2019年8月23日金曜日

記事紹介|形だけのガバナンス改革から脱するには

形だけのガバナンス改革は、何の役にも、立たないどころか、それを実施しているから安泰だという危うい状態を作ってしまう。

形だけではない本当のガバナンスを実現する、その原動力にはトップの強い信念と礼節が不可欠だ。

トップ(理事長・理事・学長等)の礼節を検証する

「この大学を全てのステークホルダーのために良い大学にしよう」と価値判断できるトップ・リーダーが集結しなければ、今は良くても将来は期待できない。大学の規模を問わずガバナンスが有効に働くかどうかは、モニタリングやボンディングの仕組みを整えるだけでは満たされない。そのカギを握るのがトップの礼節(civility)である。

そもそも完全無欠な経営はまず不可能だ。合理性を追求する経営活動といえども限定合理的であって、不正ないし非効率に陥るおそれと背中合わせである。過ちを隠したり正当化したりしない。過ちの責任を引き受け、そこから学び、同じ過ちを繰り返さない。トップの信念と礼節が問われる。そこを抜きにしていくら制度いじりをしても、不正と非効率は決してなくならない。

仏教に「自利心」と「利他心」という言葉がある。自利心は、全て損得勘定で判断する畜生心で、自分の利益しか考えない心のことである。利他心は、その逆で、一切損得勘定なく、自分を犠牲にしても他のためになることを考える心のことである。この娑婆世界で生きていくには、自利心をできるだけ起こさないようにして、利他心で生きていくことが大切であると説かれる。

トップのガバナンス改革の原動力にも「自利心」と「利他心」の二つがある。

トップの自利心とは、「報酬を増やしたい」「確固たる地位や名声が欲しい」といった気持ちがそれである。業績連動型報酬はトップの金銭欲に応える仕組みであるし、外部理事を増やして役員会・理事会の独立性を高めるのはそのトップの暴走を牽制する手段である。欧米型のガバナンスは、高額報酬を典型とする専ら自利心によるガバナンスといえる。

トップの利他心とは、「学生や教職員を幸せにしたい」「立派に職責を果たしたい」「社会をより良くしたい」といった気持ちがそれである。そのトップの利他心に基づいて健全で活力ある経営をすることを、「良心によるガバナンス」と言い換えてもよい。

欧米型の自利心によるガバナンスを補うかたちで機能してきたはずの日本型の利他心によるガバナンスさえ欠如したのが昨今の不祥事である。「日本の大学はガバナンスが欠如している」という認識が過大に広まり、大学は欧米型の自利心によるガバナンス改革を進めて今日に至った。だが、自利心ばかりに働きかけると、自利心は利他心よりも優勢になりがちだ。利他心を大事にしてきたトップにも、自利心だけに囚われて行動する危うさが付きまとう。

だからといって、自利心によるガバナンスを否定するものではない。人間が利欲を持つのは当たり前のことだし、自利心は活動の活力源でもある。

大事なことは、利他心によるガバナンスと自利心によるガバナンスを併用すると同時に、「利他心を主、自利心を従」というバランスを維持することである。そのためにはどうすればよいか。当然のごとく、日々の業務を通じて良心を涵養する。自分の一つひとつの行動の動機が、利他心なのか自利心なのかを弁別し、利他心による行動とそこから得られる歓びを大切にしていく。こうした姿勢を自らのキャリアを通じて積み重ねていくことが、良心を育む方法ではないか。同時に、トップを信用して支援してくれる熱きステークホルダーを持つことだ。人は、他者から信頼や期待を寄せられると、それに応えたいという良心が呼び覚まされる。

権限を権力と勘違いしたトップに対する牽制機能の切り札

大学というものは、「悪いガバナンス」を「良いガバナンス」に取り換えればうまく動き出すようなものではない。いくらテコ入れをしても、我利我利のためであれ、大学のためであれ、確信犯的に不正を起こそうとするトップの暴走は妨げない。どんな立派なトップでも、その君臨が長期化したり、経営環境が悪化したりすれば、権限と権力をはき違えて悲劇が起こる。自らの思いに任せ、自らの欲求のために権限を行使し、当座しのぎでズルの誘惑に負ける。性悪説でもない、性善説でもない、言うなれぱ「性弱説」に立った人間観を持ってこそガバナンスが活きてくる。

トップのリーダーシップ強化に伴って権限の集中化が進むと、その独裁者に対して諫言のできる者は学内で絶滅危倶種となる。優れたトップは、大学の持続的な成長が何よりも重要であることを知っている。大きな権限が権力につながる危険も熟知し、全ての権限行使に当たって細心の注意を払う(※)。ただ、残念ながら大部分のトップは権限を権力と勘違いしてしまい、独断専行・利己的判断といった弊害に陥る危険がある。
(※)ピーター・F・ドラッカーは、著書「マネジメント」の中で「権限と権力は異なる。マネジメントはもともと権力を持たない。責任は持つ。その責任を果たすために権限を必要とし、現実に権限を持つ。その以上の何ものも持たない」と説いている。
だとすれば、どのようにしてモンスター化するトップを制御すればいいのか。

大抵の大学は不正を排除するメカニズムを内蔵している。理事がその任を果たすべきことは当然である。善管注意義務違反を追及することもできるからだ。外部理事もいる。監事、内部統制委員会、内部監査室、コンプライアンス委員会などが相互に連携し、監査と報告を行う仕組みもあるだろう。

だが結論から述べるなら、模範的なガバナンスの仕組みをいかに精緻に組み上げても、態勢整備だけでは不祥事が幾度となく発生することを私たちは知っている。ガバナンスの仕組みを機能させるには、ルールを機能させる良識的な判断と行動、つまり健全な思考様式や行動規範、物事の重要性に関する適切な優先順位付け、開放的な組織文化、己を律する道徳心などが不可欠である。

その牽制機能の切り札が、トップへの諌言機能を持つ「監事」である。実質的に問題提起をし、調査し、苦言を呈してくれる監事を選任して、トップが十分な監視を受けるシステムを”自らの手”で整備することだ。監事が学内と同じだけの情報量で監視に関わるのは無理な話である。でも監事はその実情を把握して監視をしていくことがその役割である。それを形だけの監査にしないために、トップ自らが大学の持続的な成長こそが何よりも重要であるとの基本姿勢を貫いて、監事に監視される環境を大学の中に自律的にビルドインする。もちろんその監事はトップとの友達関係も忖度関係もないことを資格要件とする。このトップの姿勢なくして、ガバナンスの仕組みの強化を幾重に重ねても、トップを牽制することはできない。トップ自らの誠実な自己統制の実践それこそが今、大学に求められる真のガバナンスの行方なのである。

「コンプライアンス」を学びて思わざれば則ち罔し|文部科学教育通信 No465 2019.8.12 から