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記事紹介|財政健全化への王道

2000年以降に17人の日本人がノーベル賞を受賞したことで、我が国の学術研究力の高さが誇れる状態にあると人々は誤解している。これらの成果はあくまで20~40年前に得られたものだ。 日本の人口当たり論文数の世界順位は2000年以前の15~16位から13年には37位に転落した。台湾や韓国だけでなく、クロアチア、セルビア、リトアニアといった東欧諸国にも抜かれた。日本の研究力は00~03年をピークに低下し、現状は無残ともいえる状況にある。 その中核的原因は予算の減額だ。国立大学法人運営費交付金は04年度から毎年1%減額され、その影響は若手教員と基盤的研究費に顕著に表れた。10年前は若手教員の約63%が任期なしだったが、今や約65%が任期付きになった。不安定な処遇を目の当たりにして博士課程への入学者数は04年度比で約19%も減った。 教員は研究費獲得のための外部資金の申請や成果報告に追われ、落ち着いて研究することが困難な状況に置かれた。こうした中で20世紀にはほとんどなかった研究不正が多発し始めた。黒木登志夫博士(前岐阜大学長)によると、研究不正や誤った実験などによる撤回論文数の多い研究者ワースト10に日本人が2人、ワースト30には5人が入っていて、国別の論文撤回率で日本は5位にランクしている。 交付金削減の最大の理由は国の財政悪化だ。確かに国の負債は1000兆円以上に上るが、一方で対外純資産や日銀の金融資産を含めた政府資産は1300兆円以上となり、優に負債を上回る。財政健全化のためにも、こうしたお金をいかに活用するかを考えることの方が重要である。 少子化・人口減少問題を解決する道は国民一人ひとりの質を高める以外にはない。国力の基本は文化と産業、文明であり、これを伸ばす源は学術研究力と高等教育力だ。これらの振興こそが財政健全化への王道である。花を咲かせ、農作物や果実を実らせるためには、長い期間、畑を耕し、土壌を肥やし、種をまき、水をやり、新芽を育てることが必須である。 産業界・企業も将来の生き残りのために学術研究と高等教育の振興に身を切る努力をして大学と連携する必要があるだろう。すぐに製品化につながる果実ばかりを共同研究に求めるのではなく、畑作業にも加わり、その中から新芽を見つける役割を果たすことが求められる。 学術振興こそ日本を繁栄させる 総合研...

記事紹介|社会へ羽ばたく君へのメッセージ

いまは亡きSF作家の小松左京の短編に『哲学者の小径』という作品があります。書名は京都の銀閣寺から南禅寺に向かう疎水べりの小径(小道)を指します。戦前、西田幾多郎など京都学派の哲学者たちがこの道を散策しながら思索を深めたので名付けられたとされます。正確には「哲学の小径」なのですが。 中年になった主人公が、大学時代を過ごした京都で友人2人と再会。久しぶりに哲学者の小径を歩いていると、生意気な3人組の大学生に出会い、遂(つい)には取っ組み合いのけんかになる。 翌朝、かつて似たような経験をしたと思い出し、大学時代の日記帳を引っ張りだすと、「俗物の中年と殴り合った」との記述があった。そうか、あの中年とは、いまの自分のことなのか……。 ◇ 理想に燃え、正義感に溢(あふ)れていた若者も、いつしか俗物になっていく。学生時代、この小説を読んだ私は、そんな俗物にはなりたくないと思ったものです。ところが、いまや、そんな忌避すべき存在になった自分が、ここにいます。 この小説を思い出したのは、3月が旅立ちの季節だからです。今回は、小学校から続いた学生生活に終わりを告げ、いよいよ社会に出ていく君へのメッセージです。 世の中に出ていくことを、どう思っていますか。学生時代、あなたは、さまざまな人たちに守られて生きてきました。卒業して初めて、そのことに気づくはずです。 もちろん、これからも守ってくれる人はいるでしょうが、自分ひとりで歩んで行かなければならないことも増えてくるでしょう。その決意はできていますか。 いまの社会を見るにつけ、学校を出てからの人生は容易ではないだろうなあと正直なところ同情してしまいます。 と同時に、これから洋々たる人生が待ち構えていると思うと、嫉妬心を覚えます。若いということは、未熟であると共に、可能性に満ちていることでもあるからです。 「前途洋々たる若者たちよ」 東芝の不正会計に手を染めた人たちも、かつて学校を出て会社に入ったとき、そんな言葉をかけられたはずです。胸に社員証バッジをつけたときに覚えた感動は、どこに行ってしまったのでしょうか。 「国家国民のために尽くす公僕であれ」 そう言われて大蔵省(現在の財務省)の入省式に臨んだ人たちもいたことでしょう。大蔵省には、国民の財産である国有地を管理するという大事な仕事もありま...

記事紹介|国立大学の自主性・自律性を高めるためには

国立大学の自主性・自律性は増してきたか このような動きの背後には、厳しい財政状況にも拘らず可能な限りの措置を講じてきたと考える財務省、産業競争力会議や教育再生実行会議等を通して大学に変革を求める産業界等の存在がある。これらの主張や要望を受け止めながら、国立大学に改革の加速を迫る文科省の難しい立場に理解を示す声も少なくない。 その一方で、自主性・自律性を高らかに謳いあげてスタートした法人化が、ここにきて明らかに後退しているとの厳しい指摘も多い。石弘光一橋大学元学長は、「法人化後、大学の自主性がもっと増えると期待していた。しかしこれまでの経過を見るとそれとは逆に、政府の介入の度合いが一段と強まってきたといえよう」と警鐘を鳴らす(日本経済新聞2015年 6月29日朝刊)。 国と国立大学法人の権限関係は、法人化当初と何ら変わっておらず、国は、ガバナンス改革による法制度面の整備や「学長の裁量による経費」の新設などを通じて、学長がその機能を発揮し易いような環境を整えてきた。 他方で、大学の裁量で自由に使える予算が減れば、運営の弾力性が損なわれ、新たな改革施策を展開することも一層困難になる。また、競争的資金へのシフトが進むほど、文科省との関わりを強め、その意向に沿った提案・申請に注力することになる。さらに、国立大学に対する多方面からの要求や改革の遅れを指摘する声が高まれば、文科省は国立大学への働きかけを一層強めざるを得ない。 法人化時に意図した通りに国立大学の自主性・自律性が増してこなかったとすれば、このような背景によるものと考えられる。 大学の努力と工夫で健全な競争的環境を創出 その意味からも運営費交付金による安定的な財源の投入が何より不可欠となる。しかしながら、危機的とも言える財政状況を背景に、財務大臣の諮問機関である財政制度等審議会は国立大学法人予算の編成に当たり厳しい指摘を行い、それに文科省が見解を示し、国大協が声明を発表するという攻防が繰り返されている。 国立大学に投入される予算の総額を増加させることは難しいとしても、大学の裁量で自由に使える予算の比率を高めることは検討されるべきであろう。 教育研究を高度化するために競争的環境は必要である。しかしながら、意欲のある教員の多くは既に自らを厳しい競争環境に...

記事紹介|公務員の再就職問題と霞が関の働き方改革

「再就職規制違反」は厳然たる事実 文部科学省の「天下り問題」が、連日世間を騒がせている。 たしかに、国家公務員法が定める再就職規制に違反したという厳然たる事実は否めない。最初に指摘された高等教育局長の早稲田大学教授就任事案では、求職に省庁が直接関与すること、現職の公務員が求職活動を行うことの禁止事項2点に明らかに抵触しただけでなく、再就職等監視委員会に対して虚偽の説明を捏造ねつぞうした行為まであり、悪質との誹そしりを受けても仕方ないところだ。 さらに、OBと人事課や最高幹部とが結託した再就職紹介ルートが明らかになり、多数の違反事案が暴かれたとあっては申し開きのしようがない。過去にも国土交通省、農林水産省などに違反事例があり、消費者庁に至っては他ならぬ長官自身が現職中に求職活動を行っていたのだが、いずれも個人レベルの違反行為にとどまっていた。文部科学省の場合、組織的と認めざるを得ず、痛手は極めて大きい。 文部科学省OBの1人であるわたしとしては、後輩たちが指弾されている姿を見るたびに胸が痛む。10年以上前に54歳で中途退職した後もこの役所を愛し続け、おそらく本邦初の「文部科学省評論家」を自称して 『文部科学省 「三流官庁」の知られざる素顔』(中公新書ラクレ) などという本を出しているだけに、今回の不祥事はわがことのように残念である。だが、法律違反は違反、猛省が必要だろう。 「天下り」のどこが問題なのか ただ、わたしは、これを「天下り問題」と片付ける論調には従うことができない。 「天下り」という語には誰しも悪いイメージしか持たないだろう。天すなわち上に位置する者が、その権力を笠かさに着て下に位置する者に不当な好条件で雇用を求めるという意味合いだからだ。江戸時代から戦前まで、公権力を持つ者を「お上」と呼び、それ以外を「下々」として上下関係を歴然とさせていた考え方は、日本国憲法第15条で「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利」となり、公務員が「全体の奉仕者」としてパブリック・サーバント(国民の召し使い)とされた現在でも、なお色濃く残っている。 もし上下関係としての「天下り」とするならば、その弊害は明白である。上は、下に対して無能な人間を押しつけることも可能であり、受け入れ先の仕事に支障をもたらすおそれがある。それより深刻な...

記事紹介|大学のセンセイになる方法

大学の教授は、世間からみると社会的地位も高く(多分)、なれるならなってみたい職業の一つでしょう。昔は「末は博士か大臣か」とも言われたくらいだ。しかしなりたいからと言って、簡単になれるものではない。ところが今や大学が800を超えるほど増えており、当然そこで教える教員も多い。一種インフレなのだ(東京で石を投げたら大学の教員に当たるかも?)。でも通常は、大学院で博士号を取得し、オーバードクターや期限付き雇用で、身分の不安定な研究員や助手などを経てようやく正規の教員になれるのだ。ここまでは実に長く厳しい道のり。 しかし、いきなり教授になる道もある。一つは、企業の技術系の研究所などから大学にくるというケース(もちろんそれなりの学位や業績が必要)や社会人教員である。後者の一つが霞が関の官僚から大学のセンセイになる手があった! 今回、世間を騒がす「天下り」である。 そもそも、我が国では、大学数員には高校までの教員のように教職免許制度はない。大学設置基準という省令では教授の資格に「博士の学位を有し、研究上の業績を有する者」など定めている。だが、博士号取得を義務づけているわけではない。同等の能力があればいいとなっているのだ。見ようによっては抜け穴なのだ。この大学設置基準は1985年の改正で、資格要件に「専攻分野について、特に優れた知識及び経験を有すると認められる者」との条項が新設され、社会人が大学教員になる道が開かれたのだ。そこで「実務経験のある即戦力」として公務員、企業経験者、マスコミ関係者、タレント文化人ら社会人が教員に多数採用されるようになった。 そして教職課程のある大学では、退職した中高の先生が少なくない。教育実習の強化や実践的な教育力が求められているので、このような経歴の教員が求められるのは無理もない。採用試験に関しても、地元の教育委員会とコネがありそうな退職校長など強力な助っ人になりうる。おまけに彼らは少なくない年金があるので、ちょっとだけ足して年金が減額支給されない限度で給与水準を決めておけばいいので、安上がりだ。大学にはメリットだらけだよね。だが、退職教員中心だと、学科全体では数年でほとんど総入れ替え状態ということも起こるのは問題。また、大新聞など編集委員経験者クラスでは、教授というのはアガリの職場という説もあり、また、何が専門かわからない。 そこで、...

記事紹介|大学職員の育成(2)

個人をどう高めるかと業務改善の関係 SD義務化により職員研修の在り方だけがスポットライトを浴びるわけではないということについて、前回までで述べてきました。 大学をめぐる昨今の財務状況にかんがみれば、多くの外部人材を一気に採用するというわけにはいきません。望まれる大学職員像に向けて、現在その大学にいる職員をどのように育成し、キャリアアップと専門性の向上を図っていくかという観点が重要な意味を持ちます。組織の在り方を再定義し、そこから抽出される的確な職員像を、と考えてみたところで、結局は今大学にいる人材をベースにHuman Resource Managementを考えていかざるを得ず、そうでないプランを単に「もっと頑張れ」という掛け声とともに声高に唱えても、職員育成の仕組みは非常に空虚なものに陥ります。 では、現在の大学職員の研修はどうなっているでしょうか。 現在の大学職員育成プログラム(=研修プログラム)は基本的に、今いる職員を底上げするような義務的内容(経験年数・階層別研修として実施されることが多い)と、希望者を対象にした特定の能力・専門性向上を狙った内容(例えば「IRについて」「学生の主体的学修を育む環境について」)または自己研鑽型の内容(ただし大学から支援されている場合と支援されていない場合(必要経費の補助制度がない、勤務時間外での実施を命じられる等)がある)で構成されています。 義務的な内容は、多くの職員が身につけるべきいわば最大公約数的な内容を元に、多種多様な職員に対し共通に実施されるものであり、対象職員の高い研修意欲や事前知識を前提にしたものとなっていないため、内容ないし職員側の受け止めによっては非常に形式張ったものになりがちで、高い研修効果が望みにくいものとも言えます。 他方、希望者制または自己研鑽型のものは一定の研修効果を見込みやすいものの、当該研修を受講したことがまったく考慮されない業務環境であったり、人事異動が実施されている場合は、研修内容をその後生かせるかどうかという点が各職員任せになっていて、これはこれで効果として不十分になるケースが出てきます。 一般に研修に意欲的でない職員というのはどうしても出てきてしまいますが、研修に出てこない職員にもそれなりの反論材料があります。曰く、研修内容が形式化していて面白くない、今の自分...