2019年8月18日日曜日

記事紹介|戦争史実・性接待

敗戦直後の旧満州(中国東北部)で、岐阜県の黒川村(現白川町)周辺から渡った黒川開拓団の女性が、団幹部の指示でソ連兵に性的な「接待」をさせられた。今月一日には地元から遺族会が中国の同団跡地へ墓参。中傷や差別を恐れ、口を閉ざしてきた女性や遺族らは近年「悲劇を語り継がねば」と、行動を続けている。

「(夫がいる)奥さんには頼めん…。あんたら娘だけ、犠牲になってくれんかと言われた。団の幹部にですよ」

当時20歳だった佐藤ハルエさん(94)が、自身の体験を公に語り始めたのは2013年。長野県阿智村にできた満蒙(まんもう)開拓平和記念館で講演した。接待をさせられた女性15人のうち4人が性病などで現地で亡くなっている。今、存命者の中で、佐藤さんだけが実名で取材などに応じる。「満州で一度死んだ。どう思われたっていい」と前を向く。

吉林省陶頼昭(とうらいしょう)に入植した黒川開拓団は1945年8月の敗戦で現地住民らからの略奪に遭った。団の男たちは侵攻してきたソ連軍に警護を頼み、代償に未婚の若い女性を差し出した。

「怖くても嫌とは言えなかった。女は命を守るために性を提供することもある。そう教えられていた」。性の接待は2カ月ほど続いたという。

元団員で、敗戦時は10歳だった安江菊美さん(84)は、佐藤さんと同時期に証言し始めた女性から、亡くなる前に、語り部になるよう託された。現地で接待をする女性たちのために風呂たきなどを手伝っていた。性病予防と称し、医務室で女性が薬品をかけられていた様子など、見たままを伝える。

7月2日には岐阜大から近現代史の研修に訪れた学生12人に、町内に立つ「乙女の碑文」の前で説明。高校の社会科教諭を目指す井戸文哉さん(20)は「重くデリケートな問題だが、自分たちが伝えていかないといけない。使命感を覚えた」と神妙に話した。

白川町でこうした動きを始めたのは、一一年に4代目の遺族会長となった藤井宏之さん(67)。父は開拓団の団員だった。町では満州で亡くなった4人を悼むため、82年に会が「乙女の碑」を建立したが説明書きはなかった。語ることがタブー視されていたからだ。

「罪深い歴史を後世に伝える責任を感じていた」と昨年11月、会により性被害の実態を詳細に記した「乙女の碑文」を建てた。15人もの関係者から意見を聞き、4千文字を費やして何があったのかを明らかにした。

遺族会は今月1日、2年ぶりに墓参りのため旧満州の跡地を訪れた。藤井さんは「子どもたちに二度とつらい思いをさせたくない」と、暗い歴史と向き合う決意を見せている。

<満蒙開拓団>
国策として旧満州と内モンゴルに1932年から終戦までに約27万人が入植した。疲弊した農村人口を減らし、北方警備の盾とする目的もあったとされる。45年8月9日に始まったソ連軍の侵攻、敗戦による混乱の中で約8万人が死亡。多くの中国残留孤児を生んだ。

<つなぐ 戦後74年>性接待 満州で1度死んだ 女性、遺族ら 歴史伝える決意|東京新聞 から


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