最近、大学の「質保証」という言葉が頻繁に用いられるようになっている。さらに、「内部質保証」という言葉も登場し、大学業界、特に国立大学界隈ではある種の流行語のようになっている。
そもそも大学の「質保証」とは何か。ごく単純化して言えば、大学評価に代わる言葉として用いられている感がある。そして、「内部質保証」は大学による自己評価、「質保証」は評価機関による第三者評価(あるいは評価全般)をさしている。
しかし、その具体をみると大学評価と大学の質保証との間の相違もみえてくる。まず、その対象だ。大学評価の場合には、研究と教育の双方をさしているが、質保証の議論の実際は主に大学教育に焦点が当てられている。また、大学評価の場合には、ある時点での合規性やパフォーマンスに着目する。だが、質保証の場合、入学から卒業までの教育サービスの提供とそれを可能にあうる体制や運営などトータルに、パフォーマンスのみならずそのプロセスも着目している。
2 なぜ「質保証」なのか
日本で「質保証」を取り上げられるようになったのは、海外の高等教育界の影響が大きい。英国や欧州諸国で用いられた quality assuranceという言葉が直訳され、日本の高等教育政策や教育学の世界で用いられるようになった。
では、欧州はなぜこの言葉を用いるようになったのか。歴史的検証を行う必要があるが、筆者は次のように考える。第一に、1994年のWTOの「世界貿易機関を設立するマラケッシュ協定」の影響である。この協定の附属書として「サービスの貿易に関する一般協定」が作成されたが、これにより、教育サービスを含むサービス分野がWTOにおける貿易交渉の対象として取り扱われることとなった。つまり、大学教育を、”サービス”として捉えることが国際的に公認されたのである。しかし、多くの大学関係者にとってこの言葉はショックだったに違いない。大学教育にビジネス用語が用いられ、さらには自らが顧客に奉仕することを連想させるような言葉だったからだ。
第二に、学生からのプレッシャーが挙げられる。英国では2012年に授業料が大幅に引き上げられた。学生たちはデモを繰り返し不満の声を露にした。そうなると、大学側は高い授業料の代わりに、何を提供できるのかをより明確に学生に説明し、証明することが求められることになる。
また、若者の慢性的な失業問題は欧州諸国に共通する社会問題となっている。例えば、フランスの修士号取得後18カ月以内の就職率は6割にとどまっている。高等教育を受けたものの職を得られない若者の数は増加傾向をみせている。
こうしたプレッシャーを受け、フランスでは大きな試行がおこなわれようとしている。専門職養成(グラン・ゼコール)のみならず、一般学士課程(大学)においても、そこで学んだ者が身に着けるものを具体的に明記することが、大学に義務付けられたのである。明記の内容は、専門分野の能力、言語能力、ジェネリックスキル(汎用的なスキルで思考力やコミュニケーション力など)、そして、職業準備能力だ。職業準備能力では、どのような業務をできるようになるのか、そこで使える技術・能力、そしてどのような職種への就職が可能になるかを記すことが求められる。
こうなると、学生を主軸に捉え、求められる知識、技術、能力を定義し、それに見合う教育サービスの提供が可能になるように、カリキュラム、教材、教員、運営を見直すことが大学に求められることになる。さらに、学生の要望に応えられなければ、改善を余儀なくされるわけで、恒常的に見直しが求められることになる。
このようにみると欧州の大学の「質保証」の構図は明快だ。大学教育をサービスとして捉えた時、その先にある顧客としての学生の存在がより鮮明になり、彼らへの要望に大学が応える術として、「質保証」というコンセプトが登場してきたのである。
3 顧客なき日本の大学「質保証」
日本の高等教育政策に「質保証」という言葉が登場したのはいつなのだろうか。
中曽根政権、橋本政権、小泉政権の内閣関連文書(経済財政諮問会議、規制改革会議、行政改革会議など)と府省文書(中教審、大学審議会などの答申)をデータ化し分析を行ってみた。
すると、この言葉が登場したのは小泉内閣からであることがわかった。先の3政権はニュー・パブリック・マネジメントの考え方の下、大規模な行政改革を行っているが、特に、小泉政権は「官から民」「聖域なき構造改革」を掲げ、国立大学もその対象となり国立大学法人化が施行された。こうした中で、海外で議論されていた「質保証」という言葉が登場するのも頷ける。
しかし、「質保証」の関連用語を抽出してみたところ、「大学生」という言葉が検出されなかったのである。26件の言葉が検出されたが、多く検出されたのは「大学」「評価」「国際化」「自律的」、次いで「大学教育」であった。
一体、誰に向けた「質保証」なのだろうか。
4 私立MBA関係者が突いた「内部質保証」の矛盾
ある私立大学のMBA関係者に「内部質保証」について尋ねたことがある。すると「何を言っているのかわからない」という答えが戻ってきた。高額な授業料を求めるMBAにとって、学生の批判は、大学の収入や経営にすぐさま跳ね返ってくる。したがって、常に、学生の学習成果や反応、そして国際的な潮流に鑑みて、カリキュラム、教材、教員構成を見直さざるをえないというのである。したがって、わざわざ「内部」という言葉を加える意味がわからないというのだ。ちなみに、このMBAコースは海外の認証評価機関の評価を受けているが、あくまでも国際舞台に出るためのパスポートと位置付けている。
5 国立大学の質保証が機能するための条件
2016年3月、文科省は、内部質保証の確立を重視した評価への転換を掲げた。その背景には、いわゆる”評価疲れ”や評価の形骸化があり、大学の自主的な取り組みをより重視すべきであるという意見がある。しかし、果たしてうまく機能するのであろうか。特に、国立大学の場合には、それを妨げる構造的な性質を抱えているようにみえる。つまり「質保証」の対象(顧客)がどこまで意識されているのかがよくわからないからである。先のデータ分析が示すように、日本の場合には、質保証の対象が不在なまま、政策的な言葉として使われてきた感がある。顧客のニーズがわからず、そこからのプレッシャーもなければ、質保証の必要性を肌身で感じることは難しいだろう。また、それで済んでしまうのは、国立大学の収入が学生からの授業料ではなく、国からの運営費交付金で成り立っているからだ。したがって、国立大学が「質保証」は運営費交付金を獲得するために課せられた条件と捉えたとしても、ごく合理的な反応である。だが、そこで記された「質保証」の報告書は運営費交付金獲得のための作文となってしまうだろう。
制度化する前に、誰のために何を保証するのか、一度原点に戻って再考する必要がないだろうか。
※下線は拙者