2019年4月30日火曜日

記事紹介|沖縄にとっての令和

明日から「令和」。「昭和」「平成」と放置され続けた沖縄の苦悩を「令和」で断ち切りたい。これからも国民共有の課題として向き合いたい。(以下記事引用)


昭和の終わりの4年間、東京の沖縄県人学生寮「南灯寮」で暮らした。平成に代替わりしたころ、官僚試験突破を目指す東大生など10人余の学生サークルと交流する機会があった。官僚になったら、実現したいという沖縄振興策を立案していた彼らから「沖縄のことを学びたい」と招かれた席で、持論を浴びせられた。

「沖縄は米軍基地を受け入れるべきだ。賛否が割れているから駄目だ」「全国平均の倍の失業率は永遠に改善できるはずがない」「基地の代償として振興予算を引き出し続け、生活すればよい」「自立意識が弱すぎる」

“上から目線”で繰り出すヤマトの学生の決め付け調の「沖縄論」に反論したが、こちらの論拠の乏しさと心に巣くっていた「劣等感」も災いして議論は全くかみ合わず、悔しさが募った。

私が入社した平成元(1989)年の沖縄への観光入域客は267万人だったが、30年を経た2018年度の数値は1千万人まであと千人に迫った。外国人観光客だけで300万人を突破する時代を誰が予測しただろうか。2月には県内の完全失業率(2・0%)が全国平均を初めて下回った。

第3次産業の比率の高さや県外資本への利益流出など課題は多いものの、沖縄の基地依存経済からの脱却の足取りは加速度的である。隔世の感を覚える県民は多いだろう。

平成の30年4カ月を振り返ると、基地問題、政治、経済、文化、社会のどの分野でも沖縄社会は大きな変化を遂げた。沖縄戦で焼け落ちた首里城が復元(92年)し、国籍を超えて戦没者を刻銘する、類例なき鎮魂碑「平和の礎」が建立(95年)されて不戦を誓うシンボルとなった。

安室奈美恵さんら県出身アーティストの大活躍、高校野球の沖縄尚学、興南の両校の4度にわたる全国制覇など、本土と異なる独自の歴史と文化、沖縄の底力が内外で高く評価され、多くの県民がウチナーンチュとしてのアイデンティティーに誇りと自信を強めた。ヤマトへの「劣等感」は大きく払拭(ふっしょく)されつつある。

その一方、95年の米兵少女乱暴事件に象徴される過重な基地負担は、県民の尊厳を傷つける古くて新しいとげとして、沖縄社会に突き刺さり続けている。辺野古新基地建設を巡り、大多数の国民が見て見ぬふりをする「人ごとの論理」が、沖縄の民意を一顧だにせず、屈従を強いる日本政府を下支えしている。

本土との心の距離が広がる中、「国内で沖縄は公平に扱わなくてもいい存在にされ、本土の犠牲になることを拒む『自己決定権』の確立を求める県民意識が強まった」(比屋根照夫琉球大学名誉教授)という指摘は的を射ている。沖縄に日米安保の負担を集中させる「構造的差別」は深まり、治癒が見通せない片頭痛の病因と化して久しい。

新しい「令和」の世は、沖縄の主体性と創意に彩られた豊かで平和な時代を紡ぎたい。そのためには、深刻な子どもの貧困などの内なる課題にも真摯(しんし)に向き合わねばならない。他者の痛みを受け止めて行動する「肝苦(ちむぐ)りさ」の心を広く共有したいものだ。

「まつろわぬ民」という言葉がある。大和朝廷への理不尽な服従を拒んだ蝦夷が語源だが、今の沖縄にも通じる。

試練が続く沖縄には、この国の民主主義が生きているか否かを映し出す鏡の役割も課せられている。まつろわぬ心で民の声を反映させ、沖縄社会に横たわる不条理と片頭痛克服に挑む担い手は、主権者たる県民一人一人である。

記事紹介|”ねばならない”を捨てよう

まじめなことが悪いのではない。

几帳面であること、ミスや失敗に注意深く対処することは、むしろその人の長所ともなりえるものだろう。

また、まじめで几帳面な性格だからといって、ミスや失敗を気にするからといって、すぐに「心が疲れやすくなる」ともかぎらない。

問題なのは「まじめ」が「がんこ」に、「几帳面」が「潔癖症」に、「ミスや失敗を気にする」が「悲観的」にまでエスカレートしてしまうところだ。

なぜエスカレートするのかといえば、「ねばならない」という意識が強すぎるのである。

「まじめでなければならない」「几帳面でなければならない」「ミスや失敗をしてはならない」という意識が、自分に強いプレッシャーをかけていることが少なくない。

このような「ねばならない」という意識は、子供のころからの親のしつけが大きく関与していることは間違いない。

ほとんどの人は、「〇〇しなきゃ、ダメでしょ!」という、母親のかん高い声が耳に残っているはずだ。

この声が下敷きになって、「ねばならない」という意識が必要以上に育ってしまったのかもしれない。

まず捨ててほしいのは、この「ねばならない」という意識だ。

「まじめにやろう」ぐらいで止めておけばいいのだ。

「まじめでなければならない」とまでは考えてはならない。

ある銀行マンが笑いながら、こんなことをいっていた。

毎日朝礼があって上司の訓示があるらしいのだが、その訓示というのが、

「今日は月末だから、目標達成のために気合を入れてがんばろう」。

翌日は「初めよければ、すべてよし。今日は月の初めだ、がんばろう」。

その翌日、「支店長から、がんばってくれと訓示があった。いつにも増してがんばろう」。

また翌日は「いよいよキャンペーンが始まります。がんばって、がんばって、がんばり抜こう」…と。

結局、「毎日が特売日」のようなもので、ひと息いれる暇がない。

余裕やゆとりがなくなっていき、知らず知らずのうちに、心が「がんばらなければならない」という意識に縛られ、みずからにストレスをかけてしまう。

この「ねばならない」という意識を捨てるためにも、「いいかげん」が大切なのだ。

積極的に「いいかげん」を取り入れて、自分の心をもっと遊ばせてやろう。

遊ばせてこそ、心は元気でいられる。

上司からいくらハッパをかけられようと、結局はあなたの心がけ次第だ。

「ねばならない」の人は、みずからストレスをつくり上げているともいえる。

あなた自身が少し努力してみることで、ストレスを「捨てる」こともできるだろう。

そのためにも、「いいかげん」を心がけてほしいのである。

「ねばならない」を捨て、「いいかげん」を取り入れる|人の心に灯をともす から

2019年4月29日月曜日

記事紹介|笑える日本の形式主義

複数の某大手企業の会議で笑ってしまったことがある。それは、日本企業もそうだし役所もだが、あまりにも形式主義であり、その形式を無批判に守るために、自分で考えることが欠落し、結果として大きな漏れがありえる。発展がない。

1つは切実である。多くの大企業の社員が、上司を強く意識して仕事をしている事実である。

上司の命令に背いて仕事をせよとは言わない。しかし、上司の命令が間違っている(合理的でない)ことも十分にある。とすれば、「正しくないのでは」と思ったのなら、議論しなければならない。

さらには、法令に違反している可能性だってありうる。加えて、上司が確信犯だと思ったのなら、議論しても仕方ない。社内の内部通報システムが整えられてきたから、そこに情報を入れることが肝要になる。

法令違反の好例として、著名企業に粉飾決算紛いの事件が連発生していることを指摘しておきたい。上司一人だけで、命令から実行から会計処理まで完結できるわけがない。とすれば、何人かの部下が無批判に上司命令に従い、企業を窮地に陥らせたことになる。

もう1つは、こちらはお笑いの例である。コンビニで酒やタバコをと思うと、レジの端末に年齢確認ボタンが表示され、それを押さないと買わせてもらえない。先日、地方の、コンビニに毛が生えた程度のスーパーでビールを買ったが、そのレジの端末には年齢確認ボタンがなかった。大手コンビニとの資本力の差で、新しいレジの導入が遅れているだけなのかもしれない。

考えれば、明らかな爺さんや婆さんにも年齢確認ボタンを押させるのは、本人にとってはふざけているし、外部者からするとお笑いである。

レジの兄ちゃんや姉ちゃんが、まじめに客の顔を見ているとも思えない。単なるアリバイ作りに成り下がっている。小学生はともかく、中学生くらいが私服で酒を買ったら、どう事態が展開するのか興味がある。

海外では日本人が、よくIDカードやパスポートの提示を求められるらしい(何人かから、その体験談を聞いた)。外人からすると幼く見えるのだろう。

その日本にIDカードはない。日本の行政の不備である。その不備をレジボタンの一律タッチでカバーさせようとしているのか。こう考えれば、コンビニの年齢確認ボタンは悲喜劇である。

日本の形式主義はマニュアル主義と同根である。マニュアルとは過去の事例からの集大成でしかない。未来を見ていない。未来を見ないと企業や社会の発展がない。こう考えれば、今の日本社会は悲喜劇ではなく、悲劇そのものである。

日本の形式主義と悲劇|BLOGOS から

2019年4月7日日曜日

記事紹介|学校なんて行かなくていいんだよ

子供の心、気持ちを理解してあげて欲しい。

認めてあげて欲しい。信じて欲しい。

心と心で向き合って欲しい。

不登校の子でも可能性がある。

不登校になったからといって、人生が終わるわけではない。

今の時代、ネットで繋がれる、情報も得られる、

不登校になってもその後、頑張った人のことを知ることができる。

「あなたは大丈夫だよ。今ここからがスタートだよ」と言ってあげてください。

阿部 心晴(こはる)


先日、15歳の心晴(こはる)さんの講演を聞いて来ました。

体調不良から休みがちとなり、保健室登校もチャレンジしましたが、

一部の同級生の無理解と誹謗中傷のメッセージが直接来るようになって本格的に不登校に。

そんな中で学校に行かないことが普通ではないと親からも思われ、

自分の気持ちを理解してもらえない苦しみの中、

格闘塾塾長のどやさんと出会って掛けてもらった言葉が、

「学校なんて行かなくていいんだよ」の言葉だったそうです。

初めて自分の気持ちを理解してもらえる人に出会えた心晴さん。

その後、YoutubeやSNSで活躍する元不登校児の先輩の活躍をどやさんから紹介され、

段々と自分の未来が見えてきたそうです。

そんな実体験を持つ心晴さんのメッセージが冒頭の言葉です。

ご自身のお子さんや、子供に限らず、悩んでいる人に掛けてあげたい言葉だと思います。

寄り添うとは|今日の言葉 から

2019年4月6日土曜日

記事紹介|熱く生きているかどうかが問われている

ローソクは火を点けなければ明るくならない。

それと同じように人間は志に火が点かなかったらその人の真価は発揮されない。

森 信三


「志に火が点く」ということは、誰もがそもそも「志」を胸に秘めているということでしょう。

ただし、その志が本当にその人を突き動かすほどの衝動を持つには、火を点ける必要がある。

どうしたら、その火が点くのか。

一つはローソクと同じように、火が点いている他の人から移してもらう方法があるでしょう。

いわゆる、感化されるという状態。

もしくは、自分には果たさなければならない大きな責任があると感じたり、

返さなければならない大恩に包まれていることに気づいたときかもしれません。

いずれにしても、今自分の志に火が点いているかどうかを感じられるかどうかが大事なこと。

言い換えれば、熱く生きているかどうかが問われているのでしょう。

火を点ける|今日の言葉 から

2019年4月5日金曜日

記事紹介|人生をナメているということ

『明日死ぬかのように生きよ。 永遠に生きるかのように学べ』

という、マハトマ・ガンジーの言葉がある。

あたかも、明日死ぬかもしれないと思って、今日、この一瞬を大切に生きる。

そして、たとえ100歳を過ぎたとしても、永遠に生きるかのように、今日、学び続けること。

この一瞬一瞬は、もう二度と返ってこない大切な時間、と頭ではわかっているが、多くの人はそれをムダに使ってしまう。

それは、まだ、何年も生き続けるに決まっている、と漠然と思っているからだ。

遅刻を繰り返す人は、人の時間を奪っているという自覚がない。

そして、待たされた人の気持ちがわからない。

だが、何時までに行かなければ大事な人の命が危険にさらされるとか、10億円の契約がとれなくなってしまう、ということになれば、たいていの人は遅刻しない。

つまり、「この程度のことなら」、「この人なら」、「この会合なら」遅れてもいいと思っている。

ナメているのだ。

時間をナメているということは、人生をナメているということ。

人生をナメたら、いつか大きなしっぺがえしがくる。

「時間にはお金以上の価値がある」

自分の時間はもちろんのこと、他人の時間も大切にする人でありたい。

時間にはお金以上の価値がある|人の心に灯をともす から

2019年4月4日木曜日

記事紹介|自分の心のどこに夢を置く

心の中に

夢をしまっておく場所を

いつも空けておきなさい。

マーティン・ルーサー・キング・Jr


自分の心を占めているものはなんでしょうか?

期待でしょうか?

心配事でしょうか?

夢でしょうか?

多くの人は、心配事が多いのかもしれません。

意識をしないと人はマイナスな感情に寄ってしまいがち。

だから、あえて夢をしまっておくスペースが必要なのですね。

心に夢があれば、毎日そこに触れることで元気が出てくる。

人は同時に二つのことを考えることができないと言われます。

だから、たとえ小さいことでも夢を置いておけば、

そこに触れている間は心配事から離れられる。

そして心配事の80%は実現しないと言われています。

とすれば、夢を触れている方がワクワクを引き寄せられるでしょう。

自分の心のどこに夢を置いておきますか?

スペース|今日の言葉 から

2019年4月3日水曜日

記事紹介|大学新入生のみなさんへ

大学新入生の皆さん、おめでとうございます。新生活に胸弾ます季節でしょう。でもちょっとだけ、大学の未来を一緒に考える時間をいただけませんか。

少子化の荒波の中、大学も今、受験生だった皆さんと同じように競争に追い立てられています。

国立大学では、二〇〇四年の法人化以降、定期収入の大きな柱の一つである、国からの運営費交付金が年々削られました。今後は、どのくらい研究資金を外部から獲得できているかなど、国の決めた基準で「採点」し、交付金を上乗せしたり、削減したりする傾斜配分の幅が広がる予定です。

◆100キロ離れた共同学部

スリム化のため、他大学との部分的な「統合」に踏み切る大学も出てきています。

名古屋大学と岐阜大学は、二〇年に法人を統合する予定です。一つの法人のもとで二つの大学が運営されるようになるのです。背景にあるのは、このままでは縮むだけだという危機感です。共同で研究機関をつくることで、国や企業などからの資金が獲得しやすくなるなどの統合効果も期待できるようです。

群馬大学と宇都宮大学も二〇年に共同教育学部をつくります。

教育学部については、少子化が進めば必要な教員の数も減るとして、文部科学省の有識者会議が「現在の組織や規模のままで機能強化と効率性の両方を追求することは困難」として他大学との連携や統合を促す報告書を出しています。

群馬の学生が宇都宮大の、逆に宇都宮の学生が群馬大の授業を一定割合、受けることになります。ただ二つの大学は距離は約百キロも離れています。合同での合宿研修やフィールドワークを行うことも考えているそうですが、ふだんはインターネット技術を利用しての遠隔授業が実施される予定です。

◆縮む社会考える教材に

小中学校の教室では今後、受け身ではない「主体的な学び」がますます重要視されます。そんな教室で教える先生たちを、画面を通じて教える。矛盾を抱えながら、いかに一方通行にしないか、両大学の教員たちは授業の手法やシステムのあり方について模索を始めたところです。

一種の苦肉の策ですが、現場の先生からは、その意義を認める声も出ているそうです。過疎化が進む地域では小中学校の統廃合も限界に近づいており、遠隔授業も選択肢となりつつあります。大学で遠隔授業を受けた経験が、過疎地の子どもたちへの遠隔授業に役立つこともあるかもしれないというのです。この国はどこまで縮んでいくのだろうと、落ち着かない気持ちにもなります。

桜咲く季節に、あまり晴れやかな話もできずにすみません。でもこんな話をするのは、これから大学をどうするのかを考える主役は学生の皆さんでもあると思うからです。

大学の歴史をひもとくと、十二世紀、ヨーロッパの中世社会までさかのぼります。大学を意味する英語のユニバーシティーなどの語源は、ラテン語で組合を意味するウニベルシタスです。学生たちが自分たちが求める教育を実現するため、教員と契約を結ぶ形の組合もあったとされています。

維新ののち明治政府は高等教育の仕組み作りを急ぎました。「大学の誕生」(天野郁夫著、中公新書)によると、議論の過程では「高等学校ハ、政府干渉スヘキヤ否ヤ(中略)聞クトコロニ依(よ)レハ、自由ノ精神ヲ、暢発(ちょうはつ)セサレハ不可ナリ(中略)故ニ欧州ノ学校、多クハ政府之(これ)ニ干渉セス」と、大学の本質を問う声も上がったようです。

しかし欧米諸国に追いつくことが優先される時代、結果的に帝国大学は国家のための人材育成の場であることが求められました。

大学のあり方に正解はありませんが、そのDNAの奥底に刻まれているのは、国家よりもむしろ、学生や教員が主体となった姿なのです。

縮んでいく社会では、競争による淘汰(とうた)や、「選択と集中」の資本投下が実行される領域も増えていくかもしれません。苦悩する大学を生の教材に、その手法の光と影を見つめてください。

◆社会変えていく存在に

群馬大で取材した際に、斎藤周(まどか)教育学部長に過重労働といわれる学校に教え子を送り込む心境を聞いてみたところ、こんな答えが返ってきました。

「現場で頑張ってほしい。長時間労働に耐えろという意味ではなく、自分たちや、子どもたちのために、それを変えていく教員になってほしい」

答えの見つかっていない数々の難題が、大学のその先でも、皆さんに解いてもらうのを心待ちにしています。

大学新入生の皆さんへ|東京新聞社説 から

2019年4月2日火曜日

記事紹介|自分の長所を活かす先に役割がある

これからの世界は言うまでもなく、AIやロボットが社会のあらゆる場面に進出する時代となる。

面倒なことや嫌な仕事はAIやロボットがやってくれる。

だから、たとえ今勉強が苦手であっても、自分の好きなことや得意なことがあれば、将来生きていける時代だ。

勉強がいくらできても、ただ知識を詰め込んだだけなら、AIに完全に負ける。

だから、好きなことや特技を伸ばし、それをSNSなどで発信し、自分のグループやサロン、あるいはファンという独自のフィールドを作れば、それだけで食べていける。

自分の人生の役割はそこにある。

人は、誰でも、この時代に、この場所に、生まれてきた何らかの意味がある。

何のために生まれてきたのかという、人生の役割。

役割とは、別の言い方をすると人から必要とされること。

「あなたに会いたい」「あなたがいるから楽しい」「あなたがいてくれて良かった」「あなたと一緒にいたい」と思われること。

《長所の中に、自分の役割がある》

自分の役割をみつけ、まわりから必要とされる人でありたい。

2019年4月1日月曜日

記事紹介|失敗とは、自分に足りないことを教えてくれる機会

人は何度も失敗することがあろう。

しかしそれを他人のせいにし始めるまでは、落伍者ではない。

ジョン・バーラウズ


失敗とは、「自分に足りないことを教えてくれる機会」という意味なのだと思います。

だから、その意味を汲み取ろうとせず、他人のせいにしてしまったら、成長が止まってしまう。

失敗した時は、自分の行動を具体的に変えれば良い。

必要以上に自分を責める必要はないのです。

Welcome 失敗