2014年5月31日土曜日

教育の本質

ブログ「教授のひとりごと」から革新起こす人材育てる教育」(2014年05月20日)をご紹介します。


日経産業新聞(5/16付け)の「ウィリアム氏と明日を読み解く」欄に『革新起こす人材育てる教育』とした記事があった。


氷上で生活するイヌイットと、パソコンモニターの前に座るモダンなサラリーマンとではどちらが人間としての能力に優れているでしょうか。イヌイットは家の建て方を知らなければ生きていけませんし、魚の釣り方、料理の仕方も身に付けなければいけません。必要な知識や習得すべき能力は多岐にわたり、身の回りの何もかも自分ですることは当たり前です。

一方、サラリーマンはコンピューターを駆使して世界中と瞬時につながれます。ですがコンピューターの中身がどうなっているのかや、電気やインターネットの回線がいかにして提供されているのかなど、ごく身近な仕事道具にさえ、特別な関心を払うことなく生活しています。仕事に関わりのない領域に対する能力は、ややもすれば不要です。住む家を自ら建てるサラリーマンは変わり者と言われるでしょうし、料理がまったくできない人でも食べるのに困りません。

どちらが人間として優れているのか。
それは正解のない問いです。現代社会とは明確な役割分担による分業によって成り立っている、高度にスペシャライゼーション(専門分業化)の進んだ社会であるとの指摘はできそうです。日本は特にスペシャライゼーションの進んだ国です。終身雇用制度へとつながる縦割り型の社会構造は、世界に最たるスペシャライゼーションの事例。ただし、これは褒め言葉ではありません。行き過ぎたスペシャライゼーションには、人間の素晴らしい能力をスポイルしてしまう側面もあるのです。

その能力とは想像力と創造力。
つまりイノベーションを生み出す源泉です。ダイバーシティが前提となった世界の現状においては、経済問題、民族紛争、環境汚染など現れる問題は、常に未知のもの。閉ざされた「村空間」の中だけで最適化を追求していればよい時代はもう終わりました。私たちはそれを理解しなければいけません。

残念なことに、日本の教育システムは過剰なスペシャライゼーションの維持・推進に寄与してしまっています。日本の教育が重視してきたのは、適合性、従順性、そして規則性。その価値観は、近代教育の黎明(れいめい)期以降ほとんど変わることもなく今に伝承されています。その間、世界は大きく変化しているのにも関わらずです。

適合性を重視する学校は、効率性重視のマシンのようです。非実用的で時代遅れのカリキュラムを学生に押しつけ、それを画一的な基準で評価する。これではひとりひとりの人間に備わった個性を発見することはできません。従順性を重視する学校は、生徒の自主性を育てる機会を自ら失っています。ビジネスの成功例はその多くがルールへの疑問や寄り道から生まれるものです。規則性を重視する学校は、人間の成長速度に違いがあることを認識すべきです。同じレールの上を同じ時刻表に沿って進む子どもたちには、失敗を挽回するチャンスも、成功を機に近道する選択肢も与えられていません。

レールの上を進んだ先に用意されたスペシャライゼーションからは、イノベーションは決して生まれません。イノベーションとはルールの中で効率性を上げていく努力のことでなく、ルールそのものを変えてしまうような素晴らしいアイデアの実用化のことなのです。


わが国でも、高校教育ではスーパーサイエンスハイスクールだとか、大学では「21世紀COEプログラム」などの取り組みが行われている。それはそれで成果を上げているのかもしれないものの、多くの教育機関では「横並び」であり、各教育機関が特色をだしているとはいいがたい。それは戦後の発展の時期に構築された20世紀型の教育プログラムから抜け出せていないからかもしれない。

教育によって若者は大きく成長することができる。単に入試を突破したり、大企業に就職することが教育の目標ではないはずだ。もっと教育というものを考える時期に来ているようにも思う。世界に誇れる研究成果を出すことも、産業界が求める人材を輩出することも大切なことだろうけど、もっと教育の本質について議論することも必要ではないだろうか。

大学はスポーツ強化にも取り組んでいる。有名な選手を輩出したり、著名な競技会に大学の看板を背負って出場することで、大学の宣伝効果も高くなる。しかし、最近スポーツだけでなく、大学の授業にもちゃんと取り組んで留年などしないようにする取り組みが広がっている。いわゆる、「文武両道」の実現だ。ある意味、当たり前のことにようやく取り組みだしたとも言える。大学卒業者に向けられる社会の目が厳しくなったという事情もあるかもしれないが、大学教育のあり方についても議論が必要だと思われる。

2014年5月30日金曜日

陰徳を積む

ブログ「人の心に灯をともす」から見えないお辞儀」(2014年05月22日)をご紹介します。


先日、訪問販売をしている女性がインターホン越しに一所懸命何かを説明しているのを道端で見かけました。

断られてしまったようで、インターホンを勢いよく切られる音が響いていました。

しかし、その女性はインターホンに向かってゆっくり深々とお辞儀をしたのです。

もちろん、その姿は相手には見えていません。

ただその姿に、時間をさいて聞いてくれた相手への感謝の気持ち、それと同時に彼女の仕事への誇りを私は感じました。

一瞬のしぐさに心を打たれた瞬間でした。

お辞儀は、言葉以上に心が伝わる「3秒でできる」最上級の気遣いかもしれません。

CAもお辞儀を大切にしています。

機内アナウンスの「ご搭乗ありがとうございます」に合わせて、その場でお辞儀のご挨拶を必ずします。

あるとき、後輩のMちゃんは、カーテンで仕切られた場所で担当の仕事をしていたのですが、そのアナウンスが流れたとき、しゃがんでいたのを立ち上がり、お客様がいるほうを向いてお辞儀をしました。

当時ほとんどのCAは、カーテンの中で仕事をしているときはお客様に見えないので、アナウンスに合わせてのお辞儀などはしていませんでした。

それだけに、誰も見ていないところでも深々とお辞儀をしているMちゃんに、私は衝撃を受けました。

その日の反省会では、このエピソードを共有し、これからはみんなで真似しようという話になりました。

そのお辞儀は、サービスをする立場の私たちの「心の襟」も正すことに繋がりました。

見えないといえば、電話応対なども相手には姿が見えない状態です。

しかし、電話の向こう側でどんな表情で話をしているのか、どんな姿勢なのかは、怖いほど想像できてしまうものです。

あるセミナーで、電話応対のロールプレイを背中合わせで行いました。

お辞儀をしながらお詫びをした場合と、そうでない場合をあててみようというゲームをやったのですが、驚くことに、ほとんどの人がその違いを聞き分けることができたのです。

見えないからこそ、お辞儀をしなければ本当の気持ちが声に乗って伝わらないのです。

お辞儀は、一瞬でできる動作でありながら、相手に思いを伝えるための必須動作でもあります。

相手に見える、見えないに関わらず、「お辞儀」をプラスしてみることで、あなたの思いが一段と相手に伝わるでしょう。


人に知られないようにするよい行い、あるいは見返りを求めない善行のことを、陰徳という。

反対に、誰も見ていないからと、道端にゴミや空き缶を捨てたり不正や悪行を重ねたりするなら、不運を引き寄せ、業(ごう)はますます深くなる。

人が見てるときは一所懸命やるが、いざ人が離れたときに手を抜く人は、自分を少しでもよく見せようとカッコをつける人。

しかし、見せかけの努力はすぐに見抜かれる。

例えば電話応対など、たとえ見えなくとも、きちっとお辞儀をしたり、礼儀正しくあろうとしている人は、誠実さが相手に伝わる。

それは陰徳を積むことにも似ている。

人に見える、見えないにかかわらず、「お辞儀」ができる人は素晴らしい。


2014年5月29日木曜日

「怒る」と「叱る」は違う

愛読しているブログの一つ「教授のひとりごと」から誰がやったんだ!」(2014年5月19日)をご紹介します。


週刊東洋経済(5/17号)の「生涯現役の人生学」欄で、作家の童門冬二氏が『「誰がやったんだ!」はやめよう』と題して寄稿している。


後期高齢者である私は、多くの人から健康法を聞かれる。答えの一つとして、部下が失敗したときに「これは誰がやったんだ!」と犯人捜しのわめき声を上げないこと、と告げている。血圧は上がるし、精神衛生上もよくない。

さらに二つの意味がある。
まず、こういう瞬間湯沸かし器(これも言葉としては後期高齢者)的態度を見せると、一挙に部下の信頼を失う。いったん失った信頼は、簡単には回復できない。「うちの上司はこういうヒトなんだ」という警戒心は、トラウマとして部下全員の心に残る。弁解したり笑ってごまかそうとしても、部下はそんな手に乗らない。

黒田官兵衛(如水)が、こんなことを言っている。
「神仏に対する過失は、祝詞やお経を上げて謝罪すれば許してもらえるだろう。しかし部下はそうはいかない。部下を傷つけたら、絶対に許しは得られない。民も同じだ」。厳しい。如水は”下意上達”のために、福岡城内に”異(意ではなく)見会”というのを設けた。藩政に関する討論会だが、ヒラの上層部批判も許した。そして上層部には、「どんなに批判されても腹を立てるな、笑顔で応ぜよ」と命じた。そのためこの会は”腹立てずの会”と呼ばれた。上層部の中には、うわべは笑顔を浮かべているが、その笑いは引きつっており、腹の中は煮えくり返っている者もいた。「よく言うよ、このヤロー。次の人事異動期を楽しみにしていろ。必ずトバしてやる」と、憎悪の言葉をつぶやき続ける上層部が必ずいたのだ。
(中略)
さて、部下の失敗に対し、上司が軽率に怒声を上げてはならないもう一つの理由は、毎年の新入社員入社式の社長のあいさつにある。多くの社長が新入社員に「失敗をおそれずに思い切って仕事をしてください」と告げている。その後に激励講演を頼まれている私は「社長はうそつきだ」と思ってきた。
(中略)
「これはどういうことだろうか」と私は考えた。そして一つの結論にたどり着いた。「社長のあいさつは、新入社員だけでなく、これを迎え入れる先輩社員、特に管理職にも告げているのだ」と。

先輩社員や管理職に何を告げているのかといえば、「新しい酒が思い切って仕事ができるような袋や容れ物としての環境作り、条件作りに努力してほしい」ということなのだ。古い言葉に「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」というのがある。新入社員は新しい酒だ。迎え入れるのは先輩が構築している皮袋だ。それを新しくしてほしい、つまり先輩側も職場改革をしてほしい、ということなのだ。


”怒る”と、”叱る”は違う。
怒るときは、たいてい自分のため。自分の感情のはけ口を相手に求めて、すっきりする。相手を思い通りにコントロールして、安心する。相手のせいにして責任転嫁したりする。一方、叱るときは、相手のため。相手がうまく生きていけるようルールを教える。自分で考える力を養うために、質問し、考えさせる、こと。怒りたいときもあるけど、ちょっと一呼吸して、冷静になって”叱る”のがいいだろう。

大学では毎年新しい学生が入学してくる。教員の入れ替えは頻繁ではないので、教員と学生には2世代くらい(あるいはそれ以上)のジェネレーションギャップが生まれることになる。そのため新しい皮袋を用意するためには、教員側の意識をつねに新鮮な状態にしておく必要があるし、学生気質についても敏感に感じ取ることが必要だ。講義は毎年同じ内容でも、授業を受けている学生は毎年変わっていることを気に留める必要があろう。

僕らが学生のときには、スマートフォンなんてなかったし、講義は板書か教科書中心だった。それが今では、友達といつでもどこでもスマートフォンで連絡できるし、図書館に行かなくてもある程度の情報はネットで入手できるようになった。そして若者は減っているにもかかわらず、大学数は増えている。学生をとりまく環境は大きく変わっているのだ。

2014年5月28日水曜日

文章作法の基本

山本眞一さん(桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授)が書かれた「「コピペ」と研究倫理~許されない理由とは」(文部科学教育通信 No.339 2014.5.12)をご紹介します。


コピーは書き写すこと

私は30歳代の終わりの頃、家族を連れて一年間米国に滞在し、現地の生活を経験したことがある。用務は、文部省(当時)と人事交流をしていた連邦政府のNSF(国立科学財団)の客員研究員として、米国の学術政策や大学の研究活動について調査を行うことであった。首都ワシントンの郊外、バージニア州のアナンデールという地区に住宅を借り、隣近所の付き合いから、ショッピング、学校のことなど、生活者ならではのさまざまな見聞ができたことはなかなか貴重な経験であった。

小学校三年生だった息子は、現地の小学校に入れた。彼の地では日本人のための補習学校はあったが、日本人学校のようにフルタイムで生徒を受け入れる学校がなかったからである。

ただ、その学校では英語が母国語でない生徒のためにESL(English as a Second Language)というクラスが開講されていて、息子もその授業に出ることになった。

最初の日、教師は英語で書かれたテキストを示しつつ、「これをコピーしなさい」と言ったそうであるが、息子は大いに困惑したという。彼はコピーと言われたので辺りを見回したが、どこにもコピー機らしきものが見当たらなかったからである。しかし程なく、日本語の世界における語感とは異なり、英語でいうCopyとは文章を書き写すことだということが分かった。つまり、テキストを手本にしてその文章を自分のノートに写しなさいと教師は指示したのであった。

手本を書き写すということは、日本でも米国でも、学習過程の基本である。とくに型を重視する日本の教育では必須のことであろう。私自身も、数字やかな、そして漢字を学ぶために、特別なノートに薄く印刷されたそれらの文字を鉛筆でなぞりながら何度も練習した記憶がある。文字だけではない。学習過程において、他人が書いた文章を書き写すことも、また学習者のためになると一般的に信じられている。ある新聞社のコラムが大学入試(国語)によく採用されるからとして、そのコラムを書き写したり、さらには高齢者のボケ防止に役立つからとして、それを書き写すための専用のノートまで売られていたりということが、そのような事実の一端を示している。

書き写しからの卒業

ただし、書き写すという行為はあくまで学習の初期段階で推奨されるものであって、やがてはそこから卒業して自分で自分の文章を書かなければならない。少なくとも人に見せる文章であるならば、他人の文章の丸写しは単に笑われるだけでは済まず、剽窃などとしてときには大きな問題になり、本人の職業人生に大きなダメージを与えることになる。大学生には、文章作法の基本としてこのことをしっかりと教え込まなければならない。

しかしながら、授業で学生にレポートを課すと、ウェブ上にある各種の情報をコピーし、これを文書ファイル中に貼り付けて(ペースト)編集し、平然と教師に提出する学生が増えていると聞く。いわゆる「コピペ」である。教師の方も、多人数の授業であればあるほど、いちいちチェックする時間が不足し、うすうす気がついていても、打つ手がないというのが実情のようだ。インターネットの急速な発達は、人々の生活に数多くの恩恵をもたらす一方、このような形で新たな問題を深刻化させつつある。ただし、修士論文・博士論文のレベルになるとさすがに放置はできないので、最近はウェブ上の文章のコピペを見破るコンピュータ・ソフトを導入する大学が増えているそうだ。

また、最近は論文剽窃ではないかという指摘が、外部から大学や研究機関に寄せられるケースが増え、このことによって問題案件が多くなっているのではないかと思うが、それもインターネット自体の普及に加えて、このようなソフトが普及しつつある証拠であろう。私の勤務校においても、最近、会議の席上、これを導入する方針を事務担当者から聞いたばかりである。

コピペが悪い理由

このような事態になっているのは、大学教師の立場からすれば、まことに残念なことであるが、学生がコピペを悪いことだと思わない(どこか最近のニュースでも聞いたことのある言葉だ)のであれば、これを悪いと認識させるよう大学側の組織的な対応が必要になるのもやむを得ない。なぜコピペが悪いのか?

それは第一に他人の文章を無断でコピーしこれを利用することは、他人の著作権を侵害する違法行為であるからだ。著作権が容易に侵害されるようであれば、原著作者の創作意欲を大いに殺ぎ、結果としてその社会の文化水準を低めることになってしまうであろう。著作権を大切にすることは、著作権者の利益を守るだけではなく、著作物が適法に利用されることによって、社会全体の文化水準を向上させる効果を持つものである、ということを人々に認識させなければならない。とくに学位論文を書こうという学生は、これからの社会をさまざまな分野でリードしていくべき人材であるから、彼らに対するこの面での教育は非常に重要である。

第二に他人の文章を無断で利用することは、学術研究のオリジナリティーを損なう行為であり、研究活動の尊厳を損ない、研究倫理に反し、また科学研究の不正行為の一つとして厳しく指弾されるものだからである。過去のさまざまな出来事からも、そしてごく最近の話題からも分かるように、他人の論文の無断借用すなわち論文盗用などを理由に、大学教員の地位を失ったり、研究者生命を絶たれたりする事例は数多く存在している。

しかし一向に後を絶たないのは、例えば研究費獲得を巡る競争の熾烈化、業績確保への強い動機、さらには同業者間の人間関係など、さまざまな理由があるからだと言われている。ただし、そのような理由は、コピペという行為をいささかも正当化することにはならない。中堅以上の研究者には強い倫理観を、そして若い研究者には厳しい教育を施すことが必要な所以である。

研究上の不正行為を防ぐ

コピペが研究倫理上、許されるものでないことは、多くの学会における倫理規程にも反映されている。私が関与している日本高等教育学会においても、2012年の総会において「日本高等教育学会倫理規程」が採択された。それによると、学会構成員に求められる倫理として、専門性、誠実性の追求などの基本原則に加え、研究活動については「データの収集、記録・保存、利用におけるねつ造、改ざん、盗用などの不正行為を行わず、それらへの加担もしないこと」とあり、コピペを含む不正行為を戒めている。けだし当然のことを述べたに過ぎないのであるが、このような倫理項目を挙げなければならないほど、現実の研究環境には厳しいものがあると言えるのであろう。

それにしても、研究者や研究者予備軍に求められるのは、オリジナルな文章作成能力である。私も職業柄、多くの大学院生のレポートや論文を読む機会があるが、たとえ正当な手続きを経た引用においても、長々とこれを示し、それにコメントをつけるようなスタイルのレポートは、なぜか気の抜けたビールのような印象があって、訴える力に弱い。多少稚拙でも自分の考えや分析結果を前面に出し、これを補強するために他人の論文を控えめに引用するというスタイルの方が、はるかに質の良さを感じるものである。

なお、コピペは前述のように研究上の不正行為の一つである。その他の類を含め不正行為の全体像については、いずれ稿を改めて論じてみたい。


※このブログにおける多くのご紹介記事は、ある意味では剽窃に近いものかもしれませんね・・・。

2014年5月27日火曜日

大学ガバナンス改革の問題点

清成忠男さん(事業構想大学院大学学長)が書かれた学長選考方法と教授会の権限の検討」(リクルート カレッジマネジメント186/May-Jun.2014)をご紹介します。


今日、我が国の大学は教育研究の質的向上を求められている。そのためには、大学の的確な運営が不可欠であり、より良いガバナンスへの配慮が緊急の課題になっている。

ガバナンスの問題点

大学のガバナンスには様々な問題が存在している。ただ、最近クローズアップされているのは、大学に固有のガバナンス問題である。それだけに、大学の外からは理解し難い面を有している。

大学の組織は、通常の企業組織とはかなり異なる。組織の二重性である。まず、大学法人(国立大学法人、公立大学法人、学校法人)が設立される。この大学法人が大学を設置する。

大学法人の長は理事長である。大学法人によって設立された大学の長は学長である。国立の場合には、理事長と学長が一体化されており、学長と呼ばれている。公立と私立の場合には、学長と理事長を分離することが可能である。

したがって、大学は、大学法人の内部組織である。大学は、大学法人の主要な事業である教育研究を担う内部組織であり、相対的な独立性を有している。現場として、それなりに自己決定能力を有している。

さて、最近の議論において主要な論点とされているのが、学長のリーダーシップと選任方法等、教授会の機能と権限の明確化である。この小稿においても、この 2点に検討の対象をしぼることにする。

学長の機能・権限と選任

まず、学長の機能を、経営責任との関わりで確認しておこう。

学長は、大学の長である。学校教育法第92条は「学長は、校務をつかさどり、所属職員を総督する」と規定している。ただ、国立の場合には、学校教育法の規定する職務を行うとともに、国立大学法人法第11条によって「国立大学法人を代表し、その業務を総理する」ことになる。学長は、まさに経営の最高責任者であり、公立大学法人や学校法人の理事長に相当する。

また、地方独立行政法人法第71条の規定により、「公立大学法人の理事長は、当該公立大学法人が設置する大学の学長となるものとする」とあるが、学長を理事長と別に任命することができる。この理事長とは別に任命された学長は、副理事長となる。

さらに、私立においては、学校法人の理事長は学長を兼ねる場合もあれば、そうでない場合もある。ただ、私立学校法第38条の規定により、学長は理事となる。

このように、設置形態にかかわりなく、学長は経営者でもある。とりわけ国立の場合には、学長は経営のトップであり、教学の長でもある。公立の場合には、学長は理事長または副理事長である。私立の場合には、慶應義塾大学、早稲田大学、法政大学など理事長と学長を兼ねている例が少なくない。

問題は、学長・理事長一体化の場合における学長の経営者能力である。国立大学法人の学長は僅かの例外を除いて、学長は教育者・研究者出身である。経営者としての教育・訓練を受けていないし、経営経験も皆無に等しいという人物が殆んどである。公立や私立で学長が理事長を兼ねている場合も同様である。経営能力を欠いた学長が理事長を兼ねている場合には、大学間競争が激化している今日では、経営の悪化は避けられない。学長の経営力を補強するトップマネジメント・チームの形成が不可欠であろう。

それだけに、学長の選任方法の重味が増す。かつてのような選挙方式は無意味である。国立においては、国立大学法人法第12条の規定により学長候補者は「学長選考会議」において選ばれる。「学長の選考は、人格が高潔で、学識が優れ、かつ、大学における教育研究活動を適切かつ効果的に運営することができる能力を有する者」のうちから選ぶことになる。もはや教員による選挙方式は採用されないが、教員の意向調査を行い、その結果を選考会議において参考にするという方式は経過的にはあり得る。ただ、意向調査も、学長選考にはなじまない。学長選考は、教職員の代表を選ぶことを意味しない。議会議員のように、市民の代表を選ぶわけではない。組織の長を選ぶのであり、同時に経営者を選ぶことに他ならない。労働者自主管理にも似た学長選挙が望ましくないことは明らかであろう。

こうした学長選考の考え方は、公立大学や私立大学についてもあてはまる。ただ、私立大学においては、依然として学長を選挙方式で選ぶ例が少なくない。

中央教育審議会大学分科会組織運営部会「大学のガバナンス改革の推進について(審議まとめ)案」(2013年12月)においても、次のように指摘されている。

「一部の国立大学等では、その内部規則等において、法人化以前と同様に、実質的に教職員による意向投票の結果をそのまま学長選考に反映している場合も見られる。しかしながら、学内外から幅広く人格識見共に優れた人材を学長に登用しようとする法制度の趣旨からして、過度に学内の意見に偏るような選考方法は適切とは言えない。」

ここには、法人化後の学長選考方式の積極的な意義が述べられている。ただ、問題は、現在の我が国に学長適任者が社会的に蓄積されているとは思えない。現行の選考方式は、必ずしも的確に機能しているとはいえない。

なお、私立大学については、経済同友会「私立大学におけるガバナンス改革」(2012年3月)が、次のように述べている。

「大学(学校)のガバナンスは、学長又は、学長をトップとして学部長などで構成される学部長会議において、教育・研究やその他校務に関する事項が決定され、このうち、学校法人の経営に関するものは理事会に諮られる。しかし、学長は教員による選挙で選ばれるため、教員の意に沿わない改革、例えば人事評価制度の導入や学部の改廃等は行い難い。学長による改革の強行は、次の学長選挙においてマイナス材料となる。」

この指摘は学長選挙の問題点を明らかにしている。こうした問題の解決のために、次のように述べている。

「執行部門のトップである学長に、教育と研究に関する権限と責任を付与することが望ましいとの観点から、理事会が大学(学校)の最高執行責任者である学長に、大学(学校)における教育・研究に関する人事権・予算配分権を与える。」

以上のような経済同友会の見解にも一理はあるが、問題は教学部門のトップである学長のマネジメント能力ではあるまいか。現行の学長選考制度の下でも、学部の改廃を進めた例は少なくない。筆者自身も、法政大学の総長・理事長時代に2学部の廃止を含む4学部の設置を2年間で実施した。選挙制度の下でもこれが可能になったのであり、多くの教職員の協力の結果でもあった。筆者の3期目は無投票当選であり、選挙制度は事実上空洞化した。

逆に、制度を変え権限を与えても、学長にマネジメント能力が欠如すれば、改革は進まない。

この点と関連することであるが、設置形態にかかわらず、学長を学外から公募してはどうかという提案がある。だが、学長適任者が社会的に蓄積されていない現状では効果は期待できない。学長を経験してみたいという希望者が応募するだけであろう。また、大学の教育・研究を十分に理解していない経営者が応募するというマイナス面もある。むしろ、数少ない学長適任者をスカウトする方が望ましい。

いずれにしても、学長適任者を育成する仕組みを、大学界を超え、各界との協力を得て確立すべきであろう。

教授会の機能・権限の明確化

このところ、教授会の権限に関する議論が活発化している。

学校教育法第93条は、「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない」と規定している。この規定において、「重要な事項」とは何か、「審議する」といっても、どこまで決定権が含まれるのか。現実の運用は、慣習に依存している。したがって、実態は様々である。

中央教育審議会「大学のガバナンス改革の推進について(素案)」(2013年11月)は、次のように指摘している。

学校教育法第93条は、「大学の特質を踏まえて『重要な事項』の詳細を規定せずに、各大学の裁量に委ねているが、その解釈については、教授会が、学校教育法に基づいて設置されている機関であることに立ち返って考える必要がある。そもそも学校教育法は、教学面を規定する法律であり、国立大学法人法や私立学校法等のように経営面について規定するものではない。したがって、学校教育法に基づいて設けられた機関である教授会の審議事項に、当然に教育研究に関することに限られると解される。」

ただ、教育研究に関する事項と経営に関する事項を明確に峻別することが困難な面がある。また、本来学長や理事会に最終決定権がある事項でも、教授会の議決によって否定されることがあるという。そこで、「学校教育法に規定する、教授会が審議すべき『重要な事項』の具体的な内容として、①教育課程の編成、②学生の身分に関する審査、③学位授与、④教員の研究業績等の審査等については、教授会の審議を十分に考慮した上で、学長が最終決定を行うことが望ましいと考えられる。」

これが新聞等で話題になった教授会の権限の明確化である。

また、私立大学について、経済同友会は前掲の報告書において、「大学の場合、教育・研究に関する事項と経営に関する事項が重複していることが多いため、教授会による経営事項への関与が日常的に行われている。」と指摘している。こうした問題の解決策として次のように述べている。

「教授会の本来的機能・役割とは、大学(学校)における教育・研究上の重要な事項に関して、学長、学部長が現場を担当する教授たちの意見を聴取する機会を提供することであり、また、理事会や学長、学部長会議等での決定事項を情報共有する場でもある。学長は、教授会で聴取した様々な意見を自らの判断で大学の運営に適切に反映させることができる。その点では、教授会は学長の諮問機関的な役割を担っているとも言える。」

さらに、教授といえども、雇用契約の下で従業員としての側面も当然にあり、組織運営においては原則として学長や学部長の指揮命令系統下に置かれるべきであると指摘している。

さらに、自由民主党日本経済再生本部「大学ガバナンス改革に向けての提言(案)」(2014年3月)も、教授会を次のように位置づけている。

「教授会が事実上の決議機関ではなく、学長の諮問機関としての位置づけを明確にするため、学校教育法第93条を以下のように改正。『大学には、教育及び研究に関する学長の諮問機関として教授会を置く。』」

改正理由として5点を挙げている。

①これまで通り教授会が予算配分や人事など大学運営の大半に関する決定機関であり続けると、学長がリーダーシップを発揮できない怖れが大きい。

②経営側と教授会側の役割分担、意思決定プロセスが不明確。トップが学内全体を統治(ガバーン)すべき事が明らかにされていない。

③中教審・組織運営部会には現職大学教授も多く、教授会の「諮問機関化」への慎重論が多い。

④教授会が学長の諮問機関となっても、教授会において諮問案件以外の議題を議論できない事はない。

⑤戦後60年余り、「審議」を「決議」として実態的に運用してきた教授等の意識改革の実現こそ決定的に重要で、そのためには教授会は「諮問機関」とすべきである。

この自由民主党案は、前述の中央教育審議会の審議取りまとめを踏まえた政府の学校教育法・国立大学法人法改正の原案を検討したうえで取りまとめられたものである。政府原案が教授会を「教育研究に関する専門的な観点から重要な事項を審議する」機関と位置づけた。これに対して、自由民主党は教授会から意思決定機能を排除し、「諮問機関化」を強調したのである。

なお、国立大学の学長選考についても、自由民主党案は、学内の「意向投票」を強く否定している。

いずれにしても、政府、経済界、自由民主党のいずれも、若干の違いはあるものの、大学改革を加速化するために、学長の権限の強化、教授会の役割の縮小という方向では一致しているようである。

大学ガバナンス改革の問題点

大学のガバナンス改革の論点は、学内に関する事項と学外に関する事項に大別できる。前者の中心は、経営側と教授会との関わりである。後者は大学と外部のステークホルダーに関わる問題である。

この小稿では、主として前者について述べた。問題は、学長適任人財が社会的に不足しているという事実である。いま一つは、従来の議論がともすれば経営側と教授会の対立を強調し過ぎるという傾向が問題である。

たしかに学長のリーダーシップは重要であるが、学長に権限を付与する制度を設けさえすれば良いというものではない。学長に資質や能力が欠けていればリーダーシップは発揮できない。学長育成システムを学内及び大学界において整備すべきであろう。有能な学長が数多く登場し、流動化するといった状況の創出が望ましい。

また、教授会のあり方の見直しは当然である。だが、教授会は、教育・研究の担い手である教員の組織である。

教育・研究の改革に主体的に取り組むのは、教授会メンバーに他ならない。したがって、彼等の改革意欲を重視しなければならない。だが、これまで教授会への批判が過ぎ、教授会は「諸悪の根源」だといった見方すら散見される。経営側からの一方的な「上意下達」といった発想で教授会を「諮問機関」化したのでは、教育・研究の改革は覚つかない。経営側には、教育・研究についての洞察と深い理解が不可欠である。この点が、企業経営とは決定的に異なる。

教育・研究のプロである教授会メンバーの力をいかに引き出すかが経営側の能力である。教授会が活力を失い、教育・研究の能力が低下し、自治能力を欠いた場合には、経営側が外から刺激を与えることが必要になろう。人事の公平性に配慮し、教員評価や任期制なども教員能力の質保証の手段になりうる。

教育・研究を主要な事業とする大学の的確な運営は、経営側と教授会の密接な協力・協働によって初めて可能になる。経営側が強い権限を有し、教授会を「諮問機関」化すれば的確な大学運営が行われるわけではない。逆に、教授会が自己保存本能によって改革を拒否し、経営の足枷にならないよう教授会メンバーに自覚が求められる。そうした自覚を欠き、改革が低迷すれば、被害を受けるのは学生である。

他方、経営側の能力向上も、重要な課題である。前掲の経済同友会の報告書も、経営側に甘く、教授会に厳しい。しかし、レベルの高い経営を行っている大学法人は必ずしも多くない。成功した企業経営者が大学法人の理事長に就任したからといって、レベルの高い経営が実現するとは限らない。むしろ、教授会とトラブルを起こすケースが少なくない。

なお、学外のステークホルダーに対するガバナンスについては、別の機会に検討する。

2014年5月26日月曜日

求めよ、されば与えられん

ブログ「今日の言葉」から希望」(2014年5月23日)をご紹介します。


希望は思想なり。

シェークスピア


すなわち、自分の想いや心向きが希望を作り出すということでしょう。

どんなに厳しい環境でも、それが自分を成長させてくれる試練だと思えれば希望になり、どんなに恵まれた環境でも不満を感じていれば、希望を持つことは出来ない。

希望は与えられるものではなく、一人一人の信念が作り出すものなのですね。

ただし全く与えられないものかと言えばそんなことはなく、ちょっとした人との会話や、本の一節、映画のセリフなどに密かに自分へのメッセージが隠れていることがあります。

それを素直にキャッチして受け入れられる心構えが必要です。

「求めよ、されば与えられん」と言うように、求めているとアンテナを張ることになり、自分に必要な情報やご縁が繋がってくるものなのです。

2014年5月25日日曜日

研究と大学院の行方

吉武博通さん(筑波大学大学研究センター長・ビジネスサイエンス系教授)が書かれた大学院改革を通して知識と研究プロセスの社会的意義を発信する」(リクルート カレッジマネジメント186/May-Jun.2014)をご紹介します。


大学における教育と研究の関係をどう理解するか

教育と研究は車の両輪ともいうべき大学に課せられた使命であり、学校教育法も大学の目的を定めた第83条において、そのことを明記している。

その一方で、教育と研究の関係をどのように理解し、資源配分や日々の活動において両者のバランスをどうとるかは極めて難しい問題である。教育の質の保証やグローバル人材の育成など、大学教育への期待・要求が高度化するなか、これまで以上に教育に力を入れる必要があるのは明らかであるが、研究大学としてのプレゼンスを国内外に示すために、本音の部分では研究により力を入れたいと考えている大学もあるだろう。

個々の教員レベルで考えてみても、教育能力の向上や授業の改善などが求められる一方で、採用や昇任に際しては、依然として論文の数やその水準など研究業績を中心に審査が行われるという現実がある。また、これまで学内予算で措置してきた研究費を競争的資金にシフトさせる大学も増えてきた。申請書作成、採択後の運用・管理、報告書作成などの業務が付加されることになる。

大学における教育研究において、自由と時間はかけがえのないインフラであるが、同時にぬるま湯的体質を根付かせる要因ともなり得る。

このような根源的ともいえる問題にどう答えればよいのだろうか。大学運営や教育研究に携わる者が、それぞれの立場で考え続け、対話を重ね、解を見出していくしかない。

そのための材料提供を目的として、本稿では、まず研究に焦点を当て、大学の研究力の現状をデータで確認した後、教育研究の拠点としての大学院の現状と課題について論じる。最後に、大学が創出する知識と研究プロセスが社会にとってどのような意味を持つのかについて考察し、大学のこれからを考える視点を示したい。

日本は論文生産の量と質の両面でポジションが低下

2013年8月に文部科学省科学技術・学術政策研究所が公表した「科学技術指標2013」によると、研究開発活動のアウトプットとして計測可能な科学論文について、世界の論文量は一貫して増加傾向にあるなかで、日本は1990─92年から2000─02年にかけて、論文数は増加(46,644→66,637)、シェア(7.6%→8.5%)・順位(3位→2位)共にアップしたものの、2010─12年は論文数が減少(64,579)し、シェアも5.4%、順位も3位にダウンするという結果になっている(各数値は3カ年の平均)。

上記3つの期間について、被引用回数が各年各分野で上位10%に入る論文数のシェアと順位の推移をみると、5.9%(3位)、6,1%(4位)、4.0%(6位)と、直近10年で下げていることがわかる。上位1%に入る論文数についても、5.2%(4位)、6.3%(5位)、5.9%(10位)と、直近10年で特に順位を大きく下げている。

その背景には中国が量と質の両面で急速に存在感を増していることがあり、韓国の増加も著しい。また、Top10%論文とTop1%論文でドイツがシェアを高めていることも注目される。

前記指標の公表に先立つ2013年4月に同研究所がまとめた「日本の大学における研究力の現状と課題」では、論文生産において日本は量と質共にポジションが低下しており、論文数の伸びが主要国に比べて低いと述べたうえで、質の高い論文数における英・独と日本の差は国際共著論文によること、日本の論文の約7割は大学から生まれていること、日本の大学部門の研究開発費の伸びは主要国に比べ小さいこと、大学の論文数のうち、科研費が関与している論文は増加しているが、科研費が関与していない論文は減少していることなどの指摘を行っている。

大学別に見た場合、日本は分野を問わず論文数上位大学が旧帝大や東工大などに固定されており、競争的資金獲得の上位大学についても固定されている可能性があるとの見方も示されている。

また、海外への派遣研究者総数は2008年以降14万人水準で推移しているものの、中長期派遣研究者数は2000年度以降大きく減少していること、大学教員における若手(25~39歳)比率の減少が続いているとの指摘もなされている。

大学教員の研究時間割合は大幅に減少している

2000年版科学技術白書は、第1部「21世紀を迎えるに当たって」において、「産業や国民の生活など社会のあらゆる活動が知識を基盤として急速に展開されるようになり、21世紀、社会は『知識基盤社会』へ移行していくことになると考えられる」と述べている。その後、白書や答申の中に「知識基盤社会」がたびたび登場することになるが、皮肉なことに登場頻度に反比例する形で、大学の研究力を巡り、懸念すべき状況が進行している。

その背景の一つに、大学部門の研究開発費の伸びが、米欧やアジアの主要国に比べて押さえられてきたことが挙げられるが、国や各大学のレベルで改革の名の下に様々な施策が展開されるなか、教員が研究時間を確保しにくくなっていることも大きく影響しているものと思われる。

前出の「日本の大学における研究力の現状と課題」でも、大学教員の職務時間に占める研究時間の割合が2002年の47.5%から2008年には36.1%に大幅に減少していることが示されている。それに対して、教育に費やす時間の割合は23.0%から28.5%に増加している。教員の活動が教育に向かうことは望ましいことではあるが、競争的資金の獲得や成果報告、種々の計画と評価などを含め、研究時間の確保が難しくなりつつあるとの声も根強い。研究力の低下に歯止めをかけるためにも、正味の研究活動や教育活動に時間を費やすことのできる環境を整えることが急務である。

前述の論文生産に関する指標には、人文・社会科学分野などが含まれないため、研究全体の状況を正確に表すものではないが、人文科学の将来に危機感を抱く研究者は多い。また、社会科学分野においても、世界的なジャーナルへの投稿や国際共著論文が少ないとの指摘もなされていることは付記しておきたい。

研究成果を論文数や引用回数などの数値で評価し、ランク付けすることへの批判も根強いが、これらの指標を手掛かりの一つとして、研究活動を点検・評価することの意義はあると思われる。

供給サイドの論理がもたらした大学院の危機

次に、知識基盤社会をリードする教育研究拠点としての役割が期待されている大学院の現状について見てみたい。

2013年度の学校基本調査によると、国公私立合計782大学のうちの8割にあたる624校が大学院を設置しており、うち博士課程の設置は435校に及ぶ。私立大学に限れば全606校の半数にあたる303校が博士課程を設置している。

一方、博士課程の入学者数は2003年の18,232人をピークにほぼ一貫して減少を続け、2013年は15,491人、修士課程は2010年の82,310人をピークに減少に転じ、2013年は73,353人となっている。人文・社会科学の博士課程に限ってみると、2003年の3,348人が2013年には2,319人と10年間で3割減少しており、事態がより深刻であることがわかる。

質的な側面でも憂慮すべき状況が進行しており、「優秀な学生が大学院に来なくなっている」と考える教員は約7割にのぼるとの調査結果が示されている(東京大学大学経営・政策研究センター「大学教育の現状と将来-全国大学教員調査-」 2010年6月)。優秀な人材が大学院に集まらなければ、次代の大学の教育研究を担う教員の養成にも重大な影響を及ぼすことになる。

この背景には、大学院修了者の厳しい進路状況がある。2013年度の学校基本調査によると、博士後期課程修了者で正規の職に就いた者は約50%、正規でない職を含めても約65%にとどまる。これらは全分野の合計であり、人文・社会科学はより厳しい状況に置かれている。また、修士課程でみると、進学者を除く修了者のうち正規の職に就いた者の比率は、理工農の合計が約90%であるのに対して、社会科学は約60%、人文科学は約40%にとどまっている。

大学院は入口と出口の両面でまさに危機ともいうべき状況にあるといえる。1990年代初頭に示された大学院進学者の倍増目標、大学院重点化に基づく各大学での新設・拡大、2000年代における専門職大学院の設置など、需要サイドの量と質を十分に見極めることなく、供給サイドの論理で急速に規模を拡大させたことは反省されなければならない。

また、大学院における人材養成目的が、従来の研究者養成から高度専門職業人、グローバルに活躍する博士などに拡大されるなかで、天野郁夫東京大学名誉教授が指摘する「修士課程と博士課程、一般の大学院と専門職大学院、さらに言えば学部教育と大学院教育との複雑で混乱した関係」(IDE現代の高等教育2011年7月号)を放置してきたことも、今日の状況をもたらした大きな要因と考えられる。

早急に着手すべきは、大学ごとに研究科・専攻別の志願者数と修了後の進路、入学者の質や教育研究の状況などの実態を正確に把握することである。そのうえで、人材養成目的を明確にし、教育の実質化や質の保証の観点から、それを達成できる体制やシステムに組み替えていく必要がある。それが困難な場合は、廃止・縮小も検討すべきであろう。

知識には閉ざされた思考空間を広げる力がある

再び、大学院修了者の進路問題に戻り、我が国において博士や人文・社会科学系修士の就職機会が限られる理由について考えてみたい。

仕事をするうえで必要な能力を、知識、スキル、態度の3要素に分けた場合、日本の多くの企業はスキルや態度を重視して採用や人事考課を行ってきたと考えられる。必ずしも知識の軽視を意味するものではなく、求められる知識は担当業務により、あるいは環境や課題の変化とともに変わることを前提に、必要な知識をその都度吸収しようとする態度やそれらを活用するスキルこそが大事、との考えに基づくものと思われる。

また、長期雇用を前提にした職場において、普遍性のある知識やスキルよりも、その業界や会社に固有の知識や関係特殊的技能が重視されてきたという面もある。この点については、グローバル化や雇用の流動化の流れの中で変容を迫られることになるだろうが、大企業や官公庁を中心に依然として根強い面もある。

それでは、普遍性のある高度な専門知識は企業や官公庁などの実務に必要ないのであろうか。

日本企業は優れた技術や生産現場を持ちながらも、横並び的な経営や売り方しかできず、時代を画すようなイノベーションが起こりにくいといわれているのも、限られた知識と同質的なメンバーの中で閉じた議論が繰り返されることに一因があるように思われる。この点は企業のみならず行政などあらゆる機関に共通する課題である。

知識は結果を保証するものではない。しかしながら、真理、概念、フレームワークなどを知ることで、思考や議論をより高い次元で展開させることはできる。企業に限らず多くの実務の現場では、既知の枠組みのなかで、時間に追われながら最適解を求める活動が繰り返されている。その閉ざされた思考空間を一気に広げる力が知識にはある。社会科学系や工学系などの分野に限ったことではない。自然科学、歴史研究、比較文化研究をはじめ様々な研究者との対話やその著書等を通じて、思いもよらぬ発想や見方に気づかされることもある。

研究プロセスを通して培った力を社会に活かす

知識のみならず、研究プロセスも実務の世界と無縁ではない。学術研究には何よりもオリジナリティが求められるが、そのためにはテーマを絞り込み、鋭く深く掘り進めなければならない。テーマ選定にあたっては、周辺領域を含めた幅広い知識と俯瞰的な視野、如何なる方法で実証し得るかの見通しが必要である。

そのうえで、先行研究に丹念にあたり、仮説を構築し、実証のための調査・実験を行い、結果を考察し、学術的な意義、社会的な意義、残された課題を明らかにする。これらの成果の公表手段が論文であり、理系の場合、英語によるものが多く、国際学会の場などで厳しい質問を浴びせられることもある。

指導教員はいるが、自身の名前で論文発表する以上、責任は自ら負わなければならない。一般の職場ならば上司の指揮の下で仕事をする年代でも、研究に携わる大学院生はこのような厳しい環境に身を置くことになる。そのなかで研究をやり遂げるためには、知的好奇心、情熱、根気、自己管理能力、誠実さなどが必要となってくる。特に誠実さは研究成果への揺るぎない信頼のために不可欠な要素である。

研究プロセスは、実務の世界における問題解決や企画立案のプロセスにも通じるものがある。研究においては手続き上の厳格さが絶対の要件であり、実務の世界では限られた時間内で答えを出すことが優先される。このような決定的な違いはあるが、テーマを定め、問題意識と目的を明らかにし、事実を正しく把握し、答えを見つけるというプロセス、そしてそれを筋道立てて説明する能力など、研究経験が活きる余地は大きい。

知の創出と継承を謳い文句に終わらせてはいけない

そうであるにも拘わらず、大学院修了者の進路が限られるのは、大学で教授研究されている知識や研究プロセスの意義を社会が実感を持って認識していないからである。企業や官公庁をはじめとする社会の側の責任もあるが、伝える努力を怠ってきた大学の責任はより大きいと言わざるを得ない。

それ以上に問題なのは、修了者自身が、学位取得者に相応しい豊富な知識、深い洞察力、旺盛な探究心、確かな思考力や説明能力、そして何よりも考え抜き、やり遂げたという強い自信を社会に示すことができているかという点である。

大学院の教育研究に関わる者はそのことを真摯に問い直し、不十分ならば大学院における教育研究自体のあり方を根本的に見直さなければならない。

現在の大学院には、研究者に加え、高度専門職業人、教育能力と研究能力を兼ね備えた大学教員など、多様な人材養成機能が期待されている。その機能をどう発揮するかで、我が国の研究の将来、国や企業の競争力、次代の高等教育の質、そして社会全体の知の豊かさが大きく左右されることになる。

波多野・稲垣(1973)は、人間は生まれつき旺盛な知的好奇心を持ち、好奇心と向上心は結びついているとしたうえで、「人間は、条件さえ与えられれば、活動的で好奇心が強く、よく努力し、他人のことを思いやるはずだ」と述べている。(波多野誼余夫・稲垣佳世子(1973)『知的好奇心』中公新書)

知の創出と継承を謳い文句に終わらせることなく、大学関係者自らがその意味を問い直す必要がある。

2014年5月23日金曜日

「何かをしない」という選択

ブログ「今日の言葉」から時間」(2014年5月15日)をご紹介します。


成果をあげる者は仕事からスタートしない。

時間からスタートする。

計画からもスタートしない。

何に時間がとられているかを明らかにすることからスタートする。

次に、時間を管理すべく

自らの時間を奪おうとする非生産的な要素を退ける。

ピーター・ドラッカー


医師の日野原先生も『習慣に早くから配慮したものは、人生の実りも大きい』と語られています。

客観的に自分を見て、何に時間を使っているのかの把握と、何をするのかの選択を意図的に行うことが重要。

例え30分の隙間時間でも、1年間で見ると、1日分の仕事を約7.5時間とした場合、およそ23日分の時間を作り出すことが出来る。

そして「何かをする」ということは、その分「何かをしない」という選択でもあるのです。

ドラッカーが言う「自らの時間を奪おうとする非生産的な要素」が自分にとって何なのか、これをはっきり認識して断捨離する。

去年の今頃の自分と比較して、悪い習慣を止めて、良い習慣を手にしているでしょうか?

良い習慣であっても変えるべきものは無いでしょうか?

2014年5月22日木曜日

自分にもできる

ブログ「今日の言葉」からチャレンジ」(2014年5月14日)をご紹介します。


世の中に失敗というものはない。

チャレンジしているうちは失敗はない。

あきらめた時が失敗である。

稲盛 和夫


『あきらめたらそこで、 試合終了ですよ。』

とは安西先生(スラムダンク)の名言ですね。

成功の秘訣は、成功するまで諦めないこと。

そうすればその過程における失敗は、色々なやり方を試しているだけとなる。

エジソンもこう言っています。

『ほとんどすべての人間は、もうこれ以上アイデアを考えるのは不可能だというところまで行きつき、そこでやる気をなくしてしまう。いよいよこれからだというのに。』

成功している人は、成功していない人がやろうとしないことをしているのです。

「あの人だから出来るんだ」と外野的に見ているのではなく、「誰かに出来ることは、自分にも出来ること」と思って取り組むことが大事ですね。

2014年5月21日水曜日

ベンジャミン・フランクリンの徳目

ブログ「今日の言葉」から十三の徳目」(2014年5月8日)をご紹介します。


政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者として活躍し、アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられるベンジャミン・フランクリン氏。

そのフランクリンが、良い習慣をつくり身につけるために、十三の原理原則を手帳に書き、毎日実行できたかどうかをチェックしたそうです。

チェックするということは、できていないこと日もあったのでしょう。

そこが人間的でさらに良いのだと思います。

それぞれの補足をします。

1.節制

飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。

2.沈黙

自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。

3.規律

物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。

4.決断

なすべきをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。

5.節約

自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。

6.勤勉

時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。

7.誠実

詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出だすこともまた然るべし。

8.正義

他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。

9.中庸

極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。

10.清潔

身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。

11.平静

小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。

12.純潔

性の営みはもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、

これにふけりて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、

または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。

13.謙譲

イエスおよびソクラテスに見習うべし。

2014年5月20日火曜日

一人はみんなのために、みんなは一人のために

ブログ「今日の言葉」からステップ」(2014年5月7日)をご紹介します。


一人はみんなのために、みんなは一人のために。

One for all, All for one.


ラグビーで使われる有名な言葉ですね。

今日はこの言葉で紹介したい素敵なお話をお届けします。

いつも学ばせて頂いている「みやざき中央新聞」の2014年2月17日号の記事からです。

是非、「みやざき中央新聞」を購読してみて下さい。見本紙もあります。

「あずさからのメッセージ」という記事で、ダウン症のあずさちゃんにまつわるお話です。

あずさちゃんのお母様がお話をされています。


あずさは中学校の特別支援学級に進みました。

毎日休まずに登校しました。

運動会が近づくと、やっぱり私は心配でした。

中学校では女子のダンスは先生が教えるのではなく、ダンスリーダーになった3年生が自分たちで選んだ曲に合わせてダンスを作り、それを1・2年生に教えるんです。

結構激しい動きなので、あずさにはちょっと大変でした。

3年生になりました。

運動会の日、私は信じられない光景を見ました。

女子のダンスで、あずさがみんなと一緒に踊ってるんです。

あまりにも上手だったから、最初あずさがどこにいるか分かりませんでした。

だってみんなと同じステップで踊っているんですから。

「ウソ、何でこんなことができるの?」と言ったら、体育の先生が教えてくれました。

ダンスリーダーの人たちが、あずさのいる特別支援学級に毎日やって来て、教えていたんです。

「こうしてステップを踏んで、さあ、やってごらん」「そうじゃなく、こうやるの。大丈夫、できるよ」と。

でも、できなかったら、「じゃあ、これはやめて別のステップにしよう」と、また教えるんです。

とにかくあずさが無理な動きは入れない。

あずさが踊れるステップだけで作ったダンスだったので、踊れて当たり前だったんです。

私は涙もろいものだから、上手に踊ってるあずさを見て涙が止まりませんでした。

ふと横を見ると、中学校の先生たち、ちょっと怖そうな男の先生とか校長先生まで、みんなで泣いていたんです。

何で泣いていたか分かりますか?

あずさが上手に踊っていたからではないんです。

あずさのことを考えて、みんなで一つになってダンスを作り上げた、その生徒たちが誇らしかったんです。

たった一人の生徒のために、そんなことができる生徒たちがいた。

先生たちはその生徒たちに、「ありがとう」という気持ちで涙を流していたんです。



いつの時代も子どもたちの純粋さは変わらない。

周りの環境が与える影響が違うだけ。

だから人は良い書物を読み、良い人に出会い、良い言葉、志に触れ、良い行動をすることが大事なのですね。

2014年5月19日月曜日

ポスドク問題に関する財政審の議論

去る4月4日(金)に、財務大臣の諮問機関である財政制度等審議会財政制度分科会において、「文教」に関する議論(特にポスドク問題を中心に)が行われています。

議事録が公表されていますので、大学関係部分を抜粋してご紹介します。(下線は拙者)


財務省井藤主計官

次のポイントで、11ページ、大学改革でございます。国立大学の現状なのですけれども、よく言われる話なのですが、日本の大学評価は必ずしも高いものではないと。ランキングトップに入るのは東大と京大だけだという話はよく言われます。一方で、それは国立大学の運営費交付金を毎年減らしているからだといった声を我々もよく受けるのですけれども、実は研究費とかは伸びているということもありますし、国立大学の法人の収入全体で見ると決して減ってはいないということです。

13ページなのですが、では、そういった中で、ランキングはどう変わってきているのだろうかと。ランキングだけが全てとは申しませんけれども、ここに挙げられているような大学は、特に研究が中心的な大学で、研究費もかなり取っている大学だということでございます。東大も若干順位を上げていますけれども、十分な強化が行われると果たして言えるのだろうかということでございます。

14ページなのですが、実は国立大学というのは86校ございまして、いわゆる総合大学は各県にあって47校あります。その他、教育大学とか、そういった専門の大学があるわけですが、こうした大学が特色のない大学運営を行っていることが大学の評価が向上しない一因ではないかということもよく耳にする話でございます。

こうした中で、私ども、文部科学省と議論をして、限られた財政資金はなるべく有効に使わなくてはいけないということで、重点的な支援を、機能強化を一生懸命やっているところにやろうというようなことで、例えば、今、運営費交付金というのは大体1.1兆円ぐらいの予算ですが、その1割ぐらいを特別運営費交付金ということで、その取組みに応じて配分しようという取組みもやっているわけなのですけれども、なかなか予算全体の配分が機能強化をほんとうに慫慂し、それをフィードバックして配分を変えていくというような好循環を生み出す仕組みになっていないのではないかという疑いがございまして、ここに出しているのは、現に学部間の配分の見直しみたいなものを行ったA大学と、そうではないB大学の例で、一般の運営費交付金は機械的に配られているので平等に配分されているのですけれども、特別運営費交付金についても、ほんとうにそういった機能強化に応じて重点化されてきたのかということです。

あと、機能強化を特別に支援するみたいな今の仕組みなのですけれども、やはりその支援というのは数年で終わっていくわけで、後は、本来、時代の要請に応じて変わるのは大学の使命なので、通常の経費で後はやってくださいということで、これは正論なのですけれども、やはり機能強化をして一生懸命やっているところと、そうではなくて、必ずしも時代の要請に十分応えられてないところを抱えているところと、本当にシェアを固定化した一般運営費交付金の配分でいいのかというような議論があろうかと思います。

そうした中で、16ページですが、実は国立大学というのは法人化されたのが平成16年でございます。それで、1つの目標期間というのが6年でございますので、今、第2期中期目標の期間ということです。2年後の28年度から第3期に計画が新たに始まるということなのですが、そこに向かって、私ども、議論をこれからいよいよしていきたいと思っているのですが、いかにそこら辺の仕組みを変えていくのかが重要だという共通認識は持っておりまして、文部科学省においても、上の真ん中辺のほうなのですけれども、3期における国立大学法人運営費交付金や評価のあり方については平成27年度までに検討し、抜本的に見直すと、こんなことも言っているわけですが、やはりここら辺は、この財審でもご議論いただいて、しっかりやっていただく必要があるのではないかと私どもは考えてございます。

17ページなのですが、今申し上げたようなことをイメージ的にまとめたものなのですけれども、やはり一般の運営費交付金も含めた大学予算について、全体としてめり張りづけも行って、国立大学全体として機能強化を図れるようなフィードバックの仕組みも設けたようなものにしていく必要があるだろうと。それで、優れた取組みを行う大学については重点支援をしていくと。そうでない大学というのは、なぜそうでないのかというようなことをよく分析していただいて、当然、社会のニーズは時代の要請に応じて変わっていくでしょうし、全ての大学の全ての学部が国際的な競争できるようなレベルにあるわけでもないですから、弱い分野は重点化のために合理化等も必要でしょうと。また、学校間の再編みたいな話も場合によっては必要ではないかと考えているところでございます。


そうした中で、18ページ以下、各論で1点取り上げさせていただければと考えておりますけれども、ポストドクターの現状ということでございます。このポストドクターというのは、博士課程を取られた後、研究員として、大学であれば助手とか准教授とかになられれば、ポストドクターを晴れて卒業されて、いわゆる一人前の研究者というようなことなのでしょうけれども、それに至るまでの任期つきの研究員ということで、略して「ポスドク」と呼ばれるのですけれども、大学院の重点化でありますとか科学技術の強化ということで、左上の表にあるように、これを随分増やしてきていました。ただ、このポスドクが大量に増えている結果、では、そのポスドクが、順調に研究者になっていけているのかということなのですけれども、②で大学の本務教員に占める若手研究者の割合というのは減っている状況で、なかなかポストが空かないので、なかなか先へ進めないと。したがいまして、右の円グラフですが、ポスドクのまま滞留している方が相当たまっておりまして、こういう状態が長期化しているということでございます。

19ページなのですが、これは分野間の偏在もあるのではないかということですけれども、①で、ポストドクターの分野別の内訳を見ますと、ライフサイエンスが目立ちます。あと、理系の学科がかなり多いのですけれども、例えば、ライフサイエンスについて見ますと、右のグラフなのですが、これはポストドクターが、最初のポスドクが終わって、それで1年目、2年目、3年目、4年目、5年目と、その進路がどうなったのだろうかということで、時系列でとったものでございますが、青いところが引き続き、どこか別のところ、あるいは同じところかもしれません、ポスドクをやっているということなのですが、やはりこういった大量のポスドクを抱えているライフサイエンスのところについては、ポスドクのままいる人が多いのですね。下の化学についても、ポスドクは多いといえば多いのですけれども、上に比べれば、順調にエグジットされているというようなことなので、やはり分野間も、ほんとうに採り方がいいのか、あるいは、ポスドクといっても、ほんとうに優秀な研究者として育てるような人なのかと。例えば、生物の実験とか、非常に手間がかかるのですけれども、これはテクニシャンとか、そういった支援員みたいな形で本来育てていくべき人はいないのかと。いずれにせよ、ポスドクになられるような人は本来優秀な人であろうということだと思うのですけれども、やはりそういう人が先の見通しを描けないというのは、これは社会的にも相当損失だと思うので、そこら辺を社会として人材がうまく循環するような仕組みをつくらなくてはいけないと。

それで、20ページなのですけれども、ポスドク問題と運営費交付金の配分でございますが、やはりこの問題を解決するためには、シニア教員にとっては厳しい話も入っていると思います。年俸制とか混合給与とか、俺たち、出ていけと言うのかみたいな話もありますけれども、他方で、やはり若手の優秀な人には、一定の職をつくるように努力していかなければ。究極の選択といえば、そういう面もあるのですが、そういう取組みはやはり必要なのではないかと。

あと、大学だけで抱えるのではなくて、企業や他の研究機関、海外、あるいは私立、こういうところも含めて循環するような仕組みを、産学また海外とも連携してつくっていく必要があるだろうと。

それでも、なかなかポストが与えられないということだとすれば、やはり社会としてとり過ぎではないかという可能性がある。先ほど申し上げた、分野間の配分の見直しといったことも含めて真摯に考えていかないと、これは日本国として人材の損失ではないかということでございます。

それで、これがなぜ運営費交付金とかかわるかということなのですけれども、こういったことできちっと取り組む大学については、運営費交付金の配分においても評価して重点化するようなことが必要ではないかというようなことでございます。

21ページ、若干まとめみたいな話ですが、これは第3期の中期目標期間が来年度から始まります。よって、この期間の設計をどうするかというのが、まさにこれから始まるというようなことでございますので、今の時点から、こういう議論をしっかりしていく必要があると考えているということでございます。

田中委員((独)大学評価・学位授与機構教授、日本NPO学会会長)

11ページの論点整理の中に、より厳格に評価を行うべき、あるいは、パフォーマンスに応じた運営費交付金の配分というようなご説明もあったのですけれども、その前提になるのは、情報の開示とその情報を蓄積したデータベースのようなものになりますが、日本はそこが非常にプアな状況になっています。

例えば、アメリカ、イギリスとか韓国では、大学は全て情報開示することが法的に義務づけられていますが、日本ではそういう法律はありません。のみならず、情報を開示しない場合には、補助金、運営費交付金の減額、あるいはアメリカの場合には罰金や、そこに通う学生の奨学金が支給されないというような厳しいペナルティーが課せられています。こういったことも日本ではなく、あくまでもボランタリーな状況になっています。

遠藤委員(東京大学政策ビジョン研究センター客員研究員)

大学につきましては、先ほどからポスドクの話が出ておりましたが、今、産構審の産業技術環境部会のほうでも、ちょうど企業と大学の役割の分担や橋渡しの話の議論を進めているのですが、やはり大学の中にシニアの教員の方が増えていく1つの要素としては、企業から大学に行かれる方は多いのですけれども、大学から企業に行く方は非常に少ないので、人材の流動化の市場が大学の中だけに限定されているということがあると。ですので、それをもう少し企業の中とか社会と広げていくことで、シニアの方々のもっと新しい働き場所をつくる、そういうようなことを考えていくことも、1つ、産構審との連携の中での視点ではないかなと思っております。

赤井委員(大阪大学大学院国際公共政策研究科教授)

14ページに、たくさんの大学があるということがあって、これは、確かに以前も議論したのですけれども、地域に貢献しているような大学を国が国立大学として持つべきなのかという議論があって、地方自治体が持つべきかもしれないというものとか、ほんとうに必要かどうかの議論というのは、もう一度見つめ直してやる必要がある。教員養成に関しては、各地域で必要だという議論もあるので、大学を廃止するというよりかは、大学統合とかホールディングみたいな形で、1つの地域はある1つの大学の下にぶら下がるみたいな形のいろいろな組織形態も含めながら、大学のあり方は議論していくべきかなと思います。そうすることで機能分担ができると思います。

老川委員(読売新聞グループ本社取締役最高顧問・主筆代理)

地方大学、大学それ自体をなくすとか統合するとか、これも1つの考え方かもしれませんが、総合大学か専門大学、専門といっても、大体が教育専門、あるいは医学専門と、こういうことなのですが、総合大学の中でも学部の特色といいますか、そういうところで勝負していく、そういうことがあってもいいのではないのかなと思います。

例えば、これはたまたま新潟のテレビ局がつくったドキュメンタリー映画なのですが、田舎の小さな小学校で児童が7人ぐらいしかいない。子供が減ってしまって、肉牛を3頭入学させて、そこで何カ月か子供たちと同じように学校生活を送らせる、こういうことをやって、そのときに、牛の病気を治したりとかいうことがきっかけになって、その後、現に今、獣医さんになっている女性が、新潟の地震のとき、牛を助けたり、いろんなことをやる、そういう話なのですが、獣医になるためにどこへ行ったかというと、岩手大学農学部獣医学科ですね。岩手大学の獣医学科というのは、全国的にも獣医を育てるという意味では非常にレベルが高いということで、一生懸命勉強して、岩手大学農学部獣医学科に入ったと、こういう話なのですけれども、そのように、それぞれの地方大学が、総合大学だからといって、満遍なく同じようなレベルのことをやるというのではなくて、それぞれの地域ごとに特色のある学部の強化、そういうことによって全国から、例えば、関西方面にいる人が東北方面の有力な学部、地方大学に行くとか、そういった交流があってもいいのではないのか。それはまた、地域の活性化とか、そういうことにつながっていくのではないかなと思いますので、機能分担という考え方をもう少し具体的に進められるように取り組んでいったらいいのではないかなと思います。

土居委員(慶應義塾大学経済学部教授)

例えば、この資料でいえば18ページが象徴的なわけですけれども、ポストドクターの人たちが、次の職としてどこを希望しているかというと、結局、18ページの円グラフにあるように、同一機関で同一の状態でポストドクターを継続しているということは、できれば同じ研究所を離れたくないとか、同じ研究室でそのまま上に上がりたいという人が多いと。しかし、実際のところは、大学の組織、特に理科系は、いわゆるピラミッドの組織なわけで、下のポストはたくさんあるけれども、上のポストはそれほどたくさんないという構造ですから、当然、ポストドクターで採用されたら、そのまま真っすぐ上に上がれるわけではないということですから、そこはきちんと、ポストドクターの人たちにも理解をしていただいた上で、まさに主計官の説明にもありましたように、企業や海外の大学も含めて、私は私立大学も重要だと思うのですけれども、ちょっと言い方は悪いかもしれませんが、国立大学から私立大学に行くと、ランクが下がったみたいに思う人も中にはいるかもしれないというのは、そういう見方をきちんと改めていただいて、ないしは、研究をする教員と教育をする教員と教員でも質が違うとか、そういうような偏見をなくしていただいて、きちんと研究手法についての教育を受けたポストドクターの方々がしかるべきポジションできちんと仕事ができるようにする方法というのは、お金を増やさなくてもできる道もまだまだたくさんあると思います。

佐藤委員(一橋大学国際・公共政策大学院教授)

国立大学と私立大学のイコールフッティングの話もほんとうは考えなくてはいけなくて、必ずしも国立大学が教育、研究の全てではないので、では、国立大学の中でも、本来は私立大学と競合関係にあるような大学の立ち位置をどう理解するのかという問題。これは、機能分化にかかわる話だと思います。地方大学はむしろ、ある意味、地域の人材の育成というところに特化していくものでありまして、病院に少し近いと思うのですが、ある意味、慢性疾患に対応するべき病院と高度な医療をやるべき病院というのは本来あるべきなのに、みんなが同じようなことをしようとしているから、どこも同じようなことをやっているという話になっているのだと思うので、地方に関していうと、やはりもっと地域の人材の育成というところに主眼を置く、つまり、教育にむしろ重点を置くという、教育大学という形で再編制していく視点がなくてはいけないのかなと思います。

あと、最後、1点だけ。ポスドクの話ですけれども、日本というのは、相変わらず労働市場が学部卒業で、みんな就職していくということがあって、その後、ドクターを取ると、なかなか就職先がないというのは、これは文系でも理系でもある話だと思うのですが、これは日本の労働市場、若い人、二十二、三歳の子供を採って、その子供を会社の中で育成していくというトラディショナルな日本の労働市場のあり方とも深くかかわるので、ここはそちらを見据えながら考えなくてはいけないのかと思いました。

黒川委員(慶應義塾大学商学部教授)

ポストドクターの問題も、結局、大学の中にとどまるだけではなくて、いろんな社会に出ていって、貢献してもらいたいというところに尽きる。そうなると、もう少し大学の就職あっせんとか、そういうところも考えなくてはいけないし、それから、子供たちに対する、大学の教員としても、君たちの将来というのは、何も大学に残るだけが将来ではなくて、いろんな道があるということで、それから、途中で路線が変わっても、そのほうが一生を終わってみると、すごくよかったということがいっぱいあるということで、今現在の教員としても、自分が抱えている子供たちに対する先々の活躍の場に対して、いろんな可能性を示していく、こういうことも大切なのかなと思いました。

2014年5月18日日曜日

沖縄への誠意

久々に沖縄の話題です。朝日新聞社説「辺野古移設-これが熱望した祖国か」(2014年5月17日)をご紹介します。


この15日に本土復帰から42年を迎えた沖縄県で、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設をめぐって、異常ともいえる事態が進行している。

名護市辺野古への移設をめざす政府が、強引に工事の準備に取りかかっているのだ。

まず動きがあったのは4月11日。政府の担当部局である沖縄防衛局が工事に先立ち、資材置き場として使う辺野古漁港の使用許可申請など6件の申請書を、名護市長宛てに提出した。

それは事前調整もなく突然のことだった。防衛局職員が持ち込んだのは市役所の閉庁間際。提出先を間違え、他の部署に置いて帰った書類もある。

文書には、根拠のない「回答期限」が一方的に設定されていたほか、記載漏れなどの不備が目立った。

名護市は再提出を求めたが、防衛局は「適正だった」と拒んだまま。期限とした5月12日は過ぎた。防衛局は許可が得られなかったものとして、計画を進めるという構えを崩さない。

市の担当者は「申請書の形式を満たしておらず、審査に入れない」と戸惑う。

普天間飛行場の辺野古移設について、安倍首相は1月に「地元の皆様のご理解をいただきながら、誠意を持って前に進めていきたい」と語った。

ところが、現状は見ての通り。誠意のかけらもない。

1月の名護市長選で移設反対を訴えて再選され、「権限を行使して着工を阻止する」と表明した稲嶺進市長に挑むような、強硬姿勢だ。

政府は6月以降、海底ボーリング調査を開始し、来春にも埋め立て工事に着手する予定だ。

しかし、国の天然記念物のジュゴンやサンゴの群落など、近海の豊かな生態系への影響や騒音など、環境や生活に大きな支障が出るという心配に、政府は納得いく説明をしていない。

「地元の理解」を得るには、まず地元の心配に正面から答えなくてはならない。

米国の映画監督オリバー・ストーンさんらが移設反対の声明を出すなど、海外の知識人や政治家の間に、沖縄への理解が広まりつつある。米国世論に移設の不当性を直接訴えたいと15日、稲嶺市長が渡米した。

同じ15日、安倍首相は集団的自衛権の行使容認の検討を表明した。それは、平和憲法の及ばない米軍占領下、沖縄が復帰を熱望した祖国の姿だろうか。

まして、反対いまだ根強い県内移設にひたすら突き進む、こわばった顔つきの国が、望んだ祖国であるはずもない。

2014年5月8日木曜日

リサーチ・アドミニストレーター(URA)の成否

桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授の山本眞一さんが書かれた「リサーチ・アドミニストレーター(URA)の可能性」(文部科学教育通信 No.338 2014・4・28)を抜粋してご紹介します。


進むURA整備事業

文部科学省のURA制度の整備事業は、2011年度から本格化した。同年度の補助事業のための公募要領(2011年7月)によると、URAとは「大学等において、研究者とともに研究活動の企画・マネジメント、研究成果活用促進を行うことにより、研究者の研究活動の活性化や研究開発マネジメントの強化等を支える業務に従事する人材」とされている。また、URAはもっぱら研究を行う職とは別の位置づけであり、かつ単に研究に係る行政手続きを行うという意味ではないとされているところから、実際はともかくとして、理念的には教員でもなければ職員でもないということになるだろう。早稲田大学のホームページには「作家に対する編集者のような存在」と書かれてあるが、大変分かりやすい例えである。

文部科学省の補助事業の進展により、数十大学規模で補助対象校が増え、URAを育成する体制が整いつつある。また同時に、URAのスキル標準の策定や研修・教育プログラムの整備についても委託事業を通じて、その成果が上がりつつある。早稲田大学が2012年2月に実施した全国63大学に対する調査によれば、回答者93名のうち52%がURAを置く必要性を強く感じており、また実際に回答者の27%が自大学にURAが置かれていると回答している。また、URAに求められる機能として重要なものは、①大型プロジェクト創出機能、②全学的サービスインフラ(知的管理機能)等、③科研費応募アップ等の研究底上げ機能、④国際共同推進機能の順に高く、URAに必要と考えられる知識・能力・経験としては、①国などの研究資金情報の収集・分析、②学内研究活動の把握、③国の施策の把握、④申請書作成支援、⑤研究プロジェクトのマネジメントの順に高かったそうである。いずれも実態を反映した関係者の期待である。

多様なURAが登壇

さて、シンポジウム当日の様子に話題を移してみよう。シンポジウムでは四人の発表者が登壇した。第一番目は北海道大学で特任准教授を務める石井哲也氏である。同氏は、国立大学大学院を修了後、企業の研究所に勤めた後、科学技術振興機構(JST)に10年いたが、その間に3年間京大iPS細胞研究所(山中伸弥所長)で「特任准教授・研究統括室長」としてURAの役割を務めた。京大勤務開始時にもらった身分証に「フェロー」と書かれており、前例のない身分として雇用されたというエピソードも紹介した。研究所での仕事は「研究現場に密着して所長を補佐し、iPS細胞研究の中核拠点として立ち上げる」ことが同氏に課せられた任務であり、このため公的資金獲得や人事戦略などの「リソースの確保」、論点明確化、ルール策定、学外連携などを含む「研究環境の整備」、研究目標案の策定など「研究所の方向性」づくりに意を用いたそうである。URAとしての実務上のさまざま広経験談を紹介した後、同氏は「URAは単なる専門職ではなく、部局経営ビジョンにとって必達の人材でなければならない」と述べ、また文系機関のURAへのアドバイスとして、マイケル・サンデル教授(ハーバード大)のような人をどのようにプロデュースするか、社会教育にどのようにコミットするか、新興学際分野へどのように進出を図るか、国際雑誌への投稿をどのように促すか、など興味ある活動の一端を提示した。

第二番目は、東大社会科学研究所の学術支援専門職員を務める堤孝晃氏である。同氏は「研究者支援としてのURAの多様性」と題する発表を行い、URAの多様な実態を踏まえ、現在行われている単一の、あるいは標準的なURAの在り方議論を排しつつ、URAや教員など14名に対するインテンシブなインタビューを踏まえた分析結果を提示した。その中で、URAのキャリアは実態として多様なものがあるが、事務畑出身者については、組織運営に対する理解があること、研究畑出身者については、研究内容や研究者に対する理解があること、民間出身者については、社会的ニーズの把握に優れているというそれぞれの「処理能力」の特性を生かすべきだとした。また、URAは組織の支援か研究者の支援のためか、研究者としてのキャリア・パスの一環か、あるいは専門職化を目指すのか、などさまざまな判断を要するが、いずれにせよURAは大学や研究の転換点のための試金石であり、URA設置の結果として何が起こるかを複合的に検討する必要があるとした。

URAというキャリアの見通しを

第三番目は、同じく社会科学研究所の特任研究員である杉之原真子氏である。同氏は、URAとしての肩書はないものの、研究プロジェクトの運営スタッフであるという意味での広義のUAだと断りつつ、「米国の文系研究所におけるURAの役割」と題し、今年1月に米国の3大学内の6つの研究所で行ったインタビュー調査の結果に基づき話をした。インタビューを行ったそれぞれの人物は、いずれも研究所の事務スタッフのトップに当たるもので、その意味ではわが国で考えられているURAよりは地位と責任の高いスタッフである。米国ではこのような職が企業や大学で、経営陣に近い高級ポストとして捉えられてきたのに対し、URAがより実務スタッフに近い感覚で捉えられようとしているわが国の論調には、少し注意する必要があるようである。それぞれの研究所で彼らは「研究者である教員(ファカルティ)を補佐し、研究所の研究力の向上に大きな役割を果たす」役職を務めていたと、同氏は述べた。

最後に登壇したのは、東大政策ビジョン研究センター特任専門職員で、かつ大学本部リサーチ・アドミニストレーター推進室の属するURAである村上壽枝氏である。同氏は私立大学の正規職員として15年勤務し、その後桜美林大学大学院で大学アドミニストレーションの修士号を得た後、現職でURAとしての仕事をしている。いわばURAとしての典型例の一つである。同氏は、URAを巡る最近の全国的傾向を説明し、続いて現在勤務している東大内の組織における業務内容を紹介した後、研究者との緊密な連携によって成果が得られたときのやりがいを語り、若手研究者の成長過程とともに歩むURAの重要性を強調した。

URA推進の構想には、研究活動を積極的に支援することによってその活性化を図ることに加えて、博士人材の多様なキャリア・パスを構築しようとする考えも交じっている。前者を重視するなら職員の専門職化、後者を重視するなら研究者とURAとの関係が今後さらに検討されなければならないだろう。いずれにしてもURA自体のキャリアの最終見通しをどこに置くか、これの成否がURAの役割の大小、人材の質の良否に決定的な影響を及ぼすことだけは間違いあるまい。

2014年5月7日水曜日

電子ジャーナル問題

近年、「電子ジャーナル」は、継続的な値上がりに加え、円安も手伝って、各大学の大きな経営問題の一つとして大きくクローズアップされています。

文部科学省では、こういった状況を受け、このたび「ジャーナル問題に関する検討会」を立ち上げ、ジャーナルの現状や課題の正確な把握・分析を行うとともに、対応策について議論を行うことにしたようです。

過日、第1回会議の配布資料と議事録が公表されました。大学におけるジャーナルの財政負担や、論文等の研究成果に無償でアクセスできるオープンアクセス等について議論されています。今後の動向を注視したいと思います。



今回は、取り巻く状況についての文部科学省の認識と、各大学(図書館)に求められる現状把握・取組みに関する部分を、議事録から抜粋してご紹介します。(下線は拙者)


ジャーナル問題に関する検討会(第1回、2014年3月26日開催)議事概要(抜粋)

【文部科学省】

本検討会の設置の趣旨は今、局長から申し上げましたとおりでございますけれども、資料1のとおり掲げておるところでございます。研究成果の流通において重要なジャーナルの在り方ということで、毎年、継続的に値上げが続いてございますけれども、特に大学の財政負担を考えますと、これを維持することは非常に難しくなってきていることは皆様方、御承知のとおりだと思っております。これをどう考えるかは国としても考えないといけないわけですけれども、先生方にも御意見を頂いて発信していきたい。

オープンアクセスの確保は、世界でG8の科学技術大臣・アカデミー会長会合においても議題として取り上げられております。そういった流れの中で、実際に緊急性が高い内容、ジャーナル問題を考えていきたい。

検討事項は2に掲げてございますけれども、ジャーナル流通の現状、課題及び対応策は本日、御議論いただきまして、また次回以降はオープンアクセスへの対応、その他のジャーナルに関しての課題としては、3月13日の日本学術会議のフォーラムでも必要性が議論されておりました日本発のリーディングジャーナルの育成といったものの課題に対しても御議論いただいて、方向性をまとめて発信していきたいと考えておるところでございます。

設置期間は今年の7月いっぱいで、夏前までに集中的に審議させていただきたいと思っておるところでございます。

特に購読料の問題につきましては、配付資料の中で、参考資料として一番最後に、昨日、25年度の学術情報基盤実態調査の結果を報道発表した資料を付けさせていただいております。後で御参考として御覧いただければ大変有り難いと思っているんですが、この中で5ページの真ん中辺にグラフがございまして、電子ジャーナルの総経費と平均経費というところの下の表を御覧いただきますと、国公私立大学の総経費の合計が23年度は218億円でしたが、24年度は227億円で、約10億円、4.5%も必要経費が増えている現状でございます。こういった形でどんどんジャーナルの購読に係る経費の負担が各大学で大きくなっていることが明らかなデータで見てとれることもございますので、改めてしっかりと検討していきたいと考えているところでございます。

【谷藤委員(独立行政法人物質・材料研究機構科学情報室長)

脱パッケージが何を意味するかというと、研究資料をタイトル数の規模で判断するのではなく、ジャーナルという単位で判断し、あるいはそのジャーナルに載った有用な論文がどれだけあったのかという粒度が小さいレベルで検討、議論しなければならないことを意味しています。それを研究する人たちに、これが最適な回答であると図書館が示すためには、当然に、科学者を相手にしていることもありますので、論文単位でどれだけ使われているか、あるいはどの研究領域に使われているか、その単価を掛け算するとどの程度の支出の規模になるのか、研究ユニットごとに若手が主体なのか、あるいはシニアの研究者で小規模に行われているのか、研究のスタイルはいろいろありますので、このような多様性を踏まえて、横断的な調査、分析をして提示する必要があります。

【安達委員(国立情報学研究所副所長)

Big Dealで論文数が増えているのかという問題があります。これに対して、少なくともマックス・プランクで投稿しているエルゼビアやシュプリンガーへの投稿論文は増えていないといっておりました。また、別の議論として、オープンアクセス雑誌が若い研究者が投稿する論文を吸収するところになっているという紹介もありました。このようにとにかく、データを持って交渉しないことには価格の高騰について戦えないわけです。図書館の立場として各大学におかれましては、種々の論文に対してどのようなアクセスをしているのか、そしてそれに払う対価が妥当なのかというデータを把握した上で交渉しなければならない段階になったと思います。

【引原委員(京都大学図書館機構長・附属図書館長)】 

我々がもうやっている話なんですけれども、まずデータを取ること。各大学が自分たちがどの雑誌が欲しいかの把握をちゃんとすること。予算の裏付けをきちんとすること。そのときそのときで適当な予算を持ってきて処理するのではなくて、オーバーヘッドならオーバーヘッドで、その範囲内で運営することを図書館がきちんと把握すること。ないからおねだりするのではないということは何度も言われています。さらに、こういう選考のときに、自分の関係の雑誌、共通の雑誌がなくなることに反対する方々はいっぱいいらっしゃいますので、ルールを明確にすること、そして全てをオープンにすることというのはどこの大学でも言われていることです。

【引原委員(京都大学図書館機構長・附属図書館長)

大学の経営関係の方々が図書館のことは図書館の関係者に任せてしまわれています。ですから、予算に関しては出さないとおっしゃりながら、情報を自分たちで把握されていないのも現実だと御理解いただきたいと思います。

【竹内委員(千葉大学附属図書館長兼アカデミック・リンク・センター長)

契約情報に関しては各大学で守秘義務が生じている可能性があります。うちの大学はこうですと、今日も私は余り具体的な数字は申し上げませんでしたが、そういう状況にあるので、これはちょっと工夫をしないと情報の共有ができないと思います。ただ、完全に匿名化された状況で構わないので、この大学はこういう買い方で、こういう形でこういう判断をしたというケーススタディみたいなものは、やはりここできちんとやっておくべきであって、その情報共有が議論していく上での基本になるのではないかと思います。ですから、この点については、もしも可能でしたら、完全に匿名化する形で、つまりこの大学がどこか想像もつかないような形で情報を共有するしかないんじゃないかと思います。

【文部科学省】

私どもは、今日、それぞれの大学の事情を御説明いただいたことだけでも十分意義があったと思っておりまして、それさえも全く分からなくて、各大学がどういう状況で、どういうジャーナルの購読状況にあるのか分からない中で、Big Dealについては維持しないといけない。だから、その経費についてどうするんですかと。そうすると、結局のところ、実際に読んでいるかどうか分からないんですけれども、そういったニーズに対してはアクセス環境を用意することは当然、非常に重要なことで、それも理念として大事なのは分かっているんですけれども、どれぐらい必要なのか、それをやめた場合にどうなるのかが分からない状況の中で、予算は確保しないといけないから、国で契約をしてくださいということにすれば自分たちは楽になるというのでナショナル・サイト・ライセンスにしてほしいという話が出てくるわけです。しかしながら、それだとこれまでの価格上昇を抑える要因にはならなくて、国が予算を確保したら、それで問題が解決するかというと、そうではないと思いますので、そういう各大学の状況、例えば今日、出席していただいた大学の例を公開の中でお話ししていただいたことをまとめて、こういうことになっていますよと明らかにするだけでも、今、どうしたらいいか困っている大学図書館関係者や大学関係者の方々には参考になります。また、状況が大学によっていろいろ異なりますから、一律にこれをやめるべきだ、継続すべきだという議論は適切ではないことはよく分かりましたので、こういったものを事例として公開できる範囲のアイデアをいろいろ提供していって、この場合は実際どうだったのか、全然問題はなかったのか、こういったことが問題だったので、更に改善していくという取り組みをまとめて発信していって、今後できることにつきましては、当然、JUSTICEの方やNIIとも相談しながら、今後はどういう情報提供が望ましいかという方向性だけでも示して、役所としてできることをやって、更に付加的な情報としてそれを蓄積して公開していくことまではできると思います。

ですので、こういった一概にBig Dealを維持するかどうか、そのコストをどこが担うのかという短絡的な議論ではなくて、様々な現状があって、大学として適切に公開する中で、そのセーフティネットとしてオープンアクセスを捉えて、それはNIIや国としてどう取り組むべきか、また、別途、混乱したというお話がございましたけれども、それとは別に日本のジャーナルをどうするかについては、そういったオープンアクセスを支援するとか、国が日本のジャーナルを戦略的にどうするかに対しては国として支援するところもあるかもしれません。科研費などでもありますし、そういった予算を拡充していくという仕組みもできますので、そういったことは別途、考えていくという形で総合的にこの委員会でまとめていただければ、非常に意義がある取りまとめができるんではないかと感じております。


参考:オープンアクセスに関する記事


参考:シェアード・プリントに関する記事

2014年5月6日火曜日

求められる大学教育改革

一般社団法人日本経済団体連合会からの提言次代を担う人材育成に向けて求められる教育改革」(2014年4月15日)のうち、高等教育に関する部分を抜粋してご紹介します。

産業界の目線で、各高等教育機関が取り組むべき喫緊の課題と今後の方向性が明確に整理されています。各機関の強み・特色を踏まえた機能強化のための選択と集中が必要になります。


Ⅱ 求められる教育改革

1 高等教育

(1)学長のリーダーシップによる大学改革の推進

グローバル競争が激化する中、日本の大学が、世界のトップ大学と伍して優秀な教員・学生を獲得し、教育力・研究力を高めていくためには、学長がリーダーシップを発揮して、各大学のビジョンや特色・強みを明確に示し、それらを最大限に活かすかたちで、学部・大学院の再編や予算編成・配分、入試制度や学事暦、教育カリキュラムの見直し、国際化の推進などに戦略的に取り組むことが不可欠である。


政府は、本年2月の中教審大学分科会の取りまとめ【表1参照】を踏まえ、今国会に教授会の役割、審議事項の明確化に関する学校教育法の改正案を上程するほか、2015年度までに国立大学の運営費交付金の配分や評価方法を抜本的に見直し、改革を進める大学に重点的に傾斜配分することで、改革に取り組む大学を側面的に支援する方針を打ち出している。 

しかし、改革の主体はあくまでも大学であることに変わりはない。各大学は、主体的に自らのガバナンスを総点検し、学長のリーダーシップを確立するための取り組みや、学長を補佐する体制の強化(改正される学校教育法の趣旨に整合しない内規の見直し、総括副学長の設置、学長を支えるスタッフとして企業人や高度な専門性を持つ専門職を安定的に採用・育成等)を進めるべきである。また、社会的ニーズや高等教育を取り巻く国内外の環境変化等を踏まえ、学部や研究科の組織再編を考える中で、教授会の設置単位についての見直しも推進されるべきであろう。

その前提として、学長の選考方法の見直しも重要である。見識・能力に優れ経営能力のある人材を広く学外も含め募集するほか、学内の有望な人材はまず理事に就任させてマネジメント能力を育成することなども必要である。また、国立大学については、学長のリーダーシップを確立するために学長の任期を見直す他、学長の権限と責任が一致するよう、学長選考組織や監事は、学長の業績評価を適切に行い、不適格者については、解任等の対応も検討すべきである。

他方、学長は、教職員に対して大学のビジョン実現に向けた学長としての考えや方針、取組みについて丁寧な説明を行い、彼らからの理解を得るほか、理事会・評議員会や経営協議会等の大学の経営組織と緊密に意思疎通を図り、自らの経営方針への支持を得るよう努めるべきである。 

(2)情報開示の徹底と客観的指標に基づく外部評価

外部評価や情報開示を通じて、外から大学改革へのモメンタムを高めることも必要である。 

2014 年度から大学の教育情報の活用・公表のための共通的な仕組みである「大学ポートレート」が本格的に実施されるが、現在の対象は教育活動に限定されている。開示される情報に、退学率や卒業率を含む教育・研究活動の結果、第三者機関や在校生による評価、国際性や地域貢献のデータ等を含めることとし、当該の大学に関心を持つ国内外の様々な人が、各大学の強みや特徴を共通のウェブサイトで比較可能なかたちで閲覧できるような仕組みにすべきである。

外部評価に関して政府は、国立大学の第三期中期目標期間(2016年度~2021年度)における運営費交付金の配分や評価方法については 2015年度までに「抜本的に見直す」としているが、その際には、教育・研究・産学連携・国際などに関する客観的な評価指標を開発し、それぞれの分野で高い評価を受けた大学に競争的に配分すべきである【グラフ1:イメージ参照】。

 


私立大学に対する私学助成金についても同様に評価に基づく配分とすべきである。なお、各分野の客観的な評価指標は、政府や大学関係者のみでなく、産業界や地域社会の代表も参加する組織で開発すべきである。 

(3)高大接続の改善と入試改革、出口管理

①高校教育と大学教育の継続性の確保

高校教育の質保証、高大連携教育、大学入試改革などの一連の取り組みを通じて、高校と大学における教育が継続性をもって一貫したかたちで行われるようにすることが重要である。高校生を対象に大学レベルの授業を実施する「APP(Advanced Placement Program)」などを拡大することにより、高校生が大学教育に触れる機会が増えれば、高校から大学教育への移行が円滑になるとともに、高校生が将来の進路を考える上でも有効である。

②大学入試のあり方

各大学は、内外の環境変化や自らの特徴・強み、養成する人材像等を踏まえて、受験生に求める素質や能力を「アドミッション・ポリシー」で明確に示す必要がある。その上で、現在、中教審で検討されている「達成度テスト・発展レベル」(9頁、表2参照)を活用しつつ、求める学力・能力の判定という観点から入試科目を再検討するとともに、求める人材像に基づき、各大学が創意工夫をして、面接や小論文、グループ討議など、生徒の意欲・能力、高校時代の学習成果、各種の体験活動(社会貢献・ボランティア活動への参加、就業体験、海外留学等)を総合的・多面的に判断する入試を実施すべきである。また面接等では、外部人材(企業人など)の活用を図ることも考えられよう。

多様な選抜法の一つとして、世界的に認められている大学入学資格である国際バカロレア(IB)ディプロマ資格を活用する大学を増やすほか、TOEFLや実用英語検定、GTEC11、TEAP12などの英語の4技能を測る外部検定試験や職業分野の資格検定試験等の活用も積極的に推進すべきである。また、アドミッション・オフィス方式などの丁寧な入学者選抜は、手間も費用もかかるため、政府は入試改革に向けた取組みを進める大学を財政面で支援すべきである。

加えて、入試改革と合わせて、成績管理や卒業要件の厳格化など、大学の出口管理を強化し、大学教育の質保証を図ることも重要である。そのために、政府は、改革に取り組む大学の定員管理について一定の配慮を行うことが求められる。また企業も、採用においては、大学名や学部・学科のみでなく、ゼミ単位で応募者の学習内容や成績を評価するなど、大学における学習成果を評価する姿勢が望まれる。

(4)カリキュラム改革と産学連携の推進

各大学は、グローバル化社会で求められる課題探求力やコミュニケーション能力などを養成するため、教員による一方的な講義ではなく、学生の主体的な学びや能動的な学びを促す授業(アクティブ・ラーニング、課題解決型授業(PBL))を積極的に取り入れるべきである。既に幾つかの大学で産業界と協働でPBL型のカリキュラムを開発し、産業界の求める素質や能力を育む取り組みが行われている 13が、こうした取り組みを一層拡大することが望まれる。

また、一部の大学で導入が始まっている「ポートフォリオ・システム」(E-Portfolio, 学修ポートフォリオ等)も学生の主体的な学びや体験活動を推進する上で効果的である。「ポートフォリオ」は就職活動においても利用されることが期待される。

また、わが国は大学入学者に占める25歳以上の割合が諸外国と比べて極端に低い。産業構造の変化やグローバル化に対応するため、産業界と大学が連携して、社会人の学び直しのための教育カリキュラムを開発することも求められる。その際には、企業に勤めている社会人が履修しやすいような工夫・配慮も必要である。

(5)大学の国際化の更なる推進

大学の国際化については、2014年度から実施される「スーパーグローバル大学等事業」の認定や、2020年までに日本人の海外留学を倍増する官民協働の海外留学支援制度「トビタテ!JAPAN 日本代表プログラム」の開始など安倍政権による各種施策もあり、大学の取り組みは着実に進んでいるが、更に加速する必要がある。

各大学は、ジョイントディグリーやダブルディグリーなど海外大学との教育連携への取り組みを進めるとともに、海外大学との学事暦の整合性を高めるよう、秋入学や4学制など学事暦に見直しを行うことが求められる。政府は、海外大学との教育連携を進める上で必要な法制度の整備を迅速に進めるほか、公務員採用試験や国家資格試験の時期について見直しを行うべきである。

2014年5月3日土曜日

感謝を忘れない

ブログ「今日の言葉」から目を向ける」(2014年5月2日)をご紹介します。


自分のできないことばかりに

目を向けていたら、

人生はとてもつまらないものになる

レーナ・マリア(ゴスペルシンガー)


障害のために、出生時から両腕がなく、左脚が右脚の半分の長さだったレーナ・マリア氏。

両親の愛情ある育て方もあって、小さい時に学校の意地悪な男の子から、「やい、一本足!」とからかわれても、「ハロー、二本足!」と返せるほど明るく強い性格の彼女でした。

ソウルパラリンピックで水泳選手として出場、また現在に至るまで、ゴスペルシンガーとして世界中で活躍されています。

彼女のことを書いているうちに、こんなお話を思い出しました。

『乞食と天使』

いつもよく働く靴屋のもとへ、あるとき、天使が現われました。

乞食の姿になって・・・。

靴屋は乞食の姿を見ると、うんざりしたように言いました。

「おまえが何をしにきたかわかるさ。しかしね、私は朝から晩まで働いているのに、家族を養っていく金にも困っている身分だ。ワシは何も持ってないよ。ワシの持っているものは二束三文のガラクタばかりだ」

そして、嘆くように、こうつぶやくのでした。

「みんなそうだ、こんなワシに何かをくれ、くれと言う。そして、いままで、ワシに何かをくれた人など、いやしない・・」

乞食は、その言葉を聞くと答えました。

「じゃあ、わたしがあなたに何かをあげましょう。お金にこまっているのならお金をあげましょうか。いくらほしいのですか。言ってください」

靴屋は、面白いジョークだと思い、笑って答えました。

「ああ、そうだね。じゃ、100万円くれるかい」

「そうですか、では、100万円差し上げましょう。ただし、条件が1つあります。100万円の代わりにあなたの足をわたしにください」

「何!? 冗談じゃない! この足がなければ、立つことも歩くこともできやしないんだ。やなこった、たった100万円で足を売れるもんか」

「わかりました。では、1,000万円あげます。ただし、条件が1つあります。1,000万円の代わりに、あなたの腕をわたしにください」

「1,000万円・・・!? この右腕がなければ、仕事もできなくなるし、可愛い子どもたちの頭もなでてやれなくなる。つまらんことを言うな。1,000万円で、この腕を売れるか!」

「そうですか、じゃあ、1億円あげましょう。その代わり、あなたの目をください」

「1億円・・・!? この目がなければ、この世界の素晴らしい景色も、女房や子どもたちの顔も見ることができなくなる。駄目だ、駄目だ、1億円でこの目が売れるか!」

すると、乞食は言いました。

「そうですか。あなたはさっき、何も持っていないと言ってましたけれど、本当は、お金には代えられない価値あるものをいくつも持っているんですね。しかも、それらは全部もらったものでしょう・・・」

靴屋は何も答えることができず、しばらく目を閉じ、考えこみました。

そして、深くうなずくと、心にあたたかな風が吹いたように感じました。

乞食の姿は、どこにもありませんでした。

感謝を忘れた時に、不満の気持ちが先行してしまいますね。

2014年5月2日金曜日

人間としての大事なつとめ

世代をつなぐ人材育成」(2014年4月15日PHP人材開発)を抜粋してご紹介します。


4月の後半にさしかかり、今年入社の新入社員に対する導入教育が終わった企業・団体も多いのではないでしょうか。会議室・研修室での知識教育を経て、いよいよ現場での実地教育へとステージが切り替わるわけですが、ほんとうの人材育成はまさにこれからです。これから始まる現場でのOJTの質が、新社会人の成長に決定的な影響を及ぼすと言っても過言ではありません。

心理学者 E・エリクソンの提唱した「世代継承性」という概念を拡大解釈すると、今の世代が次の世代を育て、次の世代がその次の世代を育てることによって、事業や組織が継承されていくとされています。[育て-育てられ]の関係が連鎖していくという発想ですが、その逆も然り。上司や先輩から愛情をかけられずにきちんと育てられなかった体験をした人材は、自分が後輩や部下をもった時、人を育てようという発想をしにくくなると言われています。

新入社員にきちんとした教育を施していくことは、今年の新入社員を育てることだけにとどまらず、人を育てる風土づくりにも影響を与えることをOJTの担い手である現場の上司・先輩の人たちは正しく認識しておく必要があります。

松下幸之助は、「教えずしては、何ものも生まれてはこないのである。教えるということは、後輩に対する先輩の、人間としての大事なつとめなのである。その大事なつとめを、おたがいに毅然とした態度で、人間としての深い愛情と熱意をもってはたしているかどうか」(『道をひらく』PHP研究所)と述べ、次の世代を教え導く重要性を説きました。

おたがい、たくさんの実務を抱え余裕のない中、人を育てることは簡単なことではありません。しかし、今の自分があるのは、かつての上司や先輩だった人の導きに負うところが大きいのではないでしょうか。そうであるならば、今度は自分が次の世代のためにできることをしてあげる。そんな思いをもった人が増えることで、人が育つ風土が醸成されていくのではないでしょうか。


著者 : 松下幸之助
PHP研究所
発売日 : 1968-05

2014年5月1日木曜日

働くことによって、生きる喜びを感じる

ブログ「人の心に灯をともす」から人間の究極の幸せ」(2014年4月18日)をご紹介します。


二人の少女が入社した日のことは、今でもよく覚えています。
きれいに晴れた、暖かい日でした。
二人がタドタドしく挨拶するのを、社員たちは暖かいまなざしで見守っていました。
そして、拍手で二人を迎え入れたのでした。
「私たちがめんどうをみますから」という社員の言葉に嘘はありませんでした。
みなが二人の少女をかわいがり、本当によくめんどうをみてくれました。
彼女たちは、雨の日も風の日も、満員電車に乗って通勤してきます。
そして、単調な仕事に全身全霊で打ち込みます。
どうしても言うことを聞いてくれないときに、困り果てて「施設に帰すよ」と言うと、泣いて嫌がります。

そんなある日のことです。
私は、とある方の法要のために禅寺を訪れました。
ご祈祷がすみ、食事の席で待っていると、空いていた隣の座布団に、偶然にもご住職が座られました。
そして、こんな質問が思わず口をついて出ました。
「うちの工場には知的障害をもつ二人の少女が働いています。施設にいれば楽ができるのに、なぜ工場で働こうとするのでしょうか?」
ご住職は私の目をまっすぐに見つめながら、こうおっしゃったのです。

人間の幸せは、ものやお金ではありません。
人間の究極の幸せは次の四つです。
人に愛されること、
人にほめられること、
人の役に立つこと、
そして、人から必要とされること。
愛されること以外の三つの幸せは、働くことによって得られます。
障害をもつ人たちが働こうとするのは、
本当の幸せを求める人間の証(あかし)なのです

確かにそうだ…。
人は働くことによって、人にほめられ、人の役に立ち、人から必要とされるからこそ、生きる喜びを感じることができるのだ。
家や施設で保護されているだけでは、この喜びを感じることはできない。
だからこそ、彼らはつらくても、しんどくても、必死になって働こうとするのだ。
働くことが当たり前だった私にとって、この幸せは意識したことすらないものでした。
それがいかにかけがえのないものか、私は、生まれて初めて考えさせられました。

二人の少女が、一心にシールを貼り続ける、その姿。
そして、「ありがとう。助かったよ」と声をかけたときの輝かんばかりの笑顔。
私は、ご住職の言葉によって、その笑顔の意味を教えられたのです。


日本理化学工業は、社員の7割が身障者という日本一のチョーク工場だ。
大山会長は、「人は働くことで幸せになれる。であれば、会社は社員に『働く幸せ』をもたらす場所でなければならない」という。
仕事ができるありがたさは、仕事を辞めたり、働けなくなったときにわかる。
それは、病気になってはじめて、健康のありがたさに気づくのと同じ。
人にとって一番つらく悲しいことは、無視されることだという。
無視と同様なのが、「あなたは何の役にも立たない」、「あなたは必要ない」、そして存在の否定の言葉「死ね」「バカヤロウ」「ウザイ」。
人も会社も組織も、まわりから認められ、必要とされるからこそ存在している。
「働くことによって、生きる喜びを感じることができる」
働けることのありがたさを、しみじみとかみ締(し)めたい。