2020年12月10日木曜日

記事紹介|霞が関が学びきれていない失敗の本質

大学の現場感覚としては、大学入試センター試験は、標準的な学力の測定という意味で、問題作成の質が高く、高校学習指導要領への配慮も十分で、総合的に高評価を得ていると感じていた。確かに英語のリスニング試験は無理をしながらの実施だったが、何とか定着をみたと考えていた。何よりも、答案を短期間に正確に採点をするとともに、受験生側も自己採点で結果の予想が精度よく可能だったので、この種の試験としては、大学や高校の教育関係者からも評判がよく、国から褒められてしかるべき実績を残していた。

しかし、文科省は、トップダウンで、高校教育の改善を念頭に、高大接続部分に当たる大学入試を、外国(主にアメリカ)のシステムをモデルにして「改革」すると言い出した。うまくいっている大学入試センター試験を「改革」する必要はなかったはずだが、1点刻みの合否判定は不合理、複数の受験機会を設けるべき、記述式の設問も必要、英語は民間試験に代替することが可能などなど、種々の理由を持ち出して、センター試験を廃止して、新たな試験システムを構築する方向で、学識者らを集めて、急ピッチで検討を行ったのである。

その結果については、大きな目玉とされた記述式の採用が、採点の技術的問題で見送られ、英語の民間試験の導入も、得点換算の公平性の観点から先送りになっていると理解している。文科省にも、言い分は色々とあるだろうが、ここまでボロボロになって撤退した「改革」はあまり記憶にない。この「改革」を含めて大学入試の諸課題について幅広く論じている「大学入試がわかる本」(中村高康編、岩波書店)所収の荒井克弘「高大接続改革の現在」論文には、現場の学識者としての無念さがにじみ出ており、その優れた分析とともに、共感を禁じ得ない。

ここでは、なぜ、こうした失敗が繰り返されるのか、失敗から何を学ぶのか、考えてみたい。簡単に言えば、この分野の古典である「失敗の本質」(戸部、寺本、鎌田、杉之尾、村井、野中著、中公文庫)から、いまだに霞が関が学びきれていないということになる。霞が関の病理は、日本軍の組織的病理と同根である。以下に、私が考える今回の失敗の要因を挙げてみたい。なお、ケースとしては、文科省の事例だが、現在の霞が関に広く蔓延している傾向であると感じている。

第1に、現場、現実を踏まえない計画を立案してしまうことである。よくあるのは、背景も状況も異なる外国の例を持ってきて、我が国にそのシステムを導入すればうまくいくと決めつけてしまうのである。この発想による「改革」が、成功する根拠は何もない。大学入試の在り方は、国ごとに異なっており、それは上澄みだけをまねすることで移植できるものではない。それ以前に、移植すべき根拠もない。例えば、アメリカのAO入試と我が国のそれとは、月とスッポンの差があり、同じシステムだと誤解してはいけない。言わば、形だけ移植したが、現実には、まったく異なる文脈で使われているに過ぎない。現場、現実を踏まえない計画は、ロジスティクスの面を軽視する傾向にもある。机上の空論でビジョンを作ったものの、目標達成は不能に終わるというわけである。多くの日本軍の作戦の失敗も、そもそも実現不可能な作戦を決定してしまったことにあった。

第2に、データに基づく実証的な根拠を持たずに、計画を作成してしまうことである。そもそも、データの取得自体が不十分であり、客観的な視座から課題を抽出するという科学的なアプローチをしようとしていない。始めに、正しい現状把握に基づかない思い込みがあり、そのストーリーが改革の方針を支配してしまうので、科学的アプローチが反って排除されてしまうのである。また、思い込みから計画が作られて、やっと実施段階に至ったとしても、2年程度後に人事異動があれば、新たな思い込みに基づく新たな計画が作られるという、計画の永久運動が繰り返されるのである。実証性を軽視する組織は、失敗を失敗とも思わない。したがって、失敗の永久運動に陥り、たくさんの無駄と残骸が残されるのである。

第3に、決定までのプロセスがブラックボックス化され、だれも責任を負わないことである。正確な記録を残さない(廃棄する)ために、責任の所在が極めて不明確である。これも、日本軍とよく似ている。審議会等の検討の場についても、すべての委員がきちんと考えを述べているわけではなく、集約された文書はコンセンサスで承認されているに過ぎない。そうした場で反対意見を堂々と述べるような人には、あえて委員にしないだろう。責任の所在が不明確なので、失敗の責任はだれも取らないことになる。今回の大学入試改革についても、どんな決着になろうと、責任論は一切生じない、生じさせないに違いない。

第4に、「改革」を自己目的化することである。文科省の行政分野は、かなり前から閉塞感が強いので、大きな岩盤を崩すような一撃に、憧憬があるのだろう。政治家も、大戦果を挙げる夢を見て、大花火を打ち上げようとしがちである。トップがそうした夢を持てば、下はご機嫌を取るために、調子を合わせる。やっているふりを含めて、「改革」ごっこが止まらないのである。高校教育の改善のために、高大接続部分を担う大学入試を改革するという発想は、猫を尻尾で振り回すようなものだと思うが、所詮無理な話ではなかったか?上から降ってくれば、何にでも調子を合わせるのなら、自立した、自分で考える人間はいらなくなる。無理な話を無理だと言えない組織になっているなら、それを改めるしかない。霞が関の機能低下、人材流出は悲しい限りだが、残っている人間が、現実の局面で正しい行動をするよう頑張るしかあるまい。

以上述べたように、文科省の大学入試改革は、失敗すべくして失敗したと断じることができる。失敗の本質を見つめて、失敗を糊塗することなく、政策面で出直しすることを期待したい。また、それ以前に、組織的な立て直しに真剣に取り組まないと、何度でも失敗を繰り返しかねないことに気付くべきだろう。この件は、特定の政治家の責任ということにして、一件落着にはできない。トップダウンの「改革」への教訓として、今回の失敗をきちんと総括しておかなければならない。累次の高等教育に関する施策の包括的な見直しを求める声もある。それほどの組織的な危機が到来していると認識すべきだろう。

出典:なぜ文科省が主導する大学入試改革は失敗したのか?: NUPSパンダのブログ