2012年4月7日土曜日

成果をもたらすもの(ドラッカー)

自己開発に最大の責任をもつのは、本人であって上司ではない。誰もが自らに対し「組織と自らを成長させるには何に集中すべきか」を問わなければならない。

例えば、医師のさまざまな要求とペーパーワークに追われている病棟の看護師は、大勢の外科の患者を見ながらこう問わなければならない。「彼らの看護こそが私の仕事だ。他のことは邪魔でしかない。この本来の仕事に集中するにはどうしたらよいか。仕事の仕方に問題があるかもしれない。もっとよい看護ができるよう、みんなで仕事の仕方を変えられないだろうか」

自らを成果をあげる存在にできるのは、自らだけである。他の人ではない。したがってまず果たすべき責任は、自らのために最高のものを引き出すことである。人は、自らがもつものでしか仕事はできない。しかも人に信頼され協力を得るには、自らが最高の成果をあげていくしかない。

ばかな上司、ばかな役員、役に立たない部下についてこぼしても、最高の成果はあがらない。障害になっていること、変えるべきことを体系的に知るために、仕事のうえで互いに依存関係にある人たちと話をするのも、自らの仕事であり責任である。

成功する人たちは、自らが行ったこと、そのうち意義の大きなもの、さらに力を入れるべきものについて年に一、二度反省している。私自身1940年頃から、毎年8月には、2週間ほどかけて一年間を反省している。「いかなる分野で大きな貢献をしたか。いかなる分野が私を必要としているか。いかなる分野で時間を無駄にしたか。最高の貢献をし最高の成長をするためには、いかなる分野に集中すべきか」

計画どおりにやれるわけではない。突然何かが起こり、思ったようにいかなくなる。しかし、いまのところ、私がコンサルタントとして成長し、成果をあげ、仕事から多くのものを得ることができているのも、自分が違いを生み出せることに集中してきたためである。

人は、強みへの集中によってのみ自らの成長を図ることができる。そうして初めて、自らのビジョンを生産的なものにすることができる。実に、真の貢献を行う者とは、組織のミッションそのものを成長させる者のことである。

組織とそこに働く者の成長を図るには、いかなる分野に集中すべきかを考えなければならない。有給、無給のあらゆるスタッフが考えなければならない。特に幹部は共に考えなければならない。そのための形式はない。事実、その種のものの最高のものと思われるものは、指揮者ブルーノ・ワルターがとった方法である。

成功に必要なものは責任である。あらゆるものがそこから始まる。大切なのは肩書ではなく責任である。責任をもっということは、仕事にふさわしく成長したいといえるところまで真剣に仕事に取り組むことである。

そのためにはスキルを身につけることも必要である。時には、いかに辛くとも、長年かけて身につけた能力がまったく意味を失ったことを認めなければならない。10年かけてコンピュータを自在に使いこなせるようになったにもかかわらず、いまや学ぶべきはいかにして人と働くかである。

責任ある存在になるということは自らの総力を発揮する決心をすることである。「違いを生み出すために、何を学び、何をなすべきか」を問う。むかし一緒に働いたある賢い人が、私にこういったことがある。「よい仕事をすれば昇給させる。しかし昇進させるのは、仕事のスケールを大きく変えたときだけだ」

自己開発とは、スキルを修得するだけでなく、人間として大きくなることである。おまけに、責任に焦点を合わせるとき、人は自らについてより大きな見方をするようになる。うぬぼれやプライドではない。誇りと自信である。一度身につけてしまえば失うことのない何かである。目指すべきは、外なる成長であり、内なる成長である。

あらゆることについてリーダーとなる者と他の者との間には、一定の関係がある。あらゆる者が先達の力を借りる。リーダーがビジョンと基準を定める。だがリーダーだけではない。リーダー以外の者が傑出した仕事をすることがある。すると他の者がこれをまねる。

リーダーをリーダーたらしめるものは肩書ではない。範となることによってである。そして最高の範となることが、ミッションへの貢献を通じて自らを大きな存在にし、自らを尊敬できる存在にすることである。