記事紹介|教育機会の不平等「意欲格差」
今年もまた、大学入試の季節である。センター試験に続いて間もなく私立大入試がスタート、来月下旬には国公立大の2次試験だ。長丁場の受験シーズンは話題にこと欠かない。新聞にセンター試験の問題が一斉に載るのも、世の関心の高さゆえだろう。 しかし、心すべき事実がある。数字のうえでは希望者全員がどこかの大学に入れる「全入時代」とはいっても、実際に大学へ行く若者は同年代の半分ほどなのである。 文部科学省の学校基本調査によれば、高校生の昨春の大学・短大進学率は54.7%。2000年代以降、往年の伸びにブレーキがかかり、特にこの10年ほどはほぼ横ばいである。大学入試をめぐるさまざまな話題に実感を持てぬ人々は少なくないはずだ。 そのなかには、悔しい思いをしている若者もたくさんいるだろう。 成績はよかった。やる気もあった。なのにお金がなくて進学をあきらめたという人は多い。入学しても後が続かず退学するケースも目立つ。12年度の文科省調査では、中退者7万9000人のうち2割が経済的理由だ。 それを思えば、政府が来年度から導入する給付型奨学金制度は画期的である。住民税非課税世帯の1学年約2万人を対象に、月2万~4万円を支給するという。規模は小さいが、救われる学生は間違いなく増えるだろう。 時を同じくして東京都も、世帯年収760万円未満の私立高校生の授業料を実質無償化するそうだ。さらに踏み込んだアイデアは、日本維新の会が改憲項目案に掲げる「幼児教育から高等教育までの無償化」だろう。つまり、大学の授業料を完全にただにするという話である。 こうした流れの背景にあるのは、もっぱら教育機会の不平等は経済的な問題に起因するという観念だ。 意欲と能力がある若者を支えれば教育格差は解消に向かう――。確かに一面の真理であり、公的支援の意味は大きいのだが、さて、ことはそんなに簡単なのだろうか。肝心の「意欲」自体に、成育環境などによって格差がつきまとってはいないだろうか。教育格差を語るなら、そこにも目を配らねばなるまい。 およそ子どもの学力を形成する要因として、教育社会学ではいくつかの「資本」を挙げる。ひとつは親の所得など経済的な資本だ。塾や家庭教師への支出も含め、子どもの教育にどれだけお金をかけられるかが学力を左右する。 もうひとつは文...