2019年8月30日金曜日

メリットがありそうな空調整備リース方式の活用

大学でも、今後検討する価値はありそうです。(以下引用)

<リース方式を活用するメリット>

  • 費用の平準化を実現できる。つまり初期費用を抑えることが可能となるので、事業規模が大きい場合にも、一斉導入の際の財政負担を低く抑えられる。
  • リース契約に保守・維持管理業務を含めることで、突発的な費用負担は一切発生しない。万が一、故障による修繕や交換が必要になった場合でも、新たに予算を計上する必要はない。
  • 契約手続きにかかわる事務処理稼働の軽減も可能。直接施工方式の場合、「事前調査・設計」「施工」「維持管理」それぞれで契約手続きが発生するが、リース方式ではそれらを一本化し、時間を短縮することができる。

急務となった学校現場の空調整備リース方式の活用で乗り切れる|自治体通信Online から

2019年8月27日火曜日

記事紹介|困難なときに何をしないか

精神的な強さは、全く予期していないときに起きたことによって試されるものだ。その人の精神的なタフさは、困難なときに何をするかではなく、何をしないかというところに明確に示される。

精神的に強い人が決してしない10のことを学べば、あなたも自分の精神力を高めることができるはずだ。

1.失敗にこだわらない

精神的にタフな人は、自分が何に気持ちを集中させているかによって、自分の感情が左右されることを知っている。そのため、失敗に固執せず、一方でその失敗を忘れることなく、頭の片隅にとどめておく。そうすることで、将来の成功に向けて自分を変え、適応させていくために役立てることができる。

2. ネガティブな人と付き合わない

冷たい人、失礼な人だと思われたくないために、何かを嘆いている人の話を聞いてあげなければという気持ちに駆られることはよくある。だが、親身になって聞いてあげることと、感情的な悪循環に巻き込まれることは違う。その二つの間には、紙一重の違いがあることを忘れてはいけない。

心の知能指数が高い人は、必要なときには境界線を引いて一定の距離を保ち、巻き込まれないようにすることができる。

3. 自分を疑わない

精神力の強い人には忍耐力がある。失敗しても、疲れても、面白くないと思っても、諦めることはない。誰かに「絶対に無理だ」と言われても、それは他人の意見だと受け止める。

4. 謝罪を求めない

強い精神力の持ち主は、非を認めずに謝らない人のことも恨まずに許す。そうすれば物事が円滑に進むことを知っているからだ。過去の恨み事や感情に「寄生」する憎しみや怒りは、今の幸せや喜びを台無しにする。

5. 自分を哀れまない

自分を哀れむことは、自らを現状に屈した無力な犠牲者だと決めつけるのと同じだ。精神力の強い人は、自分を哀れんだりしない。それは自分自身の力を放棄することを意味するからだ。

6. 恨まない

他人を恨むことで生じる否定的な感情は、ストレス反応だ。ストレスを抱え続けることは、健康に害を及ぼす。米エモリ―大学の研究によれば、高血圧や心臓病にもつながる。精神的に強い人は、自らストレスを抱え込むようなことはしない。

7. 誰の悪影響も受けない

他人と自分を比較することで喜びや満足感が失われたとき、あなたは自分自身の幸福を人の手に委ねたことになる。強い精神力の持ち主が自分の行動に前向きな感情を持っているとき、他人の意見や成功に影響されることはない。

8. 人のことに介入しない

精神的に強い人は、他人を批判しない。人の能力はそれぞれに異なることを知っているからだ。自分を人と比較することは、制約を課すことだ。嫉妬することでエネルギーを浪費せず、人を理解することにそのエネルギーを使ってみよう。人の成功を祝福することは、あなたにとってもその人にとっても、プラスになる。

9. 怠けない

カナダの医療機関、イースタン・オンタリオ・リサーチ・インスティテュートの研究結果によると、10週間にわたって週2回の運動を続けた人は、社会性、知能、運動能力の各項目に関する自己評価が上がったという。自分自身のボディイメージや、自尊感情も改善した。自信を高めるための努力を続けることは、精神的な強さを得ることにつながる。

10. 悲観しない

ニュースを見れば、戦闘や攻撃、脆弱な経済、企業の破綻、環境災害など、世界は悪い方向に向かっていると思わせるようなことばかりだ。だが、精神的に強い人は、自分にはどうすることもできない事柄に心を捉われたりしない。

精神的に強い人が「絶対にしない」10のこと|Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン) から

2019年8月26日月曜日

記事紹介|「時短」の前に「人材育成」を

本来の目的は「生産性の向上」

政府の言う働き方改革の目的は、少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少や、介護の増加などによって働く人の総数が減っているため、働くことを阻害するものを減らし、人々が働きやすくすることで生産性を向上させ、これまでの日本の生産力=経済力を維持・向上させようということ。

生産性とは、「労働による成果(≒利益、付加価値)」÷「労働投入量(≒労働時間、人件費)」という計算式で表せるもの。同じ労働時間、人件費で生み出す付加価値、利益がどれくらいになるかを示す指標。

この計算式を考えれば、生産性を上げる方法は2つしかない。分母(労働時間、人件費)を減らすか、分子(利益、付加価値)を増やすか。どちらかができれば、生産性は向上する。

結局は「少ない労働時間で同じ成果を上げる」ということを目指す、つまり労働時間をいかに削減できるかという問題に行き着く。

今の政府や企業が行っている施策の多くが、「労働時間を減らす施策」。例えば、時間外労働の上限規制(原則月45時間、年間360時間)は、残業代が減ることで人件費が減る。
現状の働き方改革は、生産性を上げるためにインプットを減らすことばかりに注力しているといってよい。

働き方改革の「大きな見落とし」

労働時間短縮(時短)ばかりを進めようとするから「働き方改革」が、「働かない方法の改革」とか「休み方改革」であると揶揄されてしまうわけで、ここには大きな問題が隠れている。

理屈では、確かに同じ利益(付加価値)を少ない労働時間、少ない人件費で出すことができれば生産性は上がるが、実際にそうはならない。

もし働く人の能力が変わらない状態でインプットである労働時間を減らせば、利益(付加価値)とは結局「労働時間」と「能力」の積だから、アウトプットは減る。前述した分母(労働時間、人件費)だけでなく、分子も(利益、付加価値)も減るわけだから、生産性は決して向上しない。

「生産性」の正体は、働く人の「能力」である。つまり、「働き方改革」とは、働く人々の能力を向上させること。にもかかわらず、「能力の向上」に手をつけずに労働時間を減らせば、それに連動して利益も減ることになり、結局、生産性が向上することはない。

「短い時間で成果を出さなくてはならなくなれば、各自工夫して能力向上するのでは?」という意見もあるが、それはあまりにも楽観的な考え。多くの人は、「こうすれば評価され、こうすれば非難される」というインセンティブを作っただけで、そのとおりに動けるほど自律的ではない。

生産性の向上という本来の「働き方改革」の目的を実現するのであれば、最初は社員やチームの能力開発を先行させなくてはならない。「短い時間で同じ成果」を出せる「能力」を身に付けるしかない。

具体的には、暗黙知のままになっている仕事をマニュアル化や仕組み化などによって形式知化し、ノウハウ展開が可能となる素地作りを行う。そして、社員の不足する能力を見極めて目標設定を行い、その能力を獲得できるような仕事への教育的観点からアサインを行ったり、研修やトレーニングを実施したりするということ。

求められるは「人材育成」

能力開発をする前に時短を先行させてしまうと、能力開発に悪影響を与える可能性がある。まず、短時間で成果を出そうとすると、どうしても人材育成は後回しになる。また、仕事を教えるために共同作業したり同行させたりするなど、短期的な生産性の観点からはダブルコストになるようなことは敬遠されるようになる。

仕事上のすべての知識やスキルを形式知化するのは至難の業だから、「見て学ぶ」ことは仕事において大変重要なのだが、それができなくなる。形式知化されたものはオンラインセミナー等でも学ぶことは可能だが、そうでないものは引き継がれずに失われていく可能性がある。

企業はまず「働き方改革」は、現在のような「労働時間の削減」ではなく、「個々人の能力開発」が最重要課題であるということを理解することが重要。そして、改革の順序を、「能力開発の実施」→「労働時間を短くする制度の導入」という順番に変更していくことが望まれる。

「働く時間減らせばOK」と考える経営者の大誤解|東洋経済 から

2019年8月25日日曜日

ICT化で一石三鳥

一部の自治体では、既に類似の仕組みが導入され、成果を挙げているようです。

広大な敷地面積や危険な施設・設備を保有する大学などでは、有効な先行事例として捉えてもいいのではないでしょうか。

このようなICTツールの活用は、事件・事故につながるリスクの低減や教職員の業務負担軽減にも大きな効果をもたらすものと思われます。


道路、河川、公園、街灯などの不具合、故障、そのほかの異常について、住民が通報できるチャットボット「不具合通報オプション」。

通報受付では位置情報や写真を活用できるため、状況把握がしやすいだけでなく早期修復につながり、台風など災害後の活用にも期待できるという。

さらに、通報内容が自動で担当部署に振り分けられるなど、後工程を短縮。職員の業務負担軽減でテレワークや働き方改革の推進にも効果的(引用)

公園や道路の“異常”を住民がLINEで連絡--モビルスが自治体向け新サービス|CNET Japan から

動画紹介|映画 ひろしま

原爆投下から7年後の広島。高校生のみち子は、授業中に原爆症で倒れ、8月6日の恐ろしい光景を思い出す…。

原爆の恐怖と惨状を伝えようと、被爆から8年後に製作された反戦ドラマ。

岡田英次、月丘夢路、山田五十鈴のほか、8万人を超える広島市民が撮影に参加、原爆投下直後の市内の惨状、市民たちが傷つき、苦しむ姿を、実際の映像も交え、迫真のリアリズムで再現し、ベルリン映画祭長編映画賞を受賞、海外でも高く評価された。(引用)

<前編>


<後編>

2019年8月24日土曜日

記事紹介|過去の自分と比較して進歩がありますか?

夢ある者には希望あり

希望ある者には目標あり

目標ある者には計画あり

計画ある者には行動あり

行動ある者には実績あり

実績ある者には反省あり

反省ある者には進歩あり

進歩ある者には夢がある

吉田 貞雄(流通評論家)


もし、成長が止まっているかもと思ったら、このステップのどこかで欠落があるかもしれません。

「目標」はあるが「実績」がない場合は、「計画」と「行動」がないからとか。

この循環のどこに自分がいるのかをチェックするリストとして使ってみるのも良いでしょう。

夢は叶いますから。

夢の八訓|今日の言葉 から

記事紹介|行動しない評論家

誰かの挑戦を、嘲笑したり、軽蔑したり、(斜に構えて)「くだらない」と言ったりする人は、たいていが危害の及ばない安全な観客席で見て言っている。

灼熱のフィールドで闘っている人を、冷房の効いた部屋でビールを飲みながら罵(ののし)ったり、「最低」呼ばわりする人は常に部外者で、評論家だ。

行動しない者は、常に行動するものを批判する。

成功すれば嫉妬をし、失敗すれば「それ見たことか」と留飲を下げる。

それは、失敗を恐れて、「私は挑戦をしない人です」というゼッケンを洋服につけているようなもの。

挑戦とは勇気と行動だ。

そして、この地球は、誰がなんと言おうと、「行動」で判断される場所。

たとえば、頭の中でどんなに素晴らしいことを考えていようと、それを行動に移さなければ誰の目にも止まらず、それは無いのと同じになる。

つまり、「証(あかし)は行動の中にある」

「人は自分に理解できないものを嘲笑する」

誰かの勇気と挑戦を称(たた)えるでありたい。

人は自分に理解できないものを嘲笑する|人の心に灯をともす から

2019年8月23日金曜日

記事紹介|形だけのガバナンス改革から脱するには

形だけのガバナンス改革は、何の役にも、立たないどころか、それを実施しているから安泰だという危うい状態を作ってしまう。

形だけではない本当のガバナンスを実現する、その原動力にはトップの強い信念と礼節が不可欠だ。

トップ(理事長・理事・学長等)の礼節を検証する

「この大学を全てのステークホルダーのために良い大学にしよう」と価値判断できるトップ・リーダーが集結しなければ、今は良くても将来は期待できない。大学の規模を問わずガバナンスが有効に働くかどうかは、モニタリングやボンディングの仕組みを整えるだけでは満たされない。そのカギを握るのがトップの礼節(civility)である。

そもそも完全無欠な経営はまず不可能だ。合理性を追求する経営活動といえども限定合理的であって、不正ないし非効率に陥るおそれと背中合わせである。過ちを隠したり正当化したりしない。過ちの責任を引き受け、そこから学び、同じ過ちを繰り返さない。トップの信念と礼節が問われる。そこを抜きにしていくら制度いじりをしても、不正と非効率は決してなくならない。

仏教に「自利心」と「利他心」という言葉がある。自利心は、全て損得勘定で判断する畜生心で、自分の利益しか考えない心のことである。利他心は、その逆で、一切損得勘定なく、自分を犠牲にしても他のためになることを考える心のことである。この娑婆世界で生きていくには、自利心をできるだけ起こさないようにして、利他心で生きていくことが大切であると説かれる。

トップのガバナンス改革の原動力にも「自利心」と「利他心」の二つがある。

トップの自利心とは、「報酬を増やしたい」「確固たる地位や名声が欲しい」といった気持ちがそれである。業績連動型報酬はトップの金銭欲に応える仕組みであるし、外部理事を増やして役員会・理事会の独立性を高めるのはそのトップの暴走を牽制する手段である。欧米型のガバナンスは、高額報酬を典型とする専ら自利心によるガバナンスといえる。

トップの利他心とは、「学生や教職員を幸せにしたい」「立派に職責を果たしたい」「社会をより良くしたい」といった気持ちがそれである。そのトップの利他心に基づいて健全で活力ある経営をすることを、「良心によるガバナンス」と言い換えてもよい。

欧米型の自利心によるガバナンスを補うかたちで機能してきたはずの日本型の利他心によるガバナンスさえ欠如したのが昨今の不祥事である。「日本の大学はガバナンスが欠如している」という認識が過大に広まり、大学は欧米型の自利心によるガバナンス改革を進めて今日に至った。だが、自利心ばかりに働きかけると、自利心は利他心よりも優勢になりがちだ。利他心を大事にしてきたトップにも、自利心だけに囚われて行動する危うさが付きまとう。

だからといって、自利心によるガバナンスを否定するものではない。人間が利欲を持つのは当たり前のことだし、自利心は活動の活力源でもある。

大事なことは、利他心によるガバナンスと自利心によるガバナンスを併用すると同時に、「利他心を主、自利心を従」というバランスを維持することである。そのためにはどうすればよいか。当然のごとく、日々の業務を通じて良心を涵養する。自分の一つひとつの行動の動機が、利他心なのか自利心なのかを弁別し、利他心による行動とそこから得られる歓びを大切にしていく。こうした姿勢を自らのキャリアを通じて積み重ねていくことが、良心を育む方法ではないか。同時に、トップを信用して支援してくれる熱きステークホルダーを持つことだ。人は、他者から信頼や期待を寄せられると、それに応えたいという良心が呼び覚まされる。

権限を権力と勘違いしたトップに対する牽制機能の切り札

大学というものは、「悪いガバナンス」を「良いガバナンス」に取り換えればうまく動き出すようなものではない。いくらテコ入れをしても、我利我利のためであれ、大学のためであれ、確信犯的に不正を起こそうとするトップの暴走は妨げない。どんな立派なトップでも、その君臨が長期化したり、経営環境が悪化したりすれば、権限と権力をはき違えて悲劇が起こる。自らの思いに任せ、自らの欲求のために権限を行使し、当座しのぎでズルの誘惑に負ける。性悪説でもない、性善説でもない、言うなれぱ「性弱説」に立った人間観を持ってこそガバナンスが活きてくる。

トップのリーダーシップ強化に伴って権限の集中化が進むと、その独裁者に対して諫言のできる者は学内で絶滅危倶種となる。優れたトップは、大学の持続的な成長が何よりも重要であることを知っている。大きな権限が権力につながる危険も熟知し、全ての権限行使に当たって細心の注意を払う(※)。ただ、残念ながら大部分のトップは権限を権力と勘違いしてしまい、独断専行・利己的判断といった弊害に陥る危険がある。
(※)ピーター・F・ドラッカーは、著書「マネジメント」の中で「権限と権力は異なる。マネジメントはもともと権力を持たない。責任は持つ。その責任を果たすために権限を必要とし、現実に権限を持つ。その以上の何ものも持たない」と説いている。
だとすれば、どのようにしてモンスター化するトップを制御すればいいのか。

大抵の大学は不正を排除するメカニズムを内蔵している。理事がその任を果たすべきことは当然である。善管注意義務違反を追及することもできるからだ。外部理事もいる。監事、内部統制委員会、内部監査室、コンプライアンス委員会などが相互に連携し、監査と報告を行う仕組みもあるだろう。

だが結論から述べるなら、模範的なガバナンスの仕組みをいかに精緻に組み上げても、態勢整備だけでは不祥事が幾度となく発生することを私たちは知っている。ガバナンスの仕組みを機能させるには、ルールを機能させる良識的な判断と行動、つまり健全な思考様式や行動規範、物事の重要性に関する適切な優先順位付け、開放的な組織文化、己を律する道徳心などが不可欠である。

その牽制機能の切り札が、トップへの諌言機能を持つ「監事」である。実質的に問題提起をし、調査し、苦言を呈してくれる監事を選任して、トップが十分な監視を受けるシステムを”自らの手”で整備することだ。監事が学内と同じだけの情報量で監視に関わるのは無理な話である。でも監事はその実情を把握して監視をしていくことがその役割である。それを形だけの監査にしないために、トップ自らが大学の持続的な成長こそが何よりも重要であるとの基本姿勢を貫いて、監事に監視される環境を大学の中に自律的にビルドインする。もちろんその監事はトップとの友達関係も忖度関係もないことを資格要件とする。このトップの姿勢なくして、ガバナンスの仕組みの強化を幾重に重ねても、トップを牽制することはできない。トップ自らの誠実な自己統制の実践それこそが今、大学に求められる真のガバナンスの行方なのである。

「コンプライアンス」を学びて思わざれば則ち罔し|文部科学教育通信 No465 2019.8.12 から

記事紹介|人は、自らが教える時に最もよく学ぶ

ドラッカーは、情報化時代の組織は「学ぶ組織」であると同時に「教える組織」にならなければならない、という。

生産性向上のためには、過去に学んだ知識や技能だけを頼りにするのではなく、絶えざる継続学習によって、新たに入れ替えたり、さらにうまく、よりよく行えるように磨き、訓練し続けることが必要になるのだが、学ぶ上で最も効果的な方法の一つが、教えることである。

ある貧しい母子家庭があった。

無学な母親は、娘が学校から帰ってくると、夜、針仕事をしながら、今日学んだことを必ず聞いたという。

「お母さんは貧乏で勉強ができなかったから、学校であったことを教えてね」と。

すると、娘は母親に教えるために、必死になって勉強し、小学校を卒業する頃には、学校で一番となり、ついには最高学府まで出たという。

「人は、自らが教える時に最もよく学ぶ」

「教える人」、「語る人」、でありたい。

自らが教える時に最もよく学ぶ|人の心に灯をともす から

2019年8月22日木曜日

記事紹介|本当の豊かさ

近頃、もらう喜びは知っていても、その他の喜びをあまり味わっていない子どもが、ふえているように思えてなりません。

その他の喜びとは、与える喜び、分け合う喜び、そして自分で物事をやり遂げる喜びです。

マザー・テレサがこんな話をなさいました。

カルカッタの街に、八人の子を抱えてお腹を空かしている家族がいたので、お弁当を作ってもって行ったところ、その母親は押し戴いて喜んだ後、すぐどこかへ出て行きました。

やがて戻ってきた母親は、「実は隣の家族も、このところ食うや食わずの毎日だったので、半分あげてきました」と言ったそうです。

マザーは、この話をしてから、「貧しい人は偉大です。飢えを経験した人には、他人の苦しみもわかるのです」と言われました。

本当の豊かさとは、このように、他人に与えるものをもっている心を指すのですね。

最近、自分でやり遂げる喜びを、子どもから奪っている過保護の親もふえているようです。

それは、子どもたちを愛しているように見えて、実は彼らから、その成長に必要な自信と、自立の喜びを奪っているのです。

もらう喜びしか知らない子どもは、自分中心の世界で生きています。

どれほど多くのものをもっていても、その子の心は貧しいのです。

与える喜び、分ちあう喜び、自分で何かをやり遂げた時の喜びをも味わわせることによって、子どもの生活を本当に豊かなものにしてやりましょう。

この「喜び」の話は、子どもだけのことではない。

「やり遂げる喜び」を知らない人(大人も)は、「与える喜び」や「分け合う喜び」も分からない。

自信とは、何かをやり遂げることによって生まれるものだからだ。

やり遂げることによって、自己充足感や、自己重要感が増し、自立心がめばえる。

「やり遂げる喜び」は、リーダーや親が手助けをせず、グッと我慢をして見守ることによって生まれる。

「与える喜び、分け合う喜び、やり遂げる喜び」が分かる人でありたい。

与える喜び、分け合う喜び、やり遂げる喜び|人の心に灯をともす から

2019年8月21日水曜日

記事紹介|恩感力

努力は幸せになるための手段ではない。

努力そのものが幸せを与えてくれるのだ。

トルストイ


同様の言葉で、

「結果はコントロール出来ないが、プロセスはコントロール出来る」

というものがあります。

幸せかどうかは、今すでに自分は幸せであることに気付くかどうかの恩感力による。

今という瞬間に打ち込めるものがあることそのものが幸せなのですね。

後は取り組み姿勢をどうするかは、自分次第ということでしょう。

間に合わないことはあっても、出来ないことはないのですから。

幸せ|今日の言葉 から

2019年8月20日火曜日

記事紹介|組織変革のヒント

ベンチャー企業に派遣された経産省職員へのインタビュー記事。いろいろと考えさせられます。ポイントを勝手に整理します。


  • メルカリが意思決定の速い、横の連携もスムーズな柔らかい組織であり続けられているのは、フラットな組織構造以上に、心理的安全性をいかに担保するかに腐心していることが大きい。
  • 組織が階層構造になっているのには、間違いが起こらないようにという意味があるが、なにか新しいことをやる上ではそれでは時間がかかりすぎるし、どれだけ尖ったアイデアだったとしても、最上位にたどり着くころにはすっかり角が取れて丸くなってしまう。
  • イノベーションはいろんなものの掛け合わせから生まれるので、横の連携も不可欠。けれども、いわゆる大組織の構造は課室ごとに役割が分かれていて、なおかつメールという閉じたツールを使って仕事をしていると、隣の課の人が普段どんな会話をしていて、どういう考えを持って仕事をしているのかといったことをほとんどうかがい知ることができない。
  • お互いの人間性が分からないままだと、ちょっとしたことを聞きに行くのにも逡巡が生まれる。そうすると、「ヤッホー」みたいな感じで気軽に聞きに行けていれば起こったはずの化学反応が起こらないし、すぐに進んだ話もなかなか進まなくなってしまうことになる。
  • 新しいものを素早く生み出すためには、従来のようにトップが一人で考えていたのではダメで、集団を構成する一人ひとりが自分で考え、出てきたアイデアを組織としてまとめる必要がある。そのためには上司と部下、あるいは横にいる仲間同士が普段から「あくびをしながら言える関係」を築けていることがものすごく重要になる。
  • 新しいことをやるにはトップダウンだけではダメで、ボトムアップでいろんな人がアイデアを出す必要がある。そして、ボトムアップでアイデアが出てくるためには心理的安全性が重要である。なによりもまず、こうした意識が組織内で十分に醸成されている必要がある。テクニカルなことはそのあと。
  • 「私はまだ係員だから」とか、「上司がなにを考えているか分からないから」とか、やらない理由はいくらでも探せる。でも、実際には自分がやるかやらないかしかない。やる覚悟があるかないか。それだけ。
  • もしかしたらこれは経産省に限った話ではなくて、他の企業でも同じなのかもしれない。だから、大企業の中にいて「この組織は変わらない」と諦めている人や、逆に「自分は組織に染まりすぎてしまった」と感じている人も、自分でそうやってブレーキを踏むことをしないで、やればいい。その結果失敗したとしてもそれ自体が糧になる。それだけで一歩進んでいるわけだから。

経産官僚の女性がメルカリで8カ月働いてみたら、見えたこと|BUSINESS INSIDER JAPAN から

記事紹介|世界を学ぶ

『今後100年間で人口が3分の1になる日本は変化を拒み続けていると、いずれガラパゴス化を越えて、国ごと時間が止まってしまったような国であるキューバ化するだろうと思います。

おじいちゃんおばあちゃんがぼろっちい車に乗って、ニコニコと「これトヨタ。昔凄かったんだよ」と日向ぼっこしながら思い出話をする国になってしまうだろうと予想してしまいます。

そうさせないためには、世界の動きを読める力を教育によって若い人たちに与えることしか方法がありません』

この失われた30年間の間に、日本を置いて、世界は凄まじい勢いで進化してしまった。

「この経済成長の停滞は、実は教育システムの硬直化と完全にリンクしている」と大谷氏は言う。

同時にそれは、子どもたちの親の世代や教師の現状認識の甘さにある。

今、世界がどれだけ変わっているかという情報を得ることをせず、その勉強してこなかったツケが出ていると言ってよい。

親や教師が常に自分自身を最新版にアップデートしていかなければ、子どもには最新情報を伝えることはできない。

だからこそ、親や教師、あるいは経営者という、次の新しい時代を切り拓く若者を育てるリーダーたちは、常に最新の情報を取り続け、新しい世界を見続けることが必要だ。

「世界で学べ」

変化することを恐れず、常に最新の情報や知識を世界から学ぶ努力を重ねたい。

世界で学べ|人の心に灯をともす から

2019年8月19日月曜日

記事紹介|戦争史実・請求権補償白書

日韓対立の真相!元徴用工問題とは!?|WBS(ワールドビジネスサテライト)


特別企画vs日韓対立の真相です。今日は、日本と韓国の間で繰り広げられた知られざる経済の歴史を、独自に入手した重要資料と証言で紐解きます。

今、輸出管理の厳格化をめぐって日本と韓国の対立が続いていますが、そもそも日韓関係が悪化するきっかけとなったのがいわゆる元徴用工の問題です。


1965年、日韓基本条約が締結され国交が正常化しました。この基本条約とともに結ばれたのが日韓請求権協定。

当時の韓国の国家予算を上回る5億ドル。現在の価値にするとおよそ7500億円を日本が経済協力金として支払うというものです。

その5億ドルの使い道が明記された請求権資金白書です。

中を開くと、「日本から無償3億ドル、有償2億ドル合わせて5億ドルの請求権資金を1966年から1975年まで10年間にわたって受け入れることになりました。」

農業や水産業、さらに原子力研究などの科学技術に至るまで、日本の資金が様々な分野に使われたことがわかります。

中でも多く使われたのが、ソウル市内を流れるハンガンに架かる全長およそ1kmのハンガン鉄橋。ここには89万ドルが投じられました。

この他にもソウルと第2の都市、釜山を結ぶキョンブ高速道路の建設にはおよそ690万ドルが注ぎ込まれました。

白書には5億ドルのうち2割近くがインフラ整備に使われたと書かれています。この日本からの資金により韓国は急速な経済発展を遂げました。

これを韓国ではハンガンの奇跡と呼びます。こうした日本の資金を使った経済発展について国民は知っているのでしょうか。


日本から韓国への経済協力金。インフラよりも多くの金が投じられたのが、浦項(ポハン)総合製鉄所の建設。現在の韓国の製鉄大手ポスコの建設です。

ポスコは売上高6.4兆円。世界第5位の粗鋼生産を誇る韓国を代表する企業です。その創設には日本からの5億ドルのうち、実に24%を占める1億1948万ドルが投じられていました。

1970年、韓国南東の町、浦項で始まった製鉄所建設。韓国は重工業化を掲げ悲願の製鉄所建設に邁進しました。そこに投じられた日本の経済協力金。建設を支えたのは金だけではありませんでした。

実は建設のために多くの日本の技術者たちが技術指導にやってきていたのです。請求権協定で得た資金を経済成長のために使うと決断した朴正煕元大統領。朴槿恵前大統領の父です。朴大統領等は日本の有力者に製鉄所建設への協力を要請。金だけではなく技術支援を取り付けたのです。

高炉を作るには高い技術力が必要でした。それを持つ当時の新日本製鉄などの日本企業グループが多くの技術者を派遣し、韓国人を指導しました。

当時いた人達は「韓国経済にプラスになる」と思ってやってなかったですよね。やっぱり自分の仕事だと思ってた。そのためには韓国の技術者と「あなた一生懸命やるね、じゃぁ教えてやるから俺についてこい」と

小さなミスが見つかれば一から壊してやり直す。最高の製鉄所を作るためお互い妥協はしなかったといいます。

「1チームですよ。喧嘩をしてやるんじゃなくて、どこ問題があるんだったら手伝ってあげるよって言うな気持ちもどっかに持ちながらやってた。今の日本と韓国の間とは全然違いますよね」

1973年、日本の資金と技術を基礎にして、韓国の浦項製鉄所1号高炉は完成しました。

朴正煕元大統領 「過去、われわれの夢だと思っていたのが夢ではなく現実として、われわれの目で目撃できました」 

請求権資金白書ではこう評価しています。

浦項製鉄の建設は民族的な血で獲得した、対日請求権資金で成し遂げた代表的な事業と見ることができる。成果を誇る一方である重要なことが記されていました。

民間人への補償について、この資金で国民所得を向上させることが何より至急な課題だったため、民間人に対する補償問題を延期した。

白書によれば75年までに個人への補償に当てたのは五億ドルのうちわずか2000万ドル。
元徴用工への補償は十分とは言えなかったのです。

釜山市、元徴用工のシン・ヨンヒョンさん94歳です。徴用工として召集され日本の下関に渡り炭鉱などで働かされたという。

「朴正煕元大統領が韓国のために資金を使った。私たち被害者はもらっていない。朴正煕らが金をもらってきて道路やポスコを作ったんだ。」

韓国政府には請求権資金を本来の補償に充てて欲しいと主張しています。


本来は個人にわたるべきお金が国家の方に渡ってしまい、そこから産業の発展に使われたと、当然ポスコもそこで成長していたわけですからポスコは今、贖罪の意識をもって補償に取り組もうとする気持ちはよく分かる。

ですけども、じゃあ一緒にやりましょうと呼びかける相手が日本企業であり日本政府なのか?と。

やっぱりまず呼びかける相手ってのは韓国政府じゃないかなと思います。

その主張として、1965年の請求権協定というのは説明しましたけども、もう一つ説明しておかなければいけないと思うんですよね。

2005年の廬武鉉政権の見解というのがありまして、戦争の被害者の救済を求める共同委員会があり、ここで改めて徴用工に関しては解決済みである。そして責任を韓国政府が持つべきであると。

そこ再確認したんですけども、その時に実はこの共同委員会の委員の一人がムンジェイン氏、つまり当時の盧武鉉大統領の側近中の側近だった訳ですね。

その人が今、大統領になってこれを蒸し返すと言うのはおかしいと思うんですね。昨日のスピーチを見ても徴用工については一切言及がなかったんですけども、この件については外交文書から明らかにボールは韓国政府側にあるわけですから、韓国政府が何らかの提案をしないと日本政府としても動きようがない状況。

経済界は動きたい。このお金で収まるもの収めたいって気持ちがある人も多いんですけども、やはり韓国政府が主語にならないと収まらないと思いますね。

WBS 2019/8/16(金)|WBSまとめ から

記事紹介|そんな自分で”言い訳?”

何かをしたい者は手段を見つけ、

何もしたくない者は言い訳を見つける。

アラビアのことわざ


自分の口から出てくる言葉の種類はどちらでしょうか?

手段が出てくるのか、言い訳が出てくるのか。

言い訳が出ることが多いときには、そんな自分にこう言い聞かせると良いようです。

「そんな自分でいいわけ?」

見つける|今日の言葉 から

2019年8月18日日曜日

記事紹介|戦争史実・性接待

敗戦直後の旧満州(中国東北部)で、岐阜県の黒川村(現白川町)周辺から渡った黒川開拓団の女性が、団幹部の指示でソ連兵に性的な「接待」をさせられた。今月一日には地元から遺族会が中国の同団跡地へ墓参。中傷や差別を恐れ、口を閉ざしてきた女性や遺族らは近年「悲劇を語り継がねば」と、行動を続けている。

「(夫がいる)奥さんには頼めん…。あんたら娘だけ、犠牲になってくれんかと言われた。団の幹部にですよ」

当時20歳だった佐藤ハルエさん(94)が、自身の体験を公に語り始めたのは2013年。長野県阿智村にできた満蒙(まんもう)開拓平和記念館で講演した。接待をさせられた女性15人のうち4人が性病などで現地で亡くなっている。今、存命者の中で、佐藤さんだけが実名で取材などに応じる。「満州で一度死んだ。どう思われたっていい」と前を向く。

吉林省陶頼昭(とうらいしょう)に入植した黒川開拓団は1945年8月の敗戦で現地住民らからの略奪に遭った。団の男たちは侵攻してきたソ連軍に警護を頼み、代償に未婚の若い女性を差し出した。

「怖くても嫌とは言えなかった。女は命を守るために性を提供することもある。そう教えられていた」。性の接待は2カ月ほど続いたという。

元団員で、敗戦時は10歳だった安江菊美さん(84)は、佐藤さんと同時期に証言し始めた女性から、亡くなる前に、語り部になるよう託された。現地で接待をする女性たちのために風呂たきなどを手伝っていた。性病予防と称し、医務室で女性が薬品をかけられていた様子など、見たままを伝える。

7月2日には岐阜大から近現代史の研修に訪れた学生12人に、町内に立つ「乙女の碑文」の前で説明。高校の社会科教諭を目指す井戸文哉さん(20)は「重くデリケートな問題だが、自分たちが伝えていかないといけない。使命感を覚えた」と神妙に話した。

白川町でこうした動きを始めたのは、一一年に4代目の遺族会長となった藤井宏之さん(67)。父は開拓団の団員だった。町では満州で亡くなった4人を悼むため、82年に会が「乙女の碑」を建立したが説明書きはなかった。語ることがタブー視されていたからだ。

「罪深い歴史を後世に伝える責任を感じていた」と昨年11月、会により性被害の実態を詳細に記した「乙女の碑文」を建てた。15人もの関係者から意見を聞き、4千文字を費やして何があったのかを明らかにした。

遺族会は今月1日、2年ぶりに墓参りのため旧満州の跡地を訪れた。藤井さんは「子どもたちに二度とつらい思いをさせたくない」と、暗い歴史と向き合う決意を見せている。

<満蒙開拓団>
国策として旧満州と内モンゴルに1932年から終戦までに約27万人が入植した。疲弊した農村人口を減らし、北方警備の盾とする目的もあったとされる。45年8月9日に始まったソ連軍の侵攻、敗戦による混乱の中で約8万人が死亡。多くの中国残留孤児を生んだ。

<つなぐ 戦後74年>性接待 満州で1度死んだ 女性、遺族ら 歴史伝える決意|東京新聞 から


<関連動画>




記事紹介|代わってもらうことができない自分の人生

100人いれば100人ともが、悲惨だ、不運だと思えるようなことに対しても、「そのお陰で今の自分がある、ありがたい」とお陰さまと感謝の気持ちで生きている人は、とてつもなく徳を積んでいる。

生まれながらにして豊かな人は、その幸せに気づかない人が多い。

だから、少しでもそれが不足すると、不平不満や愚痴、泣き言が出てしまう。

今ある幸せに感謝できるのか、不足しているものをあげつらい文句を言うのか。

「変えてゆく主人公は私」と思い定め、人生を、お陰さまと感謝の気持ちで生きてゆきたい。

変えてゆく主人公は私|人の心に灯をともす から

2019年8月17日土曜日

記事紹介|戦争史実・天皇の苦悩

このお盆休みは、酷暑や台風直撃の影響もあって、家にこもって時間を過ごすことが多かった。そして、例年のことながら、多くの「戦争」報道に触れた。

戦後74年が経つ今でも、戦争に関する新たな史実を知ることが多い。まだまだ知らない事実がありそうだ。


昭和天皇 語れなかった戦争の悔恨

NHKは初代宮内庁長官が、5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を入手しました。その記述から、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語り、終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したものの、当時の吉田茂総理大臣の反対でその一節が削られていたことがわかりました。分析にあたった専門家は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と話しています。

繰り返し語る後悔の言葉

「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。

田島長官は、このうち長官就任の翌年から5年近く、昭和天皇との具体的なやり取りやそのときの様子などを手帳やノート合わせて18冊に詳細に書き留めていて、NHKは遺族から提供を受けて近現代史の複数の専門家と分析しました。

その記述から昭和天皇が田島長官を相手に敗戦に至った道のりを何度も振り返り、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」などと後悔の言葉を繰り返し語っていたことがわかりました。

強くこだわった「反省」

さらに、昭和天皇はサンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、日本の独立回復を祝う式典で、おことばを述べますが、この中で、戦争への深い悔恨と、二度と繰り返さないための反省の気持ちを国民の前で表明したいと、強く希望していたことがわかりました。

「拝謁記」には1年余りにおよぶ検討の過程が克明に記されていて、昭和天皇は、(昭和27年1月11日)「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と田島長官に語り、(昭和27年2月20日)「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めて、「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しい」などと述べ、反省の言葉に強くこだわり続けました。

削除された戦争への悔恨

当時の日本は、復興が進む中で、昭和天皇の退位問題もくすぶっていました。

田島長官から意見を求められた吉田総理大臣が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などと反対し、昭和天皇が戦争への悔恨を込めた一節がすべて削除されたことがわかりました。

昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べますが、最後は憲法で定められた「象徴」として総理大臣の意見に従いました。

吉田総理大臣が削除を求めた一節は、「国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘(かか)わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります」という部分です。このうち、「勢の赴くところ」以下は、昭和天皇が国民に伝えたいと強く望んだ戦争への深い悔恨を表した部分でした。

専門家「戦後も戦前・戦中を生きていたのではないか」

「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と指摘したうえで、「戦争への後悔や反省の記述が多く、昭和天皇は戦後も戦前・戦中を生きていたのではないか。戦争の問題にけりをつけたかったが、その後も苦渋の思いを引きずることになった。『拝謁記』は昭和の戦争を忘れてはいけないと語りかけている」と話しています。

昭和天皇「拝謁記」 戦争への悔恨|NHK NEWS WEB から

生産性の向上に向けて

業務の効率化。古くて新しい問題。働き方改革の風に乗って進めなくてはならないこと。

この記事にある3つの試み。他人事と思わずに、大学でも積極的に取り入れてはどうだろうか。

  • 必要性の乏しくなった既存業務を廃止・縮減した幹部を積極的に昇進させる人事ルールを策定
  • 業務の見直しを幹部の職責として明確化して人事評価の重要指標に掲示
  • ITを活用した業務効率化策など、業務見直しに取り組む際の指針を策定

「業務抜本見直し推進チーム」内閣官房に 各府省幹部昇進の人事ルール策定へ|毎日新聞

2019年8月16日金曜日

根強く残る昭和の発想

幾分前にあったこと(とある大学職員から聞いた話ですが)。

学生のキャリア支援の一環として、ある大学教員から、学生ベンチャーによるキャリア支援イベントの紹介があった。

多様な職業選択や働き方が求められている時代、学生たちが、OBの先輩たちとのコミュニケーションを通じ、様々な考え方を耳にし、自らの将来を考えるとてもよい機会になるのではないかと考え、早速、キャリア支援の担当責任者(教員)に開催に向けた検討をお願いした。

しかし、結果は「本企画の受入は適当ではない」との回答。つまり「NO」である。理由は次のとおり。

  • 学生が、自由な発想のもと、起業することは活発な活動で結構なこと。
  • しかし、本学の学生のキャリア形成について、それを支援する活動が企業による営利活動になじむかどうかは判断の分かれるところ。
  • 本学のOB、OGは多数おり、本学関係部署からの依頼により、適宜説明が行われている。
  • キャリア形成に関する内容は、本学が主体的に実施すべきことであり、かかる企業に一任、あるいは一部一任を認めるべき内容ではない。
  • 認めた場合、支援のつもりでなされた行為や言動について、当事者はどう責任を負うのか。
  • また、LINE、SNS等を多用し「感覚」や「気軽」さで、本学学生に対処されてはたまったものではない。これらの相互のやり取りは便利さがある反面、講演、セミナーなどでの公開されたやり取りと違って、慎重な判断が求められる。
  • キャリア支援に関しては本学の主体性が損なわれることはあってはならないと確信している。


キャリア支援の担当責任者という立場上、当該教員の気持ちはわからなくはない。

しかし、今や大学ではキャリア支援の在り方が大きく変化している中で、また、学生自身もweb等を通じて様々な情報を自由に入手できる時代にあって、旧来からの教員主導のキャリア支援の考え方をかたくなに維持し続けていることが、本当に学生達のためになっているのか、甚だ疑問。

また、何事も慎重かつ保守的に物事をとらえる風土(とりわけ「ベンチャー」に対する無理解と軽視の感覚)が未だに根強く存在していることにも大きな違和感を覚えた。

このような新たな発想によるイベントを教員主導で実施しているところも少なくないと聞く。今回紹介したような大学は、all Japanで見たときに、何事についても後れをとっているのではないだろうか。

担当責任者である教員の判断なので、あきらめざるを得ないだろうが、当該大学職員は、自分の大学の在り様に、さぞや落胆し忸怩たる思いをしていることだろう。

2019年8月15日木曜日

記事紹介|8.15、日本人が正気に戻った日

8月は「戦争」がメディアにあふれる季節である。いわゆる「8月ジャーナリズム」だが、あの惨禍と過ちを記憶する記号として、やはり「8.15」の意味は大きい。令和の時代にも、決してゆるがせにはできぬ日付だ。

もっとも、そこには落とし穴もある。この日付だけで戦争を振り返ると、軍部や政治家が暴走して続けた戦争に、多くの日本人が「巻き込まれた」という被害者イメージが強まるのである。

前線での玉砕と餓死。本土空襲。沖縄戦。原爆投下。人々は戦争に疲れ果て、食糧を求め、死におびえた……。太平洋戦争末期は、たしかに国民は過酷な運命に従うほかなかっただろう。

しかし、前史を忘れてはいけない。別ののぞき窓から戦争を眺めるとき、相貌は大きく異なるのだ。たとえば、37年に日中戦争が起きた当時はどうだっただろう。

北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突したのは7月7日。戦火は上海にも移り、本格的な戦争が始まった。政府は8月15日に「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」声明を出す。暴虐な中国を懲らしめるという意味だ。のちの敗戦の8年前の「8.15」である。

このときの世論の沸騰ぶりはただならぬものだった。

「もはや躊躇(ちゅうちょ)する猶予なしに徹底的にガンとやってもらうことです」「徹底的に支那軍を膺懲の要あり」「この際、行くところまで行ってもらわぬと困る」「皇軍の精鋭よ、徹底的に東亜の禍根を一掃せられよ」

文芸春秋社が発行していた雑誌「話」の同年10月号の記事「日支事変に際し政府に望む」に並んだ読者の声である。「膺懲」という言葉が世に躍り、さかんに国民大会が開かれ、戦勝の報が届くたびに提灯行列が街を埋めた。

文化人も積極的に戦争に加わっている。例を挙げれば林芙美子の従軍記「戦線」は、歌い上げるような戦争礼賛ぶりだ。かつての「放浪記」の作家は時局に大いに感じ入って従軍し、中国の国民政府が逃れていた新首都、漢口への「一番乗り」をやってのけた。

「戦線は美しい」と芙美子は称揚する。敵兵を「堂々たる一刀のもとに」斬り殺す場面にも「こんなことは少しも残酷なことだとは思いません」とつづる。従軍は朝日新聞社が全面的にバックアップ、芙美子は帰国するや講演に飛び回った。大ベストセラーになった「戦線」は戦後、封印された。

庶民も文化人も、熱に浮かされていたといえばそれまでだが、なんと熱狂しやすい国民性だろう。もちろん、それをあおったメディアの責任もきわめて大きい。前線と銃後それぞれの、おびただしい数の「美談」が紹介され、人々は物語に酔ったのである。

この当時は戦時体制下とはいえ、物資はまだ十分に出回り、大衆娯楽も息づいていた。

「街には『露営の歌』だの『上海だより』だの軍歌調の歌謡がながれていたが、同時に『忘れちゃイヤよ』だの、『とんがらかっちゃダメよ』だのという歌も決してすたれたわけではなかった」。安岡章太郎は「僕の昭和史」でこう回想している。

実際に、漢口が陥落した38年秋の雑誌をひもといてみても、消費を楽しむムードは消えていない。旅行雑誌「旅」の同年11月号には「旅は満州へ」「台湾へ」と読者をいざなう広告が載り、洋酒「ジョニー・オーカー」や「さくらフヰルム」が宣伝に努めている。

こんな日常のなかで、戦争は泥沼化していった。戦争とはある日突然始まるのではなく、日常と重なりつつ進んでいくものだということがわかる。行きづまりを打開しようと日本は対米英戦に突入し、またも世間は大いに留飲を下げるのである。

「この日世界の歴史あらたまる。/アングロサクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる」。開戦を知り、高村光太郎が残した詩だ。ほとんどの国民が大本営発表に浮き立ち、勝った勝ったと興奮した。

そして、やがて迎えた「8.15」。こちらののぞき窓から眺める戦争は、ただただ悲しい。「暴支膺懲」の熱狂から8年、無一物となった日本人はようやく正気に戻るのである。熱狂の代償の大きさを思わざるを得ない。

当時も、冷静な人はいた。日中戦争勃発時の外務省東亜局長、石射猪太郎は「暴支膺懲」声明について、「独りよがりの声明。日本人以外には誰も尤(もっと)もと云ふものはあるまい」と日記に書きとめた。近衛文麿首相を指していわく「彼は日本をどこへ持つて行くと云ふのか。アキレ果てた非常時首相だ。彼はダメダ」。

熱狂と歓呼は、しかし、そういう思いを押し流していった。さまざまなのぞき窓から歴史を眺めることで、教訓を深く胸に刻まなければならない。

研究助成金と事務職員のスキル

古くからおつきあいのある親しい先輩(研究助成団体関係者)からの「厳しい」お便りをご紹介します。


大学等が交付金を減らされて危機的状況だとよく聞きます。
また、私どもの助成対象の先生方からも、当財団に対して感謝の言葉をよく聞きます。
〇〇の研究なんて、科研費でも余り認められない分野になってしまい、研究者は当財団だけが救いの主みたいなものです。

ところが、大学や事務局は、学長・担当理事・担当部長は国家プロジェクト、科研費は担当部長・課長、係長クラスが対応。助成団体助成金は係員や新米係員が担当。

お陰様で会計に無知な私が、国立大学の係員に丁寧に経理を教えてあげることに。
最初は、上司の係長は何しとるんや!って怒っていたけど、最近は若人に直接教えてあげることが面白くなってきました。
しかし、大学財務が危機的状況って叫んでいても、我々助成団体を事務が軽く見ている状況を鑑みるに、そんなに危機的状況じゃないんじゃないの?と思ってしまいます。

新人係員相手で困ってしまう例は枚挙にいとまがありません。

我々助成団体の助成金は大学からの申し入れで、寄付金扱いにしています。
助成金を交付するときは、助成団体から「寄付金申込書」を大学に提出します。
その後、研究者と覚書を交わします。

直近の例では〇〇大学の新人君が「この覚書を“委託契約書”に書き換えて下さい」との突然のメール。この新人君は上司からの教育もされないまま、とりあえず助成金の担当をやらされたみたいで、委託契約や寄付金の制度も全く知らないまま、当財団に“委託契約”にしてくれと言ってきた。

某高専の同じく新人係員からは「助成金は機構本部にピンハネされるので、名称を補助金にして下さい」との突然のメール。勿論この新人君は助成金のことも、補助金のことも知らない。

〇〇大学の新人さん(女性)から、寄付金申込書に「いざとなったら、この寄付金は学長の好きなように使ってよい」を追加してくれと。
私の方で調べたら、確かに寄付金規定にその様な文言があったけど、はいそうですか、とは立場上言えないので「いざとなったら」とはどの様な時ですか?と聞いたところ、その新人さんは2日ぐらい考えて「大学が財政的に潰れる場合です」との答え!
〇〇大学がまるで直ぐにでも潰れることを想定した寄付金申込書を助成団体に書かす?

問題はこれらの事は新人君(さん)が真摯に考えてのことみたいに見えるけど、係長以上はそんな事(助成団体)は新人に任せて、自分達は高等な?単価が高い? 国家プロジェクトや科研費をやる。係員の相談にも乗らないみたい。
それで大学の危機的状況って言われても、本当?
と思っている今日この頃てす。


このお便りを受け、大学等に身を置いてきた私にとって、いかに人材育成をおろそかにしてきたか大いに反省させられたし、「大学等の常識は社会の非常識」という言葉の重みを改めて痛感した。

研究助成団体からの助成金は、大学等の研究者にとっては、今も昔も変わらず大変ありがたい研究資源であることは言うまでもない。

お金の出所(国、民間)によって対応者のランクが異なることは初めて聞いたが、大学等が組織的として大型の資金獲得に血眼になっていること、そのためには学長等をトップとする組織の力をもって対応せざるを得なくなっていることは事実だろう。

ただしかし、現場の教員の中には、小口でもいいから自分の研究を自由に進めることのできる使い勝手のいい資金を欲している者がいることも事実。

基礎研究でノーベル賞を獲った学者などは、そのような資金をもっと増やすべきと指摘している。とりわけ若手研究者にとっては、スタートアップ資金として、各種研究助成金が価値ある資金になっていることは疑いの余地はない。

さて、事務職員のスキルの問題。現場のことをよく把握しているわけではないが、指摘のような未熟な職員がおり、学内外との接点において様々なトラブルが生じていることは承知している。

自分が大学職員として育ててもらった時代との比較は難しい面があるが、今は、上司や先輩によるOJTがほとんど機能しておらず、部下や後輩をほったらかし。SD等の机上論では到底学びえないノウハウや知識や経験を若い職員に伝承していく機能が破綻しているように思える。

事務職員の業務がますます高度化し、専門職員養成の必要性が求められ続けてきているのに、相変わらず、2~3年でころころと様々な業務を担当するゼネラリスト養成しか行われてきていないことの限界が様々なミスやトラブルを誘引していると思う。

その結果、知識や経験といった武器を持たされない若い職員が、丸腰で企業等社会の皆様との接点にさらされている状況。

昔からの慣例やローカルルールにしがみつき、改革や変化に対して拒否反応を示す役所的、役人的組織風土が蔓延している大学等では、少数の改革志向者がいとも簡単に潰されているのが現実。

少しづつ、根気に大学等と社会との常識の乖離の壁を低くしていかなければならないと日々感じているし、それなりに努力はしているのだが...。

2019年8月13日火曜日

大学教職員の働き方

高校教育を仕事の問題として捉えたとき、高校は、そしてそこに働く教職員は、今後どのように考え行動していくべきなのか、を論じた記事。

「高校」を「大学」に置き替えて読んでみても、全く違和感がないのは私だけでしょうか。
高校は、『社会と接続した』 、あるいは『社会という市場が必要だと思える』人材を育て続けることができているか。
今後の「高校」を構想していく上で、もっとも重要なことは、将来の「仕事」の世界がどうなっているかを見定めること。
高校現場に改めて必要となってくることは、「他者からの評価、外部からの評価に向き合うこと」。その時に、高校現場が外に閉ざされていては、社会という市場や外部環境の変化に気付くことはできない。
「自身の育てた生徒たちが社会でどう活躍しているか」、「市場で能力を発揮できているか」、こういった教育成果を把握していくことが求められる。そして、このような教育成果に対して、「外部はどう思うか?」、「他者は何を期待しているのか?」を理解することが必要。
高校の教職員の中には、授業を見せたがらないし、他の教職員との交流を避けたがる方もいる。しかし、個々の教職員が、開かれ、評価を受け入れられるようになり、評価は成長の鏡と捉えられるようになれば、一気に社会、市場を近いものとして、個々の教職員が感じるようになる。
これまで、教育業界の皆さんは「同僚性」という魔法の言葉のもと、「相互不干渉」に陥っていなかったか。しかし、「チーム学校」を謳い、今一度学校という「組織」になろうと目指すのであれば、相互不干渉ではなく、きちんと向き合うものには向き合い、ぶつかるときにはぶつかる組織になっていくことを目指すことが必要ではないか。(引用)
高校という「チーム」になる。~他人に薦められる、持続可能な「チームづくり」のヒントを得る~|【みらいの職員室】学び続ける高校プラットフォーム

2019年8月12日月曜日

不安なIT教育の行く末

AIを国の重要政策と謳い上げている割には、現実には教育者がいない、満足のいく教育が行われていないというレポート。さて、大学にできることは何か。
国が先走り気味で開始した情報科の必修化とその指導者育成におけるビジョンの不透明さ、設備投資予算の絶対的な不足、たった1人の専任者も置けない中途半端な授業数など、そもそもの制度設計に大きな原因がある。
21世紀が始まったその昔、「情報立国」やら「e-Japan構想」などと美辞麗句を飾り立てていた政治家や官僚はこの現実をどう受け止めているのだろう。(引用)
教育IT“本格始動”--30代以上がほとんど知らない「高校の情報科」の悲惨な現実|ZDNet Japan

2019年8月11日日曜日

文科省へのつぶやき

残念なことですが、次のような声を聞く機会が増えたように思います。

1 ある国立大学の学長から聞いた話

文科省からの出向者(部課長)はもう要らない。

出向してきた部課長は2~3年の腰かけ。人事権を文科省が握っているため、文科省の方を向いた(意向に沿った)仕事の仕方しかしない。

大学のため心底汗を流しているようには思いえないし、中には地方観光気分で着任してくる者もいる。

だから、若い頃から顔なじみで信頼できる大学プロパー職員を内部登用(昇任)したほうが有益。

2 ある国立大学の事務局長(元文科省職員)から聞いた話

文科省高等教育局の質の低下が著しい。新たな競争的資金の公募要領さえ満足に作れない。

なぜなら、大学現場のことを知らないから。

大学からヒアリングしたり、自ら大学現場に足を運んだりして、教職員や学生から直接話を聞く。その上で政策や予算を立案することを怠っている。

役所の机上論だけでは、大学政策は実を結ばない。このままでは到底財務省には勝てっこない。すでに大学からの信頼も失いつつある。

2019年8月10日土曜日

本当に転勤は必要か

介護、子育てなどやむを得ない理由であっても、転勤を拒む者は昇任させない・遅らせるといったこれまでの慣行や制度はもう無くすべきべきだと思います。

特に役人の世界は。まずは国家公務員から。隗より始めよです。

転勤制度をもっと柔軟に 論説委員 辻本 浩子|日本経済新聞

2019年8月9日金曜日

英語入試改革の問題点

最近、2021年度から始まる(2020年度に実施される)新たな大学入試で導入される「英語民間試験」の問題点を指摘する記事や声に接することが多くなっています。

受験生はもとより、入試を実施する各大学においても混乱しているのではないでしょうか。

この動画は、誰がどういう目的で作製されたのかは不明ですが(導入に異を唱える立場であることはわかる)、このたびの英語入試改革の複雑な問題点を理解するにはとてもわかりやすくできているのではないかと思います。


2019年8月8日木曜日

諸悪の根源は文科省です

文脈から筑波大学の学生だと思われますが、これは多くの大学に共通する話だと思います。

現役の学生がここまで赤裸々に訴えていることをどのように捉えるかは、受け手の立場や考えによって異なります。

しかし、少なくとも、大学の執行部、教職員、そして文科省や財務省は、これまでの政策・制度・慣行等に大きな問題があることを謙虚に受け止める必要があるのではないでしょうか。

そして、大学人は「大学は学生のためにある」ことを、あらゆる価値判断の基準に据え、「自分が大学に何ができるか」を常に自問していく姿勢が求められていると思います。

以下気になったところを抜粋引用します。
国立大学である以上、大学側は文科省に強く反発し、独自路線を敷けないのが現状なのかもしれません。
文科省→大学→学部への上意下達。しわ寄せが来るのは末端にいる、一人一人の教員や学生です。
文科省から怒られないために、大学の持ち味である専門性がどんどん崩落していく。
外面をとりつくろうことによって中身がますます形骸化するいい例です。そのくせ「大学ランキング」などという外からの評価を気にして、「成果を上げよ」と言うのだからお笑い種です。
日本において学問や研究や教育は、全般がどんどん窮地に立たされているように感じます。
世間において大学は「就職のための踏み台」程度に扱われているようです。ただでさえ4年生の大詰めの時期に、就活に時間を割かれる現状。就活はさらに長期化するとの見込みもあります。
「マークシートでは暗記力しか測れない」とセンター試験を廃止。大学入試改革を謳いながら、その実は民間企業との癒着。
「同世代は働いている人が大多数」と、少数派だからと授業料免除の対象外となる大学院生。「少数派だから」という理由が理由として成り立つことは、少数派というだけで排除されうるという危険を助長しはしませんか。
小学生の早い時期から導入されようとしている「キャリア教育」。
即効性ばかりが重視され、「仕事(ビジネス)や実生活に役に立つ学問」以外を「無駄」と排除しようとする風潮。どんどん削られていく予算。
労働がなければ社会は成り立ちません。それは事実です。けれど、何もかも「働くこと」だけに帰結するのは、もうやめにしませんか。人生の価値は、人間の価値は、労働だけですか。
大学、ひいては文科省に振り回された一学生の嘆きでした。初めに申し上げた通り、国立大学はお国から予算を頂いている以上「シンプルに予算が足りない」「国の犬にならざるを得ない」といった側面もあるように感じます。文科省サマに逆らえない以上、どんな無茶ぶりにも尻尾を振って応えているのが弊大学の現状です。
文句しか言わない学生が悪い? つっぱねられない教員が悪い? 無茶ぶりを横流しする大学が悪い?
いいえ、悪いのはこの上意下達的なシステムです。
諸悪の根源は文科省です。
文科省サマに逆らえない>< ある国立大学の実情|ゆきこ

2019年8月7日水曜日

大学を牽引するリーダーの資質・能力

国立大学法人岐阜大学と国立大学法人名古屋大学を統合して、令和2年(2020年)4月1日に設置される「国立大学法人東海国立大学機構」の初代機構長となるべき者の選考基準(資質、能力)が公表されています。この要件全てを完全に満たす方はそうそうおられないとは思いますが。

今後どのような動きになっていくか注目です。それにしても、統合業務に関わっている教職員の皆さんは大変なご苦労をされているんでしょうね。お疲れさまです。

  1. 人格が高潔で学識が優れ、大学の教育、研究等について高い見識があること。
  2. 急速に変化する社会や時代の動向を的確に捉え、大学の将来像を展望し、方向性を定め、関係者を導いていくことができる先見性とリーダーシップを備えた者であること。
  3. 迅速な意思決定のもと、適切な人材活用などによる効果的で機動的な組織運営及び安定的な財政基盤の確立と最適な資源配分を実現できる経営マネジメント能力を有する者であること。
  4. 国際性と俯瞰力、創造力を兼ね備え、高度なコミュニケーション力により信頼関係を築き、学内外からの幅広い信望を得ることができる者であること。

国立大学法人東海国立大学機構の初代機構長となるべき者の選考基準|名古屋大学

2019年8月6日火曜日

三流官庁

文科省に対し、マネジメントや政策の妥当性について反省・再考を促す手厳しい記事。共感できるところがあります。以下少し抜粋します。

マネジメント改革に加えて、過去の政策・施策に関する反省こそ、今、取り組むべき最も重要な課題である。当然と考えられてきた政策・施策を含めて、一切の棚卸作業を進めるべきである。文部科学省は、世界トップ100に10大学を入れるといった実現の目途がない目標を無責任に掲げてきた。あるいは、株式会社立教育機関の認可など結果責任の持てない規制緩和を実行してきた。今また、国立大学法人への運営費交付金の流動化(評価に基づく配分)が始まっている。新たな給付型奨学金を含む修学支援システムも、制度の運用の公正性、施策としての費用対効果に大きな疑問がある中で、準備が進んでいる。大学入試改革は、制度設計の当初から迷走を続けており、国民からは改革の理念や成果が全く見えなくなっている。他方で、社会教育など、時代に即した展開を停止しているとしか思えない分野も無為無策に放置されている。渋々やらされたことも多かろうが、やっているのは文部科学省自身であり、決して責任は免れない。過去の失敗への反省なくして、未来の成功は導けない。
行政を担う政策マンとしての専門性を磨いてこなかったために、社会の変化に対応したリーダーシップを施策の形で取れないままでは、三流官庁そのものである。先輩たちからの聞き取りを含めて、政策・施策の棚卸作業を、有望な若手に徹底的にやらせて、鍛錬・勉強の機会にすればよい。危機感だけあって、政策・施策で何をどうしたらよいか分からないのでは、組織の弱体化を止められない。幹部みなが賛成する事業しかやらない企業は、右肩上がりにはならない。文部科学省は、すでに最安値圏にある。過去の反省を糧に、力量と志のある人間には、失敗を恐れず新規のテーマに挑戦させるのが、唯一の再生への道になるだろう。これまでの典型であった消極的・内向的な人間は、幹部であろうとも、もはや要らない。官房付けにでもして、若手に席を譲ってもらえばよい。そんな役所になれば、リーダーシップのある志の高い人間が集まってくる。これまでのように、ひたすら行儀よくしているだけでは、何も変わらない、変えられない。10年後に再び「解剖」があれば、相変わらずの三流官庁だと言われるだけだろう。尤も、文部科学省が存在していればの話である。
文部科学省の解剖で何が変わるのか?|NUPSパンダのブログ

2019年8月5日月曜日

その“あたりまえ”、いまどき必要ですか?

働き方改革を追い風に、旧弊・悪弊の慣習や制度を一蹴し、業務の効率化、生産性向上を試みている。

改革を進める上で、この記事は大変参考になる。一方、記事が指摘する「掛け声倒れに終わりかねない見せかけの働き方改革」になるのではとの懸念も正直ある。

その理由は、無関心層と抵抗勢力の存在。

改革を進めようとすればするほど「改革が仕事を増やし、日常業務に支障を来している、これ以上余計な負担をかけるな」と不満や批判を平然とぶちまける。

おまけに、少しでもトップダウンで進めようとすると、パワハラだ、労働組合に駆け込むぞ、労基署に駆け込むぞと恫喝してくる。

こんな無気力人間たちの分厚い壁に阻まれ、キレそうになりながらも、ハレモノに触る思いで部下に接していかざるを得ない、焦燥感でくたびれかけている管理職は少なくないのではないか。

「仕事ごっこ」は時間の無駄 形式や儀式をやめる発想|NIKKEI STYLE