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「パワハラ」と「忖度」は表裏一体だった-地方議会の知られざる力関係

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2026年8月、宮城県議会で大きなニュースが報じられました。県議会の最大会派に所属するある議員が、複数の県職員に対してパワーハラスメントの疑いのある言動を繰り返していたとして、会派から「厳重注意」を受けたのです。 県が過去の記録を調べたところ、2023年度以降だけで12件のパワハラの恐れがあるやり取りが見つかり、すべて同じ議員が関係していました。「ふざけるな」「最悪の人間だ」といった発言があり、夜眠れなくなった職員もいたといいます。一方で当の議員は「行政の遅れを指摘し改善を促すのは議員の本来の役割であり、パワハラではない」と反論。逆に「執行部こそパワハラだ」と処分に強く反発しています。 「また地方議員のスキャンダルか」と思われるかもしれませんが、実はこれ、宮城県に限った話ではありません。福岡県議会では、パワハラだけでなく「質問の横流し」や職員による「異常な配慮・忖度」という、もう一段深刻な構造問題まで表面化しています。この記事では、実態・問題点・背景・今後の対策という流れで、できるだけわかりやすく整理してみます。 1. 実態:何が起きているのか (1) 福岡県議会で発覚した「質問の横流し」問題 2026年7月、福岡県議会をめぐって衝撃的な調査結果が明らかになりました。県議会での質疑にあたり、各会派が県に事前通知していた「質問案」を、県職員が無断で最大会派(自民党)側に渡していた、いわゆる「横流し」行為が複数確認されたのです。 調査は課長級以上の幹部職員を対象に匿名アンケート形式で実施され、「上からの指示だった」「前任者から引き継いだ」という回答が寄せられました。中には、本来議員が自分で作るべき質問案そのものを、県職員が代わりに作成していたケースもあったといいます。いつから始まったかは判明していませんが、長年の「慣例」として続いてきたとみられています。 これは単なる事務ミスではありません。他会派が用意した質問の中身を、事前に最大会派に流すという行為は、議会でのやり取りを台本通りの「出来レース」にしてしまい、行政をチェックするという議会の機能そのものを空洞化させるものです。 (2) 政治資金パーティー券の組織的購入問題 ...

人間を戦争から解き放つことはできるのか——90年前の往復書簡が問うもの

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「終戦の日」が来るたびに、私たちは「もう二度と戦争を繰り返さない」という誓いを新たにします。ところが今、世界では第二次世界大戦後もっとも多い、およそ60もの武力紛争が同時進行しているといわれています。ウクライナでは侵攻が4年目に入り、中東でも緊張が続く。ニュースを見るたびに、「結局、人類は戦争をやめられない生き物なのか」という重い疑問が頭をよぎります。 この疑問に、90年以上も前、世界的な知性が正面から挑んだことがありました。それが今回考えてみたい話です。 二人の天才に託された、あまりに大きすぎる問い 1932年、第一次世界大戦の反省から生まれた国際連盟が、ある物理学者に頼みごとをします。 「いまの人類にとって一番大事なテーマについて、一番語り合いたい相手と手紙をやりとりしてほしい」 依頼されたのは、相対性理論で知られるアインシュタイン。彼が選んだ相手は、こころの仕組みを研究する精神分析の創始者、フロイトでした。物理学者と心理学者。畑違いの二人が向き合ったテーマは、 「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか」 というものでした。くびき、とは牛や馬の首にはめて荷車を引かせる横木のこと。つまりアインシュタインは、「戦争は人間にとって、逃れられない“宿命”のようなものなのか」と問うたのです。当時は世界恐慌の真っただ中、ドイツではナチスが台頭し、日本は満州事変を起こしていました。世界に再び戦争の足音が近づいていた、まさにそのタイミングでの往復書簡でした。 アインシュタインの答え:「ルールを守らせる仕組みがない」 物理学者らしく、アインシュタインはまず「制度」の欠陥に目を向けます。 考えてみれば、私たちが暮らす社会の中で殺人や強盗が起きにくいのは、警察や裁判所という「違反したら罰せられる仕組み」があるからです。ところが国と国との関係には、そうした「世界の警察」にあたるものが存在しません。当時できたばかりの国際連盟も、各国に強制力を持たせるにはあまりに弱い存在でした。 さらにアインシュタインは、もう一つの厄介な事実を指摘します。それは、権力者が「これは正義の戦いだ」と言えば、多くの市民は疑うことなくそれを信じ、「大切な家族や国を守るための戦争だ」と思い込んで支持してしまう...

「学べば報われる」社会はまだ遠い - 日本のリスキリング、本当の課題

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そもそも「リスキリング」って何? 新しい仕事や技術に対応するために、働く人が新たなスキルを学び直すことです。会社を辞めて大学に入り直す「リカレント教育」とは違い、働きながら、あるいは短期間で新しいスキルを身につけることを指します。 学んでいる人は、たったの15% まず驚くべき数字から。内閣府の調査によると、過去1年間に仕事や職業キャリアに関して何かを学んだ人は、日本全体でわずか約15%でした。10人に1〜2人しか学び直しをしていない計算です。 これは他の先進国と比べてかなり低い水準とされています。北欧諸国やイギリス、ドイツなどでは、社会人になってからも学び続ける文化がもっと根付いており、日本の低さが際立ちます。 なぜ学ばないのか? ―― 「頑張っても報われない」問題 お金や時間の余裕がないことに加えて、「学んでも収入アップにつながらない」という声が目立つそうです。ここが日本の一番の急所だと言えます。 実際のデータを見てみましょう。国がスキルアップを支援する「専門実践教育訓練給付金」という制度があるのですが、その受給者アンケートでは: 在職中に学んだ人のうち、 賃金が上がったのは56%だけ (つまり残り44%は上がらなかった) 転職・再就職のために学んだ人のうち、 35%はむしろ賃金が下がった つまり、頑張って新しいスキルを身につけても、給料に反映されるとは限らない。これでは「学ぼう」というモチベーションが湧きにくいのも当然です。 背景にある日本特有の雇用慣行 なぜこうなるのか。理由の一つは、日本の雇用が「年功序列」「終身雇用」を前提にしてきたことです。欧米で主流の「ジョブ型」(職務・スキルに応じて採用・評価する仕組み)と違い、日本ではスキルよりも勤続年数や社内評価が賃金を左右しやすい構造が根強く残っています。 過去の日経記事でも、この構造への批判は繰り返し出てきました。ある社説では、スキルをベースに人材を採用・処遇し、転職への挑戦が正当に評価される北欧型の柔軟な労働市場を目指すべきだという提言もされています。 支援策にも「偏り」がある もう一つの課題は、支援の対象が偏っていることです。過去の有識者会議の提言では、日本のリスキリング政策は一握り...

山本五十六 ― 反対を貫き、そして戦った提督の実像

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太平洋戦争を指揮した連合艦隊司令長官・山本五十六。「軍のトップでありながら、日米開戦には反対していた」というエピソードは、多くの方が一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。 しかし、この話をどこまで正確にご存じでしょうか。「反対していたのに、なぜ結局は戦争を率いることになったのか」「その反対とは、いったいどのような性質のものだったのか」――こうした点まで踏み込んで知る機会は、意外と少ないように思います。 本稿では、軍事史研究者による書籍や専門メディアの記事など、信頼性の高い資料をもとに、山本五十六という人物の実像を、できるだけ正確に、そしてわかりやすく整理してみたいと思います。 一、三国同盟への反対 ― 命がけで貫いた信念 山本五十六が日独伊三国同盟に反対していたことは、後世の脚色ではなく、軍事史研究者による著作をはじめ、複数の資料で確認できる史実です。 海軍次官という要職にあった山本は、米内光政海軍大臣、井上成美軍務局長とともに、ドイツ・イタリアとの軍事同盟に最後まで反対を続けました。その根底には、英米との関係悪化が長期化していた日中戦争の解決をさらに困難にするという懸念や、ドイツとの軍事同盟が日本の実質的な国益につながらないのではないかという冷静な分析があったとされています。 この反対は、単に会議の場で意見を述べるという穏やかなものではありませんでした。山本たち三人は陸軍や右翼勢力から「国賊」と名指しされ、脅迫状が届くなど、命の危険すら現実味を帯びるほどの圧力を受けたと伝えられています。海軍大臣であった米内光政が、山本の身を案じてあえて彼を東京の中枢から連合艦隊司令長官という現場の職へ転出させた、という経緯も、複数の記録に残されています。 つまり、三国同盟への反対は、身の安全を犠牲にしてでも貫かれた、確固たる信念に基づく行動だったのです。もっとも、山本たちが中枢を離れた後、海軍全体の空気は変わり、1940年、三国同盟は締結されることとなりました。 二、対米開戦への反対 ― その真意を丁寧に読み解く 山本の対米開戦反対については、「勝てないとわかっていたから反対しただけで、戦争そのものへの反対ではなかった」という見方がしばしば語られます。これはある程度正確な指摘ではありますが、単...

雨の日は、雨を好きになればいい

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雨が降ると、みんな同じ顔をします。 「あーあ、最悪」 でも、雨は何もしていません。ただ降っているだけです。 「最悪」だと決めているのは、雨じゃなくて、自分です。 ◆ ◇ ◆ 「雨ニモマケズ」という有名な言葉があります。 雨にも風にも、負けないように生きよう。 美しい言葉です。でも、よく読むと、これって「雨は敵だ」と言っているのと同じなんです。 負けないように頑張る。それは、本当は来てほしくないものと、毎回戦い続けるということです。 ◆ ◇ ◆ もう一つの生き方があります。 雨の日は、雨を愛してしまう。 風の日は、風を好きになってしまう。 戦わない。我慢しない。ただ、好きになる。 これができたら、人生から「敵」が一つ消えます。 ◆ ◇ ◆ 松下幸之助さんは言いました。 「好況よし、不況さらによし」 不況は、乗り越えるものじゃない。不況だからこそできることがある、というんです。 多くの人は、不況を「早く終わってほしい罰ゲーム」だと思っています。 彼は違いました。不況を、罰ゲームだと思うのをやめたんです。 ◆ ◇ ◆ 我慢して耐える生き方が、悪いわけじゃありません。 必死に耐えている人を、否定するつもりは一切ありません。 でも、一つだけ聞きたいことがあります。 あなたは今、何と戦っていますか。 満員電車、体調不良、うまくいかない仕事、面倒な人間関係―― それ、本当に「戦う」必要がありますか。 それとも、ただ「最悪だ」と決めつけているだけですか。 ◆ ◇ ◆ 状況は選べません。でも、その状況をどう呼ぶかは、自分で選べます。 「最悪」と呼べば、最悪になります。 「これはこれで」と呼べば、そうなります。 雨は、ただ降っているだけです。 それを最悪にするのも、悪くないものにするのも、自分次第です。 参考: 風の日は風を好む|人の心に灯をともす

「守られない社内規程」を卒業する5つの処方箋

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「規程集は立派にできているのに、誰も開いていない」「厳しいルールを作ったら、現場が勝手に抜け道を作り始めた」——そんな経験はありませんか。実はこれ、多くの会社で起きているごくありふれた現象です。 なぜ真面目に作ったルールほど、現場で無視されてしまうのか。そして、どうすれば「使われる規程」に変えられるのか。その仕組みと具体策を、実例を交えながら詳しく見ていきます。 なぜルールが守られなくなるのか たとえば「10万円以上の物品・サービス購入にはすべて役員決裁を要する」という購買管理規程を定めたとします。一見、無駄遣いや不正を防ぐ堅実なルールに見えます。しかし成長期の会社では、日々細かい発注が大量に発生します。その一つひとつに役員の判断を仰いでいたら、事業のスピードが著しく落ちてしまいます。 すると現場は次のような「抜け道」を編み出し始めます。 分割発注による決裁回避 :15万円の資材を購入する際、あえて伝票を2枚に分け、それぞれ10万円未満に見せかけて自分の承認権限内で処理してしまう。 事後承認の常態化 :先に発注・納品を進めてしまい、請求書を受け取った後になって「緊急対応だった」という理由で、過去の日付にさかのぼって決裁を通す。 こうした運用が一度や二度で終わればまだいいのですが、常態化すると「もっともらしい理由さえ付ければ、規程は破ってもかまわない」という空気が組織全体に広がっていきます。この状態が怖いのは、本当に見過ごしてはいけない不正の兆候までもが、「いつもの例外処理」の中に紛れ込んでしまい、内部統制としての機能を完全に失ってしまう点です。つまり、ガバナンスを強化しようとして厳格な条文を定めたことが、かえって会社を危険にさらすという皮肉な結果を招くわけです。 では、どうすればこの悪循環を断ち切れるのでしょうか。ここからは5つの具体策を紹介します。 解決策① ルールを3つの階層に分ける すべてのルールを1つの分厚い規則集に詰め込むのではなく、「規程(本則)」「細則」「要領・ガイドライン」という3階層に分離して設計します。それぞれ記載する内容の抽象度と、誰が改定を決められるか(改定権限)を明確に切り分けるのがポイントです。 ...

誰が決めているのか⑤ 変えるのは、あなた

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政治家でも、官僚でもない、もう一人の当事者。 ここまで四回にわたって、政治家になる入口、官僚との関係、政治とカネ、そして福岡県議会という具体的な地方議会の権力構造について考えてきました。今回は、視点を私たち自身に転じます。政治家、役人、そして有権者。この三者の関係を、最後にもう一度、根本から問い直したいと思います。 三者の、本来あるべき関係 民主主義における基本的な関係は、本来こうあるべきです。 有権者が選挙によって意思を示し、政治家がそれを受けて政治的な優先順位を決定し、行政が専門性をもって制度設計と執行を支え、社会がその結果を評価する。 そして、その評価が再び選挙を通じて、次の政治家の選択へと戻っていく。 この循環が健全に機能すれば、良い政策が良い結果を生み、有権者がそれを評価し、政治家が再選されるという好循環が生まれます。逆に、人気だけで選挙が行われ、政治家が行政に依存したまま政策が失敗し、責任の所在が曖昧なまま、また人気で次の選挙が行われる、という悪循環に陥れば、政治はいつまでも改善しません。 政治家の責任、役人の責任 政治家には、明確な責任があります。政治家とは、最終的に政策を選択する人間だからです。役人がどれほど優秀な説明をしても、最終的な政治判断を下すのは政治家です。したがって、 「役人がこう言ったから」というのは、政治家の免責理由にはなりません 。役人が選択肢を提示し、政治家がその中からどの道を選ぶかを決め、結果について責任を負う。これが本来の役割です。 一方、役人にも明確な役割があります。役人は政治家の従者ではなく、また政治家に代わって政策を決める存在でもありません。法律に基づいて行政を運営し、正確な情報を提供し、政策の実現可能性やメリット・デメリットを政治家に提示することが役人の仕事です。政治家から不合理な要求を受けた場合には、「それはできません」と言えることも、健全な行政の条件です。ただし、ここにはもう一つの危険があります。政治家に従属しすぎる役人は、逆に、自分たちに都合の良い政策へと政治家を誘導することもできてしまいます。だからこそ、 政治家の政治的責任と、役人の行政的専門性を明確に分けること が必要なのです。 有権者の責任――専門家になる必要はありません ここが、おそらく最も難しいところです。「良い政治家を選べ」...

終戦記念日と小戸公園ラン

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お盆休みも今日で最終日。8月15日は終戦記念日ということで、正午には黙祷を捧げ、仏壇に手を合わせてから、ランニングシューズを履いて外へ出ました。 今日はいつもより少し距離を伸ばして、福岡市西区の小戸(おど)公園を経由する約20kmコース。 小戸公園内には海沿いのBBQ場があり、お盆ということもあってか、園内にはテントが並び、BBQを楽しむ家族連れの姿もちらほら見えました。 公園は、松林と椰子(ヤシ)の木が同居する景観がお気に入りのポイント。入江の穏やかな水面や、マリーナに並ぶヨットのマストを眺めながら走りました。 残念ながら快晴とはいかず、薄雲がかかったどんよりとした空。写真の出来はイマイチでしたが、日差しが強すぎないぶん、ランニングには走りやすいコンディションでした。 とはいえ、8月の福岡はまだまだ真夏日。帰路は暑さでヘロヘロに。帰宅後はキンキンに冷えたビールと酎ハイで復活中です。

文官、ただ一人死刑になった男-終戦の日に広田弘毅を考える

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今日、8月15日は終戦の日です。 81年前のこの日、日本は戦争を終えました。多くの人が、この日を、戦争で亡くなった方々を悼み、平和について考える日として過ごすことと思います。 しかし、戦争を終わらせることと同じくらい大切なのは、「なぜ、その戦争を止められなかったのか」を問い直すことではないでしょうか。 その問いを考える手がかりとして、今日は一人の政治家を取り上げたいと思います。 名前は、広田弘毅(ひろた・こうき)。 戦前、外務大臣と内閣総理大臣を務めた外交官出身の政治家です。東条英機ほど一般には知られていないかもしれません。しかし広田には、東京裁判で裁かれた政治家たちの中でも、とりわけ特異な立場がありました。 極東国際軍事裁判で死刑を宣告された7人のうち、広田は文官としてただ一人でした。軍歴を持たない、外交官出身の政治家が、東条英機ら軍人たちとともに絞首刑に処せられたのです。裁判は1946年5月3日に開廷し、1948年11月12日に判決が言い渡され、同年12月23日、死刑を宣告された7人の刑が執行されました。 では、なぜ一人の外交官出身の政治家が、軍人たちと並んで死刑台に立つことになったのでしょうか。 そこには、「戦争を起こしたのは軍部だった」という単純な図式だけでは説明できない、当時の政治家と軍部の関係、そして政治家個人が負う責任の問題があります。 広田弘毅の生涯をたどることは、戦争を止められなかった一人の政治家を今さら裁くことではありません。むしろ、「自分なら、あの状況で何ができただろうか」という問いを、自分自身に向けることでもあるのです。 石屋の家に生まれ、外交官になる 広田弘毅は1878年2月14日、福岡県福岡市の石屋の家に生まれました。父が石屋の養子となり、広田姓を名乗った家系だったといいます。 決して裕福な生まれではありませんでしたが、成績優秀だった広田は、福岡の玄洋社関係者から支援を受けて進学しました。学費は玄洋社の平岡浩太郎(初代社長)が提供し、旧制第一高等学校、東京帝国大学へと進みます。また頭山満(とうやま みつる)の紹介で、副島種臣や山座円次郎といった人物とも接点を持つようになりました。 本名は「丈太郎」でしたが、のちに「弘毅」へと改めています。論語の一節「士は以って弘毅ならざるべからず(志...

数字では見えてこない、もうひとつの「敗戦」

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今日8月15日で、終戦から81年。「太平洋戦争を数字で振り返る」という切り口の記事はよく見かけますが、動員兵力や物価といった数字の裏側には、もっと個人的で、もっと生々しい「敗戦」の姿があります。 同じ8月15日という日を、ある人は雑音混じりのラジオで知り、ある人は終戦の知らせを受けてもそれを信じず、何十年も密林で過ごしました。「終わった」はずの戦争が、実は多くの人にとって別の苦しみの「始まり」でもありました。この記事では、そんな数字には表れにくい6つの視点から、あの夏を振り返ってみます。 ① その日、全員が同時に「負け」を知ったわけではなかった 1945年8月15日正午に流れた「玉音放送」。私たちは「この日、日本中が一斉に敗戦を知った」というイメージを持ちがちですが、実際のプロセスを追うと、もっと危うい綱渡りの上に成り立っていたことがわかります。 録音が行われたのは、放送前日の8月14日深夜。宮内省内廷庁舎(現在の宮内庁庁舎)の御政務室に置かれたマイクの前で天皇が終戦の詔書を読み上げ、隣室でNHK(当時の日本放送協会)の技術職員が録音機を操作しました。録音は2度行われ、実際に翌日の放送で使われたのは2度目の録音です。つまり、私たちが知る「あの声」は一発録りではなく、撮り直しを経たテイクだったわけです。 放送そのものにも、知られざる経緯がありました。正午の時報から始まり、詔書の朗読を挟んで全体で約37分間続いたこの番組ですが、番組全体の録音は、占領軍への配慮から放送翌日の16日にはもう破棄されてしまったと言われています。今テレビの特番などで繰り返し使われている音源は、実は1946年7月にGHQへ一時貸し出された際に複製されたものが元になっているとみられており、いわば「複製のさらに複製」を私たちは聴いていることになります。 放送を伝えるラジオという手段自体も、限られた家庭にしか届かないものでした。都市部でラジオを持つ家は多くても、農村部や、空襲で家財を失った人たちにとっては、正午のその瞬間に放送を聞ける保証はありませんでした。加えて、放送は独特の言い回しと雑音のため、内容をすぐには理解できなかった人も少なくありませんでした。8月15日は...