2012年4月24日火曜日

大学改革を長期的に考える

論考をご紹介します。


学年の始めに考える-長期問題に注目を(桜美林大学大学院・アドミニストレーション研究科教授・山本眞一)

平成24年度の始まりを迎えた。今年は厳冬のせいか、桜の開花が遅いような気がするが、皆さん方の地域ではいかがであろうか。つい先日、NASAが昨年は世界全体で1880年以来観測史上9番目の高温であったと発表したが、これを温暖化の論拠として短絡的に議論するよりは、温暖期と寒冷期を定期的に繰り返す地球の長い歴史を考えると、長期的にはこれから寒冷期に向かうものと思われるから、むしろ将来のエネルギーや食料問題の深刻さを恐れる方が重要なことではないだろうか。もっとも、エネルギーの浪費を抑えて温暖化を阻止すべしとの議論が、実は寒冷期に備えての節約だとすれば、穿ち過ぎた見方かもしれないが、もっともなことではある。

改革のための改革で良いのか

長期的に考えなければならないのは、気候の問題だけではない。高等教育問題もまた同じである。われわれは、戦後間もなくの時期から常に「大学改革」というものを考えてきた。それを考えること自体は、大学をより良くするためという目的を持ち続けている限りは正しいことである。しかし、物ごとはとかく「目的」と「手段」が逆転しがちである。「改革のための改革」とはよく言ったもので、これはわれわれ人間の思考枠組みの限界からくる宿命ではないかと思われるほど、しばしば見られるものであり、意識して「目的は何か」、「何のための改革か」を考え続けることが必要である。

国立大学について言えば、高度経済成長が終わった1970年代半ば以来、常に「財政緊縮」問題が改革の背景にあった。財政当局は国立大学に係る経費の削減と収入の増加を目論み、70年代には授業料等の3倍値上げを経験したし、80年代以来の「改組転換」は高度経済成長期の「純増」が不可能であることを知らしめるものであった。その究極の緊縮改革が「法人化」であり、われわれが2004年度以来運営費交付金の削減問題に苦慮しているのは、法人化が大学改革であると同時に行財政改革を目指したものであるためである。民主党政権になってから本格化した「事業仕分け」によって、文科省所管の独立行政法人が大きな影響を受けているが、いつ何時国立大学本体にこの影響が及ばないとは限らないであろう。私は、講演を頼まれた際に、国立大学と私立大学との経営の差異について、国立大学は「イネ科」の作物、私立大学は「タンポポ」のように根の深い植物であると説明して、納得してもらっている。つまり前者は政治の強風に晒されるとあっという間に倒れるのに対して、後者は目前の資金がある限り、急に潰れる心配はないという意味である。

弱くなった大学の立場

このようにして、大学改革の背景には常に財政を軸とした政治の圧力がある。もちろん、財政当局に言わせれば、社会保障費その他の義務的支出が年々急増の中で、何らかの切代(きりしろ)を見出して経費削減を図らなければならないだろう。しかし、問題は財政支出の優先分野は何かということである。このことを無視して、政治の世界で強い勢力をもつ分野と、教育のように弱い分野とを単に天秤にかけて、前者の多くの資源を配分することは、決して得策とは言えまい。民主党は「コンクリートから人へ」をキャッチフレーズにして登場したはずであるが、現実はその逆のように思えてならない。

確かに大学は、以前「大学自治」論が盛んであった頃に比べて、社会的に弱い存在になってしまった。「入試による選抜」から「大学による学生確保」へと、受験生との間の力関係も大きく変わった。大学をいくら叩いても決して反発を受けないということが明らかになって、マスコミも大学批判には大胆になっている。また人々もこれをおおむね好意的に受け止めていて、大学批判は社会にとって一服の清涼剤になってしまったのではないかと思えるほどである。そう言えば、関西地方の某首長は、公務員と教育界を徹底攻撃することによって、政策の中身を語ることなく世論の圧倒的支持を得ることができるという、危うい教訓を引き出した。大学がそのようなターゲットにならないことを、心より願うばかりである。

グローバル化等への対応を

しからば、大学問題として長期的に語らなければならないことは何か? それはなんと言っても、グローバル化と知識経済社会に、そして可能な限り「共生社会」にも対応することである。これはわが国が国家としてこれからも自立し、また人々が経済的にも精神的にも豊かな生活を送る上でも非常に大切なことである。このためには、われわれの生活の基盤となる政治や社会・産業構造も変えていかなければならず、これに知識・技術を提供し、また人々に高度で新たな能力を付与する大学教育の役割は、限りなく大きなものとなろう。このことを抜きにした大学改革論は、いわば「ためにする」ものであって、考慮に値しないのではないかと思えるほどである。

この観点からは、すでに大学経営の意思決定システムの改革や大学評価すなわち認証評価の制度化が進められ、いわば大学の外枠の改革として一応の完了をみている。残るところは大学教育や水準・方法の問題と思われるが、これに政策当局が関与する場合、そのあり方には細心の注意が必要である。なぜならば、大学教育は初等中等教育とは異なり、国が定めた基準に従って行うような性格のものではないからである。大学が「学問の府」である限り、既存の知識や価値基準にとらわれることなく、最新の研究成果に基づく教育を行うことが期待されているからである。

多様化と大学分類

もっとも、大学教育といっても、分野によってその実態が大きく異なることは周知のことである。国家資格と密接に結びついている「医・歯・薬・保健」系や、教えるべき内容と水準が明らかな「理・工・農」系は、おのずから教育内容や方法に大学間での共通性があり、またそのようにしなければ社会が期待する人材養成はおぼつかない。問題は、これまで教育内容や水準そして方法がきわめてマチマチで、またそれが許されてきた「人文・社会科学」系である。この分野では、どのようなことを学生に教え、そしてどのような人材として世の中に送り出すべきであろうか。学際的領域も含め、文系学生が大学生の過半を占めている現状から、この問題は深刻でないだろうか。問題解決の手がかりの一部は、「学士力」や「社会人基礎力」を参照すればよいかもしれないが、一段上の次元でこの問題をさらに考えなければならないと、私は考える。

その意味で、大学の多様化とは、決して研究中心大学とその他の大学とを区分するだけでは済まない。専門職業に密着した知識を教え訓練を施す大学、専門的職業に必要なレベルと内容の教育を行う大学、多くの職業に対応する基本的な資質を養う大学など、卒業生が就くべき職業によって大学を分類することも可能であろうし、その中で大学と専門学校との新たな区分もまた考え直さなければならない時期が来るだろう。そういうことを考えると、学部教育でも自分の研究の一部を切り分けて教育することが許されてきたのはなぜか、それは大学教員になるための職業教育だったのだろうか、と考える次第である。大学教育はその内容、レベルそして方法において大きな転機にさしかかっているのである。

末尾になったが、前号でも述べたように、4月から桜美林大学に移った。引き続きよろしくお願いする次第である。(文部科学教育通信 No289 2012.4.9