人間の価値は稼ぐ力で決まるのか。重い問いを巡る裁判が東京地裁で始まりました。障害の有無にかかわらず、法の下では命の尊厳は平等のはずです。
2年前、東京都内の松沢正美さん、敬子さん夫妻は、15歳の息子和真さんを福祉施設での事故で失いました。重い知的障害のある自閉症の少年。施設から外出して帰らぬ人となって見つかった。
その損害賠償を求めた訴訟が動きだし、最初の口頭弁論でこう意見を述べました。
逸失利益ゼロの衝撃
「過去の判例や和解は、被害者の収入や障害の程度によって加害者に課せられる賠償額に差をつけてきましたが、到底納得できません。不法行為に対する賠償は、当然、公平になされるべきです」
施設側は事前の交渉で、事故を招いた責任を認めました。けれども、提示した賠償額は、慰謝料のみの2千万円。同年代の健常者の4分の1程度にすぎなかった。
障害を理由に、将来働いて稼ぐのは無理だったとみなして逸失利益をゼロと見積もったのです。慰謝料まで最低水準に抑えていた。
逸失利益とは、事故が起きなければ得られたと見込まれる収入に相当し、賠償の対象となる。
同い年の健常者と同等の扱いをと、両親が強く願うのは当然でしょう。男性労働者の平均賃金を基に計算した逸失利益5千万円余をふくめ、賠償金約8千8百万円の支払いを求めて提訴したのです。
同種の訴訟は、実は全国各地で後を絶たない。なぜでしょうか。
最大の問題は、逸失利益という損害賠償の考え方に根ざした裁判実務そのものにあるのです。高度経済成長を背景に、交通事故や労働災害が増大した1960年代に定着したと聞きます。
司法界の差別的慣行
死亡事故では、生前の収入を逸失利益の算定基礎とし、子どもら無収入の人には平均賃金を通常は用います。ところが、重い障害などがあると、就労は困難だったとみなして逸失利益を認めない。
人間は平等の価値を持って生まれてくるのに、不法行為によって命を絶たれた途端、稼働能力という物差しをあてがわれ、機械的に価値を測られるのです。重い障害のある人はたちまち劣位に置かれてしまう。
逸失利益を否定するのは、生きていても無意味な存在という烙印を押すに等しい。昨年7月、相模原市で多くの障害者を殺傷した男が抱いていた「障害者は不幸を作ることしかできない」という優生思想さえ想起させます。
この差別的な理論と実践を長年積み重ねてきたのは、本来、良心に従い、公正を貫かねばならないはずの司法界そのものなのです。
正美さんは「障害者の命を差別してきた司法の慣行を覆さねばなりません。差別の解消に貢献できる判決を勝ち取りたい」と語る。
すでに半世紀前、逸失利益をはじく裁判実務について「人間を利益を生み出す道具のように評価しとり扱う態度」として、厳しく批判した民法学者がいた。元近畿大教授の西原道雄さんです。
65年に発表した「生命侵害・傷害における損害賠償額」と題する論文は、こう指摘する。
「奴隷制社会ならばともかく、近代市民社会においては人間およびその生命は商品ではなく交換価値をもたないから、一面では、生命には経済的価値はなく、これを金銭的に評価することはできない、との考えがある。しかし他面、人間の生命の価値は地球より重い、すなわち無限である、との観念も存在する。生命の侵害に対しては、いくら金を支払っても理論上、観念上、これで充分とはいえないのである」
それでも、民法は金銭での償いを定める。法の下の平等理念をどう具現化するか。生命の侵害をひとつの非財産的損害と捉え、賠償額の定額化を唱えたのです。
同じ電車の乗客が事故で死亡した場合、一方は100万円、他方は2千万円の賠償に値するとみるのは不合理ではないか。100万円の生命二つより2千万円の生命一つを救う方が重要なのでしょうか。
西原理論の核心はこうです。
被害者個々人の境遇は、収入はもとより千差万別なので考慮する必要はないのではないか。むしろ、賠償の基本額を決め、加害者の落ち度の軽重によって増減する仕組みこそが理にかなう、と。
かけがえのなさこそ
障害の有無で分け隔てしない社会を目指し、日本は障害者の権利条約を結び、差別解消法を作った。西原さんの考え方は今、一層重みを増していると思うのです。
稼ぐ力ばかりが称賛される時代です。存在のかけがえのなさを見つめ直すべきではないか。そういう問いかけが、社会に向けられているのではないでしょうか。
人間の価値は稼ぐ力か|2017年05月21日 東京新聞 から