あえて「かつて」「欧州において」などと記したのは、こうした大学と社会との関係は、時代や地域によって様々であり、「本来大学とは」「本来国家は〇〇を保障すべき」などとは必ずしも決めつけられないからである。
日本の大学制度は戦前にドイツを参考にして設計され、戦後にアメリカ型に移行した折衷型であるが、我が国の大学人はかつてのドイツの大学の姿へのノスタルジーを強く抱いているように感じる。国立大学が法人化され、運営費交付金が削減され、競争的資金が増加してきたことについて、「本来の大学」はこのように遇されるべきではないという思いは拭いがたいかもしれない。
では、大学と社会との関係は、現在の日本において、どうなっているだろうか。国からの運営費交付金の削減、民間企業から大学に提供される研究資金の少なさ、博士課程に進学する学生の減少、こうした現象は、国家からも、企業からも、学生からも大学に投資する価値が(あるとしても)十分に見えていないことの表れであると考えられる。
「本来の大学」を主張する立場からは、自由にる研究をさせる中から思いがけない発見が生まれるのだから、投資に値する研究をしてぃるかなどと問うべきではないという主張もあるだろう。大学に配分する資金全体のパイが十分に確保できる時代にはそれでよかったのかもしれない。しかしながら、少子高齢化が世界に先駆けて進行し、社会保障費の増大が著しく、財政に余裕がない状況では「限られた資金が有効に使われるのか?」という説明責任の要求が社会の側から高まるのは自然の流れでもある。
大学と社会という二者の関係は相対的なものだから、社会が変われば大学も変わらざるを得なくなる。
これまでは、運営費交付金の削減という「収入減」の議論ばかり行われてきたが、「支出」に着目すると、国立大学全体の事業費は、教育経費と研究経費だけを見ても法人化当初より約1,740億円増加している。事業費の拡大が教育研究の発展のために必然であるとするならば、大学はサステイナブルな財務構造を構築するため、大学への投資を「増やす」ことについて社会の合意を取り付けなけれぱならない。そのためには、大学自身が学内の各所に存在する教育研究の価値を把握し、可視化して、その投資価値を社会に対して積極的に示していくことが必要な時代になっているのではないか。大学と社会との関係は時とともに変化し続ける。かつての大学に戻ることはない、と覚悟を決める時かもしれない。