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経営者の人事権は独裁権ではない(土光敏夫)

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経営者にとって最も大きく重い負担は、人事である。経営者は確かに人事権をもつ。しかしそれは独裁権であってはなるまい。それはいわば、神の前に頭を垂れ畏れ謹んで行使すべき権限なのだ。 人間はいかに上位者であっても、完全人ではない。上位者にも判断の誤りというものはある。ひとりの上位者の判断によって、ひとりの人間の一生を左右するのは、神をも畏れぬ所業といわねばならぬ。それゆえ、人事はひとりで決めてはならぬ。 私は、人事は広くディスカスして決めることにしている。どの階層の人であろうと、すべての関係者を集めて、その人事がその人を、今まで以上に生かすことになるのか、更に新生面を開くことになるのかを、子細に討議する。衆智をあつめて誤りなからんことを期するのである。 しかし、衆智をあつめて最後に決める責任はトップにある。トップはそのとき、神に祈る心境で人事を決するのである。 経営の行動指針―土光語録 土光敏夫 産能大出版部 発売日:2009-10-15 ブクログでレビューを見る»

所を得る(ドラッカー)

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自らに刺激を与えるうえでも、ある種の変化が必要である。その必要は、ますます人が長生きするようになり、ますます長く活動できるようになるにつれて大きくなる。10年から12年同じ組織で働いてきたというボランティアが組織を変わる。日常を変えたくなったためである。あるいは、学ぶべきことがなくなったためである。このことは特に重要である。仕事において学ぶことがなくなれば、人間の大きさが一挙に小さくなるからである。 例えばアメリカ赤十字の社長リチャード・シュバードは、労働問題の弁護士をしたあと、企業の人事部門に入り、40代で政府機関に移り、再び企業に戻ってから赤十字に入った。まさに彼は、異なる組織文化の中でいろいろな人と働いてきたために図抜けて有能になった。 日常化した毎日が心地よくなったときこそ、違ったことを行うよう自らを駆り立てる必要がある。「燃え尽きた」とは、たいていの場合飽きたというだけのことである。くだらないことと思われるもののために朝出かけるほど、疲れを覚えさせられるものはない。必要なのほほんの小さな変化である。校長だったら、他の学区を訪れてそこの校長方と共通の問題について話し合うことでもよい。 週に60時間働いている非営利組織のトップにとっては、週に3時間をまったく異質の仕事に使うことが、魔法のように効く。働きすぎているからこそ、精神的にも肉体的にも使ったことのない部分を使うという刺激が必要である。なぜならば、日常のほとんどの仕事は繰り返しだからである。 喜びは成果の中になければならない。石臼に向かいながらも丘の上を見なければならない。仕事に飽きたということは、成果をあげるべく働くのをやめたということである。目もまた石臼を見ているに違いない。 仕事から学び続けるには、自分の期待に成果をフィードバックさせなければならない。重要な活動は何かを知らなければならない。それらの活動において何を期待するかを書きとめておく。9か月後、あるいは1年後に、成果とその期待を比べる。そうすることによって、自分は何をうまくやれるか、いかなる能力や知識を必要としているか、いかなる悪癖をもっているかを知ることができる。 私のように諦めが早いことに気づくかもしれない。私は、ひどく気が短いことに気づいた。人によっては、ありがちな悪癖として、人のいうことを聞かないために成果が生...

大学改革に向けた提言

公益財団法人世界平和研究所 が公表している提言をご紹介します。 大学改革試案(2012年4月9日) 1 憂うべき高等教育の凋落 教育は国家形成の基幹であり、国家百年の大計である。教育は個人主義の観点から個性を自覚・確立させると同時に、地域・国家といった社会集団への帰属意識・責任感を涵養する。公私の精神においてバランスのとれた健康で健全な人間の育成は、教育の究極的使命である。 特に21世紀の世界的潮流であるグローバル化時代にあっては、日本人として自信・誇りの育成という教育の原点に立ち返りつつ、個人の能力をいかんなく発揮し、海外と互角に世界の舞台で活躍する人材を多数輩出することは、日本の教育に課された急務である。 しかし日本の教育制度は、戦後60余年の間、抜本的改革も実施されてこず、世界の潮流に全く取り残されてしまっている。中でも海外に後れを取り、グローバル人材を養成できない高等教育の著しい低迷・凋落ぶりは、誠に目に余るものがある。 その最大の要因は、「大学の自治」の美名の下に、専ら現職の教員が自らの利益を守ることだけに汲々とし、教育の果たすべき本来の役割がないがしろにされる本末転倒の状態が続いてきたことによる。強い身分保障の下で、いったん大学の教員として採用されると、不祥事さえ行わなければ、教育や研究活動を疎かにしても、解雇どころか何の制裁も受けない制度が、教員の質の著しい低下を招き、日本の高等教育を全く堕落させてしまっているのである。 かつての大学教授には非常に権威があった。確かに現在でも世界的な研究業績をあげ、優れた教育によって多くの人材を輩出している尊敬すべき大学教授もいる。しかし全体としてみれば、雨後の竹の子のように数だけは多いが、大学の教員の権威は全く地に堕ちてしまった。これまでの高等教育改革も、このまさに本質的な論点が手付かずだったために、周辺部分の改変にのみとどまってきた。しかもそうした小規模改革でさえ、残念ながらほぼ失敗に終わってきた。具体的には3つの点に集約される。 第1は、大学院重点化である。90年代以後の大学院重点化では、量的拡大を余りに急ぎすぎ、教員・学生の両面で、質が著しく低下している。これは鳴り物入りで導入された専門職大学院で特に露呈しており、法科大学院を卒業しても司法試験になかなか合格できないという...

組織風土を積極的、行動的なものにする

論考をご紹介します。 ◇ 組織のエネルギーを高める(日本私立大学協会私学高等教育研究所研究員 岩田雅明) 組織風土とは 成果主義的なものを人事制度に取り入れている大学も多いと思うが、適切に機能しているという話は残念ながらあまり聞かない。その時によく出てくる理由が、大学の組織風土には馴染まないというものである。では、組織風土とは何であろうか。桑田耕太郎・田尾雅夫著の『組織論』(有斐閣アルマ)によれば、「組織風土とは組織の中で個々のメンバーが、どのように自らの仕事や職場集団、組織を見ているかであり」、それを「多くの人が同じように認知することで、(中略)その組織を特徴づける文化のようになる。組織の中に、根づいて、判断や行動の枠組みとして働くことになる」とある。 組織風土の一例として有名なものに、飲料メーカーであるサントリーの「やってみなはれ精神」がある。「やってみなはれ」とは、サントリーの創業者である鳥井信治郎氏がよく使った言葉で、やってみなければ結果は出ないので、良いと思ったことは躊躇せずに実行しなさいという教えである。それによりサントリーには、「結果を怖れてやらないこと」を悪とし、「なさざること」を罪と問う、自由闇達なチャレンジ精神を最も重視する社風ができあがったとされている。 最近聞いたある大学の話は、全く逆の事例である。いろいろと新しい試みを考えながら仕事をしていたある若手職員が、新しい広報手段を上司に提案したところ、言下に否定されたそうである。駄目な理由を上司に訊いたところ、長い経験を持つ上司の直観からして、明らかに成果の期待できない提案であるとの答えが返ってきたという。その若手職員の意欲が大きく低下したことは言うまでもないが、これからは二度と提案等はしないで、言われたことだけをやろうと心に決めたと言っていた。この大学の風土は、サントリーとは逆に、前例を踏襲するだけの、チャレンジ精神の欠落したものになっていくことは明らかである。 募集状況があまり良好でない大学を見ていると、この「やってみなはれ精神」がないところが多いように感じる。私の方で効果的と思われる手法を提案してみても、それができない理由をあれこれと考えたり、以前同じようなことを試みたが成果が出なかったという過去の失敗事例を挙げたりするだけで、工夫しながら実行してみようという「...

大学改革を長期的に考える

論考をご紹介します。 学年の始めに考える-長期問題に注目を(桜美林大学大学院・アドミニストレーション研究科教授・山本眞一) 平成24年度の始まりを迎えた。今年は厳冬のせいか、桜の開花が遅いような気がするが、皆さん方の地域ではいかがであろうか。つい先日、NASAが昨年は世界全体で1880年以来観測史上9番目の高温であったと発表したが、これを温暖化の論拠として短絡的に議論するよりは、温暖期と寒冷期を定期的に繰り返す地球の長い歴史を考えると、長期的にはこれから寒冷期に向かうものと思われるから、むしろ将来のエネルギーや食料問題の深刻さを恐れる方が重要なことではないだろうか。もっとも、エネルギーの浪費を抑えて温暖化を阻止すべしとの議論が、実は寒冷期に備えての節約だとすれば、穿ち過ぎた見方かもしれないが、もっともなことではある。 改革のための改革で良いのか 長期的に考えなければならないのは、気候の問題だけではない。高等教育問題もまた同じである。われわれは、戦後間もなくの時期から常に「大学改革」というものを考えてきた。それを考えること自体は、大学をより良くするためという目的を持ち続けている限りは正しいことである。しかし、物ごとはとかく「目的」と「手段」が逆転しがちである。「改革のための改革」とはよく言ったもので、これはわれわれ人間の思考枠組みの限界からくる宿命ではないかと思われるほど、しばしば見られるものであり、意識して「目的は何か」、「何のための改革か」を考え続けることが必要である。 国立大学について言えば、高度経済成長が終わった1970年代半ば以来、常に「財政緊縮」問題が改革の背景にあった。財政当局は国立大学に係る経費の削減と収入の増加を目論み、70年代には授業料等の3倍値上げを経験したし、80年代以来の「改組転換」は高度経済成長期の「純増」が不可能であることを知らしめるものであった。その究極の緊縮改革が「法人化」であり、われわれが2004年度以来運営費交付金の削減問題に苦慮しているのは、法人化が大学改革であると同時に行財政改革を目指したものであるためである。民主党政権になってから本格化した「事業仕分け」によって、文科省所管の独立行政法人が大きな影響を受けているが、いつ何時国立大学本体にこの影響が及ばないとは限らないであろう。私は、講演を頼まれた際に、国...

経営者の器量

一般的に、大学の教員は何でも自分でやらないと気がすまない人が多いような気がします。特に、大学を経営する立場の学長や役員は典型です。 「ひと・もの・かね」を総枠で管理・調整することに専念し、具体的な実行はなるべく現場の教員に権限を委譲することがなかなかできませんね。現場におまかせしてもいいような些細なことまで管理しているような気がします。 このために、いつまでも現場の教員に参画意識や協働意識が芽生えず、逆に学長や役員に対する反発、不信感、疑心暗鬼が生まれる結果になっています。 国立大学では、法人化後既に9年目を迎えているのに、相変わらず教員時代の感覚や経験だけで経営をやっている素人学長や役員がいます。もっと謙虚にマネジメントを勉強してほしい。 週末に、近くの公園を散歩しました。チューリップが鮮やかでした。

人間は変わりうる(土光敏夫)

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異動や昇進の評定を行うときに、五年も十年も昔のことを引き合いに出して「あの人は前にこんな失敗をした。あんな不行跡があった。だから見合わせよう」と言う。あるいはなにか革新的な仕事をやらせようとするときに「あの石頭の連中にはとても受け入れられまい。どうせいってもむだだから、この案はとりやめよう」という。 ひとたび、才能はコレコレ、性格はシカジカと評価してしまうと、終生それがついてまわるのである。 このような発想には根本に人間不信感があるのだが、たとい不信感を与えた事実があっても、人間は変わりうるという信念を欠いている点が重大だ。人によっては、失敗や不行跡を契機として転身することもあるし、旧弊をかなぐりすてて翻然と悟ることだってある。とにかく、人間は変わるという一事を忘れてはなるまい。 経営の行動指針―土光語録 土光敏夫 産能大出版部 発売日:2009-10-15 ブクログでレビューを見る»

働く環境を知る(ドラッカー)

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成長するには、ふさわしい組織でふさわしい仕事につかなければならない。基本は、得るべき所はどこかである。この問いに答えを出すには、自らがベストを尽くせるのはどのような環境かを知らなければならない。 学校を出たばかりでは、自分のことはほとんどわからない。成果をあげるのは、大きな組織か小さな組織か。人と一緒にか一人でか。不安定な状況を好むか嫌うか。締め切りは必要か必要ないか。意思決定は速いか慎重か。 最初の仕事はくじ引きである。最初から適した仕事につく確率は高くない。しかも、得るべきところを知り、自分に向いた仕事に移れるようになるには数年を要する。 われわれは気質と個性を軽んじがちである。だがそれらのものは、訓練によって容易に変えられるものでないだけに、重視し、明確に理解することが必要である。決定したことを完全に理解しなければ行動できない人は、戦場には向かない。右サイドが崩れたときには、闘うか退却するかを八秒以内に決めなければならない。もちろん決定に時間を要する者であっても、そのようなときには無理にでも決定するだろう。だが、それでは、せっかくの決定も間違ったものとなる公算が大きい。 得るべき所はどこかとの問いへの答えが、いま働いている所ではないということであるならば、次の問いは、それはなぜかである。組織の価値観に馴染めないからか。組織に緊張感がないからか。そのようなとき人は確実にだめになる。組織の価値観が自らの価値観に合っていないならば、人は自らを軽く見るようになる。あるいは上司が利己的なことがある。上司としての役目、部下を育て引き上げる役目を果たさないことがある。 組織が腐っているとき、自分が所を得ていないとき、あるいは成果が認められないときには、辞めることが正しい道である。出世はたいした問題ではない。重要なことは公正であることであり公平であることである。さもなければ、やがて自らを二流の存在と見るようになる。 ドラッカー名著集 4 非営利組織の経営 P.F.ドラッカー ダイヤモンド社 発売日:2007-01-27 ブクログでレビューを見る»

「できない」「むり」「むずかしい」は禁句(土光敏夫)

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なにか新しいアイディアが提案されたり、大きな目標が示された場合、普通のサラリーマンの示す反応はどうだろうか。たいてい、まず拒否反応をおこす。だからその答えは「できない」「むり」「むずかしい」といったたぐいのものとなる。そうして必ず、これこれしかじかだからという弁明が出てくる。 問題によっては確かに、不可能で無理で困難な場合もあろう。しかし多くの場合それは、固定観念や惰性や自己防衛本能からくる先入主の現われだといってよい。後ろ向きの態度がなせるわざである。 たいせつなのは、その問題は、どうすれば解決できるか、どうやったら達成できるかを考える前向きの態度である。 この態度の違いは、あらゆる問題を明と暗に二分してしまう。その問題をこなす能力があるかどうかなどは二の次だ。その問題に取り組む態度がどうであるかが、まず問われねばならぬ。 経営の行動指針―土光語録 土光敏夫 産能大出版部 発売日:2009-10-15 ブクログでレビューを見る»

法人化と大学改革(8-最終回)

前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「 国立大学法人法と国立大学改革 」をご紹介します。 8 今後の国立大学協会と文部科学省高等教育行政体制のあり方 第一に、国立大学は、文部科学省の施設等機関であり、行政組織の一部であった。したがって、内部組織の設置・改廃には法令の変更を要した。第二に、国立大学の定員は総定員法の枠がはめられており、教官や事務職員は文部科学省の職員として、任命権は文部科学大臣に属した。第三に、予算上も一部を除いて、国立学校特別会計によって一元管理され、個別の大学は、「省内一部局」として予算要求を行っていた。授業料や外部から獲得した資金も、個々の大学には属さず、特別会計の収入となった。また施設・設備・知的財産権(個人帰属分は除く)も国有財産であり、大学による自由な処分は許されていなかった。これらの法令上の制度に加えて、各種の法令解釈権や予算配分権、さらには文部科学省設置法第四条第十五号の「大学及び高等専門学校における教育の振興に関する企画及び立案並びに援助及び助言に関すること。」という規定に基づいて、国立大学運営の日常業務が、文部科学省高等教育局によってなされてきたとみることができる。 これに対して、国立大学側も、教官の個別人事や教育研究内容に関する行政介入がない限り、大学事務局と文部科学省本省との間で行われる予算や組織・定員などに関する業務について、教官はそれほど関与してこなかったのが実態である。このような「半自治」状態が長く続いたことによって、国立大学側には自らの組織運営に関する企画立案能力やマネジメント力が育成されてこなかった。国立大学法人化によって、文部科学省から様々な権限委譲を受けても、その権限を活用しきっていく能力が備わっていないとすれば、あるいはこうした能力を身につけていく努力を意識的に行わなければ、今回の改革は水泡に帰する危険性が大きい。 現時点は過渡期だということで割り引いたとしても、先述したように中期目標の例示など法人化に当たっての作業について文部科学省に助言を求めたり、個々の国立大学にとって戦略遂行上最も重要な人事制度(特に給与体系)の構築について、国立大学協会がモデルを作成しているような状況をみると、国立大学側が「大学の自治」を獲得していく真剣な意思があるのかどうか、疑問なしとしない。 こうした国立大学側の...

法人化と大学改革(7)

前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「 国立大学法人法と国立大学改革 」をご紹介します。 7 学内資源配分システム 国立大学法人に対しては、独立行政法人制度と同様、運営費交付金が国から支弁される。また、土地、施設などの国有財産は法人に移転され、授業料その他の自己収入も個別の国立大学法人ごとに帰属する。こうした予算関連制度の変更によって、国立学校特別会計は廃止され、名実ともに個別の国立大学は予算執行の自由を得ることとなった。 筆者は、法人化に当たって、国立学校特別会計制度は存続する可能性の方が高いと考えていたが、法人制度の趣旨にそって廃止されたことは合理的な判断だったと評価される。筆者が、存続する可能性の方が高いと考えていた理由は、国立大学の授業料が一種の公共料金であり、教育の機会均等の観点から、国の規制にかからしめて全国立大学一律にすることが適当であるとの考え方が根強くあることに加え、仮に特別会計を廃止して授業料を自由化した場合、大学間競争の激化から、財政的に立ち行かなくなる大学法人が出てくることが懸念されるため、特別会計制度を維持して、大学法人間に所得再分配を裁量的に行える余地を残しておきたいと、行政当局が判断するだろうと考えたからである。 この授業料設定問題に関しては、国立大学法人法第二十二条第四項において、文部省令で定めることとされ、実際には標準額(現行水準程度)±α(上下10%くらいか)をその内容とすることになった。この結果、国立大学法人は一定の財務的自由度を得たわけだが、学部間での授業料差別化は認められておらず、横並び意識もあって、当面は全国一律水準の授業料に落ち着くものと思われる。しかしながら、少子化などの経営環境変化、中期計画期間終了時の評価などの制度的チェックなどによって、中期的には国立大学法人ごとや学部・専門職大学院ごとに、授業料の多様化に向けた力が働くことになろう。そうした時代を迎える準備として、今後各国立大学法人は、大学内の各部局の教育研究業績を挙げていく必要に迫られる。 こうした状況に直面しているという認識が生まれれば、次の最も大きな課題は、学内の資源配分をどのような方法で行うかということになる。ここでいう資源とは経営資源のことであり、学生定員、教職員定員・定数、新組織(行政用語では「機構」)、スペース、予算(施設建設費...

法人化と大学改革(6)

前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「 国立大学法人法と国立大学改革 」をご紹介します。 6 中期目標と中期計画 国立大学は、独立行政法人通則法による法人化に強く反対してきた。その理由は、通則法の各規定の中でも、所管大臣が法人に対して業務に関する中期目標を付与し、法人側はその目標を達成するための中期計画案を策定して、所管大臣に認可を受けるという仕組みが、国立大学に対する行政の介入や縛りを強くし、大学の自治が守れなくなるという点にあった。 確かに、所管省である文部科学省の官僚に、個々の大学の目指すべき中期目標を作成する権限を与えては、大学の自治や学問の自由が侵されるという大学側の懸念は、首肯できるものがある。しかし、その論理を飛躍させて、大学は社会との関係性を持たずに、何をやっていても許される場所であるということにはならない。特に、国立大学のステークホルダーは多岐にわたる。教育研究予算を配分する政府、その財源になっている税を支払っている国民、教育サービスを受けている学生、授業料を実質的に支払っている学生の保護者、卒業した人材を受け入れたり研究費を供与する産業界など、大学が説明責任を負う相手は、経済社会全体に広がっている。 もし日本の法制上許されるならば、こうした現代の大学に適合する仕組みは、社会全体と結ぶ「契約」だろう。国民の代表である国会及び国会で議決を受けた予算を国民の負託を受けて執行する政府と大学の間で、対等な立場で一種の契約を結ぶ。その履行状況を監視するために第三者機関を置き、契約期間終了後、遵守度を測定したうえで契約を更新する。 残念ながら、現在の日本の法制度はそれほど柔軟ではなく、既に例のある仕組みである独立行政法人通則法を修正することによって、同様の効果を得るしかない。その工夫が国立大学法人法第三十条第三項の規定である。同項は「文部科学大臣は、中期目標を定め、又はこれを変更しようとするときは、あらかじめ、国立大学法人等の意見を聴き、当該意見に配慮するとともに、評価委員会の意見を聴かなければならない。」(斜字筆者)とする。斜字部分は、独立行政法人通則法の該当条文には存在しておらず、国立大学法人を独立行政法人と差異化する最も重要な部分である。 当然、国会審議においても、この部分についての解釈が議論になり、遠山文部科学大臣は、次のよう...

成果をもたらすもの(ドラッカー)

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自己開発に最大の責任をもつのは、本人であって上司ではない。誰もが自らに対し「組織と自らを成長させるには何に集中すべきか」を問わなければならない。 例えば、医師のさまざまな要求とペーパーワークに追われている病棟の看護師は、大勢の外科の患者を見ながらこう問わなければならない。「彼らの看護こそが私の仕事だ。他のことは邪魔でしかない。この本来の仕事に集中するにはどうしたらよいか。仕事の仕方に問題があるかもしれない。もっとよい看護ができるよう、みんなで仕事の仕方を変えられないだろうか」 自らを成果をあげる存在にできるのは、自らだけである。他の人ではない。したがってまず果たすべき責任は、自らのために最高のものを引き出すことである。人は、自らがもつものでしか仕事はできない。しかも人に信頼され協力を得るには、自らが最高の成果をあげていくしかない。 ばかな上司、ばかな役員、役に立たない部下についてこぼしても、最高の成果はあがらない。障害になっていること、変えるべきことを体系的に知るために、仕事のうえで互いに依存関係にある人たちと話をするのも、自らの仕事であり責任である。 成功する人たちは、自らが行ったこと、そのうち意義の大きなもの、さらに力を入れるべきものについて年に一、二度反省している。私自身1940年頃から、毎年8月には、2週間ほどかけて一年間を反省している。「いかなる分野で大きな貢献をしたか。いかなる分野が私を必要としているか。いかなる分野で時間を無駄にしたか。最高の貢献をし最高の成長をするためには、いかなる分野に集中すべきか」 計画どおりにやれるわけではない。突然何かが起こり、思ったようにいかなくなる。しかし、いまのところ、私がコンサルタントとして成長し、成果をあげ、仕事から多くのものを得ることができているのも、自分が違いを生み出せることに集中してきたためである。 人は、強みへの集中によってのみ自らの成長を図ることができる。そうして初めて、自らのビジョンを生産的なものにすることができる。実に、真の貢献を行う者とは、組織のミッションそのものを成長させる者のことである。 組織とそこに働く者の成長を図るには、いかなる分野に集中すべきかを考えなければならない。有給、無給のあらゆるスタッフが考えなければならない。特に幹部は共に考えなければならない。そのための...

法人化と大学改革(5)

前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「 国立大学法人法と国立大学改革 」をご紹介します。 5 国立大学法人の意思決定組織・・・不明確な権限・責任分担 国立大学法人法第二章第一節に、国立大学法人の意思決定組織が規定されている。先述した経営と教学の分離モデルが排除された結果、経営と教学双方を「総理」する学長のほか、役員会、経営協議会、教育研究評議会が設置される。学長のリーダーシップを改革の基本的方向としながらも、これまでの大学運営が教授会7中心としたコンセンサス方式で行われてきた伝統に配慮した、トップダウン・ボトムアップの折衷型となっている。こうした意思決定システムの問題点は、次の二点にある。 第一に、役員会と学長の権限・責任分担が不明確である。その理由は、第十一条第二項に「学長は、次の事項について決定をしようとするときは、学長及び理事で構成する会議(第五号において「役員会」という。)の議を経なければならない。」(傍線筆者)と規定されていることにある。役員会の「議」とは「議決」の意味であろうか、それとも「審議」の議であろうか。国立大学法人の制度設計の基本的考え方によれば、学長は全ての決定権限を持ち、責任を負うことになっているが、前者の解釈であれば、役員会が議決しないものは、学長が決定することができない。後者の意味であれば、経営協議会や教育研究評議会での審議事項と役員会での審議事項が重複し、内部調整コストは増大し、意思決定のスピードが犠牲になる。 この解釈については、第二十、二十一条に、経営協議会や教育研究評議会の任務として、重要事項を「審議」するという別の用語が当てられていることから見て、前者すなわち「議決」を意味するものだと考えられる。もしそうだとすれば、学長がある重要事項、例えば業績の上がらない学部の廃止を決定しようという際に、役員会が否決した場合、その学部は廃止できなくなってしまう。その結果、もし国立大学法人評価委員会で、当該大学の評価が下がり、たとえば運営費交付金を減額されたとすれば、それは学長の責任であろうか、それとも役員会の責任であろうか。また役員一人ひとりには何の責任も生じないのだろうか。国立大学法人の制度設計上、最も重大な曖昧さが、ここに潜んでいる。 第二の問題点は、現実の場面で重要な事項について意見の相違が出てきた場合、学内調整が...

法人化と大学改革(4)

前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「 国立大学法人法と国立大学改革 」をご紹介します。 4 教育研究の特性への配慮と評価問題 第三条に、「国は、この法律の運用に当たっては、国立大学及び大学共同利用機関における教育研究の特性に配慮しなければならない。」と規定された。さらに国会審議の結果採択された衆参両院の附帯決議にも同様の趣旨が規定されている。 国立大学の法人化問題は、当初国立大学のみならず、文部科学省も強く反対していた。1971年の中央教育審議会答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」(いわゆる「四六答申」)や1988年臨時教育審議会答申において、すでに国立大学の法人化論は議論の俎上に上っていたが、いずれも日の目を見ず、行革会議で独立行政法人化が議論された際も、大学の特性から法人化はそぐわないという意見が大勢を占めた。いずれの時代も、大学における教育と研究の特性が、法人化に反対する理由となっているが、実際のところ、その「特性」とは何だろうか。学生という自立していない構成員を組織に内包するところから生まれる特性もあろうが、大学改革の文脈で議論されるのは大半が研究の側面であり、つまるところ、個の創造性を活かす自律的研究環境が侵されるような改革は反対だということに尽きよう。 文部科学省による微細にわたる研究環境のコントロールのなかで、国立大学には本来の意味の「自治」(=自己の資源で自己のあり方を選択できる)が欠けているにもかかわらず、大学の構成員が「自律的」な研究環境が保証されているとどうして感じているのか、外部者は疑問に感じる。しかし、実際には人事、会計その他の諸制度が定着し、ある種の秩序が成立すると、その秩序自体は窮屈なものであっても、安定的かつ継続的なものであれば、結果予測性が高まるため、当事者にとっては最も居心地のいい環境となる。したがって、当該秩序を少しでも改変したり、乱したりする要因に対しては、それが「自律性」を今より高める可能性を持つものであっても、抵抗する勢力が現れるのである。 その秩序の変更に対して、旧秩序を維持するために使用される大義名分が「特殊性」である。これは大学改革問題に限ったことではない。例えば、他の規制改革問題で見られる対立においても、同じような構図がある。貿易自由化問題では農業(特にコ...

法人化と大学改革(3)

前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「 国立大学法人法と国立大学改革 」をご紹介します。 3 「国立大学法人」と「国立大学」・・・経営と教学の一致 第二条の定義規定に、「・・・『国立大学法人』とは、国立大学を設置することを目的として、この法律の定めによるところにより設立される法人をいう。」とある。また、第4条第2項に「別表第一の第一欄に掲げる国立大学法人は、それぞれ同表第二欄に掲げる国立大学を設置するものとする。」との規定がある。これらの規定は当然のように見えるが、背景は少し複雑である。 学校教育法第2条には学校の設置者の規定があり、学校は国、地方公共団体、学校法人(私立)のみが設置することができるとされているが、この規定との関係で、改革後の国立大学は誰が設置するのかという点が問題になった。というのも、学校教育法第5条に「学校の設置者は、その設置する学校を管理し、法令に特別の定めのある場合を除いては、その学校の経費を負担する」と規定されているため、国立大学が国立大学法人によって設置されるものとすると、国が経費を負担する根拠が失われるのではないかということが懸念されたからである。 さらに学校教育法第2条には、国以外の選択肢は学校法人すなわち私立学校しか規定されていないため、国立大学が法人化されると、民営化への第一歩となってしまうのではないかという国立大学関係者の心配があった。国が設置者だという点に対する誇りや安心感がその深層心理にあったことは否めない。 これらの点は、結局、国立大学法人が国立大学の設置者となり、国立大学法人法と同時に制定された「国立大学法人法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律」において学校教育法第2条が改正されて、設置者のカテゴリーに国立大学法人が追加されることによって決着を見た(設置者費用負担問題については、国立大学法人法で国立大学法人に対する運営費交付金が交付されることが明記されたため、学校教育法第5条の「法令で特別の定めのある場合」に該当するものとして問題はなくなった。)が、その過程で、制度設計上の重要なオプションが失われた。それは経営と教学の分離モデルである。 経営と教学が分離していることが基本になっている「学校法人」は、前述のように民営化への第一歩となるかもしれないということ及び設置者負担主義の観点から国による財政措置の根拠がなくなる...

法人化と大学改革(2)

前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「 国立大学法人法と国立大学改革 」をご紹介します。 2 法人化の目的・・・「均衡ある発展」 第一条の目的の条文は次のとおりである。 「この法律は、大学の教育研究に対する国民の要請にこたえるとともに、我が国の高等教育及び学術研究の水準の向上と均衡ある発展を図るため、国立大学を設置して教育研究を行う国立大学法人の組織及び運営並びに・・・について定めることを目的とする。」(下線は筆者) 国立大学の法人化をめぐる議論の中で、最も懸念されていた問題の一つが地方国立大学の行く末である。大学間競争が激しくなれば、旧帝大に比べて予算や人員が乏しく、施設も老朽化している地方大学は、将来廃校も含めて検討せざるを得なくなるのではないかという議論が、地方大学学長から多くなされていた。下線部の「均衡ある発展」という部分は、そうした声に配慮した結果挿入された文言であろう。 「均衡ある発展」の意味は、学部教育と大学院教育との間、学問分野間、地域間の3つのバランスを意味するというのが、文部科学省の国会答弁である。しかし、前二者は具体的な「政策」や行政側の所為に結びつくものではなく、基本的には大学側が判断すべきものであり、結局「政策」的な意義を持つのは「地域間のバランス」ということになる。学生の修学機会の確保と地域社会発展のために、各都道府県に少なくとも1校の国立大学を配置するという政策が、この目的規定によって将来とも維持されることが明らかにされたと解することができる。 これまで、学校教育法その他の国立大学に関連する法制度の中に、こうした「均衡ある発展」といった目的が規定されていた例はなく、国立大学法人法の制定を契機に、こうした全国一律の高等教育機会の確保という事実上採用されていた政策を法的に根拠づけることによって、地方国立大学からの存続維持に対する不安を払拭することを狙ったものだと言えよう。 しかし、この「均衡ある発展」という概念は両刃の剣なのである。文部科学省自身が護送船団方式への批判に対応したと国会で述べているとおり、国立大学法人法は、個々の大学が行政による一律的な規制と保護から脱し、自律性を持ちながら個性化を図っていくことを狙ったものであるにもかかわらず、「均衡ある発展」という概念は、全ての国立大学の横並び的取扱いを含意するものである。 確かに、地方国立...