2019年7月24日水曜日

記事紹介|大学は知識を手に入れる学びの場ではなくなった

私の学生の頃は知識を手に入れるには大学へ来なければならなかった。知識を持つ人間から伝達されるか、図書館で本を読んでその知識を得るしかない。今の時代は密室にいてもインターネットで基本的な情報なら手に入る。そういった意味では大学は知識を手に入れる学びの場ではなくなった。

生きた知識は対話を通じて生の情報をやり取りすることで初めて得られる。言ったことが誤っていれば、間違っていると言い返せる。これによって情報や知識を変えることもできる。情報になったものを受け取るだけだと勝手に解釈されてしまう。インターネットでは情報は伝達できても、情報から得る大切なものはやり取りできない。講義も聞くだけでは意味がない。対話によってやりとりするアクティブラーニングで、考え方や考えたこと、考えることを学ぶ。実験やフィールドワークを通じ、生の経験を共有しながら学んでいく。

多くの人は「わかること」が「学び」だと勘違いしている。「わからない」ということを「知る」ことが学びだ。友達ならずっと付き合っていけばわかりあえると思っている人がいるが、人間なんてわかりあえない。わかりあえないことをいろいろやり取りしていることこそが学びだ。知識だって同じで、いくら得てもわからないことはたくさんある。わからないということを学びながら、高みに上がる、深みに入っていくということを面白いと感じなければ学びではない。

人間は言葉によって、世の中に因果関係があるという物語を作った。原因と結果を理解する長大なプロセスを短くするため、知識を利用する。知識が誤っていたり未熟だったりすると、結果は本物ではなくなる。結果をすぐに求めようと、都合のいい知識を当てはめても、世界はわからない。世界はそれだけ謎に満ちている。

一人ひとりが情報化される時代

わからなくなったときに原点に立ち返らず、先へ先へと進もうとする。変化を追いさえすれば良くなると考えるのは、現代資本主義、新自由主義の悪弊かもしれない。日本も明治以降、とにかく変化を求めてきた。そのために科学技術は使われてきた。今は大きな転換期。私たちが捨て去った19世紀や20世紀に起きていたものをもう一度見直して再現する方が幸せかもしれない。そういう考えも学びの結果だろう。

人間の脳は意識と知能でできている。2つは異質のものだが、脳の中で操ることで生の会話や付き合いができてきた。しかし、AIは知能の部分を外部化する。意識の部分はデータ化できない。情報社会で意識の部分は置き去りにされている。共感するよりは知識で解決した方がいいという知能至上主義は危うい。

情報社会ではそれぞれの人間が1つの情報になっている。中国のアリババ集団による「信用スコア」は人間が情報化される時代の先駆けといっていい。人間は自ら情報になりたがっているようだ。誰もがデータ化できるとなれば、人間はもう生物ではなくなる。生物は一個一個違うものだから。

学んでも学んでも、情報社会のなかに絡め取られる。昔は学べばそれだけ頭がよくなって、世界を知って広がった。しかし、今は莫大な量の情報の中に浮かんでしまう。絶望的ですらある。だからこそ、違う人間のことをわかろうとするのではなく、違うことを前提に自分1人ではできないことを一緒に作りあげていく、という社会のあり方を学ばなければならない。

京大総長「わからないを受け止めよ」|日本経済新聞 から