2018年11月16日金曜日

記事紹介|自分を知る

自分の容貌を知らない者は、鏡を悪く言う。

自分の心を知らない者は、人を悪く言う。

モンゴルのことわざ


「目が見えないよりも、心が見えない方が恐ろしい」という言葉もありますが、他人の心だけでなく、自分の心ですら本当に見つめることは難しいのかもしれません。

自分の心の根底には何があるのか?

それが「愛」なのか、「恐れ」なのかによって行動が変わってくることでしょう。

臨済宗の僧侶である無住が、『我が悪をいうものは我が師なり。我が好(こう)をいうものは我が賊なり』と語っています。

自分の欠点を言ってくれる人が自分の師匠であり、おべっかばかり使ってくる人は自分を駄目にする存在であるということかと思いますが、何気なく入ってくる他人のアドバイスが、時には自分の心の鏡であるのでしょう。

それを選別するには、どんな人でありたいか、どんな人生を送りたいのかという自分の人生のテーマを持つことが大事なのだと思います。

2018年11月15日木曜日

記事紹介|人と違うからこそ、役割が存在する

いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。

人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、

途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。

寺田 寅彦


足の早い人が見える景色と、足取りがゆっくりな人が見える景色は違ったものになるでしょう。

知識を得てものを見る人と、感性でものを見る人とでは注目するところが異なるかもしれません。

すなわち大事なことは、一人ひとりが自分の個性で物事を見ることなのでしょう。

人から与えられた知識や解釈ではなく、自分自身が感じたこと、注目したことを大事にすること。

人と違っていても気にしないこと。

人と違うからこそ、役割が存在するのだから。

欠点は他人から補ってもらうためにある。

長所は他人を補うためにある。

どちらかしかない人なんていないのです。

人と人との間で助け合うから、人間なのだから。

2018年11月9日金曜日

記事紹介|最近の高等教育政策の無策ぶりには目を覆うものがある

東京大学は20年度入試で、「大学入学共通テスト」に導入される英語民間試験の成績提出を必須としないことを決めた。

具体的には、受験生に「CEFR(欧州言語共通参照枠)」の下から2番目の評価A2以上を求め、その確認方法として①民間試験の成績提出、②高校が「A2と同等以上の能力がある」などと調査書に記述、③民間試験を受けられない場合はその理由を提出-をあげた。現実問題としてA2以下では東大合格は難しい。民間試験を使うべしという国の方針に反しないが、限りなく”骨抜き”の案といえる。

今回の入試改革は、高校、大学の教育と大学入試を一体的に改革し、21世紀を生き抜くグローバル型人材を育成するという目的で始まった。理念自体に異論はない。是非とも進めるべき課題である。だが具体的な制度設計が進むにつれ、多くの課題にぶつかる。16年末の中教審答申は、共通テストについて①教科・科目の枠を超えた「合科型・科目型」「総合型」の出題、②段階別表示による成績提供、③記述式を導入、④コンピュータを使うCBTの導入、⑤年複数回の実施、⑥英語は4技能を評価できる出題や民間試験の活用-などを提言した。

だが、その後の文科省内の会議で売り物だった合科型・科目型や総合型、年複数回実施、CBTなどは立ち消えとなり、記述式と英語民間試験だけが残った。それでも入試に詳しい大学関係者からは異論や懸念が絶えない。そうした中での決定である。

東大の方針が他大学に与える影響は不明だが、実施まで2年余になっても迷走する事態は余りに受験生が可哀想だ。国大協での入試改革の議論に東大が消極的だったことも一因だが、理念先行で現場の声を聞かない文科官僚の責任は大きい。国と大学界の対話ができていないのだ。

話は変わるが文科省大学設置・学校法人審議会は10月初め、19年度に発足する「専門職大学・専短大」について、申請17校のうち1校のみの新設を認めると答申した。2校を保留とし、14校は申請を取り下げた。

専門職大学は、専門学校の要望や経済界の後押しを受け、約半世紀ぶりに誕生する新たな高等教育機関だ。ただ、この半世紀で専門学校を母体としたり、実践的職業教育に重点を置いたりする大学・短大が増えたことから、新制度に懐疑的な声も根強い。

設置審は今回の認可結果について「総じて準備不足。実習の実施体制、大学教育としての内容、施設や設備の面などで課題がみられ、社会的使命を十分に果たすとは認められないものが多い」とコメントした。

設置予定の学校法人は計画を練り直して再申請し、数年後には専門職大学・短大が全国に開校するのだろう。だが、初年度の審査結果が新学校種に冷や水を浴びせたのは確かで、威信は大いに殿損された。なぜ、こんなことになるのか。設置審は大学関係者が多いからなのか。ここでも気になるのは、国と大学界の対話の欠如である。

そんなことを考えていると知り合いの文科省OB からメールが届いた。「最近の高等教育政策(専門職大学、高等教育の無償化、将来構想部会・・・)の無策ぶりには目を覆うものがある」。思いは皆同じらしい。

国と大学の対話:日本経済新聞社編集委員 横山晋一郎|IDE 2018年11月号 から

2018年11月8日木曜日

記事紹介|大学の説明責任

かつて、ドイツをはじめとする欧州において、教授等による自由な研究と教育を尊重しつつ、国家が必要な経費を負担することが社会の発展に寄与すると考えられた時代があった。

あえて「かつて」「欧州において」などと記したのは、こうした大学と社会との関係は、時代や地域によって様々であり、「本来大学とは」「本来国家は〇〇を保障すべき」などとは必ずしも決めつけられないからである。

日本の大学制度は戦前にドイツを参考にして設計され、戦後にアメリカ型に移行した折衷型であるが、我が国の大学人はかつてのドイツの大学の姿へのノスタルジーを強く抱いているように感じる。国立大学が法人化され、運営費交付金が削減され、競争的資金が増加してきたことについて、「本来の大学」はこのように遇されるべきではないという思いは拭いがたいかもしれない。

では、大学と社会との関係は、現在の日本において、どうなっているだろうか。国からの運営費交付金の削減、民間企業から大学に提供される研究資金の少なさ、博士課程に進学する学生の減少、こうした現象は、国家からも、企業からも、学生からも大学に投資する価値が(あるとしても)十分に見えていないことの表れであると考えられる。

「本来の大学」を主張する立場からは、自由にる研究をさせる中から思いがけない発見が生まれるのだから、投資に値する研究をしてぃるかなどと問うべきではないという主張もあるだろう。大学に配分する資金全体のパイが十分に確保できる時代にはそれでよかったのかもしれない。しかしながら、少子高齢化が世界に先駆けて進行し、社会保障費の増大が著しく、財政に余裕がない状況では「限られた資金が有効に使われるのか?」という説明責任の要求が社会の側から高まるのは自然の流れでもある。

大学と社会という二者の関係は相対的なものだから、社会が変われば大学も変わらざるを得なくなる。

これまでは、運営費交付金の削減という「収入減」の議論ばかり行われてきたが、「支出」に着目すると、国立大学全体の事業費は、教育経費と研究経費だけを見ても法人化当初より約1,740億円増加している。事業費の拡大が教育研究の発展のために必然であるとするならば、大学はサステイナブルな財務構造を構築するため、大学への投資を「増やす」ことについて社会の合意を取り付けなけれぱならない。そのためには、大学自身が学内の各所に存在する教育研究の価値を把握し、可視化して、その投資価値を社会に対して積極的に示していくことが必要な時代になっているのではないか。大学と社会との関係は時とともに変化し続ける。かつての大学に戻ることはない、と覚悟を決める時かもしれない。