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7月, 2019の投稿を表示しています

記事紹介|情報と人をつなぐ力がイノベーションには必要

一つの事柄について全てを知るよりも、 全ての事柄について何らかのことを知るほうがずっとよい。 知識の多面性が最上である。 パスカル *** 現代日本でもリベラル・アーツを学ぶことの重要性が謳われるようになりました。 リベラル・アーツとは、教養とも訳され、 人文科学・社会科学・自然科学や学際分野にわたる基礎分野を横断的に学ぶこと。 昨今でも一つのことも深くたくさん研究できるようになったからこそ、 研究者の蛸壺化という問題が指摘されています。 そのことを中世に生きたパスカルがすでに指摘していたのですね。 そんなパスカルの肩書きは、哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、実業家でした。 イノベーションを生むためには、知識の深化と探求が必要だと言われています。 遠いところの情報と人をつなぐ力がイノベーションには必要。 深化は一つのことを深く知ること。 探求は探検と同義で新しい新天地を求めるかのように、新しい知識を探していくこと。 その両方のバランスが大事なのでしょう。 知識|今日の言葉  から

記事紹介|努力は報われると思う人はダメですね

「好きだからやってるだけよ、で終わっといたほうがぇぇね。 これが報われるんだと思うと良くない。 こんだけ努力しているんい何でってなると腹が立つやろ。 人は見返り求めるとろくなことないからね。 見返りなしでできる人が一番素敵な人やね」 *** 職業を道楽化している人は、自分が努力をしているとは思わない。 苦労も、努力もしないで、楽しみや道楽として仕事をする。 そういう境地になった人は、ますます成功する。 反対に、「努力しなければならない」という「ねばならぬ」状態で仕事をしている人は、苦しくなる。 どんな仕事に対しても… 「好きだからやってるだけよ」と淡々という人には限りない魅力がある。 好きだからやってるだけよ|人の心に灯をともす  から

記事紹介|チャンスの女神は前髪しか掴めない

小さなことを疎かにする人は、大きなことも成し遂げられないと言われます。 チャンスが来ないから全力が出せないのではなく、 全力を出さないからチャンスが来ないように見えるのでしょう。 本当は今でもチャンスと同席しているかもしれないのに。 チャンスの女神は前髪しか掴めないとも言われます。 後から追うのではなく、自ら動くことが大事なのですね。 チャンス|今日の言葉  から

記事紹介|科学技術は両刃の剣

平成の30年間で、生命科学は飛躍的に進歩した。一方で原発事故にも直面し、科学技術の使い方を誤れば大きな打撃になることも痛感した。人類が手にした大きな力をどのように使えば幸せな未来につながるのか。私たちはその選択をすべき「分水嶺(ぶんすいれい)」に立っているのではないか。日本の科学技術研究を牽引する山中伸弥さんに聞いた。 ――元号を決める懇談会のメンバーを務め、新元号を「伝統を大切にしつつ、新しい時代をつくることに通じる」と表現しました。 「昭和を含め何度か使われている『和』に、初めてで響きも今までにない『令』という組み合わせから、そう思いました。これは研究にも通じます。伝統というか、知識の成果、蓄積がないと研究は始まりません。加えて、常識、通説、通念に疑問を持ち、違うのではないかという試みを続けることが大切です」 ――平成の30年間、生命科学は大きく進歩しました。 「平成の少し前から、米国を中心に遺伝子工学が発達したことが非常に大きかったと思います。平成に入ってゲノム(全遺伝情報)解析技術が予想をはるかに上回る速度で進み、後押ししました。一方で、昭和の終わりぐらいは、がんが10年、20年で完全に克服できるとも予想されていましたが、まだ日本の死因の1位です。科学の進展は予想しにくいものです」 ――何が技術発達の原動力になったのでしょうか。 「米国を中心にバイオ関連のベンチャー企業が次々に生まれ、バイオや医療が投資対象になりました。その影響で製薬、創薬を中心に、それまでの何倍、何十倍も速く、研究開発が進むようになったのです。昭和のころの医学研究は職人的な技術や、アイデアを持つ研究室が成果を上げていました。技術が進み、お金も集まるようになり、やり方が変わりました。ひとつの遺伝子を時間をかけて探すのではなく、かたっぱしから解読する手法です。お金と人をつぎ込み、ブルドーザーのように一気に進む研究が広がりました」 ――研究室のトップが企業経営者のようになってきましたね。 「平成初期の日本の有力研究室は、自前ですべてできました。いまは、すべてを理解し自分たちだけでやるのは不可能です。チーム力というか、個々の技術を持つ人をバーチャルにつなげ、巨大な組織にして、一日も早く進める能力が求められています。日本の苦戦は、大学の研究者がそういう研究のやり方が苦...

記事紹介|変化は好機

よく、人生は舞台に例えられる。 舞台では、与えられた役割を淡々と演じる。 通行人なら通行人を、主役の引き立て役なら引き立て役を。 うまく演じるためには必死で稽古するが、しかしときとして、最初に与えられた脚本も、突如として変わることがある。 だから、いままで覚えたセリフが無くなり、必死の努力がまったく無になることもたびたびだ。 急に脚本が変わった場合は、アドリブでやるしかない。 アドリブは日頃の自分の実力がモロに出る。 頭が真っ白になって、一言も言えなくなるときもある。 ぶっつけ本番でやるしかない。 人生もまったく同じだ。 予測のできない変化をどう受け止めるか。 「さあ、きたぞ」と笑ってニコニコ、ワクワクしながらそれを味わって素敵な経験とするのか、「参ったな、想定外だ」と不満を言って、不機嫌になるのか。 神さまは、舞台を面白くするために、大きく脚本を変える。 だからこそ、それを面白がったり、楽しんだりして、自分の価値を高めるための肥(こ)やしとすることが必要だ。 変化は、神さまからのプレゼント。 やってくる様々な変化をワクワク楽しめる人でありたい。 変化は、神さまからのプレゼント|人の心に灯をともす  から

記事紹介|専門的な暗黙知を持つクリエイティブ・クラスを目指す

コンピュータが発達したいま、ホワイトカラー的な処理能力は「誰も持っていないリソース」にはなり得ません。 もちろん処理能力が高いほど成功の度合いも高まるでしょうが、その差は全体から見れば誤差の範囲にすぎないでしょう。 誰も持っていないリソースを独占している上のクラスとホワイトカラーのあいだには、ものすごく大きな差があるのです。 これまでの労働者は、「ホワイトカラー」と「ブルーカラー」の2つのクラスに大別されていました。 どちらかというとホワイトカラーのほうが上位に置かれていたわけですが、この区別にはもうあまり意味がありません。 たとえば米国の社会学者リチャード・フロリダは、それとは別に「クリエイティブ・クラス」という新しい階層が存在すると考えました。 簡単に言えば、これは「創造的専門性を持った知的労働者」のことです。 現在の資本主義では、このクリエイティブ・クラスがホワイトカラーの上位に位置している。 彼らには「知的な独占的リソース」があるので、株式や石油などの物理的な資本を持っていなくても、資本主義で大きな成功を収めることができるのです。 また、同じく米国の経済学者であるレスター・C・サローは「知識資本主義」という著書の中で、これからの資本主義は「暗黙知」が重視される世界になると訴えています。 「知識資本主義」の社会では知識が資本になるわけですが、それはどんな知識でもいいというわけではありません。 誰もが共有できるマニュアルのような「形式知」は、勝つためのリソースにはならない。 誰も盗むことのできない知識、すなわち「暗黙知」を持つ者が、それを自らの資本として戦うことができるのです。 フロリダとサローの考えを合わせると、これからは「専門的な暗黙知を持つクリエイティブ・クラスを目指すべきだ」ということになるでしょう。 ただ、これは若い人たちにとって、イメージするのが難しい。 なぜなら、クリエイティブ・クラスになるための道筋には「ロールモデル(模範となる人物)」が存在しないからです。 たとえばクリエイターの佐藤可士和さんは、間違いなくクリエイティブ・クラスでしょう。 アップル創業者スティーヴ・ジョブズも当然クリエイティブ・クラスです。 ...

記事紹介|諦める口実を探すより、やれることに着手せよ

心的態度として、人には二つの姿勢しかない。 一つは、現状を打破しようとする姿勢。 もう一つは、現状維持の姿勢だ。 何か事があったとき、多くの人は、現状維持の姿勢を取りがちだ。 生物の習性として、どうしても現状を守るという本能が働いてしまう。 しかし、かつて地球において、急激な気候変動などで環境が激変したとき、恐竜のように、その変化に対応できなかった生物は絶滅した。 現状打破の姿勢がなければ、変化には対応できないからだ。 それは言いかえれば、「できない理由を探さない」こと。 できない理由を探すのではなく… どうしたらできるのかと、少しでも前に進む方法を探す人でありたい。 できない理由を探すな|人の心に灯をともす  から

記事紹介|大学は知識を手に入れる学びの場ではなくなった

私の学生の頃は知識を手に入れるには大学へ来なければならなかった。知識を持つ人間から伝達されるか、図書館で本を読んでその知識を得るしかない。今の時代は密室にいてもインターネットで基本的な情報なら手に入る。そういった意味では大学は知識を手に入れる学びの場ではなくなった。 生きた知識は対話を通じて生の情報をやり取りすることで初めて得られる。言ったことが誤っていれば、間違っていると言い返せる。これによって情報や知識を変えることもできる。情報になったものを受け取るだけだと勝手に解釈されてしまう。インターネットでは情報は伝達できても、情報から得る大切なものはやり取りできない。講義も聞くだけでは意味がない。対話によってやりとりするアクティブラーニングで、考え方や考えたこと、考えることを学ぶ。実験やフィールドワークを通じ、生の経験を共有しながら学んでいく。 多くの人は「わかること」が「学び」だと勘違いしている。「わからない」ということを「知る」ことが学びだ。友達ならずっと付き合っていけばわかりあえると思っている人がいるが、人間なんてわかりあえない。わかりあえないことをいろいろやり取りしていることこそが学びだ。知識だって同じで、いくら得てもわからないことはたくさんある。わからないということを学びながら、高みに上がる、深みに入っていくということを面白いと感じなければ学びではない。 人間は言葉によって、世の中に因果関係があるという物語を作った。原因と結果を理解する長大なプロセスを短くするため、知識を利用する。知識が誤っていたり未熟だったりすると、結果は本物ではなくなる。結果をすぐに求めようと、都合のいい知識を当てはめても、世界はわからない。世界はそれだけ謎に満ちている。 一人ひとりが情報化される時代 わからなくなったときに原点に立ち返らず、先へ先へと進もうとする。変化を追いさえすれば良くなると考えるのは、現代資本主義、新自由主義の悪弊かもしれない。日本も明治以降、とにかく変化を求めてきた。そのために科学技術は使われてきた。今は大きな転換期。私たちが捨て去った19世紀や20世紀に起きていたものをもう一度見直して再現する方が幸せかもしれない。そういう考えも学びの結果だろう。 人間の脳は意識と知能でできている。2つは異質のものだが、脳の中で操ることで生の会話や付き合いが...

記事紹介|分断は、“無理解”から生まれる。

もしかすると、ぼくは母親の胎内にいたとき、国に“殺されて”いたかもしれない――。 そう考えると、いまこうして原稿を執筆できている状況が、まるで奇跡のように思えた。 2018年9月、衝撃的なニュースを目にした。ろう者である兵庫県の夫婦2組が、国を相手取り訴訟を起こしたのだ。 その理由は、旧優生保護法による“強制不妊手術”。旧優生保護法とはいまはなき法律で、その第1条には「不良な子孫の出生を防止する」と記されていたという。 これは、“障害者から障害のある子どもが生まれてこないように”という歪んだ認識により、強制的に中絶・不妊手術を受けさせるというものだ。 件のろう者夫婦は、“聴覚障害”を理由に、国によって子どもを産めない身体にされてしまった。 同様の訴訟は、2018年1月に提訴された宮城県のものが初。以降、全国から“強制不妊手術”という差別的な行為の被害者となった障害者たちが立ち上がった。 障害があることで、差別を受ける。これは絶対にあってはならないことだ。 健常者のなかには、障害者をことさら特別視する人たちがいる。それが悪意のある差別や偏見として表出することもあれば、過剰な親切心という逆説的なカタチで表れてしまうこともある。 けれど、忘れないでほしい。障害者は別世界の人間ではない。ぼくら健常者と同じ世界に生き、同じように笑い、怒り、哀しむ、ぼくらの隣人なのだ。 ただし、ぼく自身がそう考えられるようになったのは、大人になってからだった。幼少期の頃のぼくは、障害者、特にろう者のことを嫌っていた。 そう、かつてのぼくは、母のことが大嫌いだったのだ――。 耳の聴こえない母親に対する嫌悪が生まれた日 ぼくの両親はろう者である。母は生まれながらにして音が聴こえず、父は後天的に聴力を失った。 彼らはぼくのことを非常に愛してくれた。結婚してなかなか子どもができなかった両親にとって、ぼくは待望の息子だったのだろう。欲しいものはなんでも買い与えてくれ、食卓には事あるごとにぼくの大好物が並んだ。 休日には、父の運転する車でドライブに出かけ、母が作ってくれた弁当を食べる。特に母が作る甘い玉子焼きは絶品で、ぼくはいつもそればかり食べていた。そんなぼくを見て、母はうれしそうに笑...

記事紹介|努力に王道はない

『人よりがんばることなんてとてもできないんですよね。 あくまではかりは自分の中にある。 それで自分なりにそのはかりを使いながら、自分の限界を見ながらちょっと超えていくということを繰り返していく。 そうすると、いつの間にかこんな自分になっているんだという状態になって。 だから少しずつの積み重ねが、それでしか自分を越えていけないと思うんですよね。 一気に高みに行こうとすると、今の自分の状態とギャップがありすぎて、それは続けられないと僕は考えているので。 地道に進むしかない。 進むというか、進むだけではないですね。 後退もしながら、あるときは後退しかない時期もあると思うので。 でも、自分がやると決めたことを信じてやっていく』 努力に王道はない。 それは、イチロー選手のいうように、毎日の少しずつの積み重ねによって、「いつのまにかこんな自分になっている」という状態になること。 歳を重ねるごとに、多くの人の可動域は狭くなる。 思考の柔軟性がなくなり、硬くなって、新しいことや違った意見を受け入れられなくなる。 そのためには日々、考え方や意識の可動域を広げるトレーニングを繰り返すしかない。 新しいことやめずらしいこと、変わったことに触れること。 楽しいことや面白いこと、興味深いことを体験すること。 年配者だけでなく若い人たちや、男女に関わりなくコミュニケーションをとること。 そして、バカバカしいこと、くだらないことをやってみて、楽しむこと。 年齢を重ねれば重ねるほど、凝(こ)り固まってはいけない。 いくつになっても、可動域を広げる努力を重ねたい。 可動域を広げよ|人の心に灯をともす  から

記事紹介|置かれた場所で咲く

幸せというものは、多くを持つことによって得られるのではなしに、今持っているもので満足することで得られるものです。 今あるがままの状態で幸せはつくれるんです。 貧乏であれば幸福な貧乏人になればいいわけで、それを初めから貧乏はダメだと決めつけ、金持ちになろうと焦るから不幸は始まる。 神様にあれこれ願い事をするのは宗教ではありません。 ああしてください、こうしてくださいと請求書をつきつけるような祈りを、私は「請求書的祈り」と名づけています。 本物の宗教心というのは、「私はこれだけのものをいただきました。どうもありがとうございました」という「領収書的祈り」なんです。 弱い者は弱い者の役割を果たし、強い者は強い者の役割を果たし、ともに助け合って生きていくのが人間社会なんです。 今の日本の平等主義は、個々の役割をわからなくし、自分の生き方を見えにくくしているのではないでしょうか。 自分の努力のほかに、大勢の縁の下の力や支えがあってこそ成功したんだという感謝の気持ちがない。 失敗した人、成功できなかった下積みの人たちのことを、あれは努力が足りないからなんだと蔑(さげす)む。 これはおかしいんじゃないでしょうか。 二歩後退一歩前進。 何歩後退しても、そこからまた一歩進めばいい。 一歩しか進めないなら、そんなに急いで歩く必要はない。 与えられた役割を懸命に演じる|人の心に灯をともす  から

記事紹介|「ゆでがえるの悲劇」と「おたまじゃくしの死」

「ゆでがえるの悲劇」とは、組織変革の本では、おなじみの寓話ですね。 「一匹の生きたカエル」を「煮えたぎった鍋の湯」のなかにぶち込むと、びっくりして、鍋からは飛び出す。よって、カエルは死なない。 しかし、今度は「生きたカエル」を「鍋の水」のなかにいれて、徐々に徐々に加熱していくと、カエルは、その状況変化に気づくことなく、加熱されて、やがて死んでしまう、という話です。 このカエルと、組織のなかにいる個人を喩えて、よく組織変革本では引用されます。 すなわち、組織の中のメンバーが、組織のなかで徐々に腐っていくときも、これと同じです。 徐々に加熱されてはいるけれど、それに気づかず、「いつのまにか茹で上がっているカエル」は、「周囲で行っている変化」に気づかず、徐々に「緩慢な死」に向かっていく組織の個人に喩えられています。 ところで、この本では、この事例をさらに発展させ「オタマジャクシの死」というメタファに昇華させています。 これが素晴らしい。 つまり、こういうことです。 徐々にゆでられて「緩慢な死」を選ぼうとしているカエルのなかには、老獪なカエルがいるのです。つまり、「徐々に水の温度があがっていること」に気づいているカエルがいる。ただし、老獪なカエルは動きません。なぜなら、彼は知っているからです。 「あと数年、持ちこたえれば、自分だけは鍋の外に出してもらえる。 あとすこしだけ知らぬ存ぜぬのふりをしていれば、次の世代に責任を押しつけることができる」 おわかりでしょうか。 「動かない老獪なカエル」とは、このまま動かなければ、組織のメンバーがみな「緩慢な死」に向かうことはわかっていながら、ただただ持ちこたえているカエルなのです。それでは、このカエルは誰でしょうか。当然のことながら、老獪な年長者であり、経営陣ですね。 老獪なカエルは、あと数年すれば、問題を何一つ解決しないまま、鍋の外に自分だけ出してもらえます。 そして鍋のなかに残されるのは・・・次の世代(若い世代)=オタマジャクシです。 だから「オタマジャクシの死」(笑)  ズドーン・・・またまた早朝バズーカ(笑)。 いやいや、この話、身震いしませんか? 僕は、ホラームービーを見たかのように、身震いした。 ていうか、日本のそこら中の組織で「あるある過ぎて」...

記事紹介|遠きをはかる者は富み 近くをはかる者は貧す

「幸せな会社」とは、豊かな組織をつくること 最初に紹介する尊徳の言葉は、この言葉です。 「遠きをはかる者は富み 近くをはかる者は貧す。 それ遠きをはかる者は百年のために杉苗を植う。 まして春まきて秋実る物においてをや。 故に富有なり。 近くをはかる物は 春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず 唯眼前の利に迷うてまかずして取り 植えずして刈り取る事のみ眼につく。 故に貧窮す。」 尊徳は、目先の損得で物事をはかる者は貧窮すると言います。反対に富む者、つまり豊かになっていく者は、目先の損得ではなく将来芽吹く豊かさのために、様々な準備をしているのだとも言っています。たとえば、文中にあるような作物を育てたり苗木を植えたり、といった取り組みです。 目先の損得で物事をはかる者は、今すぐ手に入らないものに対しては労力を使いたがらないので、「その場しのぎ」「行き当たりばったり」となり、運よく一時的な豊かさが得られたとしても安定しませんし、豊かさを得続ける再現性もありません。 尊徳は上記の言葉で「者」と表現していますが、これは一個人の話ではありません。尊徳の取り組みで言えば「村」であり、また「会社組織」と置き換えても読むことができます。では、尊徳の言う「遠きをはかる者は富み 近くをはかる者は貧す」という考えが、具体的にどう「幸せな会社づくり」のヒントとなるのでしょうか。 遠きをはかるとは、将来のために投資をするということ 尊徳の言葉を「幸せな会社づくり」に置き換えて考えるならば、将来のために投資が行われる組織づくりをしましょう、ということです。それはつまり、新商品の開発や、専門分野の研究、人財育成、などが言えるでしょう。尊徳はその投資を「それ遠きをはかる者は百年のために杉苗を植う」、つまり100年という長期視点で考えよ、と説いているのです。 これはすべての投資を100年という長期視点で見なさい、という意味ではありません。それくらいの「長期的な視点」で、研究開発や人材育成といった投資をし続けるということが大切であるという意味です。 短期の成果を偏重する現代の風潮 最近は、何かというとコストパフォーマンが叫ばれ、成果の見えにくい物事には予算が与えられなかったり、あまりにも短期間で取り組みが打ち切られたりしがちです。 し...