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記事紹介|一人も取り残さず

2020年は、コロナ禍の陰で、教育格差の解消という課題にスポットライトが当たった年だったと個人的には認識しているが、この点に関して文科省の動きが鈍いことは大いに不満である。彼らにとって目下一押しの政策らしいGIGAスクールでは、一人も取り残さないなどと威勢の良い口上が大臣からもあったが、それが具体的に何を意味するのかはよく分からない。一般的に、霞が関で成果目標を明示しない政策は、実現の責任を負わないと宣言しているようなものである。 教育格差の解消は、憲法第26条に由来する、国に対して積極的な作為を請求する権利(それに対応する国の配慮義務)に基づく課題だと思っている。深まり行く経済格差の拡大が、日本社会の基本構造を掘り崩し、国民の分断を押し進めることは、もはや明らかである。教育は、そんな危険をはらむ社会の安定装置にならなければならない。今や、教育格差の解消は、文科省の存在意義といっても過言ではないはずである。菅政権の一丁目一番地であるデジタル化の推進も結構だが、より本質的な教育格差の解消について、文科省から包括的な政策が打ち出されるべきであろう。特に、高校から高等教育段階におけるキャリア教育(雇用可能性を高める基本的な知識技能の習得)、社会に出てからのリカレント教育(産業構造の転換に即した実践的スキルの習得)について、経済支援を含む具体的な社会システムの構築が急がれる。あえて政策と言っているのは、単発の施策でやっているふりをしたところで、教育格差の解消には程遠いからである。単発の施策は、思い付きで、脈絡なく、打ち上げて終わりになることが大半である。予算に見合う成果は残らず、施策の残骸と虚しさだけが残る。そんなやったふりで、時間が無駄になり、教育格差はより深刻になり、相対的な弱者にとっては、社会での生きにくさが増していく。この分野の不作為は、国としての破滅への道だと理解すべきであろう。その意味で、文科省には、日本という国の未来が託されているのである。その割に危機感が薄い印象であり、失望を禁じ得ない。 重点となっているGIGAスクール構想に関しても、デジタル教科書の機能、その利用による学習効果などについて、ロジカルな説明がない上に、肝心のデジタル教育に関する教員のスキルアップをどうするのか、いまだに施策らしいものがない。一つの政策として、肝心な箇所に穴が開いたままで、スト...

記事紹介|コロナ禍における授業の在り方

大学が文科省に対して嘘の回答をするとは思いたくないが、12月24日の朝刊各紙に掲載されている標記の調査結果は、真実性にかなり疑問がある。大学からの回答に関して裏付けを取らずに、鵜呑みにしているからである。対面授業の割合が低いとする回答をしている大学については、一応、額面通りに受け取って構わないだろう。調査前に対面授業の割合が低い大学は名前を公表することがあるとされていたこと、それらの大学には、学長からのメッセージや学生の理解度など付加的な情報についても回答が求められたことから、大学の方針として、あえてオンライン教育を選択していることを明らかにしているからである。他方で、比較的小規模な大学で、後期には、感染対策を講じながらの対面授業を選択したという事情も理解できる。 恐らく真実性を問うべきは、規模が大きな大学で、「半々」という回答をしているところである。すべてを疑うわけではないが、オンラインか対面かは、教育に係る方針の問題なので、原則としてどちらかの方法を選択するはずである。したがって、基本的にどちらかに偏るのが自然であろう。「半々」というのは、対面への切り替え方針が、学部に浸透せず、まったく徹底できなかったという意味になるのであろうか? 私が調査を担当するならば、そのあたりの事情を詳しく聴くだろう。方針の転換に関する一連の経緯のほか、どういう授業科目で、何ゆえに対面に切り替えられなかったのか、確認する。主としてオンラインを選択している大学の付加的な記述の中にも、そうした学内事情らしいものが垣間見える。今はオンラインが主だが、次年度からは、対面を原則とするなどの方針を述べている大学も相当ある。文科省へのリップサービスかもしれないが・・・。「半々」と回答した大学に、付加的な記述を求めなかったのは、真実性の確保という意味で、調査側の手落ちとしか思えない。もっとも、真実性を重視しているならば、バイアスをかけておいて回答を求めたこと自体が、正しい手続きではなかった。大学名を公表されるのを避ける意味で、回答の担当者が平気で嘘をつく大学があるとは思わなかったのだろうか? あるいは、授業があった期間に、幾つかの大学を選んでキャンパスを訪問すれば、どの程度の学生が来ているか、容易に実感できただろう。大学の回答を信用しすぎると、真実性が低いデータを報道機関に提供してしまう。後で真相が明...

記事紹介|霞が関が学びきれていない失敗の本質

大学の現場感覚としては、大学入試センター試験は、標準的な学力の測定という意味で、問題作成の質が高く、高校学習指導要領への配慮も十分で、総合的に高評価を得ていると感じていた。確かに英語のリスニング試験は無理をしながらの実施だったが、何とか定着をみたと考えていた。何よりも、答案を短期間に正確に採点をするとともに、受験生側も自己採点で結果の予想が精度よく可能だったので、この種の試験としては、大学や高校の教育関係者からも評判がよく、国から褒められてしかるべき実績を残していた。 しかし、文科省は、トップダウンで、高校教育の改善を念頭に、高大接続部分に当たる大学入試を、外国(主にアメリカ)のシステムをモデルにして「改革」すると言い出した。うまくいっている大学入試センター試験を「改革」する必要はなかったはずだが、1点刻みの合否判定は不合理、複数の受験機会を設けるべき、記述式の設問も必要、英語は民間試験に代替することが可能などなど、種々の理由を持ち出して、センター試験を廃止して、新たな試験システムを構築する方向で、学識者らを集めて、急ピッチで検討を行ったのである。 その結果については、大きな目玉とされた記述式の採用が、採点の技術的問題で見送られ、英語の民間試験の導入も、得点換算の公平性の観点から先送りになっていると理解している。文科省にも、言い分は色々とあるだろうが、ここまでボロボロになって撤退した「改革」はあまり記憶にない。この「改革」を含めて大学入試の諸課題について幅広く論じている「大学入試がわかる本」(中村高康編、岩波書店)所収の荒井克弘「高大接続改革の現在」論文には、現場の学識者としての無念さがにじみ出ており、その優れた分析とともに、共感を禁じ得ない。 ここでは、なぜ、こうした失敗が繰り返されるのか、失敗から何を学ぶのか、考えてみたい。簡単に言えば、この分野の古典である「失敗の本質」(戸部、寺本、鎌田、杉之尾、村井、野中著、中公文庫)から、いまだに霞が関が学びきれていないということになる。霞が関の病理は、日本軍の組織的病理と同根である。以下に、私が考える今回の失敗の要因を挙げてみたい。なお、ケースとしては、文科省の事例だが、現在の霞が関に広く蔓延している傾向であると感じている。 第1に、現場、現実を踏まえない計画を立案してしまうことである。よくあるのは、背景も状況も異なる外...