記事紹介|国立大学が「改革疲れ」で身もだえしている
憲法23条は、誰のために「学問の自由」を保障しているのだろうか。 直接には「学問をする人」、つまり学者や研究者を対象にした条文だ。だがその土台には、自由に支えられた学術の進展こそが、広く社会に健全な発展をもたらすという思想がある。 明治憲法には学問の自由の保障はなかった。戦前、時の政権や軍部は一部の学説を「危険思想」「不敬」と決めつけ、学者が大学から追われるなどの弾圧が相次ぐなかで日本は戦争への坂道を転げ落ちていった。 法人化が影を落とす その歴史への反省が、現行憲法が独立の条文で学問の自由をうたうことにつながった。 具体的な表れが大学の自治である。 教員人事や研究・教育内容の決定、構内への警察立ち入りの制限などで、大学が公権力を含む学外の勢力から独立し、自主・自律を保つ。学問の自由はそれらの自治を保障している。 日本は戦後、科学技術をはじめ学術が花開くにつれ、経済発展を果たした。学問の自由に関しては、憲法の理念が実を結んだように見えた時期もあった。 ところがいま、大学、とりわけ税金に頼る割合の高い国立大学が身もだえしている。 発端は、2004年に実施された国立大学の法人化だ。 経営の自由度を高め、時代の変化に対応できる大学への脱皮を促す。文部科学省はそう説明する。 しかし背景に透けて見えるのは、少子高齢化と財政難のなかで、競争強化によって大学のぬるま湯を抜き、お金をかけずに世界と渡り合える研究水準を維持したい。そんな思惑だ。 実際には多くの大学で「改革疲れ」が起きた。 主体的に議論し、自ら描いた将来像に向けて改革を着実に進めるというより、文科省の意向を探り、それに沿って上乗せ予算を確保しようとする動きが広がった。情報収集などの名目で官僚の天下りを受け入れた大学もあった。 日本発の貢献が低下 国立大学の自治は、資金の面からも揺さぶられている。 政府は人件費や光熱費、研究費などの「運営費交付金」を毎年1%ずつ減らす一方、応募して審査を通れば使える「競争的研究資金」を増やしてきた。 だが、世界の主要学術誌への論文で日本発の貢献は質、量とも減り続けている。中国など新興国が伸び、欧米先進国は地位をほぼ維持している状況でだ。 次々に生まれる新たな学問領域への参入も限られ、貢献分野が狭まりつつある。 運...