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3月, 2020の投稿を表示しています

記事紹介|反省はしても後悔はしない

失敗して、やる気がなくなるのが敗者 失敗して、やる気になるのが勇者 福島 正伸 * 人生を映画のように、ドラマのようにと捉えれば、困難があった方が面白くなる。 困難を乗り越えた話はもっと面白い。 だから、失敗したとき、困難が来たときに使う言葉は、 「ますます面白くなってきたぜ!」 Welcome 困難です。 松下幸之助氏が語るように、 「困っても、困ったらあかん」のです。 反省はしても、後悔はしない。 躓くのは、足を前に出している証しだから。 (出典) 失敗|今日の言葉

記事紹介|運命は与えられるものではなく、自分から動いてデザインしていくもの

自分のやりたいことに 挑戦する勇気を持っている人の未来には、 自分が考えている以上に 楽しいことであふれた毎日が待っている。 * これを後押ししてくれる言葉として、日野原先生のこんな言葉があります。 『自分の人生に起こることを「運命だ」と受け身的に捉える人が多いようですが、 私はいつも「あなたの運命をデザインしなさい」と言うのです。 人生はよいことばかりではありませんが、誰かとの出会いを契機によい方向に変えていくこともできる。 運命は与えられるものではなく、自分から動いてデザインしていくものだというのが私の考え方です』 運命は決まっているものではなく、自らデザインしていくもの。 そうであるならば挑戦の多い運命でありたいですね。 そして失敗を恐れないこと。 なぜなら、 『失敗は行動しない者が引き起こすのであって、 失敗を覚悟してあえて行動しようとする者によって起きるのではない』 ということのようです。 今年の挑戦は何ですか? (出典) 挑戦|今日の言葉

記事紹介|逆境や問題から学ぶことができ成長することができる人は、それを人のせいにしない

逆境や問題から学ぶことができ、成長することができる人は、それを「人のせいにしない」。 そして、まわりのせいや、政治や時代のせいにはしない。 政府が悪い、トップが悪いといくら言っても、今まで起きてしまったことの状況は変わらない。 ダメな経営者が「景気が悪いから我が社も悪い」と言っているようなものだ。 つまり逆に、「景気がいいから我が社も良い」というなら、その経営者はいらないことになる。 すべて景気任せだからだ。 声高に誰かを非難している人は、自分の胸に手を当てて考えた方がいい。 もし、自分がそのトップの座にあったらどんな手を打つかと。 もっとましな手が打てたのかと。 決断を下すには、様々な条件が重なり、何かを選べば何かを捨てなければならない。 全員がオッケーになってハッピーになることなどこの世に一つもない。 そして、状況は刻々と変わり、昨日打った手は今日は正解ではない。 その中で決断するのだ。 結果を非難するのは誰でもできる。 それは、冷暖房の効いたテレビの前で、死闘を繰り広げるボクサーを見て罵(ののし)るようなもの。 「逆境に対する姿勢で人は問われる」 今、生かされていることに感謝し… 人のせいにせず、さわがず、 目の前のやるべきことを淡々とまっとうする人でありたい。 (出典) 逆境に対する姿勢で人は問われる|人の心に灯をともす

記事紹介|現状維持とは後退していること

組織の内部の変化が外部の変化についていけなくなったとき、終わりはすぐそこに来ている。 ジャック・ウェルチ 先日3月1日に亡くなったGE伝説の経営者ジャック・ウェルチの言葉をお届けします。 「現状維持とは、後退していること」とも言われますが、井の中の蛙にならないことが大事ですね。 また、『変革せよ。変革を迫られる前に』ともウェルチは語っています。 英語では、“Change before you have to.”となっています。 自らが変化のきっかけになれ、時機を逸するなということでしょう。 さらに、『自分の運命は自分でコントロールすべきだ。さもないと、誰かにコントロールされてしまう』とも語っています。 世の中に対しても、自分自身に対してもイニシアチブとリーダーシップを取ること。 どちらも意識的に自ら働きかけるからこそ出来ることですね。 変えるべきもの、変えるべきではないものの見極めが大事です。 (出典) 変化|今日の言葉

記事紹介|肯定の哲学

国家全体が受ける危機という国難が襲ってきても、心配することはない。 むしろ、心配しなければならないのは、人々の心に気力や気迫という「生気」がなくなってしまうことだ。 SNS上も、マスコミも、否定の哲学にあふれている現代… まさに、国民にこの「生気」が問われている。 「ダメだと言うなら、それよりいい案を出しなさい」  (出典) ダメだと言うなら、それよりいい案を出しなさい|人の心に灯をともす

記事紹介|身の丈に合った教育

本来、学校とは「平等をつくるための装置」なのに、そこには組み込まれない活動を評価することは、国が「教育の平等」を放棄するようなもの。安倍晋三政権が進めようとしている大学入試改革は、貧困の連鎖を拡大させる改革でしかない。 貧困の最大の問題は「機会の略奪」である。 教育を受ける機会、仲間と学ぶ機会、友達と遊ぶ機会、知識を広げる機会、スポーツや余暇に関わる機会、家族の思い出をつくる機会、親と接する機会……といった「普通だったら経験できることができない」のが貧困である。 とりわけ幼少期の「機会奪略」はその後の人生の選択にも大きな影響を与える。私たちは幼少期にこういったさまざまな経験を積む中で、80年以上の人生を生き抜く「リソース」を獲得する。ところが低所得世帯の子供はそういった機会を経験できず、進学する機会、仕事に就く機会、結婚する機会などについて、「機会略奪のスパイラル」に入り込む。 その機会略奪のスパイラルを、唯一阻むことができるのが、本来、学校の役目だった。学校では親の社会経済的地位に関係なく、同じ教科書で同じ教育を受け、同じ制服を着て登校し、同じ食事を食べ、同じ行事に参加できる。それはまさに「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」というフレーズの、“多様な(家庭)の人々”との協働作業だ。 だが、その「平等をつくるための装置」も中学まででジ・エンド。高校になると間接的に親の社会的経済的地位でふるい分けられる。子供の学力と親の社会経済的地位は関係性が深いため、学校の学力レベル=親の社会経済的地位となってしまうのだ。 それでも何とかして大学に行きたいと思う子供は、主体的に勉強をし、高卒認定を受けるなどして、大学受験することができた。いじめなどで学校に行けなくなり「学ぶ機会」を略奪された子供も、主体的に勉強をし、高卒認定を受けるなどすれば大学受験できた。 大学受験というのは、ふるい分けを再び、リセットできる大きな機会だった。その機会を「子供たちの未来」を考える立場の人たちが、奪おうとしているとしか私には思えない。 家庭の経済格差が教育格差につながっていることは、さまざまな調査が明らかにしているが、これに拍車をかけるような制度を文科省が進めてどうするというのだ。 「身の丈に合った教育を受ければいい」と、マジで思っているのだろうか。 ...