2019年8月15日木曜日

研究助成金と事務職員のスキル

古くからおつきあいのある親しい先輩(研究助成団体関係者)からの「厳しい」お便りをご紹介します。


大学等が交付金を減らされて危機的状況だとよく聞きます。
また、私どもの助成対象の先生方からも、当財団に対して感謝の言葉をよく聞きます。
〇〇の研究なんて、科研費でも余り認められない分野になってしまい、研究者は当財団だけが救いの主みたいなものです。

ところが、大学や事務局は、学長・担当理事・担当部長は国家プロジェクト、科研費は担当部長・課長、係長クラスが対応。助成団体助成金は係員や新米係員が担当。

お陰様で会計に無知な私が、国立大学の係員に丁寧に経理を教えてあげることに。
最初は、上司の係長は何しとるんや!って怒っていたけど、最近は若人に直接教えてあげることが面白くなってきました。
しかし、大学財務が危機的状況って叫んでいても、我々助成団体を事務が軽く見ている状況を鑑みるに、そんなに危機的状況じゃないんじゃないの?と思ってしまいます。

新人係員相手で困ってしまう例は枚挙にいとまがありません。

我々助成団体の助成金は大学からの申し入れで、寄付金扱いにしています。
助成金を交付するときは、助成団体から「寄付金申込書」を大学に提出します。
その後、研究者と覚書を交わします。

直近の例では〇〇大学の新人君が「この覚書を“委託契約書”に書き換えて下さい」との突然のメール。この新人君は上司からの教育もされないまま、とりあえず助成金の担当をやらされたみたいで、委託契約や寄付金の制度も全く知らないまま、当財団に“委託契約”にしてくれと言ってきた。

某高専の同じく新人係員からは「助成金は機構本部にピンハネされるので、名称を補助金にして下さい」との突然のメール。勿論この新人君は助成金のことも、補助金のことも知らない。

〇〇大学の新人さん(女性)から、寄付金申込書に「いざとなったら、この寄付金は学長の好きなように使ってよい」を追加してくれと。
私の方で調べたら、確かに寄付金規定にその様な文言があったけど、はいそうですか、とは立場上言えないので「いざとなったら」とはどの様な時ですか?と聞いたところ、その新人さんは2日ぐらい考えて「大学が財政的に潰れる場合です」との答え!
〇〇大学がまるで直ぐにでも潰れることを想定した寄付金申込書を助成団体に書かす?

問題はこれらの事は新人君(さん)が真摯に考えてのことみたいに見えるけど、係長以上はそんな事(助成団体)は新人に任せて、自分達は高等な?単価が高い? 国家プロジェクトや科研費をやる。係員の相談にも乗らないみたい。
それで大学の危機的状況って言われても、本当?
と思っている今日この頃てす。


このお便りを受け、大学等に身を置いてきた私にとって、いかに人材育成をおろそかにしてきたか大いに反省させられたし、「大学等の常識は社会の非常識」という言葉の重みを改めて痛感した。

研究助成団体からの助成金は、大学等の研究者にとっては、今も昔も変わらず大変ありがたい研究資源であることは言うまでもない。

お金の出所(国、民間)によって対応者のランクが異なることは初めて聞いたが、大学等が組織的として大型の資金獲得に血眼になっていること、そのためには学長等をトップとする組織の力をもって対応せざるを得なくなっていることは事実だろう。

ただしかし、現場の教員の中には、小口でもいいから自分の研究を自由に進めることのできる使い勝手のいい資金を欲している者がいることも事実。

基礎研究でノーベル賞を獲った学者などは、そのような資金をもっと増やすべきと指摘している。とりわけ若手研究者にとっては、スタートアップ資金として、各種研究助成金が価値ある資金になっていることは疑いの余地はない。

さて、事務職員のスキルの問題。現場のことをよく把握しているわけではないが、指摘のような未熟な職員がおり、学内外との接点において様々なトラブルが生じていることは承知している。

自分が大学職員として育ててもらった時代との比較は難しい面があるが、今は、上司や先輩によるOJTがほとんど機能しておらず、部下や後輩をほったらかし。SD等の机上論では到底学びえないノウハウや知識や経験を若い職員に伝承していく機能が破綻しているように思える。

事務職員の業務がますます高度化し、専門職員養成の必要性が求められ続けてきているのに、相変わらず、2~3年でころころと様々な業務を担当するゼネラリスト養成しか行われてきていないことの限界が様々なミスやトラブルを誘引していると思う。

その結果、知識や経験といった武器を持たされない若い職員が、丸腰で企業等社会の皆様との接点にさらされている状況。

昔からの慣例やローカルルールにしがみつき、改革や変化に対して拒否反応を示す役所的、役人的組織風土が蔓延している大学等では、少数の改革志向者がいとも簡単に潰されているのが現実。

少しづつ、根気に大学等と社会との常識の乖離の壁を低くしていかなければならないと日々感じているし、それなりに努力はしているのだが...。