2020年12月27日日曜日

記事紹介|一人も取り残さず

2020年は、コロナ禍の陰で、教育格差の解消という課題にスポットライトが当たった年だったと個人的には認識しているが、この点に関して文科省の動きが鈍いことは大いに不満である。彼らにとって目下一押しの政策らしいGIGAスクールでは、一人も取り残さないなどと威勢の良い口上が大臣からもあったが、それが具体的に何を意味するのかはよく分からない。一般的に、霞が関で成果目標を明示しない政策は、実現の責任を負わないと宣言しているようなものである。

教育格差の解消は、憲法第26条に由来する、国に対して積極的な作為を請求する権利(それに対応する国の配慮義務)に基づく課題だと思っている。深まり行く経済格差の拡大が、日本社会の基本構造を掘り崩し、国民の分断を押し進めることは、もはや明らかである。教育は、そんな危険をはらむ社会の安定装置にならなければならない。今や、教育格差の解消は、文科省の存在意義といっても過言ではないはずである。菅政権の一丁目一番地であるデジタル化の推進も結構だが、より本質的な教育格差の解消について、文科省から包括的な政策が打ち出されるべきであろう。特に、高校から高等教育段階におけるキャリア教育(雇用可能性を高める基本的な知識技能の習得)、社会に出てからのリカレント教育(産業構造の転換に即した実践的スキルの習得)について、経済支援を含む具体的な社会システムの構築が急がれる。あえて政策と言っているのは、単発の施策でやっているふりをしたところで、教育格差の解消には程遠いからである。単発の施策は、思い付きで、脈絡なく、打ち上げて終わりになることが大半である。予算に見合う成果は残らず、施策の残骸と虚しさだけが残る。そんなやったふりで、時間が無駄になり、教育格差はより深刻になり、相対的な弱者にとっては、社会での生きにくさが増していく。この分野の不作為は、国としての破滅への道だと理解すべきであろう。その意味で、文科省には、日本という国の未来が託されているのである。その割に危機感が薄い印象であり、失望を禁じ得ない。

重点となっているGIGAスクール構想に関しても、デジタル教科書の機能、その利用による学習効果などについて、ロジカルな説明がない上に、肝心のデジタル教育に関する教員のスキルアップをどうするのか、いまだに施策らしいものがない。一つの政策として、肝心な箇所に穴が開いたままで、ストーリーとして首尾一貫しないのでは、破綻は目に見えている。かりにパソコンが1人1台入っても、巨額な投資に対してミニマムな成果しか得られないだろう。教育格差の解消についても、データに基づく実証性と計画修正へのフィードバックループ、財政の裏付けを伴う実施計画の継続性、社会的ビジョンの提示と成果目標へのコミットメント、ストーリーに基づく施策群の連携による首尾一貫性が必要である。頭を整理して、きちんとした政策の立案を急ぐべきである。

政策官庁を目指しているというが、文科省はいつになれば、当たり前のことに気づいて、自己変革に動き出すのだろうか?一人も取り残さないというスローガンは、元来、簡単に口にできるものではない。誠実さを欠いては国民からの信頼はなくなる。見捨てられないうちに、何とか立ち直ってほしい。

出典:文科省の「一人も取り残さず」は本当か?|NUPSパンダのブログ

2020年12月24日木曜日

記事紹介|コロナ禍における授業の在り方

大学が文科省に対して嘘の回答をするとは思いたくないが、12月24日の朝刊各紙に掲載されている標記の調査結果は、真実性にかなり疑問がある。大学からの回答に関して裏付けを取らずに、鵜呑みにしているからである。対面授業の割合が低いとする回答をしている大学については、一応、額面通りに受け取って構わないだろう。調査前に対面授業の割合が低い大学は名前を公表することがあるとされていたこと、それらの大学には、学長からのメッセージや学生の理解度など付加的な情報についても回答が求められたことから、大学の方針として、あえてオンライン教育を選択していることを明らかにしているからである。他方で、比較的小規模な大学で、後期には、感染対策を講じながらの対面授業を選択したという事情も理解できる。

恐らく真実性を問うべきは、規模が大きな大学で、「半々」という回答をしているところである。すべてを疑うわけではないが、オンラインか対面かは、教育に係る方針の問題なので、原則としてどちらかの方法を選択するはずである。したがって、基本的にどちらかに偏るのが自然であろう。「半々」というのは、対面への切り替え方針が、学部に浸透せず、まったく徹底できなかったという意味になるのであろうか? 私が調査を担当するならば、そのあたりの事情を詳しく聴くだろう。方針の転換に関する一連の経緯のほか、どういう授業科目で、何ゆえに対面に切り替えられなかったのか、確認する。主としてオンラインを選択している大学の付加的な記述の中にも、そうした学内事情らしいものが垣間見える。今はオンラインが主だが、次年度からは、対面を原則とするなどの方針を述べている大学も相当ある。文科省へのリップサービスかもしれないが・・・。「半々」と回答した大学に、付加的な記述を求めなかったのは、真実性の確保という意味で、調査側の手落ちとしか思えない。もっとも、真実性を重視しているならば、バイアスをかけておいて回答を求めたこと自体が、正しい手続きではなかった。大学名を公表されるのを避ける意味で、回答の担当者が平気で嘘をつく大学があるとは思わなかったのだろうか? あるいは、授業があった期間に、幾つかの大学を選んでキャンパスを訪問すれば、どの程度の学生が来ているか、容易に実感できただろう。大学の回答を信用しすぎると、真実性が低いデータを報道機関に提供してしまう。後で真相が明らかになって、文科省は責任を問われないのだろうか?

大学が対面授業を基本とすることは、大学という教育機関の成り立ちに鑑みて、関係者に大きな異存はないだろう。その上で、オンライン教育の可能性をどう生かすかが、経営戦略上、重要なのである。したがって、文科省が調査をするとすれば、第1に、オンライン教育の得失、可能性を対面授業との比較でどう認識しているかを問うべきだろう。オンラインか対面かという選択ではない。そもそも対面の教育の質が怪しい大学もある。オンラインを主としている大学には、その学習効果を聴いているが、対面への切り替えが進んでいる大学でも、対面の学習効果が高い保障はない。

第2に、オンライン教育にもピンキリがあるので、その実態に関して幾つかの問いを用意する必要があった。教員のスキル、学生のICT環境、学習指導のシステムなど、状況を把握したうえで、どのような対策を講じたのか、調査項目に加えるべきであった。調査目的が、対面授業への切り替え促進にあるからと言って、オンライン教育への取り組みの実態にも差があるので、その理解の上で、対面授業への切り替えを論じるべきであった。一般的にオンラインよりも対面が良いというのは、思い込みに過ぎない。私は、私学を含む多くの大学で、教員も学生も単に安きに流れるオンライン教育と称するものが行われていたのではないかと疑念を抱いている。教員は労働の面で楽をし、学生は単位取得の面で楽をしているので、アンケートを取っても、安きに流れる、なんちゃってオンライン教育には「満足」という回答が多くなる。調査により実態を踏まえて議論できるようなベースが得られなければ、行政調査としては役に立たない。

第3に、言わずもがなだが、調査結果の分析をまじめにしなければならない。大学からの回答を並べただけでは、あまりにもお粗末だろう。例えば、大学の機能別、所在地別、規模別に傾向を見るのは始めの一歩である。対面への切り替えを3割以上実現した大学を対象に、授業科目(科目によって履修者数が大きく異なる)と感染リスク管理の関係もデータを取って分析できたはずである。付加的な記述を見ても、大教室で行う授業はオンラインにするなど、現場では工夫をしているのが分かる。また、対面への切り替えのボトルネックについては、オンラインを主とする大学の付加的な記述を追っていけば、ある程度の仮説は抽出できるだろう。さらに、切り替えが先行している同じ条件の大学の手法を、他大学に横に展開することも考えたらよい。この種の調査をやって、詳しい分析らしい記述がないのは情けない。それとも、分析を考えて、調査を設計していないのか?大臣まで上げていく過程で、誰も、この資料にダメ出ししなかったとしたら、文科省はほとんど機能マヒしている。

第4に、大学において、今回の調査内容を関係者に情報提供しているのか、社会的な説明責任を果たしているのかも、重要な点であり、調査すべきではなかったか? 保護者はもちろん、卒業生を含む社会一般への説明をホームページなどで十分行っている大学は、恐らく信用できる。逆の大学は、やっていることに自信がないと見なしてよいだろう。その回答は鵜呑みにできない。文科省から照会があったので、仕方なく回答するというのでは困る。

最後に、2020年の年末に当たって、政府が、静かに家で過ごすことを求めていることと、文科省が大学に対面授業を促進することを求めていることは、方向として真逆な話であるので、例えば、大学の規模や所在地、在籍学生の能力を踏まえて、正統なオンライン教育により学習効果を担保できる大学は、早期の対面授業への切り替えに拘る必要がないのではないか? 調査結果を踏まえて、早く軌道修正した方がよい。もっとも、私学では後期の授業自体がほとんど終了してしまっているが・・・。少なくとも、来年度もワクチン接種が行きわたるまでは、対面授業への切り替えを急ぐ必要はなかろう。もしも、文科省が何か特別な施策を考えていないのなら、大学に口出しは無用で、状況を勘案しつつ、順次、自主的に対面授業へ切り替わっていくに違いない。

出典:文科省の対面授業に関する調査は信用できるのか?|NUPSパンダのブログ 

2020年12月10日木曜日

記事紹介|霞が関が学びきれていない失敗の本質

大学の現場感覚としては、大学入試センター試験は、標準的な学力の測定という意味で、問題作成の質が高く、高校学習指導要領への配慮も十分で、総合的に高評価を得ていると感じていた。確かに英語のリスニング試験は無理をしながらの実施だったが、何とか定着をみたと考えていた。何よりも、答案を短期間に正確に採点をするとともに、受験生側も自己採点で結果の予想が精度よく可能だったので、この種の試験としては、大学や高校の教育関係者からも評判がよく、国から褒められてしかるべき実績を残していた。

しかし、文科省は、トップダウンで、高校教育の改善を念頭に、高大接続部分に当たる大学入試を、外国(主にアメリカ)のシステムをモデルにして「改革」すると言い出した。うまくいっている大学入試センター試験を「改革」する必要はなかったはずだが、1点刻みの合否判定は不合理、複数の受験機会を設けるべき、記述式の設問も必要、英語は民間試験に代替することが可能などなど、種々の理由を持ち出して、センター試験を廃止して、新たな試験システムを構築する方向で、学識者らを集めて、急ピッチで検討を行ったのである。

その結果については、大きな目玉とされた記述式の採用が、採点の技術的問題で見送られ、英語の民間試験の導入も、得点換算の公平性の観点から先送りになっていると理解している。文科省にも、言い分は色々とあるだろうが、ここまでボロボロになって撤退した「改革」はあまり記憶にない。この「改革」を含めて大学入試の諸課題について幅広く論じている「大学入試がわかる本」(中村高康編、岩波書店)所収の荒井克弘「高大接続改革の現在」論文には、現場の学識者としての無念さがにじみ出ており、その優れた分析とともに、共感を禁じ得ない。

ここでは、なぜ、こうした失敗が繰り返されるのか、失敗から何を学ぶのか、考えてみたい。簡単に言えば、この分野の古典である「失敗の本質」(戸部、寺本、鎌田、杉之尾、村井、野中著、中公文庫)から、いまだに霞が関が学びきれていないということになる。霞が関の病理は、日本軍の組織的病理と同根である。以下に、私が考える今回の失敗の要因を挙げてみたい。なお、ケースとしては、文科省の事例だが、現在の霞が関に広く蔓延している傾向であると感じている。

第1に、現場、現実を踏まえない計画を立案してしまうことである。よくあるのは、背景も状況も異なる外国の例を持ってきて、我が国にそのシステムを導入すればうまくいくと決めつけてしまうのである。この発想による「改革」が、成功する根拠は何もない。大学入試の在り方は、国ごとに異なっており、それは上澄みだけをまねすることで移植できるものではない。それ以前に、移植すべき根拠もない。例えば、アメリカのAO入試と我が国のそれとは、月とスッポンの差があり、同じシステムだと誤解してはいけない。言わば、形だけ移植したが、現実には、まったく異なる文脈で使われているに過ぎない。現場、現実を踏まえない計画は、ロジスティクスの面を軽視する傾向にもある。机上の空論でビジョンを作ったものの、目標達成は不能に終わるというわけである。多くの日本軍の作戦の失敗も、そもそも実現不可能な作戦を決定してしまったことにあった。

第2に、データに基づく実証的な根拠を持たずに、計画を作成してしまうことである。そもそも、データの取得自体が不十分であり、客観的な視座から課題を抽出するという科学的なアプローチをしようとしていない。始めに、正しい現状把握に基づかない思い込みがあり、そのストーリーが改革の方針を支配してしまうので、科学的アプローチが反って排除されてしまうのである。また、思い込みから計画が作られて、やっと実施段階に至ったとしても、2年程度後に人事異動があれば、新たな思い込みに基づく新たな計画が作られるという、計画の永久運動が繰り返されるのである。実証性を軽視する組織は、失敗を失敗とも思わない。したがって、失敗の永久運動に陥り、たくさんの無駄と残骸が残されるのである。

第3に、決定までのプロセスがブラックボックス化され、だれも責任を負わないことである。正確な記録を残さない(廃棄する)ために、責任の所在が極めて不明確である。これも、日本軍とよく似ている。審議会等の検討の場についても、すべての委員がきちんと考えを述べているわけではなく、集約された文書はコンセンサスで承認されているに過ぎない。そうした場で反対意見を堂々と述べるような人には、あえて委員にしないだろう。責任の所在が不明確なので、失敗の責任はだれも取らないことになる。今回の大学入試改革についても、どんな決着になろうと、責任論は一切生じない、生じさせないに違いない。

第4に、「改革」を自己目的化することである。文科省の行政分野は、かなり前から閉塞感が強いので、大きな岩盤を崩すような一撃に、憧憬があるのだろう。政治家も、大戦果を挙げる夢を見て、大花火を打ち上げようとしがちである。トップがそうした夢を持てば、下はご機嫌を取るために、調子を合わせる。やっているふりを含めて、「改革」ごっこが止まらないのである。高校教育の改善のために、高大接続部分を担う大学入試を改革するという発想は、猫を尻尾で振り回すようなものだと思うが、所詮無理な話ではなかったか?上から降ってくれば、何にでも調子を合わせるのなら、自立した、自分で考える人間はいらなくなる。無理な話を無理だと言えない組織になっているなら、それを改めるしかない。霞が関の機能低下、人材流出は悲しい限りだが、残っている人間が、現実の局面で正しい行動をするよう頑張るしかあるまい。

以上述べたように、文科省の大学入試改革は、失敗すべくして失敗したと断じることができる。失敗の本質を見つめて、失敗を糊塗することなく、政策面で出直しすることを期待したい。また、それ以前に、組織的な立て直しに真剣に取り組まないと、何度でも失敗を繰り返しかねないことに気付くべきだろう。この件は、特定の政治家の責任ということにして、一件落着にはできない。トップダウンの「改革」への教訓として、今回の失敗をきちんと総括しておかなければならない。累次の高等教育に関する施策の包括的な見直しを求める声もある。それほどの組織的な危機が到来していると認識すべきだろう。

出典:なぜ文科省が主導する大学入試改革は失敗したのか?: NUPSパンダのブログ

2020年11月29日日曜日

記事紹介|私立大学における学生納付金の意義と役割

学生納付金の要件とは

私立大学の学費は、文部科学省の省令である学校法人会計基準の中で「学生生徒等納付金(以下、「学納金」と言う。)」という勘定科目(大科目)で扱われる。この学生納付金の小科目として、授業料、入学金、実験実習料、施設設備資金(施設設備費)などが同会計基準の記載様式として例示される。これ以外に教育充実費などの小科目を追加している法人も多く見られる。かつて筆者が、日本私立学校振興・共済事業団で学校法人の会計基準の担当をしていた時に、全国の大学法人の計算書類の科目名称を調査した。先述の小科目のほか、課外活動費、学生生徒の個別指導費、教育充実費、補講費、図書費、教材費、厚生補導費、暖冷房費、維持費、校費、管理費、在籍料など100種以上の多様な小科目が見られた。様々な教育活動に対応する実費徴収的又は付加的な教育サービスの趣旨で設定されている(昭和62年私学事業団経営相談回答集)。

学生納付金は学校教育法施行規則第4条によると、授業料、入学料その他の費用徴収に関することとして、学則に記載すべき事項に指定されている。これらを変更しようとするときには、学則の変更届出を文部科学大臣に提出することが必要となっている。昭和52年の文部省通知では、学生納付金に関する措置として、第1に、徴収の必要性を明確にすること、第2に、その額の抑制に努めること、第3に、学生納付金のすべてを募集要項等にあらかじめ明記すること、第4に、学生の負担軽減を図るため分割納入、奨学事業や減免措置を積極的に講ずることが求められている。私立大学の学生納付金は所轄庁の認可制ではなく届出制とされているが、高額な納付金の抑制と保護者負担の軽減を図るために、通知や行政指導又は補助金配分等によって所轄庁からの一定の規制がなされている。

これらの点を踏まえると、学則等に学部学科等ごとに一律に定められた金額が記載されており、その学則が所轄庁に届けられているものが学生納付金と言える。この「学則記載性」と「学部学科等ごとの一律性」が学生納付金の形式的な要件とみなすことが出来る。

教育サービスの対価が学生納付金

私立大学の学生納付金の基本的な性格は、学生が入学して卒業するまでに受ける様々な教育活動に要する経費に充当すべき費用と考えることが出来る。これを「教育サービスの対価性」とも言う。大学が学生のために提供する教育活動の本来的な部分のサービスの対価が学生納付金である。

学生納付金の中の入学金は、学生が当該大学に入学し得る地位を取得するための対価であり、学生身分の取得費用と言える。授業料や実験実習料は、教育サービスの中心である授業や実験実習等の直接的な教育サービスに要する費用である。授業料といっても、講義だけでなく、ゼミや学生の個別指導、課外活動やフィールドワークなど幅広い教育活動を含んでいる。施設設備費は、私立大学の施設設備を取得し、長期的に維持し、減価償却に応じて補修、改築、更新、充実させるための資金の収入である。単に大学の施設設備を学生が利用するだけの費用ではない。このほか、教育充実費は大学における様々な付加的な教育活動や学生支援又は学生生活の充実に必要な幅広いサービスや大学の教育環境を整備充実するための費用に充当すべき収入とみなすことが出来る。

なお、入学を辞退した受験生が納付した入学金については、大学は返還義務を負わないこととなっている(平成18年最高裁判決)。一方、授業料や施設設備費については、当該大学の授業を受けず、施設設備を利用しない入学辞退者から徴収することは容易に理解が得られないとして、年度末までに入学辞退の意思表示をした者に対して大学は原則として返還に応じることが明確にされた(平成18年文科省通知)。

施設設備の更新充実と財源

高等教育機関はその事業の実施に必要な有形固定資産の比重が大きく、いわゆる「装置産業」とみなすことが出来る。私立大学においては、校地校舎等の整備に要する施設費や教育研究用機器備品等の充実のための設備費は、年々相当な額にのぼっている。過去からの累計された現有資産の取得価額は1年間の事業収入の4年分程度が大学法人の平均となっており、これらの有形固定資産の維持と更新の費用を捻出することが重要課題である。

私立大学の施設設備の取得費用に対しては国からの補助は基本的になく、自己資金によって中長期的に賄わなければならない。過去から現在、現在から将来に亘って、大学に在籍する学生の納付金等の事業活動収入の一部から少しずつ費用を積み立て、施設設備を整備することになる。

学生納付金の返還要求

昨年度来の新型コロナウイルス感染症の拡大に伴って、日本の大半の大学においては対面授業が困難となり遠隔授業が開始された。今後も必要に応じて感染予防のための遠隔事業の実施や校舎の使用制限が続くことになる。一刻も早く従前の教育活動が再開され、キャンパスに学生や教職員が会して、通常の学園生活が再開されることが望まれる。しかし、感染が十分に抑止されていない現状では一定の感染予防策を継続せざるを得ない。

いくつかの大学において、学生と教員の対面授業が出来ず、施設設備の利用が困難な状況において、学生と保護者の中から、授業料や施設設備費等を返還してほしいとの要望が提起されている。

確かに、直接的な授業や施設利用が出来ない状況では、これらに関わる学生納付金の返還を求めたい気持ちも理解できなくはない。経済状況が悪化し、学生自身もアルバイトが出来ず、保護者の収入も減少し、高額な学生納付金の負担が増大している。

コロナ禍を克服する取組み

先に述べたように、学生納付金は大学が入学した学生に在学期間を通じて提供する教育サービスの費用の対価である。大学では、対面授業や施設設備の利用が一時的に出来ないとしても、当初予定していた学力を身に付けることができるように、卒業までの全在学期間を通じて多様な教育方法を工夫して行う。オンライン授業のメリットも生かし、これまで不可能であった教員と学生相互の有意義な教育活動を展開するなど、大学としての使命の達成と教職員の責務を果たす努力を継続していくのである。私立大学においては学生納付金が事業活動収入の7割前後を占めており、収入がなければ大学運営を続けることが出来ない。授業がないからといって直ちに教職員の給与カットや解雇を行うことも出来ない。

今回のコロナ禍による様々な非常時の対応措置は、日本だけでなく世界の大学においても真剣に取り組まれているものである。大学の一方的な責任や不法行為による事情変更ではなく、大学としても予測出来なかった事態に対するやむを得ない緊急措置である。平時とは異なる様々な困難が生じ、教職員の負担が増大し、追加的な諸費用も累積し、学生とともに教職員や大学自体も苦しい状況に陥っている。しかし厳しい中であっても、大学では教育を多様な方法で実践し、優れた教育成果を生み出す取組みを積極的に進めなければならない。

私立大学の収支構造と適正な執行

ところで、教育活動の範囲は幅広く、収入と支出の対応関係は必ずしも明確ではない。学校法人会計基準では、施設設備費も学生納付金の一部とされ、補助金などの他の収入を加えた事業活動収入として大学全体にまとめられる。人件費や教育研究経費などの事業活動支出の原資になる。個々の収入と支出が1対1で対応しておらず、学生納付金の施設設備費の全てが当該年度の施設設備費に配分される訳ではない。

学校会計の特色として、当該年度に自己資金で取得した施設設備等の支出は基本金の組入額となり、事業活動収支差額(基本金組入前当年度収支差額)から控除されるなど、対応関係が分かりにくくなってはいるが、学校法人は公益法人の一種であり、営業利益を追求する組織ではない。事業活動収支差額は教育研究や資産の維持と発展に使われる。この意味で、学生納付金も現在及び今後の教育活動の遂行と充実に寄与している。

このほか学生納付金に属さない収入としては、教育活動に付随する食堂、売店、寄宿舎等の補助活動、公開講座等の教育補完活動などの補助活動収入がある。教育活動以外の事務的なサービスの対価である入学検定料、証明手数料等は手数料収入に分類される。学生又は保護者等から任意に受け入れた対価性のない資金等は寄付金として計上される。これらの収入についても適正に管理し執行することが学校法人に求められている。

私立大学の課題

今年度から大学修学支援の新制度が開始され、在学生を含めて一定の収入以下の家計の学生に対しては、授業料や入学金の減免措置や返還不要の奨学金が措置された。さらに、収入が急減した学生に対しては、学生支援緊急給付金が創設され、学びの継続のための支援が進められている。これらの政策は大変有意義だが、支援を受けられる学生は一部に留まっているので、その一層の拡充を国に要望していく必要がある。

個々の大学においても様々な学生支援策に取り組んでいるところだが、十分な援助を行うことが出来るかは、大学の支援体制や財政力によるところも大きいと言える。財政支援のほか、苦しんでいる学生の相談に丁寧に応じるとともに、学生納付金の延納措置やその他の支援策を工夫して実施することが望まれる。

近年、国による大学の定員管理の厳格化の政策が実施され、定員割れの中小規模大学の定員充足率が改善される一方で、都市部の大規模校を中心として入学定員超過率を年次的に引き下げたため、在学生総数が減少しているところが見られる。18歳人口の長期的な減少が続いており、私立大学の競争的な環境が激化し、財政的にも厳しい状況が進んでいる。

今回のコロナ禍による経済状況の悪化によって私立学校への進学を回避する動きが生じる恐れが少なくない。私立大学の今後の経営には大きな困難が予想される。

その中で、私立学校はそれぞれの教育理念を堅持し、国公立大学にはない特色のある教育活動を通じて社会のニーズに応えた人材の養成に努めることが使命だ。

特に、学生と保護者から得られた貴重な学生納付金の意義を再認識して、一層の教育充実と学生支援の強化に向けた積極的な取組みを展開していくことが期待される。

出典:学生納付金の意義と役割 新型コロナ禍での返還要求を巡り|アルカディア学報|私学高等教育研究所|日本私立大学協会 

2020年11月22日日曜日

記事紹介|授業をオンラインで行うこと

オンライン授業への突貫的移行を経て

今年度前期は、世界的なCOVID-19の感染拡大が続く中、日本の大学の約9割が授業をオンラインで提供することを余儀なくされた。開講予定であった授業がどの程度をオンライン化できたかは、各大学や各授業科目によって異なったものの、オンライン授業への移行に要する対応や支援については、大学・教職員各々のレベルで、様々な努力や苦労があったに違いない。

筆者の所属する京都大学高等教育研究開発推進センターも、3月下旬からオンライン授業支援サイト「Teaching Online@京大」や、20回近く開催した各種の学内講習会・相談会を通じ、教育・研究に関連するICT環境の運用・支援を行っている情報環境機構と共に、全学の教職員や非常勤講師に対して、オンライン授業実施のための教育的・技術的な支援に尽力してきた。このように、教育面・技術面をサポートする2つの全学的支援組織が緊密に連携・協力を図り、車の両輪のようにバランス良く各部局・教員に必要とされる支援を継続的に提供できたことに加え、今回、学内の多くの学部・研究科等において、教育支援組織や教職員による支援グループが自助的に活動・機能したことにより、トップダウン・ボトムアップの双方向からの支援の相乗効果が図れたことは幸いであった。

約8年半前に日本に帰国するまで、筆者はアメリカに約20年間在住し、財団や大学で高等教育の進展・振興にかかわる研究開発や実践、特にテクノロジーを活用した高等教育のイノベーションに携わっていた。その経験を踏まえて、日本の大学におけるテクノロジーの利用やその浸透は、欧米に比べると約10年は遅れており、おそらくもう20年間以上、その差はほとんど縮まっていないという認識を持っているが、その中で、このような半ば強制的なオンライン授業への移行という事態を日本の多くの大学が受け入れざるを得なかったことについては、正直なところ、非常に複雑な心境である。

この半年間を振り返ってみれば、「オンライン授業によって、大学生・大学院生の学びを継続させられた」、「教職員や学生は、無理矢理ながらも、教えたり学んだりするためのICT利用のリテラシーを身に付けられた」、「工夫しながらオンラインで授業を行う中で、対面で行う授業に比べ、教授・学習の観点からより効果的な側面も見出せた」など、ポジティブなことも多々あった。その反面、「オンラインでは実施できない授業(特に実習・演習系)が取り残された」、「オンライン授業では、課題が過剰に出される傾向がみられ、学生の精神的負担・疲労感が高まった」、「オンライン授業間で、教育的な質や学生の理解度・満足度に格差が生じた」、「キャンパスに来られない学生(特に初年次生)の孤独感が高まった」など、幾つもの障碍や今後克服すべき課題も明らかになった。

言うまでもなく、「授業をオンラインで行うこと」は、手段であって目的ではない。しかし、コロナ禍下における今年度前半、止むを得なかったとは言え、多くの大学では、「授業をオンラインで行うこと」が目的化してしまっていたのではないだろうか。急転直下する状況の中で、「授業をオンラインで行う」という目的を達成するために、十分に検討・準備する余裕も与えられないまま、教職員も学生もオンライン授業に突入せざるを得なかった。そのような強行軍的な進み方の犠牲となり、無念にも減ぜられてしまった教育の豊かさや質も少なからずあるだろう。私たちはそれらを今一度省みつつ、今後オンラインやICTという手段を教育にどのように有意義に活用していくべきかを検討し、どのような局面・状況でも、学生一人ひとりのために、教育の効果や多様性を最大化する努力を惜しんではならない。

今年度後半、全ての授業を対面で行うという大学はおそらく少数であろう。多くの大学においては、このような今年度前半の経験と反省を踏まえ、本来的な教育プログラムや授業の目的・意義を見据えつつ、ハイブリッド型(対面とオンラインの混合型)・オンライン型・対面型を、どのように「手段」として組み合わせ最適なバランスで提供できるかの正念場となる。さらに、オンライン型とハイブリッド型の授業を、固定観念に囚われず、継続的に鋭意改善していくことも忘れてはならない。

大学教育のさらなる拡充と進展に向けて

このように、多くの日本の大学において、この度のオンライン授業の急速な導入・普及は、いわば突然の暴風雨に襲われた中での緊急避難・対応的な側面が少なからずあり、その中で「オンライン授業の質保証」という問題もクローズアップされている。現在筆者は、中央教育審議会大学分科会の質保証システム部会委員を務めているが、そこでも「オンライン授業の質保証も大事であるが、その一方で、『ハイブリッド型も含めたオンライン教育を活用することで、高等教育システム全体や大学教育プログラムの質をどのように向上させ、さらに拡充していくか』も、より重要な課題であり、そのレベルにおける教育の質保証の観点・枠組みについても検討していくべきだ」と提言している。

例えば、MOOC(大規模公開オンライン講義)は、ここ数年で世界的には着実に拡大を続けており、CLASS CENTRALの調査報告によれば、昨年の時点で既に900以上の大学から約1万1400の講義が提供されている。さらにMicro Credentialsと総称されるMOOCの新たな活用も進んでおり、学士プログラムや修士プログラムの授業科目を一部MOOCで代替し、Micro BachelorsやMicro Mastersと呼ばれる、主として初年次に履修する授業科目群の評価・修了認定を行う仕組みも作られている。Micro BachelorsやMicro Mastersは、提供元の大学・大学院に入学することなく、誰でも世界中のどこからでも安価に履修・修了することができ、その後、当該の大学・大学院への入学が認められた場合には、通常の対面通学時の半額かそれ以下の授業料を納めることで、正規の取得単位として認定してもらえるようになる。また複数の大学間で単位互換の仕組みがあれば、それを利用して、MOOCの提供元とは異なった大学においても取得単位として認定してもらうことも可能だ。

これは、高等教育におけるオンライン講義の活用方法の一例にしか過ぎないが、このような活用を各大学の創意工夫や連携を通じて拡げていくことで、「海外や国内の他大学との授業レベルでのバーチャル留学」、「授業科目の共通化による自大学の教育プログラムの拡充」、「国内外の社会人学生の呼び込み」等も推進・促進することができるようになる。肝要なのは、日本の各大学が、自分たちが現在直面している、もしくは今後直面するであろう教育的・経営的課題を、このような手段を使って積極的に解決していこうとするか否かであり、そこには政策によるタイムリーで適切な誘導や支援、各大学における経営陣・リーダーシップの理解と実行、さらには高等教育を取り巻くステークホルダーの協力が必要不可欠である。

我が国における少子化のために、入学定員を充足させることが困難になっている大学は今後も増えていくだろう。また、入学定員を何とか充足することはできていても、望ましい学力・能力を身に付けて入学してくる学生数が、年々低下しているという問題を抱えている大学・大学院も少なくない。大学への公的な財政助成については、国公私立を問わず今後増加してこといくが望まれてはいるが、コロナ禍の経済的影響も甚大であり、短・中期的に楽観できる状況にあるとは、現実的には到底思えない。

日本における大学教育を国内外のより多くの人々に魅力的で満足してもらえるものにするためにも、各大学がオンラインやICTの教育的活用を有望な常套手段として継続・進化させていけるかが、「日本の高等教育が今後発展していくか、それとも衰退していくか」の明暗を分けることになる、と言っても過言ではないだろう。今立っているこの分岐点を、再起点にして力強く前に進み続けることができるか。日本の全ての大学が試される時である。

出典:日本の大学はコロナ禍を成長と発展の再起点にできるか オンライン授業を超えて|アルカディア学報|日本私立大学協会 

2020年10月4日日曜日

記事紹介|学歴証明のデジタル化

加盟国では学習者がどこで何を学び、どんな資格や技能を持っているかを電子履歴の形で、大学や企業にオンラインで送ることができる。発行元や発信・送信記録も確認でき、私が25年前に経験したような紙の書類の真正性の確認はとうに不要になっている。

紙文化の日本は、こうした潮流から完全に取り残されている。海外赴任中、大学の卒業・成績証明書を取り寄せるのに苦労した経験がある方もいるだろう。コロナ禍によるキャンパス閉鎖や事務局のリモートワークで、卒業証明書の発行が遅れるなどの問題も起きた。

証明書類のデジタル化は、海外留学する日本人や来日する留学生だけでなく、就職や転職で学修歴の証明書を必要とする全ての学生や卒業生にメリットがある。特にこれからは終身雇用が崩れ、1つの職場に在籍する期間が短くなり、転職機会が増えることが予想される。デジタル化の必要性は一段と高まる。

実証実験は1年間の試行を経て21年秋から本格運用に移行する予定だ。主要国で使われているものの中から日本の大学の実情に合ったシステムを選んでおり、多くの大学の参加を期待したい。

新政権の誕生で各分野のデジタル化に弾みがつきそうだが、大学も遅れを挽回する必要がある。学修歴証明書のデジタル化は、優秀な外国人材や留学生の獲得に寄与すると確信している。

大学でも脱・紙文化の動きが始まった。東北大は6月、「オンライン事務化」を宣言。学内の申請や決裁の手続きをデジタル化するとした。押印(ハンコ)の原則廃止により、年に約8万時間分の作業が減るという。

デジタル化は大学の国際化とも密に関わる。9月入学の拡大などをしても、海外からオンラインで直接出願できる仕組みが整わないと、外国の若者にとって日本の大学は身近な存在にならない。

学生の国際流動性を高めるには、事務手続きなども含めた総合的な改革が必要だ。(抜粋引用)

出典|学歴証明のデジタル化、5大学で実証実験へ|日本経済新聞 

2020年9月21日月曜日

記事紹介|成長に最大の責任を持つ者は、本人

P・Fドラッカー氏の心に響く言葉より…

成長に最大の責任を持つ者は、本人であって組織ではない。

自らと組織を成長させるためには何に集中すべきかを、自ら問わなければならない。

《非営利組織の経営》


これは、「組織」という言葉を「学校」や「家庭」に置き換えてもそのまま通用する。

成長に責任を持つ者は、本人であって「学校(家庭)」ではない。

組織や学校や家庭は、本人が成長したくなったり、勉強しやすい環境を作る必要はあるが、あくまでも勉強し、成長するのは本人だ。

しかし、その環境にしても、万全なものを与えればよいというものでもない。

古今より、ひどい環境の中で成功した者は多くいる。

どんなに頼まれても、ダイエットを代わりにすることはできない。

つまり、ダイエットも勉強も、その結果は他の人にではなく、必ず本人に戻ってくる。

それを、ドラッカーはこう語る。

『私が13歳のとき、宗教の先生が生徒一人ひとりに「何によって人に憶えられたいかね」と聞いた。

誰も答えられなかった。

先生は笑いながらこう言った。

「いま答えられるとは思わない。

でも、50歳になって答えられないと問題だよ。

人生を無駄に過ごしたことになるからね。」

今日でも私は「何によって人に憶えられたいか」を自らに問い続ける。

これは自らの成長を促す問いである。

なぜならば、自らを異なる人物、そうなりうる人物として見るよう仕向けてくれるからである。』《非営利組織の経営》

鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの墓碑銘にはこう書いてある。

「おのれよりも優れた者に働いてもらう方法を知る男、ここに眠る」

墓碑銘や新聞の死亡記事には、「何によって人に憶えられたいか」が書いてある。

また、葬式や通夜での本人紹介でもそれはアナウンスされる。

人生100年時代、「何によって人に憶えられたいか」は、どれほど成長したか、という人生の通信簿だ。

あの世に逝く直前までいかに、倦(う)むことなく前のめりになって自らの魂を磨いたか。

「成長に最大の責任を持つ者は、本人」という言葉を心に深く刻みたい。

出典:成長に最大の責任を持つ者は、本人 |人の心に灯をともす

2020年9月12日土曜日

記事紹介|安部教育改革の成果と課題

大学の側の課題も多い。外圧も時に必要だろう。しかし、財源を誘因にした改革ばかりで、本当に大学は強くなるのだろうか。

近年の大学界は、予算獲得で不利になることを恐れて政府に物言わぬ雰囲気が濃い。大学が知の府として自主的に改革を進める素地は、10年代に急速に弱くなったように思える。教育内容に実用性を求める風潮が強まり、学問の多様性の確保も危うくなっている。

大学と社会、地域と学校といった教育界の内と外との対話がもっと必要だ。次代を担う若者を育てる狙いの大学入試改革では、21年1月の大学入学共通テストへの英語民間試験の活用が土壇場で見送られ、多くの高校生らが振り回された。

国が専門家や高校現場の異論、懸念に耳を貸さず、理念先行で突き進んだ末に起きた失敗といえる。こうしたことを繰り返してはならない。(引用)

出典|強まった大学への関与 安倍教育改革の成果と課題|日本経済新聞 

記事紹介|弱くなった日本人

 豊かさと便利さとは、異なるものなのですが、それを今は混同していますよね。過ぎた便利さは、感性を鈍らせ、創造力を育てませんから。先人が築いてくれた便利な社会は、実は今日を生きる若者にとってはハンディキャップなのかもしれない。そして便利さのために管理され過ぎている分、問題を起こしにくい仕組みが出来上がってしまっている。失敗への許容度が低くなった社会では、挑戦心や冒険心は育たないし、創造も生まれないでしょう。(引用)

出典|安藤忠雄氏「日本の停滞は、インテリが闘わないから」|日本経済新聞 

記事紹介|教育に対する公財政支出

 「日本」は2.9%と比較可能な38か国中で最下位から2番目。OECD諸国平均は4.1%、EU23か国平均は3.9%だった。

OECDは「新型コロナウイルスのパンデミックが教育支出に及ぼしている影響の全貌はまだ明らかになっていないが、各国政府は経済の停滞、税収の減少、医療費と社会保障費の増大により公的資金の配分を巡って難しい決断を迫られることになる」と指摘。

アンヘル・グリアOECD事務総長は、パリで行われた発表会見で「教育制度の強化は、政府の危機回復計画の中心に据えるべきで、若者には成功するために必要な技能と能力を身に付けさせる必要がある。この危機によって、多くの国々ですでに明らかになっている教育の不平等を拡大させないように、できる限りの取り組みをしなければならない。我々は、現在の危機によって大規模な混乱に対処する能力があるかを試されている。今、この危機の遺産として危機対応能力が高い社会を構築できるか否かは、我々にかかっている」と述べた。(引用)

出典|教育への公的支出、日本は38か国中37位…OECD調査|リセマム 

記事紹介|大学の国際化

83年に始まった留学生10万人計画以来、なぜ東大を始め歴史のあるトップ大学では、留学生増など表面的な国際性を高められても、大学を本質的に転換させる国際化ができないのか。

『大学はもう死んでいる?』(苅谷剛彦・吉見俊哉著、集英社新書・20年)は、変化を避けるムラ社会としての大学の内実と、毅然とした態度をとれず中途半端な国の政策の問題を、現役の東大教員と元東大、現オックスフォード大学の教員が解説する。

限られた成功例として、専任教員に占める外国出身者の比率が高いAPU、国際教養大学、国際基督教大学などを挙げ、知的共同体では意図的に多様性を作り出すことが最も重要だと指摘する。

日本の高等教育のグローバル化対応には、学生、教職員双方で多様性を高めることが喫緊の課題だ。そして外国人を一時の助っ人や便利屋ではなく、共同体の一員として受け入れられるか、その覚悟と本気度が日本人に問われている。(引用)

出典|日本の大学は国際化するか 求められる多様性の確保|日本経済新聞 

2020年8月5日水曜日

記事紹介|コロナ禍と大学

コロナ禍の第2波は、経済社会に更なるインパクトを及ぼしており、首都圏の大規模大学は後期もオンライン授業を継続せざるを得ないと判断するところが多くなっている。直近の新規感染者数が急増したために、対面授業を可能な限り実施しようかと考えていた大学も、オンラインを原則とする方向に再度転換している。文科省は、こうした判断に介入することはないと思うが、かりに、後期も現状維持が続くとすれば、次に述べるような影響が負の遺産として長く社会に残っていくので、見過ごしにできないと考える。

第1に、学生の学習面への影響である。実施されているオンライン授業の学習効果に関して、学生自身の学習能力が高い大学は大きな問題にならないだろうが、個々の大学からデータに基づく質保証の実態が明らかにされていないため、極めて疑わしいと感じている。これに関する説明責任は個々の大学が負うべきである。オンライン授業自体の可能性については、否定的に見るべきではないが、現在行われている授業については、準備期間も短く、教員のスキルはピンキリで、単に間に合わせた程度のものに過ぎない。著作権をはじめとするコンプライアンスについても、きちんとチェックされていない。授業料に対する学習保証という意味では、機関としての大学が責任を持ちうるのか、極めて疑問である。この点について、私学助成を受けている大学は、実施状況、分析結果・データを積極的に公表してもらいたい。その際、授業料のコストパフォーマンスがどの程度下がったのかも、分析してほしい。アメリカの主要大学では、学生からの声に押されて、10%程度の学納金返還が行われつつある。我が国でも、オンライン授業への対応を支援するなどの理由で、一定額を学生(保護者)に支給した大学があるが、対価としての授業料をどの程度下げるべきなのかどうか、学問の府として、きちんと論理的に説明すべきであろう。

第2に、学生のメンタル面への影響である。特に、1年次の学生は、通常ならば、既に仲間もできて学生生活を楽しむフェーズに入っているはずだが、大学に入構する機会もほとんどなく、サークル活動も実質的に停止した状態で、図書館その他の大学施設さえも利用できないので、学生は一種の社会的孤立状態を余儀なくされている。例年なら、地方から上京して東京にも慣れてきたころだが、故郷に戻っている学生も多い。後期もその状態が続くなら、大学生になったという実感を持てないまま、1年間が過ぎてしまう。実際、子供がうつ状態になっているという訴えもあり、コロナ感染予防措置がメンタルヘルスに障害を生じさせているのである。こうした状況には、健康管理の担当部署で適切に対応すべきだが、学生が大学キャンパスに来ていないので十分把握できていないのではないか?

第3に、学生及び保護者の経済面である。学納金の納付に支障が出てきた学生は、大学を通じて文科省の支援への申請を行っているが、その状況に鑑みれば、例年の倍以上の学生に支援が必要となっているものと思われる。保護者の収入の減少のみならず、学生自身のアルバイト収入の道も狭くなっており、公的支援が受けられなければ、年度内に退学・除籍になる者が相当増えることは間違いない。設置者である学校法人として給付型の奨学金を独自に設けて、一時的な苦境を凌ぐ手助けをするケースもある。ただ、次年度以降の就職活動に関しては、悲観的な見方が多く、学業を終えても想定している収入が得られる職に就けるかは不透明である。大学院への進学、特に博士課程への進学は、経済的な観点から、ますますブレーキがかかりそうである。就職難に直面して、進学の形で逃げる人はいるだろうが、行く意味のない大学院は企業等からも評価されるはずがない。私学では、大学院の定員充足はますます厳しくなるだろう。コロナ禍によって、経済格差が、教育格差を生み、世代を超えて、格差が固定化してしまうことは、何としても避けなければならない。

第4に、次年度以降の大学(学部)の志願者への影響である。オープンキャンパスもバーチャルになり、高校生たちが大学を選択する重要な機会が失われている。保護者の経済的状況の変化もあり、潜在的な志願者は減少すること必至であろう。首都圏の大規模大学としては、おそらく、一般入試の実施前に例年より多い7割程度の学生を囲い込む作戦に出るのではないか?法定された国の方針を踏まえて、大学が入学者の定員超過を一定の枠に調整するために、3月下旬の段階でも、追加合格が出されて進学先を変更する者が、中堅大学では数%以上いる。当てにしていた志願者に逃げられて、慌てて追加合格を出して帳尻合わせに走るのだが、人気のない学部では想定枠に達しないケースもある。大学にとっては、失敗=収入減である。経済的に支障がない学生にとっては、大学がますます入りやすくなっていく。ただし、大学のオンライン授業の質に関しては、よくよくチェックした方がよい。コロナ禍は次年度も収束していないかもしれない。また、大学教員の教育力は、オンライン授業に端的に表れているからである。

第5に、大学という業界への長期的影響である。我が国は、大学進学が主として家計負担により支えられている構造なので、家計所得が増えない状況が続けば、子供の数が減少していくこととも合わせて、大学進学者数は長期的に減少傾向となる。国際競争力のある大学がこれから増えない限り、業界全体は縮小せざるを得ない。また、外国の大学との競争も、オンライン教育という手段の発達により、一層激化する。トップレベルの優秀な学生が東大・京大を捨てて海外を目指すという動きが出ているが、そうした傾向が当たり前になるかもしれない。また、どこでも学習ができるようになれば、首都圏の大規模大学が保有している固定資産に、意味がなくなる時代が来るだろう。大学という教育サービス機関は、歴史的モデルチェンジに取り組まなければ、21世紀の半ばには消滅していくという危機感が、その経営者たちに、どれほどあるだろうか?

以上のように、漫然と間に合わせのオンライン授業と称するものを続けることで、大学は自らの墓穴を掘ることになると考えている。都内の高校も、種々の工夫をしながら、通常形態の授業を実施している。例えば利用座席数を半分にするなどの感染予防措置を講じつつ、全面的に対面授業を実施するだけの収容力は大学にないが、感染リスク(及び回復)を織り込んで、可能な限り対面授業を増やして、学生にキャンパスで活動をする機会を与えることが、大学の価値を高める道である。また、図書館の利用やサークル活動が自由に行えるようにできないのであれば、授業料の一部返金は必須であろう。真っ当な業界なら、対価とサービスは、釣り合わなければならない。今後、大学設置基準の規制緩和により、より低廉な授業料でより効果的な学習機会を提供する新型の大学が現れることが望ましい。コロナ禍によるリスクを正確に理解し、大学の日常を学生本意に整え直す経営が求められている。新規感染者数の数字に振り回されて、効果の薄いオンライン授業と称するものを提供するだけなら、教員ごと総退場してもらっても、我が国社会が失うものはない。我が国には大学が多すぎるわけではないが、その名に値しない大学は、もういらない。コロナ禍をきっかけに整理が進み、ほとんど死につつある大学という存在にイノベーションが起きるなら、災い転じて福となる。

2020年7月18日土曜日

経済財政運営と改革の基本方針2020 |大学関係

第3章 「新たな日常」の実現

3.「人」・イノベーションへの投資の強化 ― 「新たな日常」を支える生産性向上

(1)課題設定・解決力や創造力のある人材の育成

②大学改革等
 
STEAM人材の育成に向けて、教育・研究環境のデジタル化・リモート化、研究施設の整備、国内外の大学や企業とも連携した遠隔・オンライン教育を推進するとともに、データサイエンス教育や統計学に関する専門教員の早期育成体制等を整備する。医工連携をはじめとする分野融合人材の育成、高等専門学校の高度化・国際化、専門職大学、専門学校、大学院等における企業等と連携・協働した社会のニーズに応える実践的な職業教育や博士課程教育をはじめとする高度人材教育の構築等を推進する。

優秀な人材を日本に惹きつける国際的な頭脳循環、トビタテ!留学JAPAN、大学間交流協定による単位互換や共同研究、教育プログラムの国際連携などを拡大する。

国立大学法人改革について、戦略的な大学経営を可能とする新たな法的枠組みを検討し、年内に結論を得る。国と新たな自律的契約関係を結ぶ国立大学法人は、グローバルな評価・処遇制度の下、人事の独立性を確保し、学生定員を自律的に管理、デジタル化を活かした質の高い教育を実践、リモート留学生・教員も含めたグローバルキャンパスを実現する。あわせて、戦略的経営を促す財務・会計の在り方等について具体的な検討を行う。国立大学法人運営費交付金の客観・共通指標による成果に基づく配分対象割合・再配分率を順次拡大しつつ、第4期中期目標期間の新たな配分ルールを検討する。大学の連携・統合の推進、地域に貢献する公立大学への地方財政措置を含めた支援の実施、私学助成のメリハリある配分の強化を図る。

感染症による影響を含め、高等教育無償化等の実施状況の検証を行い、中間所得層における大学等へのアクセス状況等を見極めつつ、その機会均等について検討する。

③リカレント教育

遠隔・オンライン学習、働く個人向けの教育訓練給付や事業主向けの人材開発支援助成金の活用、大学等によるプログラムの拡充も進めながら、例えば40歳を視野にキャリアの棚卸しを行うことにも資するよう、いくつになっても再チャレンジできるリカレント教育を全国的に推進する。産業界との連携・接続を強化した幅広い分野の実践的プログラムやデジタル・デバイドを防止する生涯を通じたe-ラーニングを強化する。機械やAIでは代替できない価値創造人材を育成するため、最新のIT・テクノロジーや教育手法を駆使した教育プログラムの開発を支援する。STEAM・デジタル人材の育成に向けた人材投資を促進するインセンティブ措置を強化した制度の検討を進める。

(2)科学技術・イノベーションの加速

「世界で最もイノベーションに適した国」に向けて、人文科学の知見も活用して未来を変革し、世界を先導していく。

次期「科学技術・イノベーション基本計画」において、これまでの取組の進捗・評価を踏まえ、デジタル化等の社会課題解決に資する分野を中核に据えて、人材育成を含めた優先順位付けやインセンティブ措置の強化を行うとともに、リーマンショック後の投資停滞を繰り返さないよう、新たな社会課題に応えるイノベーションの促進に資する指標を設定し、官民で連携し、研究開発投資の拡大に取り組む。関係司令塔の一層の機能強化・相互連携を図り、以下の取組を推進する。

世界トップレベルの研究力を実現するため、博士課程の処遇の向上、大学における安定的ポストの確保、産業界のキャリアパスの拡大等により、博士課程学生を含む若手研究者支援を強化する。研究の人材・資金・環境の改革と大学改革を一体的に展開し、基礎研究をはじめとする研究力の更なる強化を目指す。世界に比肩するレベルの研究開発を行う大学等の共用施設やデータ連携基盤の整備、若手人材育成等を推進するため、大学改革の加速、既存の取組との整理、民間との連携等についての検討を踏まえ、世界に伍する規模のファンドを大学等の間で連携して創設し、その運用益を活用するなどにより、世界レベルの研究基盤を構築するための仕組みを実現する。女性研究者の支援や研究者の移動の促進も重点化し、多様性を活かして人的資本を高め、国際協力を強化する。ムーンショット型研究開発及び創発的研究の支援により、破壊的イノベーションにつながる成果を創出する。知的財産利活用等の知財戦略を推進するとともに、官民が連携し、先端技術・システム等の機動的・戦略的な国際標準化に取り組む体制を強化する。また、官民連携による戦略的な研究開発投資について、企業による外部研究資源の活用や目利き人材によるマッチングなどの取組の支援、官民連携主体の外部化の検討、スタートアップ企業への投資促進支援、大企業とスタートアップ企業の契約適正化やスピンオフを含む事業再編を促進するための環境整備などを通じて、オープン・イノベーションを推進するとともに、イノベーション・エコシステムの維持・強化に向けた取組を推進する。

最先端の基盤的技術であるデジタル化・リモート化、AI・ロボット、量子技術、再生
医療、バイオ、マテリアル革新力、革新的環境エネルギー、アルテミス計画等の宇宙探査、準天頂衛星等各省連携による衛星開発や基幹ロケット開発等の宇宙分野、北極を含む海洋分野の研究開発を戦略的に進める。効果的な治療法・治療薬やワクチンの研究開発等の感染症対策、防災・減災等の国及び国民の安全・安心に資する重要な技術分野への予算
や人材等に重点化を図るとともに、シンクタンク機能を含む新たな体制の検討を進め、SDGs等の社会課題に対応した戦略的で質の高い研究開発を官民挙げて推進する。

研究開発への更なる民間資金の活用、世界の学術フロンティア等を先導する国際的なものを含む大型研究施設の戦略的推進、最大限の産学官共用を図るとともに、民間投資の誘発効果が高い大型研究施設について官民共同の仕組みで推進し、予算を効果的に執行する。また、科学研究費助成事業などの競争的研究費の一体的見直し、研究設備・機器等の計画的な共用の推進、研究のデジタル化・リモート化・スマート化の推進に向けた基盤の構築等を図る。

出典|経済財政運営と改革の基本方針2020|内閣府

2020年6月30日火曜日

紫陽花づくし

今年の紫陽花も見納め。いろんな場面で癒してくれました。感謝。







































2020年6月2日火曜日

記事紹介|真に支援が必要な学生とは

2020年度の文科省2次補正予算案を見て、がくぜんとした。生活に困っている学生等の支援として、授業料減免等に▽国立大学45億円▽国立高専2.3億円▽私立大学94億円――が計上されている他、私立高校生にも8.6億円、専門学校生への実証研究事業費としても2.6億円が盛り込まれている。これらの総額は152.5億円となる。

これが平時なら、大いに評価できる額だ。しかし新型コロナウイルス感染症の影響でアルバイトもままならず、おまけにオンライン授業などで通信費などもかさんでいる。国民一律の10万円支給があるとはいえ、食費にさえ困る学生生活に対する支援として十分なのだろうか。

がくぜんとしたのには、もう一つ理由がある。全世帯に布マスク2枚を配る「アベノマスク」は当初見込まれた466億円ではなく260億円で済むそうだが、2次補正の学生支援はそれを100億円以上も下回っている。

本社にも10日前やっとアベノマスクが届いたが、抗議の意を示すため送り返した。そのため品質がどうか実際には分からない。しかし見た目はうわさに違わず小さいもので、既に自前で10枚以上調達した布マスクに比べても使いづらそうだった。こんなものに血税を浪費されたかと思うと、怒りしか感じない。

もっとやるかたないのは、今回の学生支援はそれ以下の評価しかされなかったということだ。

安倍政権は高等教育の無償化を実現したと胸を張るが、「真に支援が必要な、所得が低い家庭の子どもたち」という限定が付いている。裏を返せば、それ以外の学生は「真に必要」ではないと言っているに等しい。しかし、いま生活に困っているのは、そんな「真に必要」と見なされなかった学生たちである。

東京私大教連の調査によると、首都圏私立大学の19年度新入生は毎月の仕送り額が8万5300円で、家賃を除いた1日当たりの生活費は730円になる計算だという。保護者世代はこれをどう思うだろうか。もしかすると祖父母世代は「高い。今どきの学生は、われわれのころより恵まれている」とさえ思うかもしれない。

しかし実態は違う。そもそも授業料は国立大学(標準額)が53万8000円、私立大学が18年度平均で90万4146円(文部科学省調査)と、30年前に比べて1.7~1.8倍になっている。私大は他に学生納付金もある。その間、物価が大幅に変動した実感はない。

大学進学率が50%を超える一方、送り出す側の家計も大変だ。東京私大教連調査でも49.6%が受験から入学までの負担が「たいへん重い」と回答しており、「重い」を加えると92.7%を占める。実際には学生本人のアルバイトを前提として進学させている家庭も多いし、学費まで本人が稼いでいるケースも少なくない。日本学生支援機構(旧日本育英会)の奨学金はせいぜい授業料等の一部が補えるだけで、それだけで進学できると思ったら大間違いだ。

おまけに今は昔と違って「単位の実質化」により、学生は勉強しなければならなくなっている。夏季休業中に授業を受けなければならないことも珍しくない。電子出席システムで、代返も効かない。当たり前と言えば当たり前だが、本来なら日常的にバイトしている余裕さえないのだ。

そんな実態を長らく放置し、「真に必要な」などと言って澄ましておきながら、この緊急事態に至ってもアベノマスク以下の救済措置で平然としている。決して文科省を責めているのではない。そんな程度の教育政策でよしとしてきた、政権の在り方こそが問われるべきだ。

2020年5月24日日曜日

記事紹介|オンライン授業を制する大学が近未来の覇者となる

2020年度前期は、大学の授業の大半がオンラインで行われている。テレビ会議で使用されるZoomを使用すれば、双方向性が担保され、ある程度の数の学生への授業に支障を感じない教員も増えてきていると思うが、それぞれの大学により、ほぼ同時並行で試行錯誤によって経験が積み重ねられてきたこともあって、その実態に関しては、大学間格差が甚だ大きいと感じている。取り組みに関して、大学としての統一的なビジョンのもとに進められているか、準備段階から工程を管理しながら計画的に進められてきたか、オンラインによる教育効果を最大化するために努力がなされてきたか、コンプライアンスの観点から著作権等が適切に保護されているか、学生の受信環境の整備について支援を含めて適切な配慮がなされてきたかなど、総合的な評価が行われるべきだろう。

こうした点に関して、合格点を取れる大学は、おそらく全体の20%以下ではないか?コロナ禍への対応は、全世界の大学にとって事業継続=キャンパスに来られない学生への教育活動の維持という難題を突き付けたが、我が国の大学のうち、歴史的転換点になるという意識をもって、オンライン授業に取り組んでいる大学はどれほどあるだろうか?こうした課題への対処に後れを取れば、世界の大学や潜在的顧客である学生からは相手にされなくなる。特に、学生一人一人を取り残さずに授業に参加させるために大学として何をしてきたのかについては、大学の本質にかかわる重要なポイントである。新たな事態に向き合って、あるべき教育を考えるのではなく、一時凌ぎさえできればよいと形を整えるだけの姿勢の大学は、この際、退場させる方が世の中のためだろう。公衆送信されたといっても、資料だけ提示して、後は自学自習させるようなやり方では、大学の授業とはとても言えない。それでは、学生や保護者がかわいそうである。そんな大学には進学してはいけない。

コロナ禍による制約条件によって、オンライン授業の実験が大規模に行われる機会が生まれた以上、その結果を将来に生かすべきである。その意味で、次の諸点を提案しておきたい。

第1に、各大学で、オンライン授業のコンテンツ全てを可能な限り保存することである。授業は、大学の知的財産であるので、当然の措置なのだが、きちんとしたビジョンがない大学では、ここまで気が回らない。このデジタルアーカイブの中に、改善のヒントが隠されている。保存せずに流してしまえば、分析・評価もできない。

第2に、大学ごとに、教育の質、コンプライアンスの観点から、オンライン授業について、自己点検・評価をさせるべきである。また、国からの資金交付を担う機関による各大学の実態調査を行う必要がある。教育の質が大学教育としての水準を満たしていない、あるいは、著作権侵害等へのリスク対策が不十分である場合には、予算配分の減額をすべきだろう。これは、教学のトップである学長への評価といってもよかろう。

第3に、学生からのオンライン授業への評価についても、抽出調査を行い把握すべきである。改善のための意見も聞くべきであろう。一時凌ぎ程度の認識しかない大学に在籍している学生は、おそらくコロナ禍で最も割を食った人たちだろう。もっとも、もともとの対面型授業が素晴らしかったとも思えないが・・・。

第4に、こうした調査・分析結果およびデータについては、広く、社会に公表することである。大学の中には、教育の質、コンプライアンスに関する指摘を恐れて、学内にも情報を出そうとしないものがある。情報共有が不十分な大学には、問題が山積しているとみて間違いない。監事がこの面で役割を果たしてくれれば良いが、特にオンライン教育について知見のある監事を有している大学は少なかろう。

第5に、オンライン授業で利用された著作物等に関して、きちんとデータを取ることである。SARTRASによって、権利者の許諾を得ることなく、著作物を公衆送信することが一定条件のもとに可能となった(今年度は例外的に無償)が、近未来には補償金の積算・支払い・分配という業務が行われることになる。その前提として、利用の実態把握は欠かせない。そのためにも、オンライン授業に関して包括的にデジタルアーカイブ化しておくことが必要なのである。

最後に指摘しておきたいのは、オンライン授業を制する大学が、近未来の覇者となるということである。キャンパスの教室という密室では、どんなにダメな授業が行われても、単位を求めて囚われている学生たちには選択肢がなかった。どんなに他人の権利を侵害する資料の提示が行われても、直ちに学外に出ることはなかった。そういう時代は過去のものとなる。進行中のオンライン授業では、おそらくコンプライアンス違反が平然と行われているだろう。大学という組織体は、そうした無法状態を放置して知らん顔をし続けられるはずがない。オンライン授業には、教育効果の向上のほか、学生負担の低廉化、現在地にとらわれない学習機会の提供、オープンサイエンスの推進など、社会システムとしての大学改革の観点から、種々の可能性がある。コロナ禍が、それをもたらしてくれたと評価できる日が来ることを信じたい。

(出典)オンライン授業の実態はどうなっているのか?: NUPSパンダのブログ

2020年5月14日木曜日

記事紹介|自分の頭で考えることのできる人を育てる教育が、今まさに必要とされている。

出口氏は「教育の2つの目的」についてこう語る。

1.自分の頭で考える力を養う

*自分が感じたことや自分の意見を、自分の言葉で、はっきりと表現できる力を育てること(人格の完成)

2.社会の中で生きていくための最低限の知識(武器)を与える

*お金、社会保障、選挙など、社会人になるとすぐにでも直面する世の中の仕組みを教えること(社会の形成者として必要な資質を備えること)

そして、「尖った人」に関してはこんな文章がある。

『日本の教育は、スペシャリストよりゼネラリスト(いろいろな分野の知識を広く浅く持っている人)を育てる教育です。

これは、「一括採用、終身雇用、年功序列、定年」という、人口増加と高度成長の2つを与件としたガラパゴス的な労働慣行にフィットしたものです。

ゼネラリストという概念は、日本を除けば、世界のどこの国にも存在しません。厳しい競争にさらされている世界では、「ゼネラリスト人材を育成しよう」などと悠長なことをいっていられるはずがないのです。

確固とした自分の得意(専門)分野を持ち、なおかつ企業全体を見渡せる専門人材を育成するのが世界の常識です。

アイデア勝負の時代に必要なのは、自分の好きなことを究めて高い能力を発揮するスペシャリストです。

工場モデルに最適化した「素直で、我慢強く、協調性のあるタイプ」ばかりを育てるのではなく、スティーブ・ジョブズのような尖った人材の育成が急務です。

これからの日本でイノベーションを起こそうと思うのなら、極論すれば、日本人全員が自分の好きなことを究めなくてはいけないのです。』

この混沌とした時代は、先の見えない時代であり、前例のない時代だ。

「何百年に一度」とか、「戦後初めて」というような「まくら言葉」が付くできごとが頻繁に起こる。

前例のない時代を、「想定外」と言ったりする。

想定内とか前例踏襲の事例や事件ばかりなら、過去に起きたことや覚えたことを再現する能力に長けていれば活躍できる。

しかし、前例のない想定外の時代は、自分の頭で考える力のある人しか生き延びることができない。

世界中が、近世においてありえなかった、想定外のコロナ禍に直面している今…

自分の頭で考えることのできる人を育てる教育が、今まさに必要とされている。

2020年5月6日水曜日

記事紹介|政府はこれまでの不作為を反省しデータの有効活用にかじを切るべし

今回のコロナ危機で浮かび上がった日本の弱みが、デジタル対応の遅れである。マスクの買い占めを防ぐITシステムの構築から給付金の銀行振り込みまで、様々な場面で海外に劣後した。

デジタル化の加速は利便性の向上にとどまらず、私たちの生活や健康、命を守ることにもつながる。目の前のコロナ禍を奇貨として、官民挙げて日本のデジタル実装を力強く進めるときだ。

リーマンから進化なし

デジタルインフラが整っていれば、もっと素早く、的確に本当に困っている人を助けられたはず――。そう悔やまれるのが、曲折の末に決まった国民1人あたり10万円の現金給付だ。

生活に余裕のある富裕層にも一律に支給されるほか、申請から実際の入金までに時間がかかり、明日のおカネに窮する人への即効性に欠けると懸念される。

これは2008年のリーマン・ショック時の状況の再現にほかならない。当時の政府は定額給付金として1人原則1万2千円を支給したが、人々が実際に現金を手にしたのは方針決定から半年以上先の翌年だった。

高額所得者への支給についてばらまき批判も出たが、「所得制限をかけると自治体の実務作業がパンクする」などの理由から一律給付しか選択肢はなく、お金持ちには自主的な辞退を求めることでお茶を濁した。それから11年たった今も状況は変わらず、行政システムの旧態依然ぶりが露呈した。

米国は個人が持つ社会保障番号のデータをもとに、政府が各人の銀行口座に直接支給金を振り込む仕組みで、法律成立から約2週間で支給が始まった。

日本でもマイナンバーと銀行口座をひも付け、さらに納税データなどと組み合わせれば、迅速かつメリハリのきいた給付が可能だろう。情報セキュリティーを確保しながら、国民にマイナンバーの意義や機能を分かりやすく説明し、用途を広げる。政府はこれまでの不作為を反省し、データの有効活用にかじを切るときだ。

いつまでたっても解消しないマスク不足もデジタル化の遅れの反映だ。台湾の保健当局はマスクの購入時に個人識別用のICチップのついた健康保険証を示す仕組みを整えた。各人の購入履歴を管理し、買い占めや転売を防ぐ狙いだ。マスクの在庫データも把握し、どの店に行けば手に入るのか、最新の情報をネットで示す。

安倍晋三首相の約束した布マスクは多くの家庭にまだ届かない。今すぐ必要な人は感染リスクを冒してでも、多くの店を回るしかないのが日本の現状。彼我の差は歴然である。

スマートフォン搭載の近距離無線通信「ブルートゥース」を使って、至近距離に一定時間一緒にいた人(スマホ)を特定する、いわゆる追跡アプリで先行したのはシンガポール政府だ。その後ドイツ政府や米アップル・グーグル連合も開発に着手し、日本政府も5月中の実用化をめざしている。

追跡アプリが普及すれば、接触者の割り出しが容易になり、感染経路が特定しやすくなる。感染者の行動履歴に関する保健所の聞き取り調査の負担も減るだろう。

知らずに感染者と接触した人が早めに通知を受け取ることで、その人が他人にウイルスを拡散する恐れも小さくなる。

「民」の力の積極活用を

課題は個人情報保護との両立だが、アプリ利用を義務付けるのではなく、使いたい人が使いたい時だけオンにする任意利用なら、問題は小さいのではないか。

多くの人にこうしたデジタル技術を使ってもらうよう説得し、そこで得られた知見を感染抑止に生かすのが政府の役割だ。

初診時からのオンライン診療がついに認められるなど日本にも前向きな動きはある。東京都はヤフーの元社長を副知事に起用し、成果を上げている。政府も民間の専門人材を活用すべきだ。

厚生労働省がLINEと組んで国民の健康状態の調査を始めたが、社会のデジタル化を加速するためにこうした官民の連携を幅広く進める必要もある。

国民の側でも、例えばマスク不足の解消に役立つなら、データをもっと積極的に使ってもいい、という意見が今後増えるのではないか。今の危機を日本がデジタル化で巻き返す好機に変えたい。

(出典)新型コロナ:[社説]デジタル活用の遅れ挽回の好機に|日本経済新聞

2020年4月29日水曜日

記事紹介|なぜ、世界トップクラスの人的資本に恵まれている日本の労働生産性が低いのか?

かつての日本は、ハイテクの国であった。ところが現在ではIT化が遅れ、労働生産性もイタリアやスペインといった南欧諸国より低い。

日本は高齢化による若年男性労働者数の減少を高齢者と既婚女性のパート就業率を高めることで対処したので、労働力の質が下がり、労働生産性が落ちたという人もいる。しかし、やはり超高齢化が進むドイツは日本同様、高齢男性と既婚女性のパートタイム労働の就業率を底上げしてきたが、時間当たりの労働生産性は日本よりもずっと高い。

国際成人力調査(PIAAC)という、16歳から65歳までの労働者のスキル調査によると、日本の労働者の読解力と数的思考力は国際的にもトップレベルである。加齢による能力低下を考慮しても、国際的に非常に高いレベルを維持している。

なぜ、世界トップクラスの人的資本に恵まれている日本の労働生産性が低いのか? その理由の1つはIT化の遅れだ。日本では他の先進国に比べ、職場や自宅でコンピューターを使わない労働者が(若年労働者を含めて)非常に多い。

日本は、スマホ普及率の増加に伴ってコンピューター使用率が減少した稀有な国でもある。桜田義孝前五輪担当大臣兼サイバーセキュリティ戦略本部担当大臣が、パソコンも使わず、USBが何かも知らないことで物議を醸したが、その桜田氏もスマホは使っており、「桜田現象」は日本の現状の象徴でもある。スマホのアプリ開発で日本が世界を凌駕しているわけでもない。単に教育機関や職場のIT化が非常に遅れており、せっかくの良質な労働力の真価が発揮されていないだけだ。

オンライン授業なぜできない

新型コロナウイルスによるパンデミックへの対応を見ても、日本のIT化の遅れは顕著だ。学校閉鎖になった小中高では、オンライン授業への移行が全くなされなかった。IT化がもっと進んでいる大学でも事情は他国とかなり違う。首都圏では新学期を1カ月ほど遅らせる大学も多いが、知り合いの関係者の話によると、この期間を使ってオンライン授業への移行を準備する意味合いもあるらしい。これには衝撃を受けた。

学期中にパンデミックに対応せねばならなかった欧米の多くの大学は1週間程度でオンライン授業に移行した。もともと米国の大学では授業用のオンライン・プラットフォームが整備されており、オンライン授業への移行も既存の仕組みを利用することができ、年齢層の高い教員を含め、無事に一斉オンライン化ができた。南欧の大学でも、既存のプラットフォームと無料ソフトなどを利用して、授業を続行した。

欧米の大学よりもずっと準備期間があったはずの日本で、なぜ多くの大学が新学期を遅らせる必要があったのか? 自宅にインターネット環境がない学生がいる、コロナ騒ぎで外国人留学生が4月初旬までに入国できないなどの理由が挙げられたが、一方で、東京大学は暦どおり4月からオンライン授業を開始した。

IT化の遅れの元凶は、日本の政治と組織にあるのではないか。政府は既得権益には優しいが、一般国民全員に利益がある教育機関のIT化投資を長らく怠ってきた。民間組織も、初期投資が大きく、年功序列のヒエラルキーをひっくり返してしまうIT化になかなか踏み切れないのだろう。日本の「ハンコ文化」が典型的だ。

日本の超高齢化社会を持続可能にするためには、労働生産性の向上は不可欠だ。今回の危機が日本の大学や企業にとってショック療法となり、日本のIT化に弾みをつける契機になることを期待している。

(出典)スマホは使うがパソコンは苦手──コロナ禍で露呈した日本の労働力の弱点 |ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

2020年4月25日土曜日

記事紹介|新型コロナウイルスの感染拡大は大学や学生に何をもたらしているのか

型コロナウイルスの感染拡大は、全国の大学にも大きな影響を与えています。多くの大学が入学式を取りやめたり授業の開始を遅らせたりすることを余儀なくされる中で、前期の授業については本格的に行うことは無理との声も上がり始めています。

▽大学で何が起きているのか
▽授業再開の決め手と見られたオンライン授業の問題点
▽行き場を失う学生をどうフォローするのか
以上、3点を中心に、この問題について考えます。

国の大学は今、どうなっているのでしょうか。緊急事態宣言の中では、多くの大学が休業要請の対象となっています。新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、大学側は、宣言が出される前から対応に追われ、多くは入学式を取りやめました。首都圏や近畿地方を中心に、今年度の授業の開始はもとより、学生も教員も学内への立ち入りが禁止となるなど、大学の機能そのものが停止状態というところも少なくないのが現状です。
文部科学省のまとめでは、全国の大学のうち授業の開始を遅らせることを決めたのは、8割に上るということです。政府の緊急事態宣言が全国に拡大されたことで、こうした状況は当面解消される見通しが立たなくなったというのが大学関係者の共通の見立てです。

うした厳しい状況の中でも授業を行っている大学もあります。そうした大学が取り組むのが、パソコン等の情報端末を利用したオンライン授業です。いち早く夏休みまでの授業をオンラインに切り替えることを決め、学生に周知する対応を取った大学があります。東京・三鷹市にある国際基督教大学は、入学式は中止したものの、新入生も含め当初の予定通り今月9日から授業をオンラインで始めました。また、秋田市の国際教養大学は、授業の開始は今月20日まで遅らせましたが、すべての学生向けにオンラインでの授業を始めています。ともに先進的にこうした授業に取り組んできたことが功を奏した形です。ほかにも今週からオンラインで授業を始めた大学があります。文部科学省の調査では、全体では8割の大学が何らかの形でオンライン授業の実施を決めたり、実施を検討したりしているということです。ただ、オンライン授業を行うには、大学・学生双方に課題が顕在化しています。

ずは、大学側の問題です。そもそも日本の大学の中で、こうした授業に取り組んだことがある大学は、25%にとどまるという実状があります。ほとんどの大学は、すべての学生を対象にオンライン授業を行うことは想定していませんから、サーバー自体がそれを前提とした整備がされておらず、容量オーバーでトラブルを起こすことを懸念する声があります。東北大学で、おとといのオンライン授業初日にシステム障害で一部の学生が午前の授業を受けられない事態が起きるなど、情報基盤が恵まれていると見られていた国立大学でも、すでに多くのトラブルが出ています。
教員の対応の問題もあります。大学が閉鎖されて研究室にも入れない状況で、準備もままならないまま、これまで行ったことのない授業に臨む事態が起きる可能性があります。授業をどこから行うのかという問題もあります。文部科学省は、教員が自宅からオンライン授業を行えるよう改めたほか、大学のシステム整備や教員の支援にあてる予算を国の経済対策に盛り込みました。しかし、国の支援には限界があります。

内でしかできない授業もあります。実験や実習です。理工系の学部には、実験装置を使わければできない実験があります。医学部では実際の患者に向き合う「臨床実習」が不可欠です。学内ではありませんが、教育実習は受け入れ先の小中学校、高校の休校が続く中で、1学期中の受け入れの目処は立たない状況です。いずれもオンラインでは行うことができません。ほかの授業を先に行うことにも限界があり、早くも答えに行き詰まっています。

生側はどうでしょう。ほとんどはスマホなど何らかの情報端末を利用して授業を受けることができると想定されています。問題は通信費でした。自宅にWi-Fiなどの設備がない学生は、スマホのデータ通信を利用するケースが多くなりますが、それには上限があります。国の要請を受けたNTTドコモなど大手3社が25歳以下の学生を対象にデータ通信料を一部無償化するほか、国の経済対策でも自宅に通信設備がない学生向けにモバイルルーターを貸し出すための予算が盛り込まれました。しかし、これだけでは問題は解決しません。
昭和女子大学の学生が、オンライン授業で新学期の授業が始まるのを前に、学生155人にアンケート調査を行いました。その結果、ほとんどの学生が自宅にネットワーク環境はありましたが、36%の学生は通信量に制限があるかどうかを把握していないほか、21%が自宅のネットワークへの接続方法がわからないと回答しました。授業の途中でネットがダウンする可能性があるわけです。このほか、自宅にプリンターがない学生が23%で、教材や課題としてプリントをネットで配布しても印刷できないといった支障が生じる可能性があります。この結果がすべての学生の傾向を示すものではありません。ただ、最近の学生は、必要な時は大学のものを利用しているため、必ずしもパソコンは持たないとの指摘もあり、スマホでは小さな文字や図表は読めないなど、教育環境が学生によって不統一な問題をどうするのか。学生側の課題もつきません。

て、学生にとっては、もう一つ、大きな問題があります。3つ目のポイントである「行き場を失う学生」の問題です。生活費を賄おうとアルバイトをせざるを得ない学生も多くいます。ところが、飲食店を中心に肝心のアルバイト自体が少なくなっています。影響が顕著なのは自宅外の学生です。節約のため実家に帰ることは感染拡大のリスクを広めることになると自粛を求められています。学費や生活費は大丈夫なのか不安を抱え、このまま大学へ通っていいのか迷い始めたという学生もいます。
新入生も深刻です。大学は、必要な単位を取得するため、学生自身がカリキュラムを選択するなど、高校までと授業を受けるためのシステムがまったく異なります。そうしたシステムがわからない新入生向けのガイダンスが行えないままの大学も多くなっています。自宅外の新入生の中には、大学の閉鎖で寮に入れなかったり、下宿先の契約をいったん見送ったものの、いつから契約したらいいのかわからなかったりといった戸惑いの声が聞かれます。一方で、早めに大学近辺への引っ越しを済ませた新入生の中には、いったん実家に帰るかどうか迷っているうちに緊急事態宣言が出たことで帰るに帰れず、知人も少ない中で孤立しているケースが少なからずあると見られています。精神的に追い詰められた学生をどう救うのかも含め、大学側はできるだけ細かな情報を学生に示さなければなりません。
そして国には、学生の生活や学習権を損なわないための指針を早急に打ち出すことを求めたいと思います。それには、困窮した学生には、授業料の納付期限を延ばすことや減免措置、今年度から始まった給付型奨学金の対象を広げることを新型コロナウイルス感染拡大対策の一環として盛り込むなどの方法もあるのではないでしょうか。

くの課題を抱える大学ですが、今のような事態に普段と同じことはできません。大学ごとに状況が異なるという難しさを抱える中で、知の拠点をどう守っていくのか、知力を結集する必要があります。

(出典)「新型コロナ 苦悩する大学と学生は」(時論公論)|NHK 解説委員室

2020年3月12日木曜日

記事紹介|反省はしても後悔はしない

失敗して、やる気がなくなるのが敗者

失敗して、やる気になるのが勇者

福島 正伸

*

人生を映画のように、ドラマのようにと捉えれば、困難があった方が面白くなる。

困難を乗り越えた話はもっと面白い。

だから、失敗したとき、困難が来たときに使う言葉は、

「ますます面白くなってきたぜ!」

Welcome 困難です。

松下幸之助氏が語るように、

「困っても、困ったらあかん」のです。

反省はしても、後悔はしない。

躓くのは、足を前に出している証しだから。

(出典)失敗|今日の言葉

2020年3月5日木曜日

記事紹介|運命は与えられるものではなく、自分から動いてデザインしていくもの

自分のやりたいことに

挑戦する勇気を持っている人の未来には、

自分が考えている以上に

楽しいことであふれた毎日が待っている。

*

これを後押ししてくれる言葉として、日野原先生のこんな言葉があります。

『自分の人生に起こることを「運命だ」と受け身的に捉える人が多いようですが、

私はいつも「あなたの運命をデザインしなさい」と言うのです。

人生はよいことばかりではありませんが、誰かとの出会いを契機によい方向に変えていくこともできる。

運命は与えられるものではなく、自分から動いてデザインしていくものだというのが私の考え方です』

運命は決まっているものではなく、自らデザインしていくもの。

そうであるならば挑戦の多い運命でありたいですね。

そして失敗を恐れないこと。

なぜなら、

『失敗は行動しない者が引き起こすのであって、

失敗を覚悟してあえて行動しようとする者によって起きるのではない』

ということのようです。

今年の挑戦は何ですか?

(出典)挑戦|今日の言葉

記事紹介|逆境や問題から学ぶことができ成長することができる人は、それを人のせいにしない

逆境や問題から学ぶことができ、成長することができる人は、それを「人のせいにしない」。

そして、まわりのせいや、政治や時代のせいにはしない。

政府が悪い、トップが悪いといくら言っても、今まで起きてしまったことの状況は変わらない。

ダメな経営者が「景気が悪いから我が社も悪い」と言っているようなものだ。

つまり逆に、「景気がいいから我が社も良い」というなら、その経営者はいらないことになる。

すべて景気任せだからだ。

声高に誰かを非難している人は、自分の胸に手を当てて考えた方がいい。

もし、自分がそのトップの座にあったらどんな手を打つかと。

もっとましな手が打てたのかと。

決断を下すには、様々な条件が重なり、何かを選べば何かを捨てなければならない。

全員がオッケーになってハッピーになることなどこの世に一つもない。

そして、状況は刻々と変わり、昨日打った手は今日は正解ではない。

その中で決断するのだ。

結果を非難するのは誰でもできる。

それは、冷暖房の効いたテレビの前で、死闘を繰り広げるボクサーを見て罵(ののし)るようなもの。

「逆境に対する姿勢で人は問われる」

今、生かされていることに感謝し…

人のせいにせず、さわがず、

目の前のやるべきことを淡々とまっとうする人でありたい。

(出典)逆境に対する姿勢で人は問われる|人の心に灯をともす

記事紹介|現状維持とは後退していること

組織の内部の変化が外部の変化についていけなくなったとき、終わりはすぐそこに来ている。
ジャック・ウェルチ

先日3月1日に亡くなったGE伝説の経営者ジャック・ウェルチの言葉をお届けします。

「現状維持とは、後退していること」とも言われますが、井の中の蛙にならないことが大事ですね。

また、『変革せよ。変革を迫られる前に』ともウェルチは語っています。

英語では、“Change before you have to.”となっています。

自らが変化のきっかけになれ、時機を逸するなということでしょう。

さらに、『自分の運命は自分でコントロールすべきだ。さもないと、誰かにコントロールされてしまう』とも語っています。

世の中に対しても、自分自身に対してもイニシアチブとリーダーシップを取ること。

どちらも意識的に自ら働きかけるからこそ出来ることですね。

変えるべきもの、変えるべきではないものの見極めが大事です。

(出典)変化|今日の言葉

記事紹介|肯定の哲学

国家全体が受ける危機という国難が襲ってきても、心配することはない。

むしろ、心配しなければならないのは、人々の心に気力や気迫という「生気」がなくなってしまうことだ。

SNS上も、マスコミも、否定の哲学にあふれている現代…

まさに、国民にこの「生気」が問われている。

「ダメだと言うなら、それよりいい案を出しなさい」 

(出典)ダメだと言うなら、それよりいい案を出しなさい|人の心に灯をともす

2020年3月3日火曜日

記事紹介|身の丈に合った教育

本来、学校とは「平等をつくるための装置」なのに、そこには組み込まれない活動を評価することは、国が「教育の平等」を放棄するようなもの。安倍晋三政権が進めようとしている大学入試改革は、貧困の連鎖を拡大させる改革でしかない。

貧困の最大の問題は「機会の略奪」である。

教育を受ける機会、仲間と学ぶ機会、友達と遊ぶ機会、知識を広げる機会、スポーツや余暇に関わる機会、家族の思い出をつくる機会、親と接する機会……といった「普通だったら経験できることができない」のが貧困である。

とりわけ幼少期の「機会奪略」はその後の人生の選択にも大きな影響を与える。私たちは幼少期にこういったさまざまな経験を積む中で、80年以上の人生を生き抜く「リソース」を獲得する。ところが低所得世帯の子供はそういった機会を経験できず、進学する機会、仕事に就く機会、結婚する機会などについて、「機会略奪のスパイラル」に入り込む。

その機会略奪のスパイラルを、唯一阻むことができるのが、本来、学校の役目だった。学校では親の社会経済的地位に関係なく、同じ教科書で同じ教育を受け、同じ制服を着て登校し、同じ食事を食べ、同じ行事に参加できる。それはまさに「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」というフレーズの、“多様な(家庭)の人々”との協働作業だ。

だが、その「平等をつくるための装置」も中学まででジ・エンド。高校になると間接的に親の社会的経済的地位でふるい分けられる。子供の学力と親の社会経済的地位は関係性が深いため、学校の学力レベル=親の社会経済的地位となってしまうのだ。

それでも何とかして大学に行きたいと思う子供は、主体的に勉強をし、高卒認定を受けるなどして、大学受験することができた。いじめなどで学校に行けなくなり「学ぶ機会」を略奪された子供も、主体的に勉強をし、高卒認定を受けるなどすれば大学受験できた。

大学受験というのは、ふるい分けを再び、リセットできる大きな機会だった。その機会を「子供たちの未来」を考える立場の人たちが、奪おうとしているとしか私には思えない。

家庭の経済格差が教育格差につながっていることは、さまざまな調査が明らかにしているが、これに拍車をかけるような制度を文科省が進めてどうするというのだ。

「身の丈に合った教育を受ければいい」と、マジで思っているのだろうか。

文科省はいい加減、大学教育の入り口対策に精を出すのをやめて、出口対策に邁進(まいしん)したほうがいい。

大学は「入りはよいよい、出口は怖い」のほうが、お国が求める「カネのある家庭の子供たち」も必死で、主体性を持って多様な人々と協働して学んでいくと思いますよ。

(出典)大学入試改革「主体性等評価」の意味不明、平等はどこへ?|日経ビジネス

2020年2月21日金曜日

記事紹介|多くの人が何気なくできることなのに、 意識しなければその価値に本当に気付くことはない

何も感じられなくるうつの世界に一度行ったからこそ、私は皆さんに伝えたいことがあります。

手が動くのであれば、大切な人を抱きしめてください。

耳が聞こえるのであれば、親しい人の声を聴いてください。

口が動くのであれば、誰かに「いつか話そう」と思っていることを素直に伝えてください。

体が動くのであれば、日本中の行きたいところへ出かけましょう。

好きなものを好きなだけ感じる大切さを、私はうつを克服して初めて知りました。

どうか、健康な心と体を、我慢して苦しいことをするためだけに使わず、一度きりの人生を精いっぱい楽しんでください。

後生川 礼子

(出典)五感を使う|今日の言葉

2020年2月19日水曜日

記事紹介|遠くを見る力

迷った時ほど遠くを見よ

近くを見れば見るほど船酔いする

あらが見えてくる

遠くまで見ていると、実はそんなものは誤差だとわかる

孫 正義


遠くというのは物理的な視野を指す場合もあれば、時間的な尺度を指すこともあるでしょう。

だから人は悠久の歴史から学ぶことも大事なのです。

「賢者は歴史から学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉もあります。

または大きな目標を見据えることも、遠くまで見ることになるでしょう。

ソニー創業者の井深大氏の言葉に、「鍬を持って耕しながら、夢を見る人になろう」と語っています。

最後にサン・テグジュペリの言葉も紹介します。

「船を作りたいのなら、材木を集めるために人を集めたり、彼らに仕事や作業を割り当てたりしてはいけません。

彼らに、海の無限の広さを夢見るように教えてあげなさい」

夢を見る力が大事ですね。

(出典)遠く|今日の言葉

記事紹介|野村克也語録

勝ちに不思議の勝ちあり

負けに不思議の負けなし

野村克也


先日2月11日に亡くなられた野村元監督の言葉です。

元々は剣術の達人でもあった平戸藩主の松浦静山の言葉だそうです。

故人を偲び、過去にご紹介した野村氏の言葉をお届けします。

  • プロの世界は、当たり前ですが、どこまでも自分との闘いです。夜、僕が素振りをしていると、先輩が若い奴を連れて繁華街に行くんです。“おまえもどうだ”とよく声を掛けられましたが、お金もないし、着ていく服もないから、“僕はいいです”って言って残って、自分でつくった個人メニューをこなしていました。
  • 素質は一流でも、思想が二流の人間は伸びない。
  • 人生に大きな夢を持っている人というのは敏感である。目標意識がはっきりしている人は敏感である。目標がしっかりしていると、物事に肯定的になるから、それが敏感にするのであろう。人間の最大の悪はなんであるか、それは「鈍感」である。
  • 不器用を恥じる必要はありません。不器用なことを認識していれば熱心に研究するし、対策を考える。それに第一手抜きをしません。この手抜きをしないことこそ一流選手への必要条件。

努力、思想、熱心さ、夢、目標、手抜きをしない。

そうした一貫した姿勢が野村氏の魅力だったのでしょう。

(出典)ぼやき|今日の言葉

2020年2月12日水曜日

記事紹介|知識と行動は表裏一体

中国の朱子学の考え方の一つに「先知後行(せんちこうこう)」がある。

先知後行とは、先に正しい知識を得たのち、それをもとに行動しなさい、という考え方。

それに対する概念として、王陽明は「知行合一(ちこうごういつ)」を唱えた。

知識と行動は、分けることのできないものであり、表裏一体であるとの考え方だ。

本当の知とは実践を伴うものであるということ。

正しい知識や思想を得るために、まずは勉強しなければいけない、という人は多い。

今の学校教育がまさにそれだ。

知識を得るのがいけないと言っているのではない、ただ頭に知識を詰め込むだけ詰め込んで、それをアウトプットしない人が如何に多いかということだ。

本来は、知識と行動というアウトプットは表裏一体のもの。

準備もなしに「とにかく走り出せ」というのは少し乱暴ではあるが、現代人はそのくらいのスピード感でちょうどいい。

薩摩には、西郷隆盛や大久保利通らをつくり上げた、郷中教育というのがあった。

その中にこんな言葉が残されている。

「泣こかい 飛ぼかい 泣こよか ひっ飛べ」

高いところから、飛び降りようかどうしようか迷って泣く子供に向かって、「泣くくらいなら、サッサと飛び降りろ」と言ったのだ。

ぐずぐず考えてないで行動しろ、ということだ。

「地球は行動の星」

ぐずぐず考えていないで、さっさと行動できる人でありたい。

記事紹介|政治に屈した思考停止や政府方針の忖度の中でしか政策を考えられず、ねじ曲げられた文教行政が定着してしまうことを恐れる

文部科学省の「大学入試のあり方に関する検討会議」が7日、第2回会合を開催した。まずは経緯の検証ということで、英語と記述式の別に報告書が示された。12人もの外部弁護士が協力したという詳細なものだ。

ただ、これには大きな限界がある。「議事録や報告書等から整理した」(各報告書)ということだ。もっとも会議の間や背景に何があったのか、ますます疑念を浮かび上がらせることができると評価することもできよう。 

実際に議論でも、まず益戸正樹・UiPath特別顧問が民間企業人の立場から「どうも結論が先にありきで、20年度というターゲットイヤーに縛られすぎていたのではないか」と口火を切った。それに続いて末冨芳・日大教授が、必ずしも英語民間活用に積極的ではなかった高大システム改革会議最終報告の2016年3月から8月までに積極的な流れが形作られたことを指摘。検討組織体が位置付けられない中の5カ月間にどのような意思決定がなされたことをただした。

これに対して文科省事務局は、「英語力評価及び入学者選抜における英語の資格・検定試験の活用促進に関する連絡協議会」(14年12~17年9月)と「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)検討・準備グループ」(16年5月~、現「大学入学共通テスト」検討・準備グループ)で流れができたと説明した。

しかし、事務方の説明を素直に聞くことはできない。その間、まさに省内でどういう「意思決定」と指示があったかこそが問われなければならないだろう。審議会は行政の「隠れみの」とも言われる通り、資料提出や進行・質疑応答、裏表の調整で役人がいかようにもコントロールできる。今回の一件も議事録や報告書等の「表」を見るだけでなく、まさに「裏」で何があったかを解明しなくてはならない。

となれば、話は簡単だ。第2次安倍政権の発足から文部科学相(12年12月~15年10月) として強力に英語教育や入試改革を推し進めた下村博文氏や、「5カ月」の間に文科相(15年10月~16年8月)を務めた馳浩氏に問いただせばよい。14年7月から文部科学審議官、16年6月から文部科学次官を務めていた前川喜平氏を呼ぶのも一興である。

第2次政権以降、政務三役主導の文科行政が進行したことは明らかだ。ならばその「責任」は、政治が負わなければならない。しかし萩生田光一・現文部科学相は、この日の会合でも中座前に「課題があるまま進んでしまったのは、もしかすると大きな課題は文科省そのものの体質にもあったかなと自分自身の反省を含めて思う」と述べた。まるで「職員」に判断ミスがあったかのような口ぶりである。

重ねていうが、二つの柱の見送りでますます現場の混迷を深めたのは萩生田文科相の「責任」である。どうも安倍政権は国民の理解を得るまで何度も何度も同じ説明を繰り返し、しれっと次の改善に移すのが「責任」だと思っているふしがある。これでは役人の士気が下がって当然だろう。

というより政治に屈した思考停止や政府方針の忖度(そんたく)の中でしか政策を考えられず、ねじ曲げられた文教行政が定着してしまうことを恐れる。純粋に教育の在り方を考えようとする古き良き文科省の体質を回復させることこそが、教育界のためにも国民・住民のためにも必要だ。

国会で追及が続いている「桜」問題も、決してさまつな話ではなく現政権と行政運営の在り方を問うものだろう。検討会議でも、そうした本質を突き詰めるよう委員の一層の奮起を求めたい。

記事紹介|「運」は「動」より生ず

小林正観さんは、「「運」は「動」より生ず」と言う。

これを「運動」と呼んだ。

実践すること、行動することが、「結果」を生むからだ。

実践すれば必ず、「運」がやってきて、楽しく、おもしろい現象が起こるという。

あの伊藤博文が「一たび動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。周りの者は、ただただ驚き、呆然とするばかりで、敢えて正視する者すらいない。それこそ我らが高杉さんのことだ」と評した、高杉晋作はこんな唄を残している。

「真(しん)があるなら今月今宵(こんげつこよい) あけて正月だれも来る」

このままでは幕府によって長州はつぶされる、もし、国を思う気持ちがあるなら、今集まれ、という思いを込めて即興で作った唄だと言われる。

それを、幻冬舎の見城徹氏は翻訳してこう言った。

「情けあるなら今宵来い。明日の朝なら誰も来る」

人は、2回、3回と誘っても来ない人は、二度と誘おうとは思わない。

情けが感じられないからだ。

人と人との関係は、すべからく「情」によって動く。

理論や理屈ではない。

情の人は、動の人だ。

「行動範囲を広げること」

まわりから誘われ、声をかけられる人でありたい。

(出典)行動範囲を広げること|人の心に灯をともす

2020年2月5日水曜日

記事紹介|文部科学省の能力

私立学校法改正に伴う学校法人の寄付行為改正の手続きが進められているが、学校法人に対して他の法人類型の制度を押し付けるような法改正に対して、私学の経営者たちは、反発を隠そうとしていない。私学の独自性を否定されているとまで表現する向きもある。

また、文部科学省は、結局のところ、地方及び小規模の私立大学から切り捨てる方針なのではないかと私学関係者は危惧している。財政支援は抑制する一方、統治ばかり強化するとして、文部科学省への不満は高まるばかりである。

さらに、修学支援措置の対象機関となる要件に対しても不満は強い。学生への個人補助であるにもかかわらず、学生と関係がない要件を持ち出して、私学の自主性に介入することへの不当性を指摘する声は大きくなっている。

この件では、既存の個人補助との整合性に不安を述べる関係者も多い。教育無償化が修学支援に変質し、既存制度との整合性を示さないままに、当面は既存制度も維持という程度でみなが納得するわけがない。

文部科学省には、官僚=テクノクラートとしての信用もないのである。加えて、国公私立の役割見直しは店ざらしのままで、やるべきことを先送りし、やるべきでないことばかり急いでいる国=文部科学省への批判は留まることを知らない。

文部科学省は、高等教育の規模について、中教審においても明確な指標を示せていない。人口減少⇒経営環境の悪化⇒競争の激化⇒優勝劣敗で統廃合⇒大学数・入学定員の減少という暗黙のシナリオは意識せざるを得ないが、国立を含めて、正々堂々と2040年までの縮小目標を提示すべきではなかったのか?

こうした重要な議論を避けていながら、官邸主導で決まってしまった新規施策だけは、命令通りに何も考えず実施しようとするのでは、高等教育の8割を担う私学からは迷惑以外の何物でもない。

人口減少期に入っているために、私学経営は、未来が見通せず余裕が持てなくなっている。私財を投げ打って法人を設立しているので、破綻すれば、経営者には地位も財産も残らない。もっとも、国立大学からも、同様に好意的な評価を聴かない。大学業界からの不審の眼を、文部科学省の幹部はどう考えているのだろうか?

国連が推進するSDGs(持続的開発目標)の17ゴールのうち、日本は、教育分野では達成度合いが高いとされているが、経営環境の悪い地方及び小規模の大学を他と一律に扱うことによって、事実上切り捨てれば、教育機会の格差は拡大に向かう。

当初は教育無償化がうたわれていた修学支援の個人補助の制度設計・配分にも、一工夫あってよいのではないか?

私の懸念が外れなければ、この新規施策によって、費用対効果の観点から、歳出の無駄が積み上がっていく。そうなれば、国民からの痛烈な批判(文部科学省無用論)は避けられないのではないか?

私学を始めとする大学業界は、既に文部科学省を当事者能力の面で見限っていると思うが、このままでは組織的に敵視するようになる日も近い。果たして、霞が関で影が薄い文部科学省は、大学からの四面楚歌でやっていけるのだろうか?

2020年2月4日火曜日

記事紹介|取り残される大学のSDGs

昨年からSDGsに関する著作物の出版が急速に増えている。民間企業や地方自治体へのSDGsの普及が進んでいるためであろう。

日経新聞が開催しているSDGsフォーラムも満員の盛況であった。この関心の盛り上がりは、世界的な金融の世界において、SDGs指標の活用が投資家の視野に入ってきていることも、大きな要因である。地方企業の価値評価をSDGsの観点から行って差別化を図ろうという新手法も、長野県などから始まっている。

主要な企業や地方自治体の相当数が実践を開始したことについては、政府の旗振りが功を奏したのか、世界の潮流に乗り遅れないという経営者の防衛本能のなせる技かは詳らかではないが、2030年の目標達成への具体的な取り組みが始まっていることは確かである。

しかし、学部学生の大半が席を置いている私立大学の多くは、SDGsに反応しているように見えない。経営陣にSDGsへの認識があるのかも相当怪しい。

SDGsが定める17の目標が多数の専門分野に分割されるために、教授の数だけ専門店が並ぶショッピングモールのような大学の構造上、SDGsを取りまとめて推進する中核が存在しないことも、認識の低さの原因である。

このままでは、企業や地方自治体に比して、意味のある取り組みが遅れ、社会的な落伍者になりかねない。

政府におけるSDGsの推進役は、内閣府(地方自治体対応)、外務省(国連対応)、経済産業省(産業界対応)だろうが、大学という組織体を誘導するのは、文部科学省の役割になるだろう。

しかし、今のところ、実質的に何の動きもない。東京2020大会の組織委員会のようなところでは、きちんとSDGsの観点からの計画を立案決定している。やらないわけにはいかない状況に追い込まれないと、何もしないのだろうか?

意識の高い自治体の小中高校では、SDGsを学習・実践する機会は多くなっているにも拘らず、大学業界だけが取り残される懸念がある。

大学という組織体で、SDGsへの取り組みを検討する際には、教育研究機関という事業体のインプット、アウトプット、内部のオペレーションの3領域に分けて考えると分かりやすい。

第1に、インプットについては、調達という業務に際して、契約先の選択に、SDGsの観点を加味することが考えられる。

電力さえも調達先が選択可能な時代になっており、再生可能エネルギーの割合が高い企業を選択するなどが考えられる。

また、長野県が推進しているようなSDGsへの優れた取り組みを実践する企業への認証制度を活用して、調達の際に有利な扱いをすることも考えられる。

大学が直接調達する物品・サービスに限らず、学生・保護者が大学やその関連会社の斡旋で購入するものを含めれば、大規模大学であれば、軽く億単位の桁になるので、調達を通じてSDGsを推進することは、相当の影響力になる。

第2に、アウトプットについては、大学全体の教育成果として、SDGsの観点を卒業生の種々の社会的行動に反映させることが最も重要である。

また、授業科目以外に、学生の課外活動として、貧困、飢餓、気候変動、海の環境保全などに関連するボランティア活動の実践に取り組むことを支援することも考えられる。その際、地方自治体との連携も視野に入れると良いだろう。

研究面では、成果を社会的イノベーションに結びつける大学発のスタートアップが生まれれば素晴らしい。そこまで行かないまでも、SDGsの実現に貢献するため、産学連携による研究成果の社会的還元に、大学全体として取り組むことが求められる。

さらに、地方自治体に協力して、例えば防災等の専門的知識をまちづくりに生かすという取り組みも考えられる。

第3に、オペレーションの面では、テレワークの推進など働く場としての環境改善、食品廃棄の削減、3Rの観点からの循環型経済の実現、ジェンダー平等への行動計画の策定など、幅広い取り組みが考えられる。

特に、ジェンダーや循環型経済に関しては、気候変動とともに、我が国は全体として最低評価となっており、目標達成が厳しい状況の課題となっているため、大学という組織体としても、企業における取り組みを参照しつつ、積極的な改革への意識を持たなければならないだろう。

大学に関する評価は、メディア等により、種々の軸で行われているが、是非SDGsという軸も取り入れることを検討してもらいたい。文部科学省自身が評価を行うことは無用だが、評価基準の策定などを施策化することは可能だろう。

内閣府がやっているように、意欲的な計画を策定している大学をモデルとして選定することも考えられる。2030年のゴールに向けて、SDGsは啓発から実践のフェーズに入っているので、実践する大学をどう増やしていくか、どう差別化するかを考えたらよい。

SDGsから大学が取り残されていては、我が国の目標達成は覚束ない。ただ、現場の感覚としては、このまま放置しておいて、大学自身がSDGsに目の色を変えるようには決してならない。残された時間は限られている。

記事紹介|仕事のスピードを上げる方法

大学の業務にも当てはまる経営スピードを上げるための5つの方法

1 メール文章の簡略化

日本の場合、ビジネスメールの書き方の基本として、「お世話になります。XXX社の〇〇です」から始め「よろしくお願いします」で〆ることがマナーとさている。そしてその内容もかなり丁寧に書かなければならない。

おそらくこのようなメールの書き方一つをとっても、日本全体でのGDPの1%ぐらいを浪費してしまっているのではないか、と感じてしまう。そもそも、そんなメール、モバイルのプレビューで見たら、全部「お世話になっております」しか表示されなく、可視性がかなり低くなってしまう。

アメリカでは、メールを書くときには短い方が良いとされる。というのも、読む人の時間を極力奪わないために、ごく単純にわかりやすく書く方が逆に良い印象を与えやすい。

2 スタッフを信頼し、性善説で物事を進める

そもそも企業が「管理」したがるのは、スタッフを十分信頼していないから。社内のコミュニケーションにおけるスピードを上げたければ、スタッフ同士が強い信頼関係を持てるカルチャーを醸成するのが最も効果的である。報告書一つとっても、信頼度が低くなるとその分量がどうしても増えがちで、自ずと作成と読解に費やす時間も増えてしまう。

そのためには、スタッフ同士が思いやれる環境と、正しい人選が重要になってくる。例えば、どれほど優秀だったとしても、他のスタッフに嫌な思いをさせるような人間を社内にいないようにしなければならない。

信頼関係を高めていけば、「管理職」の必要性すら無くなってくる。

3 場所と時間で縛らない

スタッフそれぞれに自主性を与え、結果を重視するべきであるが、ワークスタイルや場所、勤務時間などの「形」にフォーカスしすぎると無駄なストレスと時間が生まれてしまう。日本企業にありがちな日報やタイムカード、出張報告書などは、自主性を育むという点においては、弊害にしかならない。

例えば、長い時間だらだら働いて、質の低い結果を出すよりも、短時間でもすごいモノを作り出した方が良いという考え方。どのように働くかよりも、どんなアウトプットを出せるかに比重が置かれる。

そのためには、仕事中に遊ぶのも全然ありだし、むしろ楽しんでいる時間が増えれば増えるほど、プロダクティビティ (生産性) がアップすることもあるだろう。

また、リラックスしている時の方が面白いアイディアが思いつく (シャワー浴びている時にひらめく系) ので、自宅やカフェなど、リラックスできるスペースを設置するのもありだ。

ちなみに、WeWorkなどの素敵な環境で働けばクリエイティブなアイディアが出る、というのは全くの妄想で、”クリエイティブに仕事している感”を出すのは良いが、手段が目的にならないように要注意。

4 上司は情報をもっと公開する

日本の大企業複数社と仕事をしてみて一番驚いたのが、役職が上の人が自身のチームメンバーにあまり情報をオープンにしないこと。アメリカの企業だと、なるべく多くの情報を与え、スタッフが自主的に動くこと、でリーダーとしての仕事をしやすくするのが一般的であるのに対し、日本企業の場合はその逆になっているケースを何度も目撃した。

当事者の方々に聞いてみても、はっきりとした答えが出ないので、日本の組織に詳しい友人に聞いてみた。すると、意図的にそうしているという。最初は全く理解に苦しんだが、どうやらそうすることで権力を保持できるという。部下が知らないことを知っていることで、その人の存在価値を出すというかなり不健全な状態に感じられた。

そうなってくると、物事を進める際には毎回上司に聞かなければならなくなり、身動きが取りにくくなる。そして、全体のコミュニケーションコストも上がる。結果的に組織としてのスピードは下がり、競争力も下がってしまうカラクリ。

逆にスピードが速かったり、イノベーティブな企業に共通しているのは、上司と部下の情報格差が少ないこと。これを実現するには、クラウド系のサービスなどを活用する事で、毎回報告しなくても、スタッフがアクセスできる場所に情報を置いておけば良い。

5 年一の人事査定よりも頻繁なフィードバックを

人事評価を楽しみにしている人は少ないだろう。特にそれが1年に1回のペースだと、評価する側もされる側も心地悪い。数ヶ月前の事象などを取り上げてそれに対して良いか悪いかを伝えてもあまりピンとこない。

それよりも、その都度フィードバックを出したり、定期的な1on1ミーティングを設けて会社と個々のスタッフの目標と課題設定と、現状に対するディスカッションをする方が健全であり、素早い変化にも対応しやすくなる。

(出典)2020年に日本企業の経営スピードを上げる5つの方法

記事紹介|指示待ち大学

政治の冷酷さ、恐ろしさ

大学入試の2020年度改革が迷走している。萩生田光一文部科学相の「身の丈」発言が切掛で批判が高まり、野党が国会で取り上げて政治問題化すると、首相官邸は英語の民問試験の活用をあっさりと見送った。閣僚辞任が続いた直後だけに、政局安定最優先の政治決定だった。記述式問題にも批判が高まり、改革は風前の灯火である。

改革論義に関わった人たちは、改めて政治の冷酷さ、恐ろしさが身にしみたことだろう。民間試験も記述式も専門家が口を酸っぱくして問題点を指摘してきたのに、文部科学省は聞く耳を持たなかった。「明治以来の大改革」と大風呂敷を広げたはいいが、改革の中身は当初構想から後退に次ぐ後退だった。「最後に残ったこの2つは、面子に賭けてもやり抜く」。そんな思いがあったのだろう。文科省幹部は最後まで見送り回避に動いた。だが、政治決断で虎の子はあっけなくひっくり返された。

議論は一貫して政治主導だった。2012年10月、自民党総裁に復帰した安倍晋三氏は「経済再生」と「教育再生」を「日本再生の要」と位置付け、総裁直属の「教育再生実行本部」を設置した。実行本部は11月に「中間とりまとめ」を公表、12月の総選挙で政権を奪取すると、13年4月に第1次提言、5月に第2次提言を公表する。一連の改革は概ねこの第2次提言に端を発する。党の再生実行本部で示された方針(背後には相談に乗った文科官僚がいた)をもとに、官邸で「教育再生実行会議」が肉付けし、制度設計の詳細は「中央教育審議会」に委ねた。中教審は政治の下請け機関化した。

始まりも見送りも、決めたのは政治(官邸)。専門家が訴えた疑義は、制度設計の段階でも実施見送りの決断においても、真摯に検討される事はなかった。重視されたのは政権の目玉政策としての入試改革であり、政権のダメージ回避方策だった。

先輩の政治記者との会話を思い出す。「政治主導と言うが、政治家は本当に政策を吟味して発言しているのだろうか」と問うと、身も蓋もない答えが返ってきた。「政治家の関心は政局だけ。政策じゃない」。まさに慧眼で、それが政治のリアリズムなのだ。

しかも、こうした政治手法は文教政策だけではない。外交や社会保障分野の方が顕著だ。党や官邸が中心となり、政権の目玉政策を次々と打ち出す。確かな成果が出たかどうかの検証もないままに、次のイシューへと乗り換える。その繰り返しだ。

今日の日本は閉塞感に覆われてぃる。それを打破するには、縦割りで既得権益擁護に凝り固まる官庁の旧弊を打破する、トップダウンの政策決定プロセスが必要だとは思う。議院内閣制である以上、政治主導は当然でもある。ただ、今回の騒動は、専門家の知見を無視した"上から目線"一辺倒の改革では限界がある事も露呈した。それにも関わらず政治は、責任を文科省に押しつけるだけで、自らを省みる気配はない。振り回される方は堪ったものではない。

当事者意識はあるのか?

11月末、政府の英語民間試験の活用見送りを受け、全国の国立大が個別試験での対応を公表した。国の方針転換前は、82校中78校が入試で活用するとしていたが、一転して66校が取りやめを決めた。

個々の大学が受験生の成績を取り寄せ、判定に使うのは手問暇がかかる。国の成績提供システムが運用されなくなった以上、活用を止めるのは理解できなくはない。そもそも、民問試験活用に懐疑的な声が燻っていたわけだから。

でも、それで本当に良いのだろうか。大学入試は大学が自らの責任で行うものだ。国が介入する権限はない。国があれこれ言おうが言うまいが、自らの判断で必要ならやる、不要ならやらない。それが大学の矜持ではないか。

民間試験の活用は、入試で英語の4技能(読む・書く・聞く・話す)を測るのが目的だ。一旦は78大学が活用を決めたという事は、それだけの大学が4技能測定の必要性を認めた事になる。萩生田文科相が国立大学の姿勢を「非積極的だ。(活用自体が不適切だという)間違ったメッセージを与える」と指摘したのは無理もない。「国が言うから付き合ってきたが、国が止めるならこれ幸い。止めた!」。そう受け止められても仕方ない。主体性がなさ過ぎないか。対応を変えるなら、今後4技能の測定にどう取り組むのか、大学ごとに具体的プランを説明すべきだ。国が再び方針を出すまで様子見というのは完全な思考停止。「知的専門家集団」の体をなしていない。

今回の迷走の原因は国立大学協会の無為無策にもある。目的も実施方法も異なる複数の試験を、本当に入学者選抜の資料に使えるのか。50万人規模の共通試験で記述式問題の採点を、公平・公正かつ迅速にできるのか。大学が多様化する中で、現状規模の共通試験をやる意味があるのか.....。様々な疑問や不安が噴出し、論点は多くあったのに、個々の大学も国大協も正面からのオープンな議論を避けてきた。個別大学では言いにくい事でも、大学団体なら言える事がある。団体の存在理由はそこにあるのに、「文科省の方針が固まっていない」と言って議論を封印してしまったのだ。

11月の国大協総会では執行部のこんな発言があった。「大臣の表明だけで、文科省から正式文書が届いていない以上、対応しにくい」。そこに当事者意識は全く感じられない。全では文科省の思し召しのまま.....。

近年、国と大学の関係が様変わりした。それは国公私立を問わない。少子化で経営環境は厳しくなるばかり。国際競争力の観点からも教育研究環境の改善は急務だ。資金はいくらあって足りないのに、国家財政は火の車。国の機嫌を損ねたら予算確保で不利になり、大学の存立が危うくなる。大学がそう考えるのは仕方ない面もある。

一方の官僚も潤沢な予算を自らの裁量で分配できる時代ではなくなった。大学に良い顔ばかりできない。文科省自身にも厳しい目が注がれる。「大学に甘すぎると他省庁から批判された」。複数の文科官僚からこんな話を聞いた。入試改革論義には、国と大学の関係の変化、政府部内での文科省の立ち位置の変化が色濃く影響している。

だが、日本を取り巻く国際環境は様変わりした。新興国、特にアジアの成長は著しい。「日本はもはや先進国ではない」とまで言われる。次世代を担う若者は世界を舞台に勝負するしかない。国際ビジネスの標準語である英語は最低限のスキルだ。異なる背景を持つ多様な人々と協働するのに、日本式の腹芸は通用しない。自分の考えを自分の言葉で的確に、相手の立場を尊重しつつ伝える力が問われる。

政治主導云々の話は別として、改革の背景にはこうした問題意識があった。そんな人材を育てるために、大学は何をすべきか、高校卒業までにどんな力をつけて欲しいか。要求水準は大学によって異なる。だからこそ、個々の大学が入試の在り方を真摯に考えるべきなのだ。国の指示を待つだけの大学からは、主体性のない指示待ち人間しか育たない。

(出典)取材ノートから|IDE 2020年1月号

2020年1月22日水曜日

今日の心訓

まず顔を上げなさい
夢は、うつむいてても見えるような低い所にはありませんよ

2020年1月21日火曜日

今日の心訓

楽あれば苦あり、苦あれば楽あり、これの繰り返し
人生は試練の連続です
その試練をどう跳ね返すか。どうやりすごすか
跳ね返すもやりすごすも、ただ戦い方が違うだけで
「押しつぶされないぞ」と覚悟を決める点では同じです
人生は戦いの連続なのです
美輪明宏


2020年1月20日月曜日

今日の心訓

素直な心とは、
寛容にして私心なき心
広く人の教えを受ける心
分を楽しむ心であります
松下幸之助

2020年1月18日土曜日

今日の心訓

熱く冷静にそしてひたむきに


今日の心訓

挑戦の先は成功か学びしかない。
でっかい挑戦の先はでっかい成功か、でっかい学びしかない。
失敗とは何もしないこと、行動しないこと。


2020年1月17日金曜日

今日の心訓

素直な心とは、寛容にして私心なき心、
広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。
松下幸之助


2020年1月16日木曜日

2020年1月10日金曜日

記事紹介|あなたが競争すべき唯一の相手は、昨日の自分である

マーク・レクラウ氏は、改めなければならない習慣のひとつに「嫉妬と羨望を克服する」があるという。

『他人の生活やお金、外見などをうらやんでも、なんの恩恵も得られない。

たとえば、他人のお金に嫉妬しても、お金が手に入るわけではないし、他人の外見に嫉妬しても、美男美女になれるわけでもない。

そして、自分がみじめな気分になるばかりである。

こんな無意味な習慣を見つけてはいけない。

これは不幸への特急列車だ。

明確な真実を指摘しておこう。

あなたよりもっとすぐれている人、もっとお金を持っている人、もっといい車に乗っている人、もっといい家に住んでいる人はどかに必ずいる。

それを受け入れて自分の人生を歩もう。

あなたが競争すべき唯一の相手は、昨日の自分である。

自分の強みに意識を向けて、それをもっと伸ばそう。

成功している人に嫉妬や羨望を抱くのではなく、自分の成功のために全力を尽くそう。

自分が持っていないものを手に入れている人たちをうらやむのではなく、その人たちを努力目標にしよう。

複数の研究によると、嫉妬と羨望の一因としてSNSの存在があるという。

他人の人生のハイライトシーンだけを見て、それを自分の人生のNGシーンと比較してしまうからだ。

たとえば、フェイスブックで誰かが海外旅行に出かけて美しい浜辺でくつろいでいる様子を見ると、その人がそれまでの時間に一生懸命働いてきたことを忘れてしまいがちである。

私たちは他人が失敗しながら成功にたどり着いていることに気づかず、その人が恩恵を受けている場面だけを見て嫉妬と羨望を抱く傾向がある。』

「嫉妬は常に他人との比較においてであり、比較のないところには嫉妬はない」(フランシス・ベーコン)

自分と段違いに格上の人に抱く感情を羨望(せんぼう)と言い、自分が同レベルだと思っている人に抱く感情を嫉妬という。

どちらも、そこには比較がある。

人と比べる癖(習慣)をやめるには、今自分が持っている幸せに目を向ける必要がある。

自分のよいところや、うまくいっていることにスポットライトをあてる。

そして、それに感謝する。

もし、比較する必要があるなら、昨日の自分と比較する。

昨日より今日、今日より明日と少しずつでも、どれだけ進歩しているのか、と。

「習慣を変えれば人生が変わる」

習慣を変え、さらに自分を高めることができる人でありたい。

(出典)習慣を変えれば人生が変わる|人の心に灯をともす

今日の心訓

やったことは失敗しても20年後には笑い話となる。
やらなかったことは20年後に後悔する。
マーク・トウェイン


記事紹介|最も重大な間違いは、間違った答えを出すことではなく、間違った問いに答えることだ

答える必要のない問いに一所懸命時間を作っても徒労に終わるだけ。

または本来答えなければならない問いに答えていない分、時間的損失は大きくなる。

だからこそ、「そもそもその問いは正しいのか?」と疑いを持つ力が大事になる。

言い方を変えると、「今自分が取り組んでいることは正しいのか?」と前提を疑うこと。

条件が変われば同じことをしていても、その価値は変わっていく。

『自分が穴の中に落ちてしまったとわかったら、最初にすべきことは、これ以上穴を掘り続けることをやめることだ』

というウィル・ロジャーズ氏の言葉の通り、

今やっていることが作業だけの穴掘りになっていないかの自己認識が大事ですね。

(出典)問い|今日の言葉

2020年1月9日木曜日

今日の心訓

幸せだから笑うんじゃない、笑うから幸せになる。


2020年1月8日水曜日

記事紹介|自分の器を淡々と生きる

日本は学歴偏重社会であるといわれている。

最終学歴はどこか、どの大学を出たか、そんなことがいつもついてまわる。

会社に就職するための履歴書くらいならまだ仕方がないとしても、結婚式での新郎新婦の紹介で「何々大学を優秀な成績で卒業され」というのが決まり文句のようだ。

不思議なのは、どこの大学を出たかを知りたがる人は多いが、何を学んだかを知りたがる人はあまりいないということだ。

何気ない会話の途中で「失礼ですが、どちらの大学ですか」などと無作法なことを平気で聞いている人もいるが、「どこどこです」と答えると、「ああそうですか」で終わってしまう。

そこで何を学んだかより、どこの大学を出たかに興味を持っているようで、「レッテル」と同じと考えられているのだろう。

最終学歴がどうのというのは、たかがそんな程度のもので、新しいうちはピカピカと光っているかもしれないが、そのうちに古くなり、ポロリと落ちてしまう。

人生の後半生ではそんなレッテルは通用しない。

もともと、意味がないのだから。

大学を出たとしても、学校に通っていた期間は小学校から通算すればたかだか16年。

人生、後半にでもなればそれよりも長い期間、社会で学んできたことになる。

あえていえば、大学で学んだか否かはもう関係なくなっている。

それよりも社会でどう生きてきたかに責任を持たなくてはならなくなっているはずだ。

こちらの方にもっと自信をもってみてはいかがか。

もし、ある年齢以上の人にいささかの敬意がはらわれるのだとしたら、

「失礼ですが、社会に出てどれくらいの期間学ばれました」

というのが正解だろう。

自分のレッテルにしがみついたり、人のレッテルをいつまでも気にしたりするのではなく、自然体で自分の器を堂々と生きていきたいものだ。

(出典)一生を楽しく学ぶ|人の心に灯をともす

今日の心訓

日々の行動が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人生が変わる。


2020年1月7日火曜日

記事紹介|「自力思考」を「他力思考」に切り替える


  1. 《人の頭を使う》 自分の頭だけでなく、成功した人に知恵を借りる
  2. 《人の時間を使う》 ブログやYouTubeで発信し、相手の時間を使って、価値を提供する
  3. 《人のお金を使う》 採用・教育にお金を使わず、コミュニティメンバーから受講料を受け取り、自律型組織をつくる
  4. 《人の手足を使う》 代行型から教育型に切り替え、自分の手足は動かさない
  5. 《人のエネルギーを使う》 成功者の自信を借りて、新しいことに挑戦する
  6. 《人の人脈を使う》 影響力のある人からキーマンを紹介してもらう
  7. 《人のモノを使う》 書籍はデキル先輩からあえて借りる。ビジネスは基本的にGoogleの無料ツールを使う

あなたが自力思考を続ける限り、あなたの望むような結果を出すことはできません。

なぜなら、1日24時間、1年365日は誰がどうやっても増やせないからです。

また、自分の頭で考えるということは、「過去の延長線上」で答えを出そうとしていることであり、過去の延長線上では、現状を打破するようなビッグアイデアは生まれません。

つまり、「自分の頭と時間」をいくら使ったところで、自力には限界があるのです。

すでに結果を出している人の「頭を使い(知恵や経験をお借りし)」、自分以外の人の「時間を使う(協力していただけるようにする)」「他力思考」が必要です。

(出典)「自力思考」をやめ「他力思考」に|人の心に灯をともす

今日の心訓

成功の反対は失敗ではない。成功の反対は挑戦をしないこと。


2020年1月3日金曜日

記事紹介|信頼される人になる

「本物は続く、続けると本物になる」という言葉がある。

信用や信頼は一朝一夕にはできない。

そして、本物の人間には信用があり、人から信頼される。

しかしながら、信頼を失うときは一瞬だ。

ある程度の年齢を重ねた人が、「信頼」されていなかったとしたら、それはそれまでの生き方の結果が出たということだ。

若い頃、「約束を守らない」「学ぶことが嫌い」「仕事嫌い」「頑固、偏屈」「不平不満が多く、マイナス発想」「いつも、どこにいるか分からない」という人。

また、「問題に向き合わず逃げ出す」「後ろ向き」「損得ばかり考える」「自信がない」「悪口が多い」の人。

そして、ある程度の年齢になっても、「自分の哲学がない」「他人の足を引っ張り、言葉にとげがある」「利他ではなく利己」「いつも偉そうで、傲慢」「出処進退が見苦しい」「与えるのではなく、いつもちょうだい、ちょうだい(テイク)という態度」の人。

人から信頼を得るため…

本物の人間になりたい。

(出典)人から信頼を得るためには|人の心に灯をともす


記事紹介|自分が自分の人生を選んでいる

どんなにひどい環境に生まれたとしても、魂から見ると、そこが自分が一番成長する“道場”なんです。

魂がそこを選んだんだから、安心してそこで修行すればいい。

とはいっても、何も、そのままそこで我慢しろ、と言っているわけではないんですよ。

自分の「手」を変える、つまりそこにいて、生き方を変えていけばいいんです。

どうやって変えるのかというと、一番わかりやすいのは、人に喜ばれることをすればいい。

そうすれば自分の「手」が少しずつ変わっていきます。

「私は人さまに喜んでいただけるような立派なことはできません」

と言わないこと。

喜ばれることをするのは、実はとても簡単です。

たとえば昨日私がやったのは、ファミレスの駐車場でクギを拾ったことです。

お弟子さんと一緒にお昼を食べにファミレスに入ったとき、駐車場にクギが落ちていたんです。

その上を車が通ったら、パンクするかもしれない。

それじゃあかわいそうだと思ったから、私はクギを拾って、はしっこのほうによけておきました。

そして誰も気がつかなくても、人に喜んでもらえることをすると、神様がちゃんと見ていてくれるんです。

京セラの創業者稲盛和夫氏も同様のことを言っている。

「この世へ何をしにきたのか」と問われたら、私は、「生まれたときより、少しでもましな人間になる、すなわち、わずかなりとも美しく崇高な魂を持って死んでいくためだ」と答えます。

様々な苦楽を味わい、幸不幸の波に洗われながら、息絶えるその日まで、倦(う)まず弛(たゆ)まず一所懸命に生きていく。

その日々を磨砂(みがきずな)として、人間性を高め、精神を修養し、この世にやってきたときよりも少しでも高い次元の魂を持ってこの世を去っていく。

私はこのことよりほかに、人間が生きる目的はないと思うのです。

昨日よりましな今日、今日よりよき明日であろうと、日々誠実に努め続ける。

人は、自分を変えるのはとても大変だと思っている。

しかしながら、他人やまわりを変える方がよっぽど難しいし、その可能性はほぼゼロに近いかもしれない。

だからこそ、自分を変えていくしかない。

なぜなら、自分が今の環境や状況を選んで生まれてきたのだから。

毎日起こる様々なできごとを自分の「磨き砂」として、自分の魂を磨く。

他人やまわりのせいにするのではなく、たとえわずかであっても自分を変えていく。

その積み重ねが、自分をつくっていく。

人生の舵(かじ)を自分で握る人でありたい。

(出典)人生の舵を自分で握る |人の心に灯をともす

2020年のしないことリスト01