫と約束していたヨーロッパ旅行のことだった。

海外出張が多かったので、マイレージがずいぶんたまっていたはず。

夫も、それをあてにして算段していたはずだ。

夫のカード入れを探すと、JALのマイレージカードが出てきた。

思い切って、カードの裏面にある番号に電話をした。

そこで出たのが、アカネだった。

そしてまた、他の役所や銀行と同じような型通りの会話が始まった。

「またか」と思った。

どこもかしこも、無味乾燥なマニュアル通りの言葉。

仕方がない、この人もそれが仕事なのだ。

そう思いつつも、心のどっか片隅にいきどおりと悲しみが混在してむなしくなった。

「お手数ではございますが、よろしくお願いいたします」

と言われ受話器を置こうとした、その瞬間だった。

耳元から、やさしい声が伝わってきた。

「それでは、奥様、どうぞお身体を大切になさってください」

「先ほどね、電話に出られたとき、いの一番に『ご愁傷さまでした』っておっしゃったでしょう。

そしてね、今さっき、あなた『お身体を大切に』って。

わたしね、この3ヶ月で一番嬉しかったんですよ、その言葉が。

だって、銀行へ行っても、区役所へ行っても、誰一人そんなやさしい言葉をかけてくれた人はいませんでしたから…」

「ごめんなさいね。わたし、涙が止まらないの」

そう言う女性の声は、ずっと震えていた。


人を思いやる言葉か、自分本位の心ない言葉か。

やさしい言葉か、型通りの冷たい言葉か。

たったひと言で、人は、悲しくも、幸せにもなる。


2013年11月18日月曜日

覚悟のある人

ブログ「人の心に灯をともす」から突き抜けた覚悟」(2013年11月12日)を罰すしてご紹介します。


残念なことにこの世には、自分のことは棚にあげて他人を批判する人は多い。


かつて、多くの政治家たちは自分の失敗を秘書のせいにしてきたが、実業の世界で、経営者やリーダーが、もしそれを部下や環境や他人のせいにしたとしたら、またたくまにリーダー失格の烙印を押され、会社の業績も急落するだろう。

自分や部下のやったこと、あるいは天変地異による影響さえも、自分の責任と、捉えるには、上に立つ者としての覚悟が必要だ。

覚悟とは決めること。

右に行くのか左に行くか、やるのかやらないのか、決めることだ。

そして、決めたらそれを飲み込み、引き受けること。

全てを引き受ければ、肚が決まり、退路が断たれる。

なにも、覚悟は大きなことだけではない。

小さなことだとなめてかかると、手痛いしっぺ返しを喰らうことがある。

どんな些細なことであろうと、覚悟してかかる。

「批評家ではなく、つねに批判される側でいること」

覚悟のある人は、「文句を言わない」、「人のせいにしない」、「いい訳しない」。


2013年11月13日水曜日

大学は社会と一緒に歩んでいるか

「国立大学法人法コンメンタール(歴史編)」(国立大学法人法制研究会著)から、「国立大学法人法案の準備と国会審議(その22)」(文部科学教育通信 No326 2013.10.28)を抜粋してご紹介します。

法人化から10年経ちました。私たちは、法人化の意義、国民からの期待を改めてかみしめる必要がありそうです。


石弘光学長の意見

国立大学法人法案の審議に当たっては、衆議院でも参議院でも多くの参考人が呼ばれ、意見陳述が行われた。各参考人の賛成論、反対論のいずれもが、当時の国立大学をめぐる様々な関係者の問題意識を端的に示していた。

国立大学協会の副会長として法人化の問題を強力に牽引してきた石弘光・一橋大学長は、参考人のトップバッターとしての意見陳述を行った。大学団体の幹部であるにもかかわらず、石学長は居並ぶ国会議員の前で「日本の大学は国際的な競争力を失っている」と言い放った。その上で、法人化は「頑張る大学が報われる仕組みであり、大学人の意識を変え、真の大学改革を遂行する良いきっかけになる」として、前向きに評価した。同時に、制度の運用が重要であるとの認識を示し、行政側にも意識改革を求めた。

◎石弘光・一橋大学長(平成15年4月23日衆議院・文部科学委員会)

「まず、大学は、特に日本の大学というのは、端的に申しますと、私は、国際的な環境の中で著しく競争力を失っておると考えております。つまり、研究者が海外に頭脳流出していくということはもう長年言われておりますが、最近は、優秀な高校生までが、日本の大学に行かないで欧米の大学に行ってしまうという現象がしばしば指摘されております。ということは、研究教育の面において日本の大学がしっかりしないといわば空洞化が起こるのではないか、こういう危機感を持っております。そこで、それに対して、大学も決して手をこまねいていたわけではございません。(中略)しかし、やはり中だけの改革では生ぬるい、かつ、大学人の意識の変化がないとこういう大きな改革には結びつかないとかねがね思っております。そういう意味で、今回、国立大学の設置形態そのものを変えるというこの法人化というのはいいきっかけであり、私は、これをいい方向に動かしつつ真の大学改革を遂行すべきであるという立場をかねがねとっております。

今どこに問題があるかといいますと、二、三、例を申し上げますと、やはり、大学の組織、人事が、今のままでは非常に硬直的であります。言うなれば、若いころ採用されたままで、さしたる業績もなくても定年まで安住できる状況でございますし、研究教育の最低限の義務を果たしていれば、それなりの大学生活を送れる。言うなれば、競争という形のものが著しく欠けているのではないか。

そういう意味では、私は、第二に、やはり研究教育には競争が必要だと思っています。ある論者に言わせれば、大学は競争になじまないという御意見もあるのは事実でございますが、ただ、確かに、一、二割のところは競争になじまない研究領域はあると思っておりますが、それを理由にして、本来、競争にさらした方がいい分野にまで競争原理を否定するのは、私は大いに行き過ぎだと考えております。(中略)各大学が、例えば研究費をとってきたら、オーバーヘッドという形で大学全体にそれをファンドとして積み立てて、そういう基礎研究の育成あるいは充実のために充てるべきだということをやれば、恐らく、金の面、人の面でも、その基礎的な研究というものはなおざりにされないと思っていますし、それができないような大学はこれからだんだん衰退していかざるを得ないという自己責任、そこでこの勝負は決まってくると思っています。

それから、私は、何といっても、この改革のいわゆる一つの目玉は、教育サービスが向上すると思っています。例えば、学生による授業評価の制度も入れている大学も出てきましたし、これは欧米の大学では当たり前なんでありますが、これが長いことやられてこなかった。それから、国立大学に評価というのが入る。これも海外ではごくごく自然に行われていることであります。当初はいろいろな問題があって、試行錯誤を経るかとは思いますが、この評価というものは、やはり、外部の目に大学のパフォーマンスをさらす意味では非常に重要であると考えております。

それから、やはり、大学に経営マインドが出てくるだろうと思っております。これは、単に大学間だけではなくて、地域あるいは企業等々と連携をしながら、社会的な貢献という面で、国立大学あるいはひいては大学全体が貢献できるのではないか、このように考えております。

(中略)

競争とはいっても、民間の企業と違いまして、売り上げで競うとかあるいは生産高で競うということはできません。そういう意味では、大学に6年間の中期目標、中期計画を立てさせて、その中で、後、評価をするといったような仕組みは、私はどうしても必要と考えております。つまり、何でもかんでも自由になるという、その幅をあるところで制約する仕組みはやはりあって、特にこれは予算が絡みます。幾ら法人化したといえ、国立大学は結局税金投入で運営される大学でありますから、国民あるいは納税者に対して、中で何をやっているかということを説明する責任がございますから、きちっとしたそういうフォームは必要かと考えております。

(中略)

今、情報化であり国際化の中で、従来のように教授会をベースにしたボトムアップ的なディシジョンメーキングでは大学はもたない、大学の運営は著しくおくれ、迅速な手が打てないと思っております。ある意味では学長のトップダウンといいますか、リーダーシップといいますか、それによって大学全体の意思をまとめていくということは必要になってこようかと思いますし、これは欧米の大学ではごくごく自然の話だと思っております。

(中略)

さて、問題はないわけではございません。改革でありますから、当然のこと、プラスの面、マイナスの面、両方考えなければいけません。ただ、リスクを恐れる余り、現状維持でいいということは、今の大学人は私はだれも考えないと思います。立ちどまって何もしない、そのリスクの方が私は大きいと思いますし、今申し上げた、あるいは法人化の方に込められております制度設計を見れば、頑張って努力する大学には報われるような、そういうような大学改革になると思っておりますし、なるべく努力をすべきだと考えます。

そういう意味で、まず私は、運用というのが非常に重要だと思っています。法案ができ、法制化しても、実際にそれに携わるのは恐らく官僚、政府あるいは大学人等々の人でございまして、その運用に関してはかなり幅があると思っています。そういう意味で、今後、大学の裁量の幅をでき得る限り広げる、つまり逆のことを言えば、無用なコントロール、無用な介入はやめていただきたいということが恐らく大学人の共通の要望だと思っています。

(中略)

これはまた、逆のことを言えば、事前的なチェック、事前的なコントロールというよりは事後的なチェック、これが重要ではないかと思っております。あるルールを決め、そこでプレーヤーとして大学の運営を自由にやらせて、その後いろいろな問題が出てくればチェックをする、そういうことがどうしても必要になってきますし、何よりも透明な行政ということが欠かせないと思っています。例えば運営交付金の算定の仕方も、だれが見てもわかるような格好にぜひしてほしい。

それから最後に、さまざまな制度改革になりますと、大学の事務量というのがほうっておくと非常に拡大する心配があります。もう既に各大学人はかなり危機感を持っておりますが、大学評価のための作業量、これは膨大であります。事務量も大変だし、印刷物も大変でありますし、会議に使う時間も大変であります。これは一つの例でございますが、今後これを極力阻止する方向でやらないと、法人化といういい方向を向いていても途中で息が切れてしまうということもあり得ようかと思いますので、こういう運用の面については、この法人法案を基本的に支持する立場としても、この辺は十分御留意いただきたい。

まとめますと、私は、法人化というのは各大学の努力あるいは自覚と才覚が問題で、これからどういう大学をつくっていこうかというビジョンを立て、大学全体となって努力すればそれだけある方向で報われてくるというふうな制度設計になってくると思っておりますし、そうせないかぬと思っています」

小野田武氏の意見

小野田武・日本大学教授は、三菱化学株式会社において専務取締役開発本部長等の要職を務めるとともに、経団連の大学問題ワーキンググループの主査として活動するなど、長らく経済界から大学のあり方を論じてきた人物である。文部科学省に置かれた「国立大学等の独立行政法人化に関する調査検討会議」にも参加し、目標評価委員会の作業委員として報告書のとりまとめに中心的な役割を果たした一人でもあった。小野田氏は、日本が国際社会の中で「周回遅れのランナーになっているんじゃないか」との強烈な危機感を前提に、法人化によって「社会に開き、社会とともに歩んで、そして社会を先導してほしい」と国立大学に期待した。

◎小野田武・日本大学総合科学研究所教授(平成15年4月23日衆議院・文部科学委員会)

「私は、肩書が日本大学の教授になっておりますけれども、40年を超えて化学系の企業で研究開発、新しい事業の開発、また経営のトップ層に入りまして従事してまいりました。(中略)そこで私が強く感じたことは、確かに経済の国際化というのは昔から進んでいますけれども、いわゆる国際化という流れはもう経済だけにとどまらない、あらゆるものが国際化という波にさらされるということを、嫌というほど感じたわけですね。

また、一方では、ちょっと皆さんが余裕があるときは必ず議論されます、資源だ、エネルギーだ、環境問題だ、現代の文明の社会の将来はどうなるんだろう、これはまさにどうなるんだろうかどころか大変な問題なわけですね。そういう一つの制約のもとにどう我々が活動していくかという思いであります。

それとともに、経済先進国のさまざまな社会的な意思決定のメカニズムが明らかに変わりつつある。それはNPO等と言われますけれども、いかに個人個人が同じ思いを持ってしかるべき提案をお上に、言葉は悪いですけれども、自分たちより強い者に、国を指導してくれる人たちにぶつけていくかというメカニズムがダイナミックに動いている、これを痛烈に感じております。

それに比べて、やはり我々日本というのが、はるかに極東という、多少地理的にいえば不利な地にありますし、過去の成功体験というものがございました。そういうことで、簡単に言えば、周回おくれのランナーになっているんじゃないかなというのが、危機感の原点であります。

(中略)

大学というものは知の中核であり、人材育成の基盤だと思っております。逆に言えば、今申し上げた国のファンクションで、国際競争の先頭に立っていってもらわなきゃいけない機能だと私は確信しております。

特に日本の場合には、さまざまな歴史的経緯からいっても、国立大学への質的な依存性、量的ではありません、質的依存性は極めて高いわけです。それだけに国立大学は、今申し上げてきたような時代の認識であるとか、私が申し上げた危機感であるとか、そういうものにこたえてくれないと困るわけなんです。

これを抽象的に申し上げれば、一人一人の個人、大学人は、その人がやりたいと思うことが存分にやれているか、こういうことをやりたいと思ったらそれができるような状態になっているか。それでは組織というものは、本当に大学という組織体でその力を発揮しているだろうか。一人一人が強いのは当たり前です。それが集まればもっと強くなるはずの、その組織力を発揮しているだろうか。また、個と組織の力を十分に顕在させる、そういう仕組み、システムができているのだろうかといえば、答えはもう明らかです。答えは申し上げません。

それで、次のステップとして、私が今回の国立大学の法人化法案に対してのバリュエーションですけれども、結論としては、私の思いからすれば満点ではないけれども合格点だ、大変御無礼な表現かもしれませんけれども、そう思っております。(中略)

今申し上げた個人の活力は上がるのか、上がると思います。天井は少なくとも、従来に比べればこれは大幅にあいています。個人の才覚で、個人の志で、もちろん国家公務員でないとか、いろいろな周辺の事情もありますけれども、そういうことを通じれば明らかに広がっております。

組織はどうかといったら、組織力を醸成、発揮することは、確かに従来に比べたら格段の進歩があると思います。外部の有識者、いかにいい方を選ぶかは問題ですけれども、その経営能力を活用したらいいですし、学長、役員会の権力がある程度強くなることによって構想力がつきます。大学にないのは組織体としての構想力なんです。そういうものをつくる仕組みがやはり乏しいわけです。それができる。それから一方では、職員のプロフェッショナル化と申しましょうか、そういうことが進むと期待できます。

(中略)

最後に一言だけですけれども、私が国立大学に期待するということは、やはり社会を先導してほしい、そういう研究をし、そういう若者を育ててほしい。今役に立つ若者なんていいんですよ。若者に必要なのは、彼らが30になり40になり、その世界のリーダーをとるときに、それにマッチする能力をやはり大学というのは育ててくれなきゃいけない。そのためには、そういう時代が何かを先生方は知っていなきゃいけない。象牙の塔の中に行って知ることができますか。社会と一緒に歩んで、暮らしてこそ、未来が洞察でぎる。それでは、今の大学は社会と一緒に歩んでいますか。社会の方は何だかわからないねと言っているわけです。

ですから、第一歩はオープン、開いてください。要するに、社会に開き、社会とともに歩んで、そして社会を先導してほしい、ひたすらそういう期待を持ちながら、この法案を温かく見ていきたいというふうに思っております」


2013年11月12日火曜日

国立大学法人が享受している「特権」

大阪大学大学院法学研究科教授の小嶌典明さんが書かれた論考「国立大学法人と労働法-大学固有の問題」(文部科学教育通信 No326 2013.10.28)をご紹介します。


運営費交付金=税金への依存

国立大学法人の収支状況は、今どうなっているのか。法人の職員であれば、どんな部署にいても、その程度のことは常に頭に入れておくことが期待される。

大学の目的や使命は、利益を上げることにはもとよりない。だが、支出が収入を上回るようでは、組織として大学は維持できない。ドラッカー流にいえば、利益を上げる(収入が少なくとも支出を上回る)ことは、大学が存続するための条件ということになる。

国立大学法人等(4大学共同利用機関法人を含む90法人)の基盤となる経費は、今日も年間総額が一兆円を超える運営費交付金によって賄われている。

例えば、平成25年度予算でこれをみると、国立大学法人等に支給される運営費交付金の予定額は1兆792億円と、私立大学等経常費補助金の予定額である3175億円の3倍以上にも上る額となっている。

100億円を超える運営費交付金の支給を受ける国立大学法人等は現在なお優に30を数える一方で、100億円をわずかに上回る経常費補助金の支給を受ける私立大学でさえ、もはやわが国には存在しない。

国立大学法人が、このような私立大学とは比較にならない恵まれた環境にあることを、構成員はゆめ忘れてはなるまい。

確かに、損益計算書にみる運営費交付金の支給額は、平成16年度の1兆1655億円が平成23年度には1兆741億円になるなど、年々その減少を余儀なくされている。いわゆる効率化係数(国立大学法人運営費交付金、前年度支給額の1%)や経営改善係数(附属病院運営費交付金、病院収入の2%)に基づく支給額の削減によるものであるが、経常収益に占ある運営費交付金の割合も、この間に47.7%から37.8%へと約10ポイント低下している。

運営費交付金に代わって増えたのが、附属病院収益と、競争的資金等(注:補助金等収益、受託研究等収益等、寄附金収益、研究関連収益およびその他の自己収入の合計)であり、附属病院収益については、平成16年度の6245億円(25.5%)が平成23年度には8887億円(31.3%)に増加し、競争的資金等も、この間に1936億円(7.9%)が4016億円(14.2%)に増えている。

これに伴い、トータルの経常収益も、2兆4454億円が2兆8390億円へとおよそ4000億円その規模を拡大したほか、附属病院運営費交付金が平成25年度予算では計上されなくなったという変化もあった。

ただ、附属病院運営費交付金は、もともと附属病院経費と附属病院収益との差額を補填するために支給されていたものであり、その額がゼロになったとしても、それは附属病院の収益と経費がバランスするようになったというにすぎず、附属病院の存在によって大学の収支状況がプラスに改善したというわけでは必ずしもない。

他方、学生納付金(注:授業料、入学金および検定料の合計)の推移をみると、その額が平成16年度の3568億円(14.6%)から平成23年度の3410億円(12.0%)へと160億円近く(2.6%)減少しているという事実もある。

損益計算書にみる人件費(注:役員、教員および職員の各人件費の合計)の額は、平成23年度で1兆3966億円と、経常費用全体(2兆7830億円)の約半分を占めるものとなっており、その額は実に学生納付金の4倍以上にもなる。

支出に占める人件費の割合は、私立大学も変わらない(約5割)とはいえ、収入の大半(4分の3強)を学生納付金に依存していることから、私学の場合、人件費は学生納付金の3分の2程度に抑える必要がある。

それゆえ、学生納付金を基準に考えると、国立大学は、私立大学の約6倍にもなる資金を人件費に充てていることになる。

このような「贅沢」を可能にしているのが運営費交付金であり、そのもとを質せば税金にまでたどりつく。納税者である国民の負担があって、国立大学法人の今日もある。このことを再度、構成員はしっかりと脳裏に刻み込む必要があろう。

国立大学の施設は国有財産?

法人化に当たって、それまで各国立大学等が使用していた土地や建物等の財産については、政府がこれを国立大学法人等に現物出資するという方法がとられた。国立大学法人法(国大法)附則9条に定める権利義務の承継規定(特に2項)がそれである。

その結果、国立大学法人等が所有する土地や建物等は、国有財産法3条2項に規定する行政財産としての国有財産ではなくなったものの、出資金にその姿を変えた財産は、同条3項に定める普通財産として、なお国有財産の一部を構成することになる。

平成24年3月31日現在、こうした国立大学法人等への出資財産は、総額6兆9518億円。法人化前と同様、国立大学法人等の会計が会計検査院の検査対象となる理由も、ここにあった(会計検査院法22条5号は「国が資本金の2分の1以上を出資している法人の会計」についても「会計検査院の検査を必要とする」と規定する)。

また、国大法7条1項は「各国立大学法人等の資本金」は、このようにして「政府から出資があったものとされた金額とする」旨を定めるものであったが、同法35条が準用する独立行政法人通則法8条1項が、一方で「独立行政法人は、その業務を確実に実施するために必要な資本金その他の財産的基礎を有しなければならない」と規定していたことにも励里思する必要がある。

そして、このことが国立大学法人等の財産的基礎となる施設の維持・更新については、従来どおり国がその責任において、施設整備費補助金等の財政措置を講ずることにより、これを行うべきである、との考え方を根拠づけることになる。

国立大学法人等の施設整備計画を国が自ら策定し、整備方針を公表。第三者から意見を聴取した上で所定の交付要綱に沿って補助金を交付する。そのような措置が運営費交付金の支給とは別に、こうして法人化後も引き続き講じられることになったのである。

最近では、復興特別会計が補助金支給のために活用されるなど、施設整備費関係の予算配分はかなり複雑であるとも聞くが、運営費交付金以外にも、国立大学法人等が享受している「特権」は、このように少なからず存在する。ただ、これでは、大学の施設そのものが「国有財産」として遇されているのと同じではないか。そうした疑問は確かにあろう。

他方、国立大学の施設が「行政財産」ではなくなったことをきっかけとして、組合事務所や組合掲示板等については、その取扱いを逆に民間に合わせるよう求める声が強くなる。一種の便宜供与として組合事務所等の提供を要求する声がそれであるが、いうまでもなく労働組合法自体は、使用者にそのような便宜供与を義務づけたものではない。

法人化前の公務員時代においても、有名な「蔵管(くらかん)一号」(注:昭和33年に大蔵省管財局長名で発出された「行政財産を使用又は収益させる場合の取扱いの基準について」と題する通達)は、行政財産の目的外使用の許可(国有財産法18条6項)の対象として組合事務所等をそもそも想定していなかったし、たとえ使用許可が与えられたとしても、それは禁止の解除を意味する事実上の許可にすぎず、「当該場所を使用するなんらかの公法上又は私法上の権利を設定、付与する意味ないし効果」を持たない、との立場を判例は採用していた(昭和郵便局事件=昭和57年10月7日最高裁第一小法廷判決を参照)。

にもかかわらず、国立大学の多くは安易に組合事務所等の供与を認め、法人化後の現在もその姿勢を維持している。大学の施設は、国民から預かった大切な財産。こうした国有財産に対する意識が少しでもあれば、事態は変わっていたともいえよう。


2013年11月11日月曜日

国立大学法人の業務実績評価

去る11月6日(水曜日)に、国立大学法人評価委員会総会(第44回)が、文部科学省において開催されています。

(議題)
  1. 国立大学法人及び大学共同利用機関法人の平成24年度の業務の実績に関する評価について
  2. 第2期中期目標期間評価及び平成25年度評価について
  3. 各分科会に付託した事項の審議結果について【報告事案】
  4. その他

公式な議事概要はまだ公表されていませんが、国立大学協会の事務局担当者が傍聴しまとめた議事要旨が、既に各国立大学あて送付されていますので、そのうち、主な意見交換部分を抜粋してご紹介します。

  • 戦略的・意欲的な取組として、複数の大学連携やグローバル化が印象的である。また研究費不正使用よりも研究論文の不正が目立っており、嘆かわしい。
  • 各法人には評価を円滑に行えるよう、各年度の報告書をより丁寧に記載するようお願いしたい。
  • 法人化後、学長のリーダーシップが充実しているのを実感している。学長裁量経費も年々増えているのではないか。
  • 教職大学院の定員を充足できていない大学があるが、今後は教職大学院への移行もあり、定員を満たせるのではないか。教員養成課程の定員の見直しも必要であると感じている。
  • 病院については、地域の中核的な医療を求められている面もあり、教育・研究をどう進めていくのかという課題もある。
  • 学長のリーダーシップが発揮されるほど、組織がおいていかれる面もある。現在、中教審大学分科会組織運営部会において大学ガバナンスについて議論しており、年内に報告書が取りまとめられる予定である。
  • 学生に対し教育する立場である教員が、不正を行うことに危機感を覚える。ルールをどのように変更し、個人の意識をどのように変えるか、具体的に議論すべき。
  • 戦略的・意欲的な取組みの推進については、中期計画を変更した大学があり、一定の効果を得たが、さらにインセンティブを付与できないか。
  • 博士課程において、国際レベルで産業界を支えていける理工系人材の育成をしていけるであろうか。
  • 学生がリーダーとして育つのはいつなのか(中学・高校・大学等)。その時期についても見分けて取組む必要があるのではないか。
  • 各政策、プロジェクトが連動せず個々に動いており、成果があがらない面もある。

(参考)


2013年11月10日日曜日

大学のガバナンス改革

去る10月29日に開催された、中央教育審議会大学分科会組織運営部会(第5回)において、「審議まとめ(骨子案)」が示されましたのでご紹介します。



1 はじめに

  • 社会環境の急激な変化の中で、大学は、これまで以上に社会のニーズに対して機動的に対応していくことが求められる。
  • 大学のガバナンスの在り方に対する社会的な関心の高まりがあり、大学はこれに応えていく必要。
  • ガバナンスは各大学それぞれの歴史や伝統・文化に根ざす面も大きい。自主的、自律的な改善を前提とすべき。
  • 国は一定の方向性を示し、その方向に基づいて支援。改革の実行性を確保するための工程管理が重要。


2 大学ガバナンスの現状

(1)大学ガバナンスに関する現行制度

  • 大学ガバナンスは教学面(学校教育法)と経営面(国立大学法人法、地方独立行政法人法、私立学校法)について、それぞれの法体系で規定。
  • 特に人事権については、法人化前の国公立大学では、一般公務員法制との関係で、教育公務員特例法(教特法)により学部教授会に強い権限が認められていたが、法人化により適用外とされた。
  • 大学は法体系に基づく運営体制を基本としているが、大学制度の歴史的な形成過程から生じた慣行も広く存在。
  • 国公立大学の法人化で各大学の裁量は拡大したが、教特法に基づく従前からの内部規則をそのまま継承するなど、大学の慣行が変わっていないケースも多い。
  • 私立大学では、各大学の実情等によりその実態は多様であり、国公立大学の影響を受けた慣行が形成されている場合や管理運営に教員の参加・意見反映が弱い場合もある。


(2)コーポレート・ガバナンスとの異同

  • 監督・執行体制の明確化、社会的責任の果たし方など、コーポレート・ガバナンスが参考となる点も多い。
  • 一方で、大学制度が、その特性に照らして、構成員自治に基づく自律的運営を基礎とし、また、学問の多様性・継続性を維持すべき社会的な使命を負うなど、営利を追求するコーポレート・ガバナンスとは本質的に異なる点もあることに留意。


(3)諸外国の大学制度との異同

  • 大学制度は、歴史的に構成員自治に基づいて形成され、国際的に確立・発展。
  • 欧米主要国の大学をはじめ各国でも、構成員自治は広く担保されている。特に、学術的・専門的な事項については、教員組織に広汎な権限が認められている。
  • 我が国の大学制度は、ドイツやアメリカ等欧米諸国の影響の下に形成されてきているが、人材の流動性が低いこと、また、一部の大学の規模が非常に大きいこと、などの特徴がある。


3 大学ガバナンス改革の推進

(1)大学ガバナンス改革の目的

  • ガバナンス改革の目的は、大学の教育・研究・社会貢献機能の最大化。
  • そのために、学内の資源配分を最適化していくことが必要。
  • その際、国公私立の設置主体の性格を踏まえた検討が必要。


(2)学長のリーダーシップの確立

  • 学長のリーダーシップは、所属教職員への明確なビジョンの提示、丁寧な対話やコミュニケーションにより発揮。
  • 法令上、学長は教育研究に関する最終的決定権、所属する教職員に対する指揮監督権が与えられている。しかし、長年の慣行を踏襲した内部規則によって各学部に権限が配分され、学長がリーダーシップを発揮しにくい構造となっている場合があり、内部規則の総点検が必要。
  • 人事については、学長は教職員ポストの再配置や、適正な選考手続等の確保に関与すべき。ただし、学問の専門性の確保や、情実人事等の防止のためにも、研究業績や論文等に基づく資格審査については、教員組織の審査を尊重すべき。
  • 予算については、めりはりある予算編成・配分を行うための裁量経費の確保が必要。
  • 学長が学内で組織再編やめりはりある予算・人事などリーダーシップを発揮していくためには、IRなどを通じた学内情報の集約が前提。
  • 副学長、学長補佐、学長室スタッフなど、学長の意思決定をサポートするスタッフの充実。特に、米国のプロボストのように、縦割りの分掌業務ではなく、教育研究全体を見渡しながら、学長を統括的に補佐する副学長等の設置を検討。
  • 例えば全学的な教育改革については、学長や執行部を中心とした最高意思決定機関を設置するなど、機動的な意思決定体制の整備。
  • 私立大学においては、理事会と学長との関係は各大学の設置形態や沿革等により多様であるが、それぞれの特色を踏まえつつ、学長と理事会との調和の下に、リーダーシップを発揮していくことが必要。


(3)学長の選考・評価

  • 学長選考の仕組みが、適任者を選考するにふさわしい仕組みになっているか、各大学において徹底した点検が必要。
  • 学長を選考する組織は、大学が求める学長像(任期中に達成すべきミッション、求められる資質・能力等)を明確に示すとともに、適任者を選任すべき責任を負う。
  • 学長候補者は、示されたミッションをどのように達成していくか、ビジョンを示すことが必要。
  • 学長の職務執行状況について、学長を選考した組織や監事等が継続的にフォローアップ。
  • 国公立大学法人については、学長選考方法が法定されていることの趣旨を再確認すべき。教職員による意向投票を実施するとしても、その結果は一つの参考として、学長を選考する組織がその権限と責任において学長を最終的に決定すべき。


(4)学部長等の選考・評価

  • 学部長は学部教員の代表者であるとともに、全学方針と学部との間の調整役であるべき。
  • 学部長の任命権は法人の長である学長や学校法人の理事会にあり、学長のビジョンや大学の経営方針の下で、適切な役割を果たすことのできる学部長を選任することが必要。
  • 学部長の選考方法は、教授会での投票による場合や持ち回りになっている場合があるが、学部長の職責を果たすにふさわしい仕組みになっているかどうか大学全体で再点検すべき。
  • その中で学長や理事会が学部教授会に複数の候補者を示すよう求めたり、候補者が適任でないと考える場合には、選考のやり直しを求めるなどの方法も検討。


(5)教授会の役割の明確化

  • 教授会は学校教育法に基づいて設置される機関であり、その仕組み上、所掌業務は当然に教育研究に関することとなる。
  • 法律上、教授会は審議機関として位置付けられており、議決機関ではない。(人事の一定事項に関しては、教特法で議決機関と位置付けられているが、法人化された大学には適用されない。)
  • 教育研究に関することのうち、教授会による審議が特に必要と考えられるのは、①教育課程の編成、②学生の身分に関する審査、③学位授与、④教員の研究業績等の審査。
  • 「シェアド・ガバナンス(Shared Governance、共同統治)」の考え方もあるが、教授会にどのような権限を持たせるかはそれに伴う責任との関係で慎重に検討すべき。


(6)監事の役割

  • 監事は財務や会計の状況だけでなく、教育研究や社会貢献の状況、学長の選考方法や大学内部の意思決定システムなど大学ガバナンス体制などについて監査することが必要。また、そうした能力のある監事を広く求めることが必要。
  • 監事が役割を果たしていくためには、重要な会議への出席、事務局からの資料提出、情報提供などサポート体制の整備が前提。


(7)その他のガバナンス改革

  • FD、SD等を通じ、ガバナンス改革についての教職員による理解を促進。
  • 他大学、民間企業、国際機関等も含めた大学以外の組織における幅広い勤務経験を促進。
  • マネジメント能力の高い教職員を、学内や大学団体等の研修、人事交流等を通じて、将来の執行部人材として養成。
  • 大学ポートレートやHPの工夫等、積極的な情報公開が重要。


4 国によるガバナンス改革の支援

  • 学長のリーダーシップが発揮されるような環境整備をあらゆる手段で支援。
  • 大学の内部規則の徹底した総点検を推進するため、所要の制度改正。
  • 国の予算事業等において、学長のリーダーシップを後押しする仕組みを導入、競争的資金の間接経費の措置等。
  • 各大学の様々な取組を共有するため、国、大学団体等の協力により、フォーラム等を開催。
  • 国立大学については国立大学改革プラン(仮称)を推進。第三期中期計画においてガバナンスについて明記することを検討し、改革状況を評価・フォローアップ。


5 おわりに

  • ガバナンス改革は、本来、大学が自主的・自律的に行うべきもの。
  • 一過性の動きとせずに、各大学のガバナンスの恒常的な見直しにつなげる。
  • 戦後70年にわたって築かれてきた大学の慣行を、改めるべきは大胆に改め、大学が社会のニーズに機動的に応えられるように再構成。

2013年11月9日土曜日

街をきれいにする生き方

ブログ「人の心に灯をともす」から、街を汚す行為に正義はない」(2013年11月9日)を抜粋してご紹介します。


沖縄では「反戦平和」、あるいは「反オスプレイ」「反米」「反自衛隊」といえば何をやっても許される。
犯罪まがいなことをしても新聞はいいようにしか取り上げない。

それをいいことに、さらにエスカレートして、「法律なんか糞(くそ)くらえ」と。
本日実際にご覧になられたと思いますが、横断歩道を塞(ふさ)いで米軍関係者に罵声を浴びせ、人の土地のフェンスに旗やテープを括(くく)りつけていくわけです。
そういった現状に警察も手が出せないでいます。

それが罷(まか)り通る現状下で私たちのような一市民が声を上げ、行動するのは非常に勇気の要ることだったのですが、こうして鍵山相談役をはじめ県外の方々にも応援していただけるようになったのは、大きな驚きでもあり、同時に深い喜びでもあります。

このフェンスクリーンプロジェクトを始めて、ちょうど1年になります。
沖縄では「反オスプレイ運動」の一環として米軍基地のフェンスに赤いガムテープが巻かれるようになりました。
この赤いガムテープは平和の象徴であり、これを剥(は)がすことは平和への冒涜(ぼうとく)だと言われ、誰も触れられない状態でした。

そんな中で私たちの仲間である若者二人が「こんな平和活動はおかしいじゃないか」と立ち上がり、ガムテープを剥ぎ始めたのがスタートでした。
そうして一人増え、二人増え、三人増え…、いまでは常時40~50名にボランティアで参加していただけるようになったんです。

特定の団体や思想、宗教は一切関係ない。
参加者は、とにかく汚い街を放置することが許せないという方や、子供に恥ずかしくない後ろ姿を見せたいという方など、いろんな思いを持った方々が集まりまして、毎週日曜日の朝に活動を行なっています。

私たちはこの活動を「北風と太陽作戦」だと思っているんです。
イソップ童話にありますね。
これをいまの沖縄の基地問題に置き換えると、北風は平和活動家の方々です。
米軍兵士やその奥さん、子供たちにまで「ヤンキーゴーホーム!」と罵声を浴びせ、周辺のフェンスを汚す。
当然、アメリカ人は顔をこわばらせて見向きもしません。
心をどんどん閉ざしていきます。

一方私たちはフェンスの清掃と併せて、「ハートクリーンプロジェクト」という活動も行なっていて、平和活動家たちが罵声を浴びせているストリートに私たちも一緒に立って、5メートルくらいの横断幕を広げ、米軍関係者にフレンドシップを呼び掛けています。
そして笑顔で「おはよう」と声掛けしているのです。

こういう活動を通じて、我われ日本人と米軍の間に信頼が醸成されて、絆が生まれる。
そうして真の友人になってから、「俺たちは基地に対してこう思っているから、こう変えてほしい」と言えるのではないか。
そうして初めて相手にも伝わるのではないかと思っています。

実は、今日も私は平和活動の方から顔に唾(つば)を吐きかけられましたが、1度は30人ほどから取り囲まれ、「ここに基地賛成派がいるそ、吊(つる)し上げろ!」と言って、「ノー オスプレイ」とかかれたプラカードで引っ叩(ぱた)かれたこともあります。
罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけられるのは日常茶飯事。

毎週日曜日にフェンスをきれいに掃除すると、今度は平日に赤く染められる。
私たちが剥ぐ時に怪我(けが)をすることを狙っているかのように、テープの中にはガラスの破片や針金が入っていることもある。

にも拘(かか)わらず、沖縄のメディアは私たちの活動のほうを「平和運動の妨害をしている」と書き立てるんです。
しかし、そこで腹を立てては相手と同じ土俵に立ってしまいますからね、私はニコっと笑っているだけです。


手登根安則(てどこんやすのり)氏は、昭和38年沖縄県生まれ。
13年間のPTA活動を通じ、沖縄の教育界の問題点などを検証する沖縄教育オンブズマン協会を立ち上げた。
この文章は、彼らの活動に感銘を受けた、日本を美しくする会相談役、鍵山秀三郎氏との対談の中より抜粋した文章だ。
30年前(1980年頃)のニューヨークの地下鉄の犯罪率は目を覆(おお)うばかりで、「旅行者は地下鉄に乗るな」とさえ言われていた。
対策として行なわれたのが、「地下鉄の落書きを消すこと」。
その15年後には、なんと地下鉄の犯罪が75%にまで激減したそうだ。
その成果をもとに、空缶のポイ捨てや、落書き消しなど、街のクリーンアップ作戦を警察が実行し、ニューヨーク全体の犯罪も半減したという。
「いかなる理由があろうとも街を汚す行為に正義はない」
誰かがが片付けてくれるだろう、誰かが掃除をしてくれるだろう、と言って道路や、街を汚す人は、幼児性が抜けきらないわがままな子供と同じ。
きれいな言葉を使い、街をきれいにする生き方は素敵だ。



2013年11月4日月曜日

日本である誇り

ブログ「人の心に灯をともす」から、日本を好きになる」(2013年11月4日) を抜粋してご紹介します。


アメリカのとある病院の壁に、一人のベトナム戦争の帰還兵が書きつけたものと言われている、【グリフィンの祈り】という詩がある。


大きなことを成し遂げるために、力を与えて欲しいと神に求めたのに、

謙虚を学ぶようにと、弱さを授かった。

偉大なことができるように健康を求めたのに、

より良きことをするようにと、病気をたまわった。

幸せになろうと富を求めたのに、

賢明であるようにと、貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、

得意にならないようにと、失敗を授かった。

人生を享受しようとしてあらゆるものを求めたのに、

あらゆることを喜べるようにと、命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、

願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬものであるにもかかわらず、

心の中の言い表せない祈りは、すべて叶えられた。

私は最も豊かに祝福されたのだ。



「日本人が原点に立ち返り、美しい日本の精神を取り戻すこと」

この美しい日本に、心からの誇りを持ちたい。