去る10月18日、「予算編成に関する政府・与党会議」が設置され、「日本再生重点化措置」要望に係る作業が動き始めるなど、政府の平成24年度予算の編成作業もそろそろ山場を迎えつつあるようです。
そのような中、国立大学協会など文教関係団体の予算獲得に向けた動きも目に付くようになりました。来年度の当初予算は、東日本大震災の復興予算の確保をはじめ、取り巻く経済財政状況も加味した極めて厳しいものになることが当然ながら予想されるため、文部科学省関係予算、とりわけ高等教育関係予算も、これまでのように、“結果としてはそこそこ満足いくものになった”というわけにはいかないように思われます。
さて、国の予算を実質的に編成する力を持っているのはご存じのとおり「財務省」ですが、編成に当たって財務省はどのような考え方を持っているのかを知っておくことは、予算の要求省庁のみならず、一般国民にとってもとても重要なことではないかと思います。特に教育予算の動向は、家計にも大きな影響を与える可能性が高く注視しておく必要があります。
そこで、今回は、財務省主計局主計官の神田眞人さんが、財務省の広報誌「ファイナンス」(2011年6月)に寄稿した論考「強い文教、強い科技 序説-客観的視座からの土俵設定-」を抜粋してご紹介したいと思います。
この論考、どれだけの国民の皆さんが目を通されたかはわかりませんが、個人的な感想をまず申し上げれば、様々なバックデータを基にした論理展開に、いちいち納得はできるものの、何か釈然としない後味の悪さが残るものでした。主張は、相変わらず一貫して財務省特有の経済原理主義に基づくもので、裕福な家庭に育ち、高い教育をうけてきた官僚的発想としてはこんなものだろうという感じがしました。厳しい社会経済情勢の中で、明日の仕事や生活をどうしていくかといったことに日々悩む国民の目線からはほど遠い内容だったと思います。
財務省をはじめ、霞が関のお役人さん方は、我が国の将来を背負う素晴らしい仕事を、昼夜の別なく懸命に行っておられると思います。しかし、今回の論考は、よく言われる机上論で物事を考えたもの、現場をおもんばかる気持ちを感じ取ることができないものではなかったかと思います。財務省の主計官という立場にあり、このような内容にならざるを得ないのかもしれませんが、数理的な発想だけではなく、もっと生身の人間の心に染み透るような元気のでる言葉がほしかったと思います。
財務省の役人として、この国や政治家を動かしているという気概があるのであれば、また、予算の規模ではなく配分された予算の使い方に問題があると認識されておられるのならば、霞が関詣でをする一部の学者や団体等の話を聴くだけでなく、ぜひとも教育現場へ自ら出向いて、次代を担う人間を一生懸命育てている親、教員、職員、地域住民、そして何より子ども本人や学生本人から、生の声、真実の声を聴いてほしいと思います。そのうえで、今回のような論考を書かれるべきではなかったかと思います。霞が関の空気や水だけで生きていては、現場のことはわかったつもりになるだけで、現場で生きたお金の使い方ができるようにはならないと思います。
今回ご紹介する論考は、神田主計官の私見をベースに書かれてあるようですが、ここ数代の主計官の論理とさほど変わっていないように思えます。したがって、財務省の公式見解と受け止めても大きな問題はないでしょう。教育予算に関する論理は、こういった業界誌において一方的に主張するのではなく、新聞などの公共的媒体を通じて広く国民に開陳すべきだと思います。そして財務省の論理と国民の目線が乖離していないかどうかについて、国民から意見を聴き検証することを通じて、税金が生き金として使われるようになっていくのではないでしょうか。
総 論
1 はじめに
(1)文教、科学技術が大切なのは当然だ。(以下略)
(2)それにしても、これだけの重要性がありながら、どうしてこれまで議論が深まりにくかったのだろうか。戦後、イデオロギー対立が激しく、具体的な政策論を建設的に闘わせる土俵が見出せなかったこと、GHQ・GSによる教育改革が極めて「民主的」、分権的であり、大きな方向転換が困難な構造となったこと、そもそも、戦中・戦前の「国家教育」と戦後の「民主教育」の非連続性が著しく、一般国民が虚無的になると共に、物質的成功に関心を集中したことなどが挙げられる。
この分野の特殊性は、小生の経験から整理すると、下記の通りである。
1)いずれも「偉い先生」の世界であり、外部からの批判も内部の相互批判によるピアプレッシャーも他に比べると難しいところがある。文教・科技に関わる方々は、大学の学長、ノーベル賞学者、文化勲章受章者、オリンピックメダリスト、そして、学校の先生方と、卓越した存在であり、社会的地位も高い。また、学問が専門化、細分化される中、昔の博物学者の時代と異なり、分野外からの批判が困難になってきている。更に、学者にしろ、芸術家、スポーツ選手にしろ、日本の名誉を背負って世界でトップを目指してもらわなくてはならないが、逆に、それぞれ、自分のやっていることがこの世で最も重要だと考えがちになってしまうのもやむをえないことである。高度な専門性や大学の自治、学問の自由といった概念に守られ、情報開示も不十分なところがある。
そのため、競争や優先順位づけが難しい構造にある。このままでは、横並び、水脹れの膨張になったり、質を高めるインセンティヴを弱めてしまうので、成果(アウトカム)についてアカウンタブルな世界に転換し、情報公開も充実することによって、健全な競争環境にすることが必要ではないか。そして、その競争の際に、長期的な視座を失わず、リスクアバースにもならないようにし、また、価値観の多様性も育むべきではないかと思われる。
2)これまで投入量(予算の「高さ」)の議論に逃げ、資源配分や質の議論が蔑ろにされる傾向があった。危機的状況にある財政にもかかわらず、かなりの優遇をしてきたものの、成果がよくみえないし、資源制約を前提としない環境であると、効果的、効率的な施策を考えるインセンティヴが弱くなる。昔、防衛費やODAでGDP何%という議論があったが、今、そのような主張が残っているのは、教育や科学技術だけであり、選択と集中、質の向上といった議論がみえにくい点でかなり異質な世界となっている。また、量的保証の下で分配すると、施策の重複、モラルハザード、逆選択のリスクも高くなる。
3)長らく、入り口のイデオロギー対立に閉ざされて、抽象論が走り、具体的な議論が低調であったのではないか。施策と成果についてデータに基づいた議論も論文も著しく少ない。そもそも、学力についての経年データが十分に存在しない。しかも、政策の方向についての議論も不十分であり、例えば、就学支援というとき、裕福な家庭や怠惰な生徒を含めたバラマキではなく、貧困家庭でも頑張って良い成績をとれば、社会が教育の機会を守る、といった真の公平性が追求されても良いはずだが、そういった議論は低調であった。こうした状況の中で、デジタル教科書等、教育のICT化といった議論が、商業的要請からも強く主張されることもあったが、コンピュータディスプレイではなく人間どうしで向き合う機会の大切さ、特に集団的に共存しあう訓練の必要性、読み書き算盤といった基礎修練の重要性も認識され、文科省でもしっかりした議論がなされる可能性がでてきたことは歓迎できる。要は、政策のプロコンをしっかりと丁寧に議論していくことに尽きる。
4)凝集力が高く閉鎖的なプロの世界で議論が完結することが多く、幅広い視座が欠如する嫌いがあった。例えば、地域の主体性(オーナーシップ)から生まれる革新のダイナミズムを惹起できないか、民間企業も科学技術にもっと貢献する余地があるのではないか、といった議論は、最近ようやく惹起してきたにすぎない。
各 論
2 高等教育
次に高等教育について考えてみたい。我が国は高等教育に十分な公財政支出をしていないとの論調が時に聞かれる。確かに、GDP比で見た場合、我が国の高等教育に関する公財政支出は低い水準のように見えるが、私費負担も併せて考えれば、主要先進国と遜色のない水準であり、国全体としてみれば、決して高等教育を蔑ろにはしてはいないことが見て取れる。
予算的にみても、高等教育に厳しい削減を行っているわけでは全くない。平成16年の我が国の国立大学の法人化以降の主要な高等教育予算の増減について、社会保障関係費を除いた一般歳出と比較すると、他の歳出よりも高等教育予算に対して多大の配慮がなされてきているのがわかる。
しかし、一方で高等教育に対して、社会のニーズを汲み取っていない、魅力的な大学になっていない、国際競争力の低下等の批判や研究費等の基盤的経費が不足している等の不満も聞こえてきている。
そこで、平成23年度から特に国立大学を対象に、時代の要請に応える人材育成及び限られた資源を効率的に活用し、全体として質の高い教育を実施するため、大学における機能別分化・連携の推進、教育の質保証、組織の見直しを含めた大学改革を強力に進めることとした。以下では、その背景、改革の必要性等について詳述することとしたい。
(1)国立大学
1)まず、国立大学について述べると、大学の経営は苦しい、これ以上の運営費交付金の削減は大学の基盤そのものを劣化させる等とよく耳にするが、決算ベースの収入金額を見てみると実は毎年増加している。平成16年度の国立大学法人化時は2兆4,707億円であったが、直近の決算データの平成21年度は2兆8,862億円となっており、4千億円も増加している。これは、自己収入、補助金収入や競争的資金等による大学の資金獲得努力によるところが大きいと思われる。
2)支出ベースで見ても、国大法人化以降3,400億円増加しており、特に基盤となる教育研究費は平成16年度約3,400億円から平成21年度約4,500億円と約1,100億円増加している。同様に支出の太宗を占める人件費や事務処理上必要な一般管理費も増加している。
しかし、使える金額が増えているのに大学側の不満は減らないどころか寧ろ増えているのが実情である。何故不満が減らないかといえば、つまるところ配分の問題ではないかと思われる。わかりやすくいえば、競争的資金の獲得しやすい一部の理工系や医薬系は増加するが、文系学部や教育系あるいは理系でも基礎研究系の一部については競争的資金が回って来にくい。では、競争的資金等を減らして、使途が自由な運営費交付金を増やせばよいのかといえば、そう単純に事が解決するわけではない。競争原理が薄れてしまい、研究意欲の衰退の虞があるばかりか、今後の大学を取り巻く状況からメリハリの効いた効率的な配分による大学改革を進めなくてはいけないが、これにも水を差すこととなりかねない。限られた資金を如何に有効に使うか問われているのであり、現在、文部科学省、各大学法人及び国大協等で検討している大学改革の方策が待たれるところである。
3)教職員数についてみてみると、学校基本調査によれば、少子化の影響もあり国立大学の学生数は減少しているにもかかわらず、教員も職員も増加を続けている。
諸外国に比べて教職員の数が少ないのではという主張もあるが、OECD「図表でみる教育2010版」によれば、教員と学生の割合でみれば、むしろ日本の教育環境は恵まれている。
4)諸外国との比較について、財政面でみると、国立大学生1人当たりの公財政支出等はG5の中でもトップクラスである。
5)このように見ていくと、我が国の財政支出が少ないというよりも、何処かに無駄があり、効率的な体制がとられていないのではないか、配分に問題があるのではないかとの疑問も浮かびあがる。よくいわれている具体例をあげてみることにしよう。
ア)まず、学生に対する教員割合が他学部に比べ2倍となっている教員養成系大学である。公立学校教員採用者のうち教員養成系大学卒業者のシェアを平成13年と平成22年で比較してみると小学校59%→41%、中学校35%→27%、高等学校16%→となっており、公立学校の教員採用における人材供給ルートの観点で見た場合でも国立大学の教員養成学部より一般大学の方が全ての区分において上回り、全体で採用者のうち教員養成系国立大学の占める割合は31%程度にしか過ぎず、その存在意義は明らかに低下している。一方、卒業者の進路をみると平成22年3月教員養成系大学卒業者15,899人のうち教員就職者は7,113人であり教員就職率は44.7%であった。また、大学所在都道府県の教員となった割合でみれば、27.5%(4,372人)に過ぎず、各都道府県に一つ以上教員養成大学を設置しておく必要性が問われてきている。
イ)次に法科大学院である。後で述べる私大も含めた話となるが、昨年の司法試験合格率は25.4%であり、法科大学院志願者数や募集定員に対する志願倍率は、低下傾向に歯止めがかからない状況にある。司法試験合格者率が10%未満の大学が17校、司法試験合格者が10人未満の大学が35校、中には合格者がゼロだった大学も複数あり、既に深刻な問題となっている。文部科学省において今年度の司法試験の結果から法科大学院への公的支援の見直しを行うことを発表しているが、結果の出ない大学は、受験生からも見放され自然淘汰に向かうのが必然的な流れとなっている。
6)以上の例に限らず、選択と集中によって統廃合も視野に入れて大学改革をしていかないと受験生や社会のニーズに応えられないし、効率的な運営もできない。その一つの表れとして国際競争力の話がある。タイムズ・ハイヤーエジュケーション(THES)で世界大学ランキングを公表しているが、2010年の資料によると東京大学が26位に落ち、香港大学(21位)に抜かれアジアで1番でなくなった。京都大学を始めとして他の大学は50番以下に落ちている。ちなみにトムソン・ロイターが発表している被引用論文数の世界研究機関ランキングにおいても今年4月公表されたものをみると東京大学が11位から13位へ後退しているのを始めとして各大学軒並みランキングを落としている。もちろん、ランキングはその順位を決めるファクターによるので、一概に大学の良し悪しを言うこともできないが、少なくとも国際競争力や大学としての存在意義を持ち続けるためには、各都道府県に同じような大学をつくるのでなく、競争力を持った先端の教育研究を行う大学と地域に根ざしたコミュニティカレッジのような大学とに分化・特化していくことも含め大胆な大学改革が必要となってきている。
7)大学評価については、国立大学の法人化以降、国立大学法人評価委員会や独立行政法人大学評価・学位授与機構等の認証評価機関による事後評価の比重が高まっている。国立大学法人の場合は、国の政策としての中期目標、各国立大学法人が定める中期計画等に対してその達成度から評価が行われている。
評価の重要性はどの分野においても言われていることであるし、膨大な文献が出ているので、本稿ではごく簡潔に記すが、重要なことは、評価は大学の教育・研究の質の保証をするものであり、その質の向上に繋げていくものでなくてはならないことである。従って、留学生の数や論文数といった指標による量の問題は客観的指標として不可欠ではあるが、それだけでは不十分であり、大学が進化していくための大学改革の指針となるものにしていかなくてはならない。
日本より高等教育の評価についての歴史と実績のあるイギリスにおいては、研究評価(Research Assessment Exercise:RAE)を実施し、高等教育が最も効率的に効果をあげる方法は、研究費の重点配分であるとして、評価成績に応じて政府の研究費が傾斜配分されている。これについては、賛否両論あるが、高等教育の質の向上につながったという見解が多い。
日本の国立大学法人においても第1期中期目標期間終了に合わせ、文部科学省において平成22年度からの運営費交付金に対して評価反映を行い、一般管理費相当額の約1%程度(16億円)を評価反映分の原資として再配分したところであるが、トップの評価を受けた奈良先端科学技術大学院大学ですら400万円の増額に過ぎず、最下位の評価を受けた弘前大学も700万円の減額程度であったこともあり、評価の反映という観点からすれば、対外的な評判以外には大学運営上の効果が少なかったという意見もある。次回の評価反映時には、もっとメリハリを効かせ大学改革をより強力に推進する必要があろう。
また、日本の評価制度は、欧米諸国に比べて歴史も浅く、評価手法も発展途上であり、公正な評価ができるのかという不満も耳にするが、第三者評価による競争原理を導入した客観的評価が、不完全でも現状では他に変わりうるものがない最良の手法と考えられている。高等教育の更なる活性化のため、限られた条件の下では一部の大学の学長が行っているような学内資源の再配分を決定するインセンティブ方式(予算執行の自由と責任を部局に持たせ、その業績を評価して予算を増減していく方式)等による競争的評価がこれからは重要となってくる。事後評価だけでなく、科学技術研究費補助金やGP予算等の競争的資金の採択のための事前評価も競争的評価であり、高等教育の質の向上に貢献しているといえよう。
8)昨年12月英国で大学の授業料を3倍にする法案が可決されデモが起き、イタリアでも同様なことが起きた。日本の財政事情からすれば、将来日本でも起こらないとはいえないことであった。日本の国立大学の場合は、「国立大学等の授業料その他の費用に関する省令」に定める標準額(535,800円)の120%の範囲内で授業料等を決定できることとなっているが、全ての国立大学の学部が標準額をそのまま授業料としている。先端施設を用意して国際的にもトップを目指し、良質かつ高度な教育を行うということであれば、多少授業料が高くても学生が集まるだろう。ちなみに、貧しいけれど学習意欲と能力のある学生は授業料減免や奨学金の制度があるから授業料の値上げはさほど問題にはならないと考えられる。このように単に値上げするのでなく、目的をもって大学改革を進めていけば、英国や伊国のようなデモが起きないだけでなく、大学のイニシアティブを持った競争化が進むかもしれない。
3 奨学金
次に奨学金の問題について考えてみたい。教育機会を広く国民に保証し、教育の機会均等を実現していく上で、奨学金制度が重要な役割を果たすことは言うまでもない。近年、奨学金制度は格段に充実が図られてきており、足元で学生数が既に減少に向かう中で、大学生等の3人に一人は日本学生支援機構が提供している奨学金を受給しているのが実態である。
この水準を十分と見るか否かについては、色々な議論があるが、現状を正しく認識することが議論の出発点であり、以下で基礎的なデータに基づいて、奨学金を巡る論点を紹介しておくこととしたい。
1)まず、大卒と高卒で、どれほどの生涯賃金の差が生ずるかを見てみよう。大学を卒業すれば、8,000万円程度余分に自分の収入に帰着する点に着目すれば、大学進学は、一種の自己投資の側面を有することとなる。大学における教育のあり方そのものが社会への貢献度という点で真に評価すべきものとなっているかについては、前項でも述べたとおり議論の余地はあるが、少なくとも社会全体として、大卒者に対して相応の価値を置いていることは否定しがたい。既に大学進学率は5割を超え、少子化の進行に伴う大学全入時代もすぐそこに来ていることも勘案すれば、大学進学者の増加に伴う社会的な付加価値の増加による国力の増加という側面もあるにせよ、大学在籍に伴う費用を国民からの税金で全て負担すべきとの議論には、受益者負担の原則からやはり組みしがたいこととなる。
2)次に奨学金受給者の実態を見てみよう。日本学生支援機構の提供する奨学金事業は、無利子と有利子から構成されるが、いずれも年収要件等の受給要件を課している。限られた財源事情の下で、資源を最大限有効に活用し、真に支援すべきものに重点的に資源配分を行うとの観点から、受給資格を制限することが合理的であるが、問題はその制限のあり方である。
年収制限については、国大私大の別、自宅通学かそれ以外か、世帯の家族構成がどうであるか等によりきめ細かく設定されているが、私大、自宅通学、給与所得者4人世帯のモデルケースをとれば、無利子で収入966万円、有利子で1,218万円以下であることが要件となっている。総務省の家計調査による平成22年の平均世帯収入は625万円(月平均52万円)、より厳密に大学生の両親の年齢も考慮した40代から50代の給与所得者世帯の平均世帯収入は、これより更に高く、それぞれ698万円(月額58万円)、700万円(月額58万円)となっており、これらよりもかなり高いところが上限とされていることになる。
実際の受給者の家計の状況を見ると、こうした平均収入以上の世帯が半数近く占めているのが実態となっている。
学費や特に自宅外の場合の仕送り等に相応の保護者負担が生じていることはよく指摘されるが、例えば、「東京」で学びたい、学費が高くても、少しでも有名な大学に通わせたいといった本人或いは保護者の選好による大学選択の側面も一概には否定できない。そうしたブランド選好的な負担に対してまで、奨学金でカバーできるようにすべきというのは、貴重な血税を原資とする以上、行き過ぎた主張の感がある。実際に、地方大学等の改革が伴わないままで、奨学金の対象範囲を拡充することが、却って首都圏等の大学への進学傾向を強め、却って地方大学等の活力や地域における人材養成のダイナミズムを難しくしてしまうといった悪循環が起きてしまうとすれば、それは決して望ましい結果とは言えないのではなかろうか。寧ろ、医学部に地域枠を設けて、地元での地域医療に卒業後、従事して頂く代わりに、受益する地方が奨学金を出すといった取組みを推進する方が好ましいのではないか。
また、あくまで家計基準は、直近の年収をベースとした基準であり、我が国においては、一般に自分の子どもに対して自分の責任、負担で大学に進学させたいという親の意向が強いとも考えられる中で、どれだけ親が子どもの大学進学を予想して、貯蓄行動に出ているかといった実証的なデータもあわせて本来考えるべきとも考えられる。
いずれにしても、奨学金の支給に係る年収制限のあり方が適正なものであるかどうかについては、「教育機会を広く保証する」との抽象論に留まることなく、絶えず実証的なデータに基づいて検証されるべきであろう。
この点、東京大学に入学する学生の両親の年収が高く、1,000万超が半分ということが殊更に強調されて報道されることもあってか、貧しい層の高等教育機会の確保をもっと図るべきといった主張もありうるが、そうであれば、年収要件を更に強化する選択肢も検討されて然るべきと考えられよう。
更には成績要件のあり方についても議論の余地がある。特に、貸与条件の良い無利子貸付の場合、成績要件は、入学時に高校成績のGPAが3.5以上、その後は学部内で上位3分の1以内とされている。大学の教育の質といった面で全く異なる大学、学部間で、どの大学の学部内でも上位3分の1以内であれば可とする現行の方式が本当に良いのかは、成績優秀者の絶対的な尺度、基準をどのように設定するのかといった技術的困難さの問題はあるにせよ、国民目線に立てば、公平な成績要件を追求すべきであろう。
3)最後に、奨学金が本当に有効に使われているのかといった観点の分析も重要となる。奨学金自体に使途の制限はないが、奨学金の存在自体が、余計な支出を誘引しているとすれば問題であり、この点に関しての分析も必要ではなかろうか。現に、奨学金受給者の方が、非受給者より海外旅行等の遊興費に支出する傾向が見られることを指摘する研究もあり、こうした分析の精緻化についても奨学金を巡る議論に当たっては、留意すべきと考えられる。
以上、奨学金拡充論に係る論点をいくつか提示してきたが、重要なことは、要すれば、どういう層がどういう面で、教育機会の喪失というリスクに晒されているのか、逆の視点からすれば、奨学金政策が教育の機会均等の観点から具体的にどのような政策効果を齎しているのかといった観点から、単なる抽象論に留まらない、実証的で説得力のある分析の上に立った政策論議が求められるということである。この点で、奨学金政策に関して、我が国で十分な議論がこれまで積み重ねられてきたかについては、正直心許ないのではないかというのが筆者の率直な思いである。私見では、奨学金は社会構造の格差是正と向学心改善に寄与すべきであり、限られた資源は、可能な限り、貧しい家庭でありながら、頑張って非常に良い成績をとった方に集中することが、公正に適うと共に、効果的なインセンティヴとなると考えるが、いかがであろうか。
2011年10月31日月曜日
2011年10月28日金曜日
動物実験に係る体制の整備を
動物実験の適正な実施や実験動物の飼育及び保管については、文部科学省が行った「研究機関等における動物実験に係る体制整備の状況等に関する調査」により、一部の国立大学において動物実験に係る体制整備が不十分である現状が判明しています。
これらのことから、昨日(10月27日)付で、国立大学協会から各国立大学宛、動物実験に係る体制整備の徹底について、以下のような依頼が行われていますのでご紹介します。
動物実験に係る体制の整備について(依頼)
動物実験の適正な実施や実験動物の飼育及び保管に関しては、「研究機関等における動物実験等の実施に関する基本指針」(平成18年文部科学省告示71号)に基づき適正に実施することが求められております。
この実施状況について、本年6月に文部科学省が「研究機関等における動物実験に係る体制整備の状況等に関する調査」を行い、一部国立大学において、必要な学内規定の策定やそれに基づく組織や計画の策定、また、教育訓練の実施、自己点検評価、情報公開等への取組が不十分な状況が散見されます。
現在、文部科学省から9月28日付でこの指針に沿った体制整備について依頼がされている所ですが、本委員会としても、改めて動物実験や実験動物の飼育及び保管の適正な実施について強くお願い申し上げます。
また、政府の中央環境審議会動物愛護部会で、動物愛護管理の制度の見直しに係る検討が行われており、国立大学に関する論点としては、実験動物生産業者の動物取扱業への業種追加の検討、3Rの更なる推進(代替法、使用数の削減、苦痛の軽減の実効性確保の検討)、動物実験施設の届出制等の検討が含まれています。
今後、検討結果をもとに本年11月にパブリックコメントを行った上で、12月に「動物愛護管理のあり方検討報告書」として決定し、必要がある場合には、報告書の内容を反映した「動物の愛護及び管理に関する法律」の改正を、平成24年の通常国会に提出することとなっております。
前述の大学における基本指針の対応が不徹底な状況が続けば、この改正に合わせて、動物実験等に関し厳しい制約や運用を求められる可能性が高く、すべての大学・研究機関の研究活動に大きな影響が出て、国際競争が著しい中、わが国の研究力の大幅な低下も懸念されますので、重ねて体制整備の徹底を頂きますようお願い申し上げます。
これらのことから、昨日(10月27日)付で、国立大学協会から各国立大学宛、動物実験に係る体制整備の徹底について、以下のような依頼が行われていますのでご紹介します。
動物実験に係る体制の整備について(依頼)
動物実験の適正な実施や実験動物の飼育及び保管に関しては、「研究機関等における動物実験等の実施に関する基本指針」(平成18年文部科学省告示71号)に基づき適正に実施することが求められております。
この実施状況について、本年6月に文部科学省が「研究機関等における動物実験に係る体制整備の状況等に関する調査」を行い、一部国立大学において、必要な学内規定の策定やそれに基づく組織や計画の策定、また、教育訓練の実施、自己点検評価、情報公開等への取組が不十分な状況が散見されます。
現在、文部科学省から9月28日付でこの指針に沿った体制整備について依頼がされている所ですが、本委員会としても、改めて動物実験や実験動物の飼育及び保管の適正な実施について強くお願い申し上げます。
また、政府の中央環境審議会動物愛護部会で、動物愛護管理の制度の見直しに係る検討が行われており、国立大学に関する論点としては、実験動物生産業者の動物取扱業への業種追加の検討、3Rの更なる推進(代替法、使用数の削減、苦痛の軽減の実効性確保の検討)、動物実験施設の届出制等の検討が含まれています。
今後、検討結果をもとに本年11月にパブリックコメントを行った上で、12月に「動物愛護管理のあり方検討報告書」として決定し、必要がある場合には、報告書の内容を反映した「動物の愛護及び管理に関する法律」の改正を、平成24年の通常国会に提出することとなっております。
前述の大学における基本指針の対応が不徹底な状況が続けば、この改正に合わせて、動物実験等に関し厳しい制約や運用を求められる可能性が高く、すべての大学・研究機関の研究活動に大きな影響が出て、国際競争が著しい中、わが国の研究力の大幅な低下も懸念されますので、重ねて体制整備の徹底を頂きますようお願い申し上げます。
国立大学法人の2010年度評価結果
昨日(10月27日)、文部科学省に設置された国立大学法人評価委員会の総会が開催され、「国立大学法人等の平成22年度に係る業務の実績に関する評価の結果」が決定しました。
評価結果については、既に文部科学省のホームページにおいて公表されています。
評価結果のポイント(国立大学法人評価委員会総会配付資料から)
評価結果については、既に文部科学省のホームページにおいて公表されています。
評価結果のポイント(国立大学法人評価委員会総会配付資料から)
- 国立大学法人評価は、国立大学法人評価委員会が、大学等の教育研究の特性に配慮しつつ、各法人の教育研究や業務運営等の状況について、法人ごとに定められた中期目標・中期計画の達成状況を評価するもの。今回は、第2期中期目標期間(平成22~27年度)の初年度である、平成22年度の業務実績に関する評価結果について、業務運営等の状況を中心に取りまとめたもの。
- 評価結果は、「業務運営の改善及び効率化」「財務内容の改善」「自己点検・評価及び情報提供」「その他業務運営(施設設備の整備・活用等、安全管理、法令遵守)」の各項目とも、すべての法人が中期計画の達成に向けた進捗状況が、「特筆」「順調」又は「おおむね順調」である。また、中期目標の前文に掲げる「法人の基本的な目標」に沿って、計画的に取り組んでいることが認められる。
- 法人の特色や個性を活かした業務運営の改革の中で、注目事項として以下のような事例がある。
- 各種サーバーを学内共有サーバーへ集約してサーバーを大幅に削減し、稼働率を向上させたことにより、消費電力を48%削減
- 大学が保有する工業技術等の知的財産を活用した自己収入の増加に取り組んだ結果、知的財産収入が大幅に増加
- 地元企業との共同により開発した「非燃焼型医療廃棄物処理機(医療廃棄物を燃やさず処理する世界初の装置)」を導入・本格稼働し、CO2排出量の従来比31.3%の削減、感染リスクの軽減等を推進
- 東日本大震災からの復旧・復興に向け、各法人において様々な取組を実施しており、特に、緊急支援物資を被災地に直接届けるために練習船を出航させたほか、現地に医療支援拠点を設置して被災地における医療支援活動を行うなど、震災発生直後から迅速な支援活動を実施
- また、課題事項として以下のような事例がある。
- 大学院博士課程又は専門職学位課程において、一定の学生収容定員を未充足
- 研究費の不適切な使用・管理、毒劇物の不適正な管理等、法令遵守(コンプライアンス)に向けた取組が不十分
2011年10月27日木曜日
グローバル人材の育成-自ら考え、感じ取り、行動すること
南カリフォルニアに住む中産階級の高校生サラの作成したドキュメンタリーフィルム「ナマステ」(途上国ネパールの暮らしをカリフォルニアの若者の視点で紹介)を視聴しました。
サラは、初めて訪れた途上国、ネパールで、人々の温かい心と素朴な暮らし、貧しいが、にぎやかで笑いの絶えない生活に触れ、人間にとって本当に必要なものは何か、豊かさとは何か、幸せとは何か、について考えさせられます。
21世紀を幸福に生きるためには、サラのように、自ら考える、感じ取り、行動することが大切です。
出典:「グローバル人材」日本教育大学院大学長 熊平美香(文部科学教育通信 No278 2011.10.24)
サラは、初めて訪れた途上国、ネパールで、人々の温かい心と素朴な暮らし、貧しいが、にぎやかで笑いの絶えない生活に触れ、人間にとって本当に必要なものは何か、豊かさとは何か、幸せとは何か、について考えさせられます。
21世紀を幸福に生きるためには、サラのように、自ら考える、感じ取り、行動することが大切です。
出典:「グローバル人材」日本教育大学院大学長 熊平美香(文部科学教育通信 No278 2011.10.24)
2011年10月26日水曜日
魅力的価値による差別化
「強みを徹底することで差別化を」(日本私立大学協会私学高等教育研究所研究員 岩田雅明氏、文部科学教育通信 No.277 2011.10.10)をご紹介します。
競合校と比較し分析する
前稿で競合校を知ることの重要性と、その認識方法について述べたが、競合校と戦うために必要となる、競合校に優っている自学の強みを把握するためには、競合校の内容を詳しく知る必要がある。競合校も自分の強みはアピールしていると思われるので、パンフレットやホームページを見ることで、かなりの部分は把握できるであろう。ただし、学内の雰囲気や教職員の意欲といった大学の風土等に関しては、実際にその大学に行ってみないと伝わってはこないものである。このため、競合校を実際に見に行ってみることを、ぜひお勧めしたい。
企業の場合、競合他社を視察するというのはよく行われていることのようであるが、大学の場合には、モデルとなるような実績を挙げている大学の見学というような企画は実施されてはいるが、競合する大学を見に行くということは、あまり行われていないように思われる。私自身、出張に行った際に時間ができると他の大学に行ってみることがあるが、学生の服装や髪形、表情などといったことから、その大学の状況が相当程度に伝わってくるものである。そしてそれは、往々にして大学がアピールしている内容と合っていないことがあるように感じられる。また細かい点ではあるが、学内に貼られている「○○禁止」などといった注意事項も、その大学の現状をうかがうことのできるものの一つである。
このようにして競合校の内容を把握することができたならば、それを自学と比較し、分析することである。この際に、比較の視点をどのように定めるかが問題となる。さらに伸ばしていく必要のある強みや、補強すべき弱みは、受験生や保護者といった大学の顧客が選択の基準として重要視している事項に関わるものでなければ意味がないのであるから、比較の視点も受験生や保護者が重要視している事項ということになる。一般性のある重要視事項として挙げられるものは、入学の難易度、学費(支援制度)、資格取得、学ぶ内容や手法、就職状況といったものであろう。競合校と比較する際には、入り口に関する事項、中身に関する事項、出口に関する事項に分け、比較・分析してみると分かりやすい。
大学の競合校に対しての状況としては、三つの状態がある。一つ目は、自学のことも競合校のことも知らない状態。二つ目は、自学のことは知っているが競合校のことは知らない状態。三つ目は、自学のことも競合校のことも知っている状態である。どの状態にある大学が、適切な戦略を立案できるのかは明らかであろう。
強みを徹底する
自学と競合校との比較・分析ができたならば、どの事項を補い、どの事項をさらに伸ばしていけば競合校に対して優位性を得ることができるのかが明確になってくる。この武器とすることのできる強みを決めたならば、それを徹底して強化していくことが競争戦略においては重要である。徹底することで初めて、差別化された強みとなるからである。
高校時代に英検二級等の資格を取得した者は、四年間授業料全額免除(一年ごとに更新審査はあるが)とする本学の資格特待生制度も、検討の段階では、授業料半額で十分ではないかとか、初年度の授業料を免除するということでもよいのではないか、などの意見も多くあった。しかし、経済的にサポートするのならば、中途半端でなく、徹底してサポートしないと強い魅力とならないのである。実際に、資格特待生制度を導入したいと、本学に話を聞きに来た大学もあったが、四年間免除というところまで決断できたところはなく、そのためであろうか、成果もそれほど出ていないようである。
例えば、『学生中心主義』という趣旨のことを、その大学の特色として掲げているケースは多いと思うが、高校生や保護者という顧客にとって魅力的な価値となるためには、期待を上回る、想定外の価値の提供がないと不十分なのである。単に学生の意見を聴く機会がある、学生が大学側に提案できる仕組みがある、といったようなことだけでは、魅力的価値とはならないのである。学生の成長に役立つことならば通常考えられる限度を超えて徹底して行う、というような状態になって初めて魅力的な価値となるのである。
『学生中心主義』を標榜しながら、実情は『教員中心主義』、『職員中心主義』となっていては、魅力どころか逆に看板に偽りありとなってしまうことになる。
期待を超える魅力を提供していることでよく知られているのは、ホテルのザ・リッツ・カールトンや、ディズニーランドなどであろう。そこでは、従来のホテル業界や、テーマパーク、遊園地が想定していたサービスを超えるサービスが提供され、それが顧客にとって大きな価値となっているのである。大学業界においても、そのような事例を挙げることができる。いろいろな雑誌等で紹介されているので、ご存じの方も多いと思うが、代表的なのは金沢工業大学であろう。
私の著書でも何回か紹介しているが、この大学の教育サービスは徹底している。その一例として、『修学ポートフォリオ』というシステムがある。学生は一週間の行動履歴として、授業の出席状況、学習、課外活動、健康管理、満足したこと、努力したこと、反省点、困ったこと等を記入し、それをアドバイザーの教員に提出する。教員はそれに対してコメント等を付して一週間後に返却するというもので、これを一年間、三〇回繰り返す。これにより、学生は充実した生活の送り方や、これからの課題に気づいていくことになるというものである。
このほか、学習していて分からなくなった個所を写真に撮り、メールで送ると、二十四時間以内に担当教員から解決のヒントが送られてくるシステムや、一定の時間帯に教員が待機して学習上の相談に応じるサービス、文章の書き方の相談に応じる部署の設置など、枚挙にいとまがない。これらの成果として高い実質就職率を挙げ、北陸にありながら全国型の大学としての評価を得ているのである。
これまでの大学業界の枠にとらわれず、学生の成長を図るサービスをいかに徹底できるかが、これからの差別化の鍵となる。
競合校と比較し分析する
前稿で競合校を知ることの重要性と、その認識方法について述べたが、競合校と戦うために必要となる、競合校に優っている自学の強みを把握するためには、競合校の内容を詳しく知る必要がある。競合校も自分の強みはアピールしていると思われるので、パンフレットやホームページを見ることで、かなりの部分は把握できるであろう。ただし、学内の雰囲気や教職員の意欲といった大学の風土等に関しては、実際にその大学に行ってみないと伝わってはこないものである。このため、競合校を実際に見に行ってみることを、ぜひお勧めしたい。
企業の場合、競合他社を視察するというのはよく行われていることのようであるが、大学の場合には、モデルとなるような実績を挙げている大学の見学というような企画は実施されてはいるが、競合する大学を見に行くということは、あまり行われていないように思われる。私自身、出張に行った際に時間ができると他の大学に行ってみることがあるが、学生の服装や髪形、表情などといったことから、その大学の状況が相当程度に伝わってくるものである。そしてそれは、往々にして大学がアピールしている内容と合っていないことがあるように感じられる。また細かい点ではあるが、学内に貼られている「○○禁止」などといった注意事項も、その大学の現状をうかがうことのできるものの一つである。
このようにして競合校の内容を把握することができたならば、それを自学と比較し、分析することである。この際に、比較の視点をどのように定めるかが問題となる。さらに伸ばしていく必要のある強みや、補強すべき弱みは、受験生や保護者といった大学の顧客が選択の基準として重要視している事項に関わるものでなければ意味がないのであるから、比較の視点も受験生や保護者が重要視している事項ということになる。一般性のある重要視事項として挙げられるものは、入学の難易度、学費(支援制度)、資格取得、学ぶ内容や手法、就職状況といったものであろう。競合校と比較する際には、入り口に関する事項、中身に関する事項、出口に関する事項に分け、比較・分析してみると分かりやすい。
大学の競合校に対しての状況としては、三つの状態がある。一つ目は、自学のことも競合校のことも知らない状態。二つ目は、自学のことは知っているが競合校のことは知らない状態。三つ目は、自学のことも競合校のことも知っている状態である。どの状態にある大学が、適切な戦略を立案できるのかは明らかであろう。
強みを徹底する
自学と競合校との比較・分析ができたならば、どの事項を補い、どの事項をさらに伸ばしていけば競合校に対して優位性を得ることができるのかが明確になってくる。この武器とすることのできる強みを決めたならば、それを徹底して強化していくことが競争戦略においては重要である。徹底することで初めて、差別化された強みとなるからである。
高校時代に英検二級等の資格を取得した者は、四年間授業料全額免除(一年ごとに更新審査はあるが)とする本学の資格特待生制度も、検討の段階では、授業料半額で十分ではないかとか、初年度の授業料を免除するということでもよいのではないか、などの意見も多くあった。しかし、経済的にサポートするのならば、中途半端でなく、徹底してサポートしないと強い魅力とならないのである。実際に、資格特待生制度を導入したいと、本学に話を聞きに来た大学もあったが、四年間免除というところまで決断できたところはなく、そのためであろうか、成果もそれほど出ていないようである。
例えば、『学生中心主義』という趣旨のことを、その大学の特色として掲げているケースは多いと思うが、高校生や保護者という顧客にとって魅力的な価値となるためには、期待を上回る、想定外の価値の提供がないと不十分なのである。単に学生の意見を聴く機会がある、学生が大学側に提案できる仕組みがある、といったようなことだけでは、魅力的価値とはならないのである。学生の成長に役立つことならば通常考えられる限度を超えて徹底して行う、というような状態になって初めて魅力的な価値となるのである。
『学生中心主義』を標榜しながら、実情は『教員中心主義』、『職員中心主義』となっていては、魅力どころか逆に看板に偽りありとなってしまうことになる。
期待を超える魅力を提供していることでよく知られているのは、ホテルのザ・リッツ・カールトンや、ディズニーランドなどであろう。そこでは、従来のホテル業界や、テーマパーク、遊園地が想定していたサービスを超えるサービスが提供され、それが顧客にとって大きな価値となっているのである。大学業界においても、そのような事例を挙げることができる。いろいろな雑誌等で紹介されているので、ご存じの方も多いと思うが、代表的なのは金沢工業大学であろう。
私の著書でも何回か紹介しているが、この大学の教育サービスは徹底している。その一例として、『修学ポートフォリオ』というシステムがある。学生は一週間の行動履歴として、授業の出席状況、学習、課外活動、健康管理、満足したこと、努力したこと、反省点、困ったこと等を記入し、それをアドバイザーの教員に提出する。教員はそれに対してコメント等を付して一週間後に返却するというもので、これを一年間、三〇回繰り返す。これにより、学生は充実した生活の送り方や、これからの課題に気づいていくことになるというものである。
このほか、学習していて分からなくなった個所を写真に撮り、メールで送ると、二十四時間以内に担当教員から解決のヒントが送られてくるシステムや、一定の時間帯に教員が待機して学習上の相談に応じるサービス、文章の書き方の相談に応じる部署の設置など、枚挙にいとまがない。これらの成果として高い実質就職率を挙げ、北陸にありながら全国型の大学としての評価を得ているのである。
これまでの大学業界の枠にとらわれず、学生の成長を図るサービスをいかに徹底できるかが、これからの差別化の鍵となる。
2011年10月24日月曜日
求められる責任と権限の明確化
少し古い記事ですが、国立大学法人福岡教育大学の事務職員・寺田浩一氏が文部科学教育通信(No276 2011.9.26)に寄稿された記事をご紹介します。
この記事は、「大学のガバナンスの強化に向けた取組事例」として連載されているものの一部ですが、「効率的で責任のある大学の意思決定体制の構築」のためには、何が必要なのかを現場の目線から厳しく指摘しています。
大学内部の状況をすべてオープンにしての寄稿であり、現職の職員として所属する大学の実態を赤裸々に活字にすることは相当勇気のいることです。事例を紹介する場合は、得てしていいことづくめの内容になってしまいますし、大義名分ばかりになりがちな記事は、現場にとってはさほど役にたたないことが少なくありません。その点、この記事は、本当に悩んでいる職員にとっては役に立つのではないかと思います。多くの大学に共通しそうな部分を抜粋してご紹介します。
求められる責任と権限の明確化
一般的に、大学には会議が多い、あるいは多くなりがちと言われる。その原因を、ある識者は、教員が意思決定に関わり過ぎていること、またそのことを良とする風土が大学にあるためと分析している。教員の自治意識の高さが全員参加的な会議を生み、各教員の個性を尊重した民主的な決定が重要であるとの考えが会議を多くし、長くしているという。
教育研究に関する重要事項を審議する教育研究評議会が、学生への教育や分野横断的な研究など教学分野について徹底して議論することは大いに意義のあることであり、大学としても歓迎すべきことである。しかし、大学の管理運営に関わる課題について、4~5時間もの時間を要する会議を繰り返すことは、さほど有益なこととは思えないし、制度上も求められていないのではないだろうか。会議が出席者(列席を含む)の貴重な時間やコストの犠牲の上に成り立っていることを構成員は十分認識し、意思決定の手段が目的化することのないよう会議の効率的運用に努めなければならない。
第二期中期目標期間では、ガバナンスの強化、つまり迅速で責任ある意志決定体制の構築が特に求められている。会議においては、社会、特に保護者や学生に対して恥ずかしくない議論をすべきであり、生産性のない議論を続けるべきではない。非生産的な会議や議論が大学の経営効率化を阻害する大きな要因となることは周知のとおりである。国からの税金投入が年々削減されていく中で、大学は、権限や役割を超えた枝葉末節な議論を長時間繰り返し、結局、意思決定できないという非生産的な会議を繰り返すことは許されない。不要な会議を廃止し、必要最小限の会議の有効活用に向けた取り組みを進め、法人化の趣旨に則った運営体制を作り上げなければならない。
寺尾学長は、国立大学財務・経営センターが発行するメールマガジン(2010年7月15日付、第50号)の特別寄稿「 活き活きと働く教員をいかに養成するか」において、当時を次のように振り返っている。
「『教育の質的向上を実現し、活力ある福教大を創る』というのが、私が掲げた改革理念である。その背景には、自らの研究には熱心だが、学生の教育に対してやや関心が薄い大学教員の存在や、低迷する就職状況に対して改善策を提示できないでいる現状を変えたいという明確な意思がある。それゆえ運営組織の改革についても、熟慮した末の学長案を教育研究評議会や教授会に問うたのである。だが、これは教授会出席者の半数を超える者から激しい抵抗を受ける羽目になった。要するに、学長案による改革は性急すぎる、と言うのだった。私は、この時ほど大学教員の改革に臆する姿を目の当たりにしたことはない。「生きる力」を掲げた国の教育改革が進んでいるが、その理解が最も足らないと思われるのが、我が大学だったということだ。足元からの意識改革が強く求められている、と再確認した。」
また、国立大学協会が作成した「第一期中期目標期間の検証」(2011年2月16日)には、意思決定の迅速化、管理運営の効率化に関する検証結果として次のような記述がある。
「学長が法人の長となり、教育研究及び経営双方の最終責任者として、トップダウンによる意思決定により、強いリーダーシップと経営能力を発揮することが可能となった。仕組みは有効であったものの、法人化前のボトムアップ型の大学運営からの移行が円滑に行われているとは言い難いため、迅速な意思決定を図ることが必要である。教育研究面に関する重要事項や方針を審議する教育研究評議会が設置され、概ね適正かつ有効に機能していると考えられる。今後、現状を十分に理解した上で一部の利益にとらわれずに大学全体の発展に寄与する助言を行うことが重要である。」
私たち国立大学法人の構成員は、法人化したことの意味、すなわち国立大学法人のマネジメント改革、とりわけ民間的手法を活用した大学の経営力・ガバナンスの強化や、自主性・自律性の確保が強く求められていることを再認識し、今後とも不断の改革努力を継続していかなければならない。執行の最終責任者たる学長が、様々な場面でリーダーシップを発揮しうる権限と体制、及び教員と学長・理事との信頼関係に基づく適切な役割分担による迅速で責任ある意思決定体制の確立が求められている。
この記事は、「大学のガバナンスの強化に向けた取組事例」として連載されているものの一部ですが、「効率的で責任のある大学の意思決定体制の構築」のためには、何が必要なのかを現場の目線から厳しく指摘しています。
大学内部の状況をすべてオープンにしての寄稿であり、現職の職員として所属する大学の実態を赤裸々に活字にすることは相当勇気のいることです。事例を紹介する場合は、得てしていいことづくめの内容になってしまいますし、大義名分ばかりになりがちな記事は、現場にとってはさほど役にたたないことが少なくありません。その点、この記事は、本当に悩んでいる職員にとっては役に立つのではないかと思います。多くの大学に共通しそうな部分を抜粋してご紹介します。
求められる責任と権限の明確化
一般的に、大学には会議が多い、あるいは多くなりがちと言われる。その原因を、ある識者は、教員が意思決定に関わり過ぎていること、またそのことを良とする風土が大学にあるためと分析している。教員の自治意識の高さが全員参加的な会議を生み、各教員の個性を尊重した民主的な決定が重要であるとの考えが会議を多くし、長くしているという。
教育研究に関する重要事項を審議する教育研究評議会が、学生への教育や分野横断的な研究など教学分野について徹底して議論することは大いに意義のあることであり、大学としても歓迎すべきことである。しかし、大学の管理運営に関わる課題について、4~5時間もの時間を要する会議を繰り返すことは、さほど有益なこととは思えないし、制度上も求められていないのではないだろうか。会議が出席者(列席を含む)の貴重な時間やコストの犠牲の上に成り立っていることを構成員は十分認識し、意思決定の手段が目的化することのないよう会議の効率的運用に努めなければならない。
第二期中期目標期間では、ガバナンスの強化、つまり迅速で責任ある意志決定体制の構築が特に求められている。会議においては、社会、特に保護者や学生に対して恥ずかしくない議論をすべきであり、生産性のない議論を続けるべきではない。非生産的な会議や議論が大学の経営効率化を阻害する大きな要因となることは周知のとおりである。国からの税金投入が年々削減されていく中で、大学は、権限や役割を超えた枝葉末節な議論を長時間繰り返し、結局、意思決定できないという非生産的な会議を繰り返すことは許されない。不要な会議を廃止し、必要最小限の会議の有効活用に向けた取り組みを進め、法人化の趣旨に則った運営体制を作り上げなければならない。
寺尾学長は、国立大学財務・経営センターが発行するメールマガジン(2010年7月15日付、第50号)の特別寄稿「 活き活きと働く教員をいかに養成するか」において、当時を次のように振り返っている。
「『教育の質的向上を実現し、活力ある福教大を創る』というのが、私が掲げた改革理念である。その背景には、自らの研究には熱心だが、学生の教育に対してやや関心が薄い大学教員の存在や、低迷する就職状況に対して改善策を提示できないでいる現状を変えたいという明確な意思がある。それゆえ運営組織の改革についても、熟慮した末の学長案を教育研究評議会や教授会に問うたのである。だが、これは教授会出席者の半数を超える者から激しい抵抗を受ける羽目になった。要するに、学長案による改革は性急すぎる、と言うのだった。私は、この時ほど大学教員の改革に臆する姿を目の当たりにしたことはない。「生きる力」を掲げた国の教育改革が進んでいるが、その理解が最も足らないと思われるのが、我が大学だったということだ。足元からの意識改革が強く求められている、と再確認した。」
また、国立大学協会が作成した「第一期中期目標期間の検証」(2011年2月16日)には、意思決定の迅速化、管理運営の効率化に関する検証結果として次のような記述がある。
「学長が法人の長となり、教育研究及び経営双方の最終責任者として、トップダウンによる意思決定により、強いリーダーシップと経営能力を発揮することが可能となった。仕組みは有効であったものの、法人化前のボトムアップ型の大学運営からの移行が円滑に行われているとは言い難いため、迅速な意思決定を図ることが必要である。教育研究面に関する重要事項や方針を審議する教育研究評議会が設置され、概ね適正かつ有効に機能していると考えられる。今後、現状を十分に理解した上で一部の利益にとらわれずに大学全体の発展に寄与する助言を行うことが重要である。」
私たち国立大学法人の構成員は、法人化したことの意味、すなわち国立大学法人のマネジメント改革、とりわけ民間的手法を活用した大学の経営力・ガバナンスの強化や、自主性・自律性の確保が強く求められていることを再認識し、今後とも不断の改革努力を継続していかなければならない。執行の最終責任者たる学長が、様々な場面でリーダーシップを発揮しうる権限と体制、及び教員と学長・理事との信頼関係に基づく適切な役割分担による迅速で責任ある意思決定体制の確立が求められている。
2011年10月21日金曜日
教育の本質は、人間が自立する手段、もしくは技術を与えることにある
「教育改革は、企業や社会が取り組むべき課題である」(出口治明:ライフネット生命保険株式会社代表取締役社長、ダイヤモンド・オンライン)からの抜粋をご紹介します。
大学院の充実が喫緊の課題ではないか
人類が未だ経験したことのない困難で複雑な課題を解決していくためには、優秀な頭脳が必要であることは言うまでもあるまい。
このような観点でわが国の教育を考えたとき、大変、気になるデータがある。それは、高等専門教育機関である大学院在学者の人口千人当たり人数である。文部科学省が公表している「教育指標の国際比較 2011年版」によると、わが国の2.13人(2010年)に対して、アメリカはフルタイムの在学生が4.74人、パートタイムの在学者を含めると実に8.77人(2007年)に上る。英国は、フルタイムで4.09人、パートタイムを含めると8.33人、フランスでは8.11人(2008年)、お隣の韓国では6.29人(2009年)と、いずれもわが国の3倍から4倍の水準を示している。
国際機関やグローバル企業の経営陣はドクターやマスターが当たり前と言われて久しいものがあるが、長い目で見れば、大学院の充実こそが、わが国の国際競争力を向上させ、課題解決に向けてブレークスルーをもたらす有益な人材を育てる第一歩となるのではないだろうか。わが国は、少なくともリーダー層に関しては、低学歴国であるという自覚をはっきりと持つべきだ。
では、大学院充実のためには何をすればいいのか。答えは、はっきりしていると考える。要は、学部卒ではなく、大学院卒がわが国では尊重されるという事例を身を持って示せばそれでいいのである。
たとえば、まず国が率先して、国家公務員採用一種試験(およびそれに準ずる高等試験)の受験資格を学部卒から大学院卒に引き上げてはどうか。国が将来の幹部候補生は大学院卒を原則とすると割り切れば、一定のタイムラグをもって、間違いなく民間にも波及していくだろう。その場合、英米にならって「年齢フリー」をセットすることが望ましい。大学から大学院に直行するルートだけではなく、むしろ社会人を経て大学院に進学するルートを始めからしっかりと確保しておくことが肝要である。
一般に、改革は供給サイド(大学)からではなく、需要サイド(政府・企業)から始める方が、はるかに効果が上がる。教育も決してその例外ではあるまい。政府や企業が求める学生像が明確になれば、大学院・大学が変わり、大学が変われば高校が変わり、高校が変われば中学が変わり、といった調子で、教育改革が順次、上流に波及していくのではないだろうか。
大学はひたすら勉学に打ち込む場に
大学院の次は、大学である。大学については、ひたすら勉学に打ち込む場に変革していくことが望まれる。なぜなら、自分のアタマで考える、すなわち思考力を身につける格好の場が大学だからである。
大学の改革についても需要サイドからの働きかけが有効であると考える。前にも述べたことがあるが、たとえば、日本経団連のような団体が、卒業証明書と成績証明書をセットで持参しなければ、採用面談は一切行わないと申し合わせれば、それで済むのではないか。加えて、採用に当たっては成績証明書を徹底して重視することや、就職説明会等への入場資格も卒業生に限る(在学生には一切企業の側からは接触しない)と言明すれば、学生は安心して勉学に打ち込めるようになると思われる。
また、大学は勉学に励む(≒必要な単位を取得する)ことが主眼なので、何も一律の修業年限を定める必要はない。2年ないし4年と、一定の幅を設けておき、優秀な学生はどんどん卒業していけばいいと考える(大学院も同様であろう)。このような改革が行われれば、大学の方も成績証明書の信頼度を上げるべく、早急に採点基準を厳しくして落第させるようになり、好循環が始まるのではないか。
なお、企業と学生の接触形態としては、学生のイニシアティブによるインターン制度が最も望ましいと思われる。
成績優秀者には授業料の全額免除を
前掲のOECDの報告によると、日本は教育支出に占める家計の負担の割合が大きい国であり、とりわけ高等教育においてその傾向が顕著であるとされている。すなわち、日本は「(大学の)授業料は高いが、学生支援の仕組みが比較的整備されていない国々」のグループに位置づけられている。
これを具体的な数字で見ると、高等教育における私費負担の割合はOECDの平均が31.1%であるのに対して、わが国は66.7%と倍以上であり、しかも50.7%が家計の負担となっている。これでは貧しい家庭の子どもは大学に進学できそうもない。教育の格差が云々される所以である。
どのような社会であれ、所得階層が固定化され、いわゆる「成り上がり」の道が狭まることほど社会の閉塞感が強まることはないと考える。勉学に志す優秀な若者には、常に広い道を開けておく必要がある。
たとえば、国公立大学で、親の所得を勘案して、貧しいが優秀な学生には定員の19%程度まで(数名の例外措置では制度としての意味をなさない)授業料を全額免除すると同時に、奨学金(学生ローンを含めてもいい)で100%生活できるような仕組みを作ってはどうだろうか。そして、そのための財源としては、極論すれば、残りの90%の一般学生の授業料を値上げしてもいいと思う。大学院もまったく同様に考えていい。
そのような仕組みがあるだけで、生まれた家庭がたまたま貧しくても勉学に志す若者の胸には大きな希望の火が灯るのではないだろうか。また同時に、中学校や高等学校の教師にとっても生徒指導が格段に行いやすくなると考える。
わが国の発展のためには、親の所得階層に関わりなく子どもの意欲と能力次第で誰もが「成り上がれる」仕掛けを、社会の中にしっかりとビルトインしておく必要がある。そして、その主戦場はやはり大学や大学院をおいて他にはないだろう。
教育改革については、どちらかと言えばリーダー(エリート)教育や英語教育の是非が取り上げられることが多い。また、(わが国の)歴史を学ぶことの重要性を指摘する人も多い。いずれにも決して反対するものではないが、私はわが国の将来を見据えれば「大学院の軽視」「(青田買いによる)勉強させない大学」「費用のかかる大学・大学院」の3点セットこそが最も緊急を要する改革対象だと思えてならない。そして、それは決して教育界だけでのタスクではなく、むしろ需給サイドである企業・社会の側のタスクなのである。
今回は、大学を中心とした議論に終始してしまったきらいがあるが、最後に蛇足を一言付け加えておきたい。人間が学ぶ場所は決して大学・大学院に限られるわけではない。著名な哲学者が喝破した如く、人は「世間という大きな書物から学ぶ」のだ。
大学院の充実が喫緊の課題ではないか
人類が未だ経験したことのない困難で複雑な課題を解決していくためには、優秀な頭脳が必要であることは言うまでもあるまい。
このような観点でわが国の教育を考えたとき、大変、気になるデータがある。それは、高等専門教育機関である大学院在学者の人口千人当たり人数である。文部科学省が公表している「教育指標の国際比較 2011年版」によると、わが国の2.13人(2010年)に対して、アメリカはフルタイムの在学生が4.74人、パートタイムの在学者を含めると実に8.77人(2007年)に上る。英国は、フルタイムで4.09人、パートタイムを含めると8.33人、フランスでは8.11人(2008年)、お隣の韓国では6.29人(2009年)と、いずれもわが国の3倍から4倍の水準を示している。
国際機関やグローバル企業の経営陣はドクターやマスターが当たり前と言われて久しいものがあるが、長い目で見れば、大学院の充実こそが、わが国の国際競争力を向上させ、課題解決に向けてブレークスルーをもたらす有益な人材を育てる第一歩となるのではないだろうか。わが国は、少なくともリーダー層に関しては、低学歴国であるという自覚をはっきりと持つべきだ。
では、大学院充実のためには何をすればいいのか。答えは、はっきりしていると考える。要は、学部卒ではなく、大学院卒がわが国では尊重されるという事例を身を持って示せばそれでいいのである。
たとえば、まず国が率先して、国家公務員採用一種試験(およびそれに準ずる高等試験)の受験資格を学部卒から大学院卒に引き上げてはどうか。国が将来の幹部候補生は大学院卒を原則とすると割り切れば、一定のタイムラグをもって、間違いなく民間にも波及していくだろう。その場合、英米にならって「年齢フリー」をセットすることが望ましい。大学から大学院に直行するルートだけではなく、むしろ社会人を経て大学院に進学するルートを始めからしっかりと確保しておくことが肝要である。
一般に、改革は供給サイド(大学)からではなく、需要サイド(政府・企業)から始める方が、はるかに効果が上がる。教育も決してその例外ではあるまい。政府や企業が求める学生像が明確になれば、大学院・大学が変わり、大学が変われば高校が変わり、高校が変われば中学が変わり、といった調子で、教育改革が順次、上流に波及していくのではないだろうか。
大学はひたすら勉学に打ち込む場に
大学院の次は、大学である。大学については、ひたすら勉学に打ち込む場に変革していくことが望まれる。なぜなら、自分のアタマで考える、すなわち思考力を身につける格好の場が大学だからである。
大学の改革についても需要サイドからの働きかけが有効であると考える。前にも述べたことがあるが、たとえば、日本経団連のような団体が、卒業証明書と成績証明書をセットで持参しなければ、採用面談は一切行わないと申し合わせれば、それで済むのではないか。加えて、採用に当たっては成績証明書を徹底して重視することや、就職説明会等への入場資格も卒業生に限る(在学生には一切企業の側からは接触しない)と言明すれば、学生は安心して勉学に打ち込めるようになると思われる。
また、大学は勉学に励む(≒必要な単位を取得する)ことが主眼なので、何も一律の修業年限を定める必要はない。2年ないし4年と、一定の幅を設けておき、優秀な学生はどんどん卒業していけばいいと考える(大学院も同様であろう)。このような改革が行われれば、大学の方も成績証明書の信頼度を上げるべく、早急に採点基準を厳しくして落第させるようになり、好循環が始まるのではないか。
なお、企業と学生の接触形態としては、学生のイニシアティブによるインターン制度が最も望ましいと思われる。
成績優秀者には授業料の全額免除を
前掲のOECDの報告によると、日本は教育支出に占める家計の負担の割合が大きい国であり、とりわけ高等教育においてその傾向が顕著であるとされている。すなわち、日本は「(大学の)授業料は高いが、学生支援の仕組みが比較的整備されていない国々」のグループに位置づけられている。
これを具体的な数字で見ると、高等教育における私費負担の割合はOECDの平均が31.1%であるのに対して、わが国は66.7%と倍以上であり、しかも50.7%が家計の負担となっている。これでは貧しい家庭の子どもは大学に進学できそうもない。教育の格差が云々される所以である。
どのような社会であれ、所得階層が固定化され、いわゆる「成り上がり」の道が狭まることほど社会の閉塞感が強まることはないと考える。勉学に志す優秀な若者には、常に広い道を開けておく必要がある。
たとえば、国公立大学で、親の所得を勘案して、貧しいが優秀な学生には定員の19%程度まで(数名の例外措置では制度としての意味をなさない)授業料を全額免除すると同時に、奨学金(学生ローンを含めてもいい)で100%生活できるような仕組みを作ってはどうだろうか。そして、そのための財源としては、極論すれば、残りの90%の一般学生の授業料を値上げしてもいいと思う。大学院もまったく同様に考えていい。
そのような仕組みがあるだけで、生まれた家庭がたまたま貧しくても勉学に志す若者の胸には大きな希望の火が灯るのではないだろうか。また同時に、中学校や高等学校の教師にとっても生徒指導が格段に行いやすくなると考える。
わが国の発展のためには、親の所得階層に関わりなく子どもの意欲と能力次第で誰もが「成り上がれる」仕掛けを、社会の中にしっかりとビルトインしておく必要がある。そして、その主戦場はやはり大学や大学院をおいて他にはないだろう。
教育改革については、どちらかと言えばリーダー(エリート)教育や英語教育の是非が取り上げられることが多い。また、(わが国の)歴史を学ぶことの重要性を指摘する人も多い。いずれにも決して反対するものではないが、私はわが国の将来を見据えれば「大学院の軽視」「(青田買いによる)勉強させない大学」「費用のかかる大学・大学院」の3点セットこそが最も緊急を要する改革対象だと思えてならない。そして、それは決して教育界だけでのタスクではなく、むしろ需給サイドである企業・社会の側のタスクなのである。
今回は、大学を中心とした議論に終始してしまったきらいがあるが、最後に蛇足を一言付け加えておきたい。人間が学ぶ場所は決して大学・大学院に限られるわけではない。著名な哲学者が喝破した如く、人は「世間という大きな書物から学ぶ」のだ。
2011年10月19日水曜日
国立大学への支援に向けた世論形成
例年のことではありますが、昨日(10月18日)、国立大学協会から全国の国立大学長あてに平成24年度予算の確保に向けた取り組みの要請が行われました。
その内容は、国立大学の機能強化等の取組みについて、国立大学協会が示した次のような要望書を使って、関係各方面からご理解をいただくための活動を各大学が行うよう求めるものです。
これから年末まで、各大学はこの要望書や独自に作成したPR資料を携えて、国会議員や自治体の首長などへの陳情の旅に出かけることになります。
国立大学が、日本の希望ある未来と世界の人々が希求する安定的で持続的な社会の構築を導く原動力として中核的な役割を果たすためには、国立大学の機能強化が不可欠です。
各国立大学は、高度な教育を受け、国際社会と人類全体に貢献する志を持った卓越した人材を育成する責任ある機関として、各大学それぞれの個性・特色を活かし、機能の強化を図るための指針を、本年6月の国立大学協会総会においてとりまとめ、「国民への約束」と副題をつけて公表いたしました。
わが国の再生と持続的発展を実現するために、国立大学は、「ナショナルセンター機能の徹底的強化」、「リージョナルセンター機能の抜本的強化」、「有機的な連携共同システムとしての機能強化」に取り組んでまいります。
東日本大震災後の状況の中で、大学の教育・研究には、被災地の復興、日本再生の柱の一翼として大きな期待が寄せられているとともに、諸外国が教育・研究の振興を重要施策の一つに置いて国際間の競争が一層激化しているという重要な局面において、上記の国立大学の機能を更に強化していきたいと考えています。
そのために、不断のマネジメント改革を行うとともに国立大学の教育・研究・社会貢献に関する活動を可視化し、国立大学の責務を十全に果たしていけるよう、ステークホルダーや国民への働きかけを行っていくことを引き続き進めてまいります。
国立大学を巡る状況が厳しさを増す中、これまで以上に国立大学へのご支援ならびにご指導を賜るようお願い申し上げます。
その内容は、国立大学の機能強化等の取組みについて、国立大学協会が示した次のような要望書を使って、関係各方面からご理解をいただくための活動を各大学が行うよう求めるものです。
これから年末まで、各大学はこの要望書や独自に作成したPR資料を携えて、国会議員や自治体の首長などへの陳情の旅に出かけることになります。
国立大学の機能強化について
国立大学が、日本の希望ある未来と世界の人々が希求する安定的で持続的な社会の構築を導く原動力として中核的な役割を果たすためには、国立大学の機能強化が不可欠です。
各国立大学は、高度な教育を受け、国際社会と人類全体に貢献する志を持った卓越した人材を育成する責任ある機関として、各大学それぞれの個性・特色を活かし、機能の強化を図るための指針を、本年6月の国立大学協会総会においてとりまとめ、「国民への約束」と副題をつけて公表いたしました。
わが国の再生と持続的発展を実現するために、国立大学は、「ナショナルセンター機能の徹底的強化」、「リージョナルセンター機能の抜本的強化」、「有機的な連携共同システムとしての機能強化」に取り組んでまいります。
東日本大震災後の状況の中で、大学の教育・研究には、被災地の復興、日本再生の柱の一翼として大きな期待が寄せられているとともに、諸外国が教育・研究の振興を重要施策の一つに置いて国際間の競争が一層激化しているという重要な局面において、上記の国立大学の機能を更に強化していきたいと考えています。
そのために、不断のマネジメント改革を行うとともに国立大学の教育・研究・社会貢献に関する活動を可視化し、国立大学の責務を十全に果たしていけるよう、ステークホルダーや国民への働きかけを行っていくことを引き続き進めてまいります。
国立大学を巡る状況が厳しさを増す中、これまで以上に国立大学へのご支援ならびにご指導を賜るようお願い申し上げます。
2011年10月17日月曜日
信頼関係の構築-ある学長のつぶやき
国立大学法人のガバナンスは、完全に有無を言わせない抑圧政治を敷くか、信頼関係の樹立によるしか手は無いような気がしています。学内にガバナンスの強化に資する様々な制度をいくらつくっても、信頼関係が無ければ必ずどこかで火を噴くことになります。結果として、改革が消極的となり、大学の評価を下げてしまうことになります。
もう一点の課題は、学部長や研究科長のスタンスです。法人化で理事や副学長の設置が制度化されたため、学部長や研究科長は内向き(学部や研究科の方を向くよう)になりました。法人化前は、学部長や研究科長は、学長を支えていたのに。いかに学部長や研究科長の協力を取り込むか、理事や副学長との関係において、位置づけや役割分担をどのように整理していくかが大きな課題です。
もう一点の課題は、学部長や研究科長のスタンスです。法人化で理事や副学長の設置が制度化されたため、学部長や研究科長は内向き(学部や研究科の方を向くよう)になりました。法人化前は、学部長や研究科長は、学長を支えていたのに。いかに学部長や研究科長の協力を取り込むか、理事や副学長との関係において、位置づけや役割分担をどのように整理していくかが大きな課題です。
2011年10月14日金曜日
就職の危機管理無かった大学人
今春卒業者が3年生になった2年余り前から”就職氷河期の再来”といわれている。1986年に始まった内定率調査は、10月から3回の各調査時点で史上最低を記録した。就職環境の悪化は、わが国のみならず先進諸国のリーマンショックに端を発した経済の停滞が大きく影響していることは間違いない。しかし、就職氷河期の再来、すなわち大学生の就職危機の要因はそれだけだろうか。
大学は拡張に拡張を重ねてきた。その結果、大学・短期大学卒業者が同一年齢のおよそ半数にのぼっている。半数がかつてのように”大卒者”としてほぼ同じ処遇を得られる社会はあり得ないと、わたしは認識している。しかし、そうした認識は、規模を拡張すれば今日の危機は必定であるにもかかわらず、大学の教員にも職員にもなかった。大学は、就職の危機管理が欠けていたのである。最大の問題は、眼前の学生に対応していない教育の継続である。規模を拡張した結果、学生の水準が下がったにもかかわらず、伝統的な教授法をとり続けてきた。伝統的な教授法は、すべての大学には通用しないという危機の認識が欠けている。
さらに、産業社会の構造や仕組みは激変している。生産の低賃金国への移転、そして需要地への移転にはじまり、販売やアフターサービスも現地法人への移行が進んでいる。したがって、人材需要は世界の各地に拡散しているのである。
教員は、現実を踏まえ、先を見通して学部・学科の教育方針を徹底的に議論し共通の認識を持って教育に取り組まなければならない。これには入学者選抜も含まれる。もはや、少なからぬ大学で入学者選抜は成立しなくなっている。推薦入試に加えてAO方式入学が蔓延し、事実上の無試験入学者が激増している大学が少なくない。一般入試が始まる前の12月に定員の50%、70%の入学者を確保し、安堵している大学がある。何のために、だれのために安堵しているのか。
一方で、就職部局の拡張、キャリア開発支援授業科目の開設が急速に進んできたし、現在も進んでいる。しかしその多くは、規模の拡張にとどまり、科目数をいたずらに増やしただけである。
大学は、本来の教育をどうするのかを熟慮し、根本的に構築し直さなければその存在価値を失う。大学が構成員の生活を守ることは、教育の成果があってこそであり、それは第一義ではない。
”教養がある”とは、”危機管理ができる”ことであると、わたしは定義している。すべての大学教職員に、危機管理の力が求められている。(IDE 2011年10月号)
大学は拡張に拡張を重ねてきた。その結果、大学・短期大学卒業者が同一年齢のおよそ半数にのぼっている。半数がかつてのように”大卒者”としてほぼ同じ処遇を得られる社会はあり得ないと、わたしは認識している。しかし、そうした認識は、規模を拡張すれば今日の危機は必定であるにもかかわらず、大学の教員にも職員にもなかった。大学は、就職の危機管理が欠けていたのである。最大の問題は、眼前の学生に対応していない教育の継続である。規模を拡張した結果、学生の水準が下がったにもかかわらず、伝統的な教授法をとり続けてきた。伝統的な教授法は、すべての大学には通用しないという危機の認識が欠けている。
さらに、産業社会の構造や仕組みは激変している。生産の低賃金国への移転、そして需要地への移転にはじまり、販売やアフターサービスも現地法人への移行が進んでいる。したがって、人材需要は世界の各地に拡散しているのである。
教員は、現実を踏まえ、先を見通して学部・学科の教育方針を徹底的に議論し共通の認識を持って教育に取り組まなければならない。これには入学者選抜も含まれる。もはや、少なからぬ大学で入学者選抜は成立しなくなっている。推薦入試に加えてAO方式入学が蔓延し、事実上の無試験入学者が激増している大学が少なくない。一般入試が始まる前の12月に定員の50%、70%の入学者を確保し、安堵している大学がある。何のために、だれのために安堵しているのか。
一方で、就職部局の拡張、キャリア開発支援授業科目の開設が急速に進んできたし、現在も進んでいる。しかしその多くは、規模の拡張にとどまり、科目数をいたずらに増やしただけである。
大学は、本来の教育をどうするのかを熟慮し、根本的に構築し直さなければその存在価値を失う。大学が構成員の生活を守ることは、教育の成果があってこそであり、それは第一義ではない。
”教養がある”とは、”危機管理ができる”ことであると、わたしは定義している。すべての大学教職員に、危機管理の力が求められている。(IDE 2011年10月号)
2011年10月13日木曜日
教員養成の修士化は誰のため
いささか旧聞だが、中央教育審議会・教員の資質能力向上特別部会の6月の会議で興味深い資料が配られた。文部科学省が三菱総合研究所に委託して行った「教員の資質向上方策の見直し及び教員免許更新制の効果検証に係る調査」の集計結果で、教員(14,230人)、校長(6,497人)、保護者(6,286人)、教育委員会(1,151)、教職課程を有する大学(662)、学生(2,385人)から回答を得た。
調査では、教員に必要とされる資質能力として、(a)教師の仕事に対する使命感や誇り、(b)子供に対する愛情や責任感、(c)子供理解力、(d)児童・生徒指導力、(e)集団指導の力、(f)学級づくりの力、(g)学習指導・授業づくりの力、(h)教材解釈の力、(i)豊かな人間性や社会性、(j)常識と教養、(k)対人関係能力、コミュニケーション能力、(l)教職員全体と同僚として協力していくこと-を示し、教員がどの程度充足していると思うか聞いた。
目をひくのは教員の自己評価の高さだ。全ての項目で、「とても充足」と「やや充足」の合計(以下、「充足」と表記)が4分の3を超え、特に(a)と(b)は95%に達した。校長には教員を新任、中堅、ベテランに分けて聞いた。初任者教員に関しては(c)~(h)で「充足」回答は3-4割合だったが、(a)、(b)、(l)は約8割という高評価。授業技術等に不満はあるが、教職への使命感や子供への責任感、協調性は合格という判定だ。中堅教員やベテラン教員では、「充足」が全ての項目で8-9割に達し、特にベテランの評価が高い。教委は教員や校長よりは厳しいが、それでもまずまずの評価。意外なのは大学で、(a)、(b)の「充足」回答は8割合だったものの、(e)、(i)、(k)、(l)は4割合、(d)、(f)、(j)は5割合、(c)、(g)でやっと6割合と圧倒的に辛口の評価だ。
3つのことが気になった。
第1は、示された12の資質能力について、現場の教員や校長、保護者は、大学が思うほどには問題視していないことだ。教育委員会は中間だが、それでも大学ほどではない。現場の自己認識が甘いのか、それとも大学が現場を知らないのか。
第2は、校長の回答の解釈だ。初任者の授業技術等を問題視しながら、中堅・ベテランの評価は高い。昔の方が養成がしっかりしていて優秀な人材が入ってきたからなのか、それともOJTで鍛えられた結果なのか。もしOJT効果だとすれば、その現場力は今後も期待できるのか、それとも現場の疲弊でもはや期待できないのか。
第3は、調査が示す12項目が教員の資質能力として妥当なのかということだ。調査票作成に関わったのは、文科省担当者や特別部会の関係者だろう。いずれも現行制度の設計に深く関わった人々だ。彼らが従来の延長線上で質問項目を作れば、現行制度で養成された人間が高い評価を与えるのは当然だろう。
もし調査項目に、「社会の激動を理解し、21世紀に生きる日本人に必要な資質能力を理解する力」とか「グローバル化や情報化時代の意味を理解し、その観点から新しい授業を作る能力」「子供1人1人の将来を見据え、個に応じたきめ細やかなを指導ができる」などの項目があらたら、結果はどうだったろう。あるいはもっと単純に「IT力」、「英語力」、「多文化理解」などでもいい。12項目が重要なことは確かだが、今の時代には旧来型の資質能力だけでは不十分だというのが、議論の出発点ではなかったか。質問がこの12項目で終わってしまう点に、委員たちの発想の限界を垣間見た。
「現在の学部段階の教職課程の課題」を尋ねた質問でも面白い結果が出た。「内容・カリキュラムが学校現場に即していない」と答えた教員は49.2%、校長51.9%、教委56.3%に対し、大学は30.7%。「担当する大学教員の学校現場の経験が不十分」と答えたのは、教員51.4%、校長64.0%、教委60.8%に対し、大学は38.6%である。大学教育に対する現場と大学の認識ギャップが際立つ。
さらに衝撃的なのは、「養成課程の期間(原則4年)が短い」という回答は、教員4.6%、校長7.0%、保護者8.8%、教委7.0%、学生8.3%にとどまったが、何と大学自身もたった8.6%だったことだ。修士化の推進論者は、この数字をどう説明するのだろうか。
調査から窺えるのは、教員養成の課題に多くは大学教育にあり、大学界でさえ「養成期間の延長=修士化」にさほど積極的ではないことだ。改めて、誰のための、何のための修士化なのかと思う。
取材ノートから(日本経済新聞社編集委員 横山晋一郎)(IDE 2011年10月号)
調査では、教員に必要とされる資質能力として、(a)教師の仕事に対する使命感や誇り、(b)子供に対する愛情や責任感、(c)子供理解力、(d)児童・生徒指導力、(e)集団指導の力、(f)学級づくりの力、(g)学習指導・授業づくりの力、(h)教材解釈の力、(i)豊かな人間性や社会性、(j)常識と教養、(k)対人関係能力、コミュニケーション能力、(l)教職員全体と同僚として協力していくこと-を示し、教員がどの程度充足していると思うか聞いた。
目をひくのは教員の自己評価の高さだ。全ての項目で、「とても充足」と「やや充足」の合計(以下、「充足」と表記)が4分の3を超え、特に(a)と(b)は95%に達した。校長には教員を新任、中堅、ベテランに分けて聞いた。初任者教員に関しては(c)~(h)で「充足」回答は3-4割合だったが、(a)、(b)、(l)は約8割という高評価。授業技術等に不満はあるが、教職への使命感や子供への責任感、協調性は合格という判定だ。中堅教員やベテラン教員では、「充足」が全ての項目で8-9割に達し、特にベテランの評価が高い。教委は教員や校長よりは厳しいが、それでもまずまずの評価。意外なのは大学で、(a)、(b)の「充足」回答は8割合だったものの、(e)、(i)、(k)、(l)は4割合、(d)、(f)、(j)は5割合、(c)、(g)でやっと6割合と圧倒的に辛口の評価だ。
3つのことが気になった。
第1は、示された12の資質能力について、現場の教員や校長、保護者は、大学が思うほどには問題視していないことだ。教育委員会は中間だが、それでも大学ほどではない。現場の自己認識が甘いのか、それとも大学が現場を知らないのか。
第2は、校長の回答の解釈だ。初任者の授業技術等を問題視しながら、中堅・ベテランの評価は高い。昔の方が養成がしっかりしていて優秀な人材が入ってきたからなのか、それともOJTで鍛えられた結果なのか。もしOJT効果だとすれば、その現場力は今後も期待できるのか、それとも現場の疲弊でもはや期待できないのか。
第3は、調査が示す12項目が教員の資質能力として妥当なのかということだ。調査票作成に関わったのは、文科省担当者や特別部会の関係者だろう。いずれも現行制度の設計に深く関わった人々だ。彼らが従来の延長線上で質問項目を作れば、現行制度で養成された人間が高い評価を与えるのは当然だろう。
もし調査項目に、「社会の激動を理解し、21世紀に生きる日本人に必要な資質能力を理解する力」とか「グローバル化や情報化時代の意味を理解し、その観点から新しい授業を作る能力」「子供1人1人の将来を見据え、個に応じたきめ細やかなを指導ができる」などの項目があらたら、結果はどうだったろう。あるいはもっと単純に「IT力」、「英語力」、「多文化理解」などでもいい。12項目が重要なことは確かだが、今の時代には旧来型の資質能力だけでは不十分だというのが、議論の出発点ではなかったか。質問がこの12項目で終わってしまう点に、委員たちの発想の限界を垣間見た。
「現在の学部段階の教職課程の課題」を尋ねた質問でも面白い結果が出た。「内容・カリキュラムが学校現場に即していない」と答えた教員は49.2%、校長51.9%、教委56.3%に対し、大学は30.7%。「担当する大学教員の学校現場の経験が不十分」と答えたのは、教員51.4%、校長64.0%、教委60.8%に対し、大学は38.6%である。大学教育に対する現場と大学の認識ギャップが際立つ。
さらに衝撃的なのは、「養成課程の期間(原則4年)が短い」という回答は、教員4.6%、校長7.0%、保護者8.8%、教委7.0%、学生8.3%にとどまったが、何と大学自身もたった8.6%だったことだ。修士化の推進論者は、この数字をどう説明するのだろうか。
調査から窺えるのは、教員養成の課題に多くは大学教育にあり、大学界でさえ「養成期間の延長=修士化」にさほど積極的ではないことだ。改めて、誰のための、何のための修士化なのかと思う。
取材ノートから(日本経済新聞社編集委員 横山晋一郎)(IDE 2011年10月号)
2011年10月12日水曜日
ハングリーであれ。愚か者であれ-ジョブズ氏スピーチ全訳
世界でもっとも優秀な大学の卒業式に同席できて光栄です。私は大学を卒業したことがありません。実のところ、きょうが人生でもっとも大学卒業に近づいた日です。本日は自分が生きてきた経験から、3つの話をさせてください。たいしたことではない。たった3つです。
まずは、点と点をつなげる、ということです。
私はリード大学をたった半年で退学したのですが、本当に学校を去るまでの1年半は大学に居座り続けたのです。ではなぜ、学校をやめたのでしょうか。
私が生まれる前、生みの母は未婚の大学院生でした。母は決心し、私を養子に出すことにしたのです。母は私を産んだらぜひとも、だれかきちんと大学院を出た人に引き取ってほしいと考え、ある弁護士夫婦との養子縁組が決まったのです。ところが、この夫婦は間際になって女の子をほしいと言いだした。こうして育ての親となった私の両親のところに深夜、電話がかかってきたのです。「思いがけず、養子にできる男の子が生まれたのですが、引き取る気はありますか」と。両親は「もちろん」と答えた。生みの母は、後々、養子縁組の書類にサインするのを拒否したそうです。私の母は大卒ではないし、父に至っては高校も出ていないからです。実の母は、両親が僕を必ず大学に行かせると約束したため、数カ月後にようやくサインに応じたのです。
そして17年後、私は本当に大学に通うことになった。ところが、スタンフォード並みに学費が高い大学に入ってしまったばっかりに、労働者階級の両親は蓄えのすべてを学費に注ぎ込むことになってしまいました。そして半年後、僕はそこまで犠牲を払って大学に通う価値が見いだせなくなってしまったのです。当時は人生で何をしたらいいのか分からなかったし、大学に通ってもやりたいことが見つかるとはとても思えなかった。私は、両親が一生かけて蓄えたお金をひたすら浪費しているだけでした。私は退学を決めました。何とかなると思ったのです。多少は迷いましたが、今振り返ると、自分が人生で下したもっとも正しい判断だったと思います。退学を決めたことで、興味もない授業を受ける必要がなくなった。そして、おもしろそうな授業に潜り込んだのです。
とはいえ、いい話ばかりではなかったです。私は寮の部屋もなく、友達の部屋の床の上で寝起きしました。食べ物を買うために、コカ・コーラの瓶を店に返し、5セントをかき集めたりもしました。温かい食べ物にありつこうと、毎週日曜日は7マイル先にあるクリシュナ寺院に徒歩で通ったものです。
それでも本当に楽しい日々でした。自分の興味の赴くままに潜り込んだ講義で得た知識は、のちにかけがえがないものになりました。たとえば、リード大では当時、全米でおそらくもっとも優れたカリグラフの講義を受けることができたました。キャンパス中に貼られているポスターや棚のラベルは手書きの美しいカリグラフで彩られていたのです。退学を決めて必須の授業を受ける必要がなくなったので、カリグラフの講義で学ぼうと思えたのです。ひげ飾り文字を学び、文字を組み合わせた場合のスペースのあけ方も勉強しました。何がカリグラフを美しく見せる秘訣なのか会得しました。科学ではとらえきれない伝統的で芸術的な文字の世界のとりこになったのです。
もちろん当時は、これがいずれ何かの役に立つとは考えもしなかった。ところが10年後、最初のマッキントッシュを設計していたとき、カリグラフの知識が急によみがえってきたのです。そして、その知識をすべて、マックに注ぎ込みました。美しいフォントを持つ最初のコンピューターの誕生です。もし大学であの講義がなかったら、マックには多様なフォントや字間調整機能も入っていなかったでしょう。ウィンドウズはマックをコピーしただけなので、パソコンにこうした機能が盛り込まれることもなかったでしょう。もし私が退学を決心していなかったら、あのカリグラフの講義に潜り込むことはなかったし、パソコンが現在のようなすばらしいフォントを備えることもなかった。もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。
繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。運命、カルマ…、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います。
2つ目の話は愛と敗北です。
私は若い頃に大好きなことに出合えて幸運でした。共同創業者のウォズニアックとともに私の両親の家のガレージでアップルを創業したのは二十歳のときでした。それから一生懸命に働き、10年後には売上高20億ドル、社員数4000人を超える会社に成長したのです。そして我々の最良の商品、マッキントッシュを発売したちょうど1年後、30歳になったときに、私は会社から解雇されたのです。自分で立ち上げた会社から、クビを言い渡されるなんて。
実は会社が成長するのにあわせ、一緒に経営できる有能な人材を外部から招いたのです。最初の1年はうまくいっていたのですが、やがてお互いの将来展望に食い違いがでてきたのです。そして最後には決定的な亀裂が生まれてしまった。そのとき、取締役会は彼に味方したのです。それで30歳のとき、私は追い出されたのです。それは周知の事実となりました。私の人生をかけて築いたものが、突然、手中から消えてしまったのです。これは本当にしんどい出来事でした。
1カ月くらいはぼうぜんとしていました。私にバトンを託した先輩の起業家たちを失望させてしまったと落ち込みました。デビッド・パッカードやボブ・ノイスに会い、台無しにしてしまったことをわびました。公然たる大失敗だったので、このまま逃げ出してしまおうかとさえ思いました。しかし、ゆっくりと何か希望がわいてきたのです。自分が打ち込んできたことが、やはり大好きだったのです。アップルでのつらい出来事があっても、この一点だけは変わらなかった。会社を追われはしましたが、もう一度挑戦しようと思えるようになったのです。
そのときは気づきませんでしたが、アップルから追い出されたことは、人生でもっとも幸運な出来事だったのです。将来に対する確証は持てなくなりましたが、会社を発展させるという重圧は、もう一度挑戦者になるという身軽さにとってかわりました。アップルを離れたことで、私は人生でもっとも創造的な時期を迎えることができたのです。
その後の5年間に、NeXTという会社を起業し、ピクサーも立ち上げました。そして妻になるすばらしい女性と巡り合えたのです。ピクサーは世界初のコンピューターを使ったアニメーション映画「トイ・ストーリー」を製作することになり、今では世界でもっとも成功したアニメ製作会社になりました。そして、思いがけないことに、アップルがNeXTを買収し、私はアップルに舞い戻ることになりました。いまや、NeXTで開発した技術はアップルで進むルネサンスの中核となっています。そして、ロレーンとともに最高の家族も築けたのです。
アップルを追われなかったら、今の私は無かったでしょう。非常に苦い薬でしたが、私にはそういうつらい経験が必要だったのでしょう。最悪のできごとに見舞われても、信念を失わないこと。自分の仕事を愛してやまなかったからこそ、前進し続けられたのです。皆さんも大好きなことを見つけてください。仕事でも恋愛でも同じです。仕事は人生の一大事です。やりがいを感じることができるただ一つの方法は、すばらしい仕事だと心底思えることをやることです。そして偉大なことをやり抜くただ一つの道は、仕事を愛することでしょう。好きなことがまだ見つからないなら、探し続けてください。決して立ち止まってはいけない。本当にやりたいことが見つかった時には、不思議と自分でもすぐに分かるはずです。すばらしい恋愛と同じように、時間がたつごとによくなっていくものです。だから、探し続けてください。絶対に、立ち尽くしてはいけません。
3つ目の話は死についてです。
私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。
自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。
1年前、私はがんと診断されました。朝7時半に診断装置にかけられ、膵臓(すいぞう)に明白な腫瘍が見つかったのです。私は膵臓が何なのかさえ知らなかった。医者はほとんど治癒の見込みがないがんで、もっても半年だろうと告げたのです。医者からは自宅に戻り身辺整理をするように言われました。つまり、死に備えろという意味です。これは子どもたちに今後10年かけて伝えようとしていたことを、たった数カ月で語らなければならないということです。家族が安心して暮らせるように、すべてのことをきちんと片付けなければならない。別れを告げなさい、と言われたのです。
一日中診断結果のことを考えました。その日の午後に生検を受けました。のどから入れられた内視鏡が、胃を通って腸に達しました。膵臓に針を刺し、腫瘍細胞を採取しました。鎮痛剤を飲んでいたので分からなかったのですが、細胞を顕微鏡で調べた医師たちが騒ぎ出したと妻がいうのです。手術で治療可能なきわめてまれな膵臓がんだと分かったからでした。
人生で死にもっとも近づいたひとときでした。今後の何十年かはこうしたことが起こらないことを願っています。このような経験をしたからこそ、死というものがあなた方にとっても便利で大切な概念だと自信をもっていえます。
誰も死にたくない。天国に行きたいと思っている人間でさえ、死んでそこにたどり着きたいとは思わないでしょう。死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それは、あるべき姿なのです。死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。深刻な話で申し訳ないですが、真実です。
あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。
私が若いころ、全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)というすばらしい本に巡り合いました。私の世代の聖書のような本でした。スチュワート・ブランドというメンロパークに住む男性の作品で、詩的なタッチで躍動感がありました。パソコンやデスクトップ出版が普及する前の1960年代の作品で、すべてタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラで作られていた。言ってみれば、グーグルのペーパーバック版です。グーグルの登場より35年も前に書かれたのです。理想主義的で、すばらしい考えで満ちあふれていました。
スチュワートと彼の仲間は全地球カタログを何度か発行し、一通りやり尽くしたあとに最終版を出しました。70年代半ばで、私はちょうどあなた方と同じ年頃でした。背表紙には早朝の田舎道の写真が。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクをする時に目にするような風景です。その写真の下には「ハングリーなままであれ。愚かなままであれ」と書いてありました。筆者の別れの挨拶でした。ハングリーであれ。愚か者であれ。私自身、いつもそうありたいと思っています。そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。
ハングリーであれ。愚か者であれ。
ありがとうございました。
※スティーブ・ジョブズ氏が2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチ原稿の翻訳(2011年10月9日 日本経済新聞)
まずは、点と点をつなげる、ということです。
私はリード大学をたった半年で退学したのですが、本当に学校を去るまでの1年半は大学に居座り続けたのです。ではなぜ、学校をやめたのでしょうか。
私が生まれる前、生みの母は未婚の大学院生でした。母は決心し、私を養子に出すことにしたのです。母は私を産んだらぜひとも、だれかきちんと大学院を出た人に引き取ってほしいと考え、ある弁護士夫婦との養子縁組が決まったのです。ところが、この夫婦は間際になって女の子をほしいと言いだした。こうして育ての親となった私の両親のところに深夜、電話がかかってきたのです。「思いがけず、養子にできる男の子が生まれたのですが、引き取る気はありますか」と。両親は「もちろん」と答えた。生みの母は、後々、養子縁組の書類にサインするのを拒否したそうです。私の母は大卒ではないし、父に至っては高校も出ていないからです。実の母は、両親が僕を必ず大学に行かせると約束したため、数カ月後にようやくサインに応じたのです。
そして17年後、私は本当に大学に通うことになった。ところが、スタンフォード並みに学費が高い大学に入ってしまったばっかりに、労働者階級の両親は蓄えのすべてを学費に注ぎ込むことになってしまいました。そして半年後、僕はそこまで犠牲を払って大学に通う価値が見いだせなくなってしまったのです。当時は人生で何をしたらいいのか分からなかったし、大学に通ってもやりたいことが見つかるとはとても思えなかった。私は、両親が一生かけて蓄えたお金をひたすら浪費しているだけでした。私は退学を決めました。何とかなると思ったのです。多少は迷いましたが、今振り返ると、自分が人生で下したもっとも正しい判断だったと思います。退学を決めたことで、興味もない授業を受ける必要がなくなった。そして、おもしろそうな授業に潜り込んだのです。
とはいえ、いい話ばかりではなかったです。私は寮の部屋もなく、友達の部屋の床の上で寝起きしました。食べ物を買うために、コカ・コーラの瓶を店に返し、5セントをかき集めたりもしました。温かい食べ物にありつこうと、毎週日曜日は7マイル先にあるクリシュナ寺院に徒歩で通ったものです。
それでも本当に楽しい日々でした。自分の興味の赴くままに潜り込んだ講義で得た知識は、のちにかけがえがないものになりました。たとえば、リード大では当時、全米でおそらくもっとも優れたカリグラフの講義を受けることができたました。キャンパス中に貼られているポスターや棚のラベルは手書きの美しいカリグラフで彩られていたのです。退学を決めて必須の授業を受ける必要がなくなったので、カリグラフの講義で学ぼうと思えたのです。ひげ飾り文字を学び、文字を組み合わせた場合のスペースのあけ方も勉強しました。何がカリグラフを美しく見せる秘訣なのか会得しました。科学ではとらえきれない伝統的で芸術的な文字の世界のとりこになったのです。
もちろん当時は、これがいずれ何かの役に立つとは考えもしなかった。ところが10年後、最初のマッキントッシュを設計していたとき、カリグラフの知識が急によみがえってきたのです。そして、その知識をすべて、マックに注ぎ込みました。美しいフォントを持つ最初のコンピューターの誕生です。もし大学であの講義がなかったら、マックには多様なフォントや字間調整機能も入っていなかったでしょう。ウィンドウズはマックをコピーしただけなので、パソコンにこうした機能が盛り込まれることもなかったでしょう。もし私が退学を決心していなかったら、あのカリグラフの講義に潜り込むことはなかったし、パソコンが現在のようなすばらしいフォントを備えることもなかった。もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。
繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。運命、カルマ…、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います。
2つ目の話は愛と敗北です。
私は若い頃に大好きなことに出合えて幸運でした。共同創業者のウォズニアックとともに私の両親の家のガレージでアップルを創業したのは二十歳のときでした。それから一生懸命に働き、10年後には売上高20億ドル、社員数4000人を超える会社に成長したのです。そして我々の最良の商品、マッキントッシュを発売したちょうど1年後、30歳になったときに、私は会社から解雇されたのです。自分で立ち上げた会社から、クビを言い渡されるなんて。
実は会社が成長するのにあわせ、一緒に経営できる有能な人材を外部から招いたのです。最初の1年はうまくいっていたのですが、やがてお互いの将来展望に食い違いがでてきたのです。そして最後には決定的な亀裂が生まれてしまった。そのとき、取締役会は彼に味方したのです。それで30歳のとき、私は追い出されたのです。それは周知の事実となりました。私の人生をかけて築いたものが、突然、手中から消えてしまったのです。これは本当にしんどい出来事でした。
1カ月くらいはぼうぜんとしていました。私にバトンを託した先輩の起業家たちを失望させてしまったと落ち込みました。デビッド・パッカードやボブ・ノイスに会い、台無しにしてしまったことをわびました。公然たる大失敗だったので、このまま逃げ出してしまおうかとさえ思いました。しかし、ゆっくりと何か希望がわいてきたのです。自分が打ち込んできたことが、やはり大好きだったのです。アップルでのつらい出来事があっても、この一点だけは変わらなかった。会社を追われはしましたが、もう一度挑戦しようと思えるようになったのです。
そのときは気づきませんでしたが、アップルから追い出されたことは、人生でもっとも幸運な出来事だったのです。将来に対する確証は持てなくなりましたが、会社を発展させるという重圧は、もう一度挑戦者になるという身軽さにとってかわりました。アップルを離れたことで、私は人生でもっとも創造的な時期を迎えることができたのです。
その後の5年間に、NeXTという会社を起業し、ピクサーも立ち上げました。そして妻になるすばらしい女性と巡り合えたのです。ピクサーは世界初のコンピューターを使ったアニメーション映画「トイ・ストーリー」を製作することになり、今では世界でもっとも成功したアニメ製作会社になりました。そして、思いがけないことに、アップルがNeXTを買収し、私はアップルに舞い戻ることになりました。いまや、NeXTで開発した技術はアップルで進むルネサンスの中核となっています。そして、ロレーンとともに最高の家族も築けたのです。
アップルを追われなかったら、今の私は無かったでしょう。非常に苦い薬でしたが、私にはそういうつらい経験が必要だったのでしょう。最悪のできごとに見舞われても、信念を失わないこと。自分の仕事を愛してやまなかったからこそ、前進し続けられたのです。皆さんも大好きなことを見つけてください。仕事でも恋愛でも同じです。仕事は人生の一大事です。やりがいを感じることができるただ一つの方法は、すばらしい仕事だと心底思えることをやることです。そして偉大なことをやり抜くただ一つの道は、仕事を愛することでしょう。好きなことがまだ見つからないなら、探し続けてください。決して立ち止まってはいけない。本当にやりたいことが見つかった時には、不思議と自分でもすぐに分かるはずです。すばらしい恋愛と同じように、時間がたつごとによくなっていくものです。だから、探し続けてください。絶対に、立ち尽くしてはいけません。
3つ目の話は死についてです。
私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。
自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。
1年前、私はがんと診断されました。朝7時半に診断装置にかけられ、膵臓(すいぞう)に明白な腫瘍が見つかったのです。私は膵臓が何なのかさえ知らなかった。医者はほとんど治癒の見込みがないがんで、もっても半年だろうと告げたのです。医者からは自宅に戻り身辺整理をするように言われました。つまり、死に備えろという意味です。これは子どもたちに今後10年かけて伝えようとしていたことを、たった数カ月で語らなければならないということです。家族が安心して暮らせるように、すべてのことをきちんと片付けなければならない。別れを告げなさい、と言われたのです。
一日中診断結果のことを考えました。その日の午後に生検を受けました。のどから入れられた内視鏡が、胃を通って腸に達しました。膵臓に針を刺し、腫瘍細胞を採取しました。鎮痛剤を飲んでいたので分からなかったのですが、細胞を顕微鏡で調べた医師たちが騒ぎ出したと妻がいうのです。手術で治療可能なきわめてまれな膵臓がんだと分かったからでした。
人生で死にもっとも近づいたひとときでした。今後の何十年かはこうしたことが起こらないことを願っています。このような経験をしたからこそ、死というものがあなた方にとっても便利で大切な概念だと自信をもっていえます。
誰も死にたくない。天国に行きたいと思っている人間でさえ、死んでそこにたどり着きたいとは思わないでしょう。死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それは、あるべき姿なのです。死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。深刻な話で申し訳ないですが、真実です。
あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。
私が若いころ、全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)というすばらしい本に巡り合いました。私の世代の聖書のような本でした。スチュワート・ブランドというメンロパークに住む男性の作品で、詩的なタッチで躍動感がありました。パソコンやデスクトップ出版が普及する前の1960年代の作品で、すべてタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラで作られていた。言ってみれば、グーグルのペーパーバック版です。グーグルの登場より35年も前に書かれたのです。理想主義的で、すばらしい考えで満ちあふれていました。
スチュワートと彼の仲間は全地球カタログを何度か発行し、一通りやり尽くしたあとに最終版を出しました。70年代半ばで、私はちょうどあなた方と同じ年頃でした。背表紙には早朝の田舎道の写真が。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクをする時に目にするような風景です。その写真の下には「ハングリーなままであれ。愚かなままであれ」と書いてありました。筆者の別れの挨拶でした。ハングリーであれ。愚か者であれ。私自身、いつもそうありたいと思っています。そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。
ハングリーであれ。愚か者であれ。
ありがとうございました。
※スティーブ・ジョブズ氏が2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチ原稿の翻訳(2011年10月9日 日本経済新聞)
2011年10月11日火曜日
沖縄2011 安慶名敷島
2011年10月10日月曜日
沖縄2011 阿嘉島・ニシハマビーチ
阿嘉島は、那覇市から約40Kmの位置にあり、人口は350人ほど、行政区は座間味村になります。島のほとんどは森林原野に覆われていて起伏も激しく、天然記念物に指定されている慶良間鹿も見かけることができるなど、色々と楽しめる島のようです。
今回は、座間味島から日帰りで阿嘉島・ニシハマビーチへ行ってきました。余談ですが、同じ船で昨年お世話になった「パパイア光太郎」さんに再会することができました。
阿嘉港から車で10分程度のところに、透明度の高いニシハマビーチがあります。”ニシ”は方言で北を意味するそうで、漢字で書くと”北浜”になります。人の手があまり入っていないようなので、無人島のような自然を満喫することができます。遠浅の海には、元気の良いカラフルな魚たちがサンゴ礁に群れて気持ちよさそうに泳いでいます。
(関連サイト)阿嘉島・ニシハマビーチ(沖縄情報IMA)
(関連動画)
Aka Island Okinawa(You Tube)
阿嘉島の場所
沖縄2011 バックナンバー
今回は、座間味島から日帰りで阿嘉島・ニシハマビーチへ行ってきました。余談ですが、同じ船で昨年お世話になった「パパイア光太郎」さんに再会することができました。
座間味島から阿嘉島に行く途中に見える美しい無人島 左:安慶名敷島、右:嘉比島 |
阿嘉島行き高速艇に並走して手を振るダイバー |
阿嘉島と慶留間島の間に架かる阿嘉大橋 |
阿嘉港のターミナル |
阿嘉港の前にある「シロ」の像 座間味島の「マリリン」の像と向き合っているそうです |
(関連サイト)阿嘉島・ニシハマビーチ(沖縄情報IMA)
(関連動画)
Aka Island Okinawa(You Tube)
阿嘉島の場所
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2011年10月8日土曜日
総体は部分の集合とは異なる (ドラッカー)
社会生態学は、分析ではなく観察に基準をおく。知覚することに基礎をおく。
したがってそれは、いわゆる科学ではない。
捨象してはならないからだけではない。総体としての形態を扱うからである。
総体は、部分の集合と大きさは同じかもしれない。
しかし、部分の集合とは基本的に異なる。
したがってそれは、いわゆる科学ではない。
捨象してはならないからだけではない。総体としての形態を扱うからである。
総体は、部分の集合と大きさは同じかもしれない。
しかし、部分の集合とは基本的に異なる。
2011年10月6日木曜日
沖縄2011 座間味島・古座間味ビーチ
昨年に続き座間味島を訪問しました。海の美しさに惹かれました。二度目の訪問も期待を裏切らない素晴らしいものでした。
港のそばの木陰に建てられた「太平洋戦争沖縄戦上陸第一歩之地」の碑
1945年4月1日から始まる沖縄本島上陸に向けて米軍は、その補給基地とするために、ここ座間味島、阿嘉島、慶留間島、外地島、そして現在は無人島となっている屋嘉比島を攻撃、上陸しました。座間味島には、3月26日午前9時、この碑のある座間味港近辺に上陸したそうです。
(関連サイト)沖縄戦での住民集団死・集団自決と捕虜処刑(鳥飼行博研究室)
(関連動画)太平洋戦争 沖縄戦(You Tube)
もちろん、古座間味ビーチにも行きました。砂浜からわずか数メートルで、たくさんの熱帯魚に出会える美しい海です。
座間味島の場所
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港のそばの木陰に建てられた「太平洋戦争沖縄戦上陸第一歩之地」の碑
1945年4月1日から始まる沖縄本島上陸に向けて米軍は、その補給基地とするために、ここ座間味島、阿嘉島、慶留間島、外地島、そして現在は無人島となっている屋嘉比島を攻撃、上陸しました。座間味島には、3月26日午前9時、この碑のある座間味港近辺に上陸したそうです。
(関連サイト)沖縄戦での住民集団死・集団自決と捕虜処刑(鳥飼行博研究室)
(関連動画)太平洋戦争 沖縄戦(You Tube)
もちろん、古座間味ビーチにも行きました。砂浜からわずか数メートルで、たくさんの熱帯魚に出会える美しい海です。
座間味島の場所
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2011年10月5日水曜日
沖縄2011 奥武島
沖縄本島南部にある奥武島に立ち寄りました。島は、那覇から車で40分ほどのところにあり、沖縄本島(玉城村)と150mほどの短い橋で結ばれており、周囲は約2km、車なら5分もあれば一周できます。
奥武島へつながる橋を渡り終えると正面右にてんぷら屋さんがあり、行列ができ大賑わいでした。早速並んで、さかな、イカ、いも、もずく、野菜を食べてみましたが、とても美味しくドライブの休憩にぴったりでした。奥武島に立ち寄られたときはぜひ食べてみてはいかがでしょうか。
奥武島の場所
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奥武島へつながる橋を渡り終えると正面右にてんぷら屋さんがあり、行列ができ大賑わいでした。早速並んで、さかな、イカ、いも、もずく、野菜を食べてみましたが、とても美味しくドライブの休憩にぴったりでした。奥武島に立ち寄られたときはぜひ食べてみてはいかがでしょうか。
奥武島の場所
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2011年10月4日火曜日
沖縄2011 さんご畑
家族のリクエストに応えて昨年に続き訪問。今回は、昨年工事中だった2つ目の大池「auサンゴの池」を見るのが楽しみの一つでした。
2つ目の大池「auサンゴの池」は今年3月5日(サンゴの日)にオープンしました。この池では、池の中をアクリル窓を通して見ることができ、サンゴと同じ目線でサンゴ礁を体感できます。まるでサンゴ礁を泳いでいるかのように間近で観察ができます。また、色とりどりのサンゴだけでなく、様々な生き物が棲んでおり、いろんな発見ができます。
(関連過去記事)Okinawa 2010 自然を学ぼう-さんご畑(2010年10月15日)
詳しくはこちらをどうぞ → さんご畑オフィシャルサイト
さんご畑の場所
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2つ目の大池「auサンゴの池」は今年3月5日(サンゴの日)にオープンしました。この池では、池の中をアクリル窓を通して見ることができ、サンゴと同じ目線でサンゴ礁を体感できます。まるでサンゴ礁を泳いでいるかのように間近で観察ができます。また、色とりどりのサンゴだけでなく、様々な生き物が棲んでおり、いろんな発見ができます。
(関連過去記事)Okinawa 2010 自然を学ぼう-さんご畑(2010年10月15日)
詳しくはこちらをどうぞ → さんご畑オフィシャルサイト
さんご畑の場所
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2011年10月3日月曜日
沖縄2011 美ら海水族館
家族全員の強い希望により毎年訪問しているスポットです。今年もジンベイザメやマンタをはじめ元気に泳ぐ魚たちに癒されました。
過去記事は、こちらをどうぞ。
「黒潮の海」の大水槽では、15時と17時にジンベエザメの給餌解説があります。
ジンベエザメのダイナミックな食事の様子を見ることができます。
サンゴ礁に生息する様々な生き物が紹介されています。
クマノミ類を集めた水槽など見所がいっぱいです。
イルカたちが楽しいショーを繰り広げる「オキちゃん劇場」
ショーを通して、イルカの生態やイルカの能力についても解説します。
水中のイルカをガラス面から観察できる「ダイバーショープール」
プール清掃ため水が抜かれ、イルカもじっとしているしかありませんでした。
水族館の沖に浮かぶ伊江島に沈む夕日も見事です。
宿泊したオーシャンビューのコンドミニアムホテル「アルマリゾート」
瀬底島が正面に見えます。楽天トラベルアワード賞の銀賞を受賞しています。
美ら海水族館の場所
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過去記事は、こちらをどうぞ。
- 沖縄2007・ジンベエザメとマンタ(2007年12月16日)
- 沖縄2008・美ら海水族館(2008年9月20日)
- 沖縄旅行記2009(9)「ちゅら海水族館」ははずせない(2009年8月31日)
- Okinawa 2010 自然を学ぼう-沖縄美ら海水族館(2010年10月18日)
ジンベエザメのダイナミックな食事の様子を見ることができます。
サンゴ礁に生息する様々な生き物が紹介されています。
クマノミ類を集めた水槽など見所がいっぱいです。
イルカたちが楽しいショーを繰り広げる「オキちゃん劇場」
ショーを通して、イルカの生態やイルカの能力についても解説します。
水中のイルカをガラス面から観察できる「ダイバーショープール」
プール清掃ため水が抜かれ、イルカもじっとしているしかありませんでした。
水族館の沖に浮かぶ伊江島に沈む夕日も見事です。
宿泊したオーシャンビューのコンドミニアムホテル「アルマリゾート」
瀬底島が正面に見えます。楽天トラベルアワード賞の銀賞を受賞しています。
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