もちろん処理能力が高いほど成功の度合いも高まるでしょうが、その差は全体から見れば誤差の範囲にすぎないでしょう。
誰も持っていないリソースを独占している上のクラスとホワイトカラーのあいだには、ものすごく大きな差があるのです。
これまでの労働者は、「ホワイトカラー」と「ブルーカラー」の2つのクラスに大別されていました。
どちらかというとホワイトカラーのほうが上位に置かれていたわけですが、この区別にはもうあまり意味がありません。
たとえば米国の社会学者リチャード・フロリダは、それとは別に「クリエイティブ・クラス」という新しい階層が存在すると考えました。
簡単に言えば、これは「創造的専門性を持った知的労働者」のことです。
現在の資本主義では、このクリエイティブ・クラスがホワイトカラーの上位に位置している。
彼らには「知的な独占的リソース」があるので、株式や石油などの物理的な資本を持っていなくても、資本主義で大きな成功を収めることができるのです。
また、同じく米国の経済学者であるレスター・C・サローは「知識資本主義」という著書の中で、これからの資本主義は「暗黙知」が重視される世界になると訴えています。
「知識資本主義」の社会では知識が資本になるわけですが、それはどんな知識でもいいというわけではありません。
誰もが共有できるマニュアルのような「形式知」は、勝つためのリソースにはならない。
誰も盗むことのできない知識、すなわち「暗黙知」を持つ者が、それを自らの資本として戦うことができるのです。
フロリダとサローの考えを合わせると、これからは「専門的な暗黙知を持つクリエイティブ・クラスを目指すべきだ」ということになるでしょう。
ただ、これは若い人たちにとって、イメージするのが難しい。
なぜなら、クリエイティブ・クラスになるための道筋には「ロールモデル(模範となる人物)」が存在しないからです。
たとえばクリエイターの佐藤可士和さんは、間違いなくクリエイティブ・クラスでしょう。
アップル創業者スティーヴ・ジョブズも当然クリエイティブ・クラスです。
でも、それをロールモデルにして「佐藤可士和のようになりたい」「スティーヴ・ジョブズのようになりたい」といった目標を持っても、あまり意味がありません。
彼らは唯一無二の存在だからクリエイティブ・クラスなのであって、それを目指したところで、せいぜい頑張っても「もどき」にしかなれないからです。
「もどき」には、オリジナルな人が持っている暗黙知や、カリスマがありません。
見ればわかる形式知の部分だけを表面的になぞることはできても、そこには独自性がない。
要するに、「クリエイティブ・クラス」ではないのです。
ところが多くの大人たちは、しばしば子供たちに成功者の存在を教えて、「この人みたいになりなさい」とロールモデルを提示します。
しかし大事なのは、成功したクリエイティブ・クラスをそのまま目標にすることではなく、その人が「なぜ、いまの時代に価値を持っているのか」を考えることです。
それを考えれば、「誰かみたいになる」ことに大した価値がないことがわかるはず。
その「誰か」にだけ価値があるのですから、別のオリジナリティを持った「何者か」を目指すしかありません。
「誰か」を目指すのではなく、自分自身の価値を信じられること。
自分で自分を肯定して己の価値基準を持つことが大切です。