2021年3月5日金曜日

記事紹介|学長選考会議は、学長による善良なる独裁の応援団

国立大学法人法が、また一部改正されるようである。複数大学1法人という形式を取り込んだ時点で、ガバナンスの形態が異なる法人を1つの法の下に規定することへの疑問を持ったが、既に立法時の説明から大きく舵が切られており、今さら軌道修正は無理なのかもしれない。今回の改正では、監事機能の強化、学長選考会議の中立性の担保などで、ガバナンスを適正化しようと考えているようだが、こうした枝葉末節な形式を整えても、学長に権限を集中する本質は変わらないと感じている。直近では、旭川医科大学において、問題ある振る舞いが目立つ学長を排斥しようと運動が起きているようだが、冷たく言えば、法律の仕組みの外の話に過ぎない。学内・外から圧力を加えれば、北海道大学のように、学長を解任するシステムは動くのだろうか? 私自身は部外者で、どちら側の味方でもないが、法律の建前が、学長による「善なる独裁」をガバナンスの基本として、その先について思考停止していることに、学長が暴走した場合の始末に困るという問題の本質があるように思える。

国立大学法人法の立法当時は、部局の教授会による自治が行き過ぎて、大学組織全体の改革への障害になっていることから、学長に責任と権限を集中して、それぞれの大学の本来的な役割を全うすること、大学間の健全な競争による教育研究成果のレベルアップを目指そうとしたものである。学部自治に守られた教授会と対峙させるために、一部の反対論を退けて、学長への権限集中を是としたわけだが、法施行後も、学長の選考が学内選挙の結果に事実上委ねられたりする骨抜き状態が残ってしまったため、その後、国公私立を通じて、教授会の位置づけを明確にする学教法改正なども行われ、学長選考会議の運営も法の建前通りに改められるケースが増えている。そうなってみれば、「善なる独裁」を行う学長の選考という最大の重要事項に、学内構成員の意思とは無関係に、学外からの介入を拡大する仕組みが組み込まれていくことは、容易ならざる意味を持つのではないだろうか?行き過ぎると、学問の自由を脅かすことになるからである。

学長は、学長選考会議によって候補が選ばれ、文科大臣によって任命される。文科大臣が、法人からの推薦通りに任命しなかったケースはない。通常の行政法人であれば、理事長らは、大臣に対して経営責任を負うのであるが、国立大学法人の場合は、業務に関する評価システムは他の法人と同様だが、他方で、学長選考会議に対しても、経営に関する一定の説明責任を負っていると見ることもできる。ただ、学長選考会議の委員は、教育研究評議会と経営協議会からの学内・外の委員で構成されるので、基本的に現執行部の与党である。たとえ学長本人を除外しても、所詮、学長の親しいお友達が大半を占める後ろ盾の組織なのである。学長が、改革に後ろ向きの学内勢力に対峙する際の、有力な味方という意味がある。したがって、「善なる独裁」をしている学長に対して、学長選考会議に牽制機能を期待するのは基本的に無理な話である。特に学外者に学長を諫める役割を期待しようとしても、彼らは学長に頼まれて有識者として知恵を貸しているのであって、報酬の面でも、時間の面でも、学長を中心とする大学経営について、厳しいお目付け役の責任を負う立場にはない。言うべきことは言っても、結局、直接責任を負っている学長に任せるしかない。役割をわきまえた大人なら、介入や圧力と受け取られるようなことは、避けるに違いない。むしろ、多くの学外委員は、学長による「善なる独裁」を応援する立場を取るのが自然である。万が一、学長による業務執行に多少の疑問があれば、教員OBOGを含む学内の争いごとに巻き込まれぬうちに、委員を辞める選択をするだろう。北海道大学の学長の解任は、学内からも孤立した学長について、学長選考会議が文科大臣に解任すべき旨を申し出た非常に珍しいケースであった。

以上のように、今回の法改正は、北海道大学や旭川医科大学の学長を巡る社会的な不信を緩和するために、文科省が一策を講じた形を見せているに過ぎず、実際上は、伝家の宝刀以上に機能しないものになるだろう。文科省は、こうしたやり方(やっているふり)をすることが多い。そもそも、学長選考会議は、学長を監視する機関として作られていないので、新たな役割期待には無理がある。国立大学の法人化に反対していた人たちは、「善なる独裁」の暴走が止められなくなっている事態を見て、ほくそ笑んでいるかもしれない。

国立大学法人法は、複数大学1法人方式の導入で、モデルチェンジがなされ、ガバナンスの異なる形態の法人が並立する形になっている。どのような経緯で、こうした並立の構造が法制的に正統化されたのか分からないが、複数大学1法人は、持ち株会社のような形式なので、元々の国立大学法人の作りとは性格が全く異なるため、別の法体系に分離すべきであったろう。少なくとも、国立大学法人法の原型が議論されていた際には、複数大学を経営統合するなら、大学として1つに統合するしかないと説明されていたので、後出しじゃんけんのように複数大学1法人を国立大学法人法に持ち込むことは、立法の経緯からも、大学への道義からも慎重に避けるべきであった。今また、学長選考会議の役割を変更して、外部からの大学の自治への介入の余地を広げることは、学問の自由を尊重するために、微妙なバランスの上に構築されていた国立大学法人法の正統性さえ危うくするものではないだろうか?

加えて、文科省は、現時点で自ら介入することまでは考えていないと思うが、万が一の際には、私学法の定める措置命令等が、文科大臣から国立大学法人にできるようにしたらどうか?この権限が行使されるケースはごく稀だろうが、学長の権限が大きい反面、責任の取り方があいまいになっている点は否めない。立法当時の独立行政法人法との並びで、大臣の学長への権限が私学法との対比で考えても不十分な状態になっている。「善なる独裁」を肯定するにしても、否定するにしても、この状態は、そろそろ限界なのではないか?もちろん、文科大臣の権限を強化するとなれば、一部の大学人からは相当な反発がありそうである。別の方法論を含めて議論は尽くせばよいが、国立大学法人法が沈没しないよう、空いたままの穴は早く修復すべきであろう。

出典:国立大学法人の経営責任は誰に対して追うのか?|NUPSパンダのブログ