沖縄は5月15日、本土復帰45年の節目を迎えた。基地問題をめぐり、亀裂が深まる「本土」との関係修復は可能なのか。
5月初めの沖縄は、梅雨入り間近を予感させる特有の湿気をまとっていた。静寂が覆う密林地帯。うっそうとした茂みの中で、そこだけが柔らかな光に包まれていた。献花台を埋め尽くす花々やお菓子、ぬいぐるみ、ペットボトル……。数日前、この現場で一周忌の法要が営まれた。
元海兵隊員の米軍属による暴行殺人事件が発生したのは昨年4月29日。犠牲者は20歳の女性会社員だった。自宅近くでウォーキング中、事件に巻き込まれた。
一周忌の法要で女性の父親は、遺体が遺棄された雑木林に向かって、娘の名前を何度も呼び、「一緒に帰るよ」と呼び掛けた。父親は4月27日、書面で現在の心境を明らかにしている。
「今なお、米兵や軍属による事件事故が相次いでいます。それは沖縄に米軍基地があるがゆえに起こることです。一日でも早い基地の撤去を望みます。それは多くの県民の願いでもあるのですから」
献花台のすぐ近くを通る県道104号線は、「キセンバル闘争」で知られる反基地闘争の象徴的な場所だ。復帰翌年の1973年から97年まで180回にわたって実弾砲撃訓練が繰り返された。その都度、県道は封鎖され、砲弾が着弾地の山肌をえぐり続けた。
森の奥から響く射撃音 復帰は間違いだったか
森の奥から乾いた射撃音が響く。一帯は米軍演習場のレンジが幾重にも連なる。この演習場内の工事現場で、工事車両や水タンクが破損し、車両付近や水タンク内から銃弾のような物が見つかったのは、つい先月のことだ。5月2日、沖縄県議会が原因究明や再発防止を求める抗議決議と意見書を全会一致で可決した。
こうした異常な出来事が、沖縄では日常的に起きる。演習場周辺の民間地への被弾などは今回を除き復帰後27件繰り返されているが、日米地位協定の「壁」に阻まれ、いずれも立件には至っていない。ほかにも、復帰後の米軍機の墜落・不時着は709件、米軍関係者による事件は5919件、事故は3613件(昨年末現在)に上る。
敗戦と占領の残滓が色濃くにじむ沖縄で、復帰は何だったのか、との問いが繰り返されるのは必然といえる。「祖国復帰運動」は、基本的人権や平和憲法を明記した「憲法の下への復帰」がスローガンだった。
「だれもが評価する『戦争放棄』はピカピカに輝いていましたからね。しかし結局、ピカピカの平和憲法の下に帰るということをもって、復帰の真相が覆い隠された面もあったのではないでしょうか」
復帰運動を牽引した屋良朝苗主席の下、琉球政府職員として「復帰措置に関する建議書」の策定に携わった宮里整さん(84)=那覇市=は、淀みない口調でこう続けた。
「私は今、冷静に振り返れば、復帰運動は間違いだったという結論に行き着いています」
危機感訴える「建議書」 缶詰めになり作成
「建議書」は、復帰準備作業が本土政府ペースで進められ、県民の意向が反映されていないことに危機感を抱いた当時の琉球政府が、沖縄側の反論と要望を日本政府に訴えるためにつづった全132ページの文書だ。
復帰を翌年に控えた71年10月。那覇市の八汐荘の畳敷きの大広間は男たちの熱気に包まれていた。顔を真っ赤にして議論する者、食事時間も惜しんでどんぶり鉢を片手に黙々と資料をあさる者……。顔ぶれはさまざまだったが、共通の使命を負っていた。琉球政府の若手職員ら約30人と学識経験者からなる「復帰措置総点検プロジェクトチーム」の中に、行政管理課から選ばれた宮里さんもいた。建議書は彼らが缶詰め状態で1カ月足らずでまとめた。
翌11月17日、屋良主席は建議書を携えて東京に向かう。しかし、羽田空港に到着する直前、衆院特別委員会で自民党が沖縄返還協定を強行採決した。これが、のちに「幻の建議書」と呼ばれるゆえんとなる。
建議書の印象的な一節を紹介したい。
「県民が復帰を願った心情には、結局は国の平和憲法の下で基本的人権の保障を願望していたからにほかなりません。(中略)復帰に当たっては、やはり従来通りの基地の島としてではなく、基地のない平和の島としての復帰を強く望んでおります」(建議書「はじめに」)
97年11月の沖縄の施政権返還25周年を記念する復帰式典。大田昌秀知事は「当時、政府が建議書を真剣に受け止め、県民の願いをその後の沖縄政策に生かしていたら、わが県はもっと違った姿になっていたのではないかと思われてならない」と発言した。
宮里さんは13年前の筆者の取材に、建議書をこう総括している。
「復帰時点に指摘された問題は積み残しの状態で、本質の解決は図られないままメッキを塗ってごまかして今があるのではないでしょうか」
今やメッキもはがれ落ちてしまった感が否めない。沖縄県内の全市町村長や議会議長が参加した要請団が2013年1月、米軍普天間飛行場の県内移設断念などを求める「建白書」を政府に提出した。しかし、その後の選挙でも示された民意はことごとく踏みにじられ、先月25日、政府は辺野古埋め立ての第1段階である護岸工事に着手した。
「政府は沖縄を領土の観点でのみ捉え、いかに軍事利用するかということだけに集中しているように見えます。ただ、こうした政府の処遇は今に始まったことではありません」(宮里さん)
信託統治か潜在主権か 独立への道も存在した
日本政府は明治期に、安全保障上の所要を満たすため、武力威嚇を伴う「琉球処分」によって沖縄を日本国家の版図に組み込んだ。太平洋戦争で沖縄は、本土決戦のための時間稼ぎの「捨て石」として住民が根こそぎ動員された揚げ句、4人に1人が亡くなる地上戦に引きずり込まれた。そうした歴史の連なりの中に今がある。
そう捉える宮里さんの視座は、政府批判にとどまらない。矛先は自身を含む「沖縄」にも向けられている。
敗戦時、宮里さんは12歳だった。軍国主義一辺倒の皇民化教育を受け、島くとぅば(沖縄方言)の使用も禁止されていた宮里さんは、沖縄にかつて王政が存在したことや、独自の文化や歴史が育まれてきたことも知らなかった。
戦後沖縄の教育は、収容所での青空教室に始まり、米軍の指示で沖縄独自の教科書編集が行われた時期もあった。沖縄の歴史が記述されたガリ版刷りの教科書が配られるまで、宮里さんは「首里城」の「首里」という文字を、「みやざと」という自分の姓と重ね、「くびさと」と黙読していたという。
日本という国家の中で沖縄は取るに足りない地域──。「そういう頭づくり」がされた延長のまま復帰運動に接続した、と宮里さんは振り返る。
「つまり、親元に帰る、祖国復帰という言葉で、私も一緒になって復帰運動に傾注しました。そういう範囲でしか物の判断ができなかったというのが、今の沖縄の状況を生み出す背景にあったと思うんです」
宮里さんが「歴史的な反省点」に挙げるのが、52年発効のサンフランシスコ講和条約の第3条に関する解釈だ。講和条約と日米安保条約の発効によって日本本土は「独立」し、沖縄は米軍占領の継続・再編成という状況に置かれた。
講和条約第3条はこう規定する。沖縄などは米国を「唯一の施政権者とする信託統治制度の下におく」との提案が国際連合に対してなされた場合、日本はこれに同意する。さらに、この提案までは、米国が沖縄などに対して「行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有する」。そのうえで、日本には「潜在主権」が残るとされていた。
宮里さんは「信託統治制度」についてこう言及する。
「敗戦までは日本が南洋諸島を委任統治していましたから、その感覚が頭にあって、南洋諸島みたいに差別された地域にされる、という反発が先に立ったのです」
一方で、「日本の潜在主権」が認められた点は、「希望」だったという。
「潜在主権が認められたことで、いずれ日本に復帰できるんだ、それが沖縄県民にとっては救いだという錯覚を起こしてしまったんですよ」
「錯覚」という言葉に、筆者は内心動揺した。宮里さんの心域はそこまで「日本」から離れてしまったのか。
かつての南洋諸島は戦後、米国の信託統治を経て独立している。
「つまり当時、沖縄自らが信託統治を欲し、そこから独立につなげる道を選んだほうがよかったんじゃないかということです。そのチャンスを逃がしたばかりに、沖縄は本土に軍事利用され続ける、今日の混迷と不幸があるのです」
沖縄を守らない9条と 憎しみに包囲された基地
宮里さんは今、戦後沖縄のテクノクラートの一人として沖縄社会を「日本復帰」に誘導する一端を担った過去を心の底から悔やんでいるのだ。
安倍晋三首相は5月3日、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と明言。戦争の放棄を定めた9条に自衛隊の存在を明記した条文を追加することなどを挙げた。
「日本を軍事国家にしたいのでしょうが、結局、本土による沖縄の軍事利用強化につながるのでは」
そう受け止める宮里さんの視点は、本土の改憲派、護憲派のどちらにもくみしない。
「そもそも9条は沖縄に適用されてきたのか。本土は9条を生かすために沖縄を利用してきた、という解釈もありますよね。そういう意味では、これからも9条にぶら下がるというのは、私は非常に違和感をもっています」
沖縄の政治潮流に詳しい獨協大学地域総合研究所の平良好利特任助手は『戦後日本の歴史認識』(東京大学出版会)で、「沖縄と本土の溝」の章を担当。かつてないほど沖縄と本土の政治空間に隔たりが生じてしまった根本要因として、沖縄に偏在する基地負担を戦後日本が解決できなかったことにある、と分析している。
本土で米軍基地が縮小されていった50年代後半に、本土から沖縄に移駐した米海兵隊が在沖米軍基地の約7割を占める現状を、本土のどれだけの人が知っているだろうか。
平良氏は言う。
「日米同盟の本質は、基地を提供する代わりに守ってもらうことです。しかし、基地という最も重要な『実』の部分の大半が沖縄に局地化されて見えなくなり、その『実』の部分を脇に置いたまま、『日米同盟』は深化・発展していったのではないでしょうか」
米軍統治下の沖縄で弾圧と闘った政治家、故瀬長亀次郎氏の軌跡を展示する資料館「不屈館」が那覇市にある。
「復帰して良かったことはいっぱいあります。パスポートなしで本土に行けるし、医療保険制度や年金の恩恵も受けられます。基地付きの復帰になったことで、すべてダメだと言って、本土の人と喧嘩しても始まりません」
そう話す館長の内村千尋さん(72)は亀次郎氏の次女だ。内村さんは辺野古新基地建設など政権の強権的な姿勢に強い反発を覚えながらも、本土の人たちにも粘り強く理解を得る努力が必要だと考えている。
亀次郎氏が残した言葉は今も沖縄の反基地闘争を鼓舞する力をもつ。今年3月の辺野古のキャンプ・シュワブゲート前での集会。大会決議文で引用された「弾圧は抵抗を呼ぶ。抵抗は友を呼ぶ」もその一つだ。
帰り際、内村さんが亀次郎氏の言葉をもう一つ、教えてくれた。
「民衆の憎しみに包囲された軍事基地の価値はゼロに等しい」
本土に向けられた言葉でもある。
本土復帰45年の沖縄で「幻の建議書」関係者が語る「復帰は間違いだった」|AERA 2017年5月22日号 から