2020年2月4日火曜日

記事紹介|指示待ち大学

政治の冷酷さ、恐ろしさ

大学入試の2020年度改革が迷走している。萩生田光一文部科学相の「身の丈」発言が切掛で批判が高まり、野党が国会で取り上げて政治問題化すると、首相官邸は英語の民問試験の活用をあっさりと見送った。閣僚辞任が続いた直後だけに、政局安定最優先の政治決定だった。記述式問題にも批判が高まり、改革は風前の灯火である。

改革論義に関わった人たちは、改めて政治の冷酷さ、恐ろしさが身にしみたことだろう。民間試験も記述式も専門家が口を酸っぱくして問題点を指摘してきたのに、文部科学省は聞く耳を持たなかった。「明治以来の大改革」と大風呂敷を広げたはいいが、改革の中身は当初構想から後退に次ぐ後退だった。「最後に残ったこの2つは、面子に賭けてもやり抜く」。そんな思いがあったのだろう。文科省幹部は最後まで見送り回避に動いた。だが、政治決断で虎の子はあっけなくひっくり返された。

議論は一貫して政治主導だった。2012年10月、自民党総裁に復帰した安倍晋三氏は「経済再生」と「教育再生」を「日本再生の要」と位置付け、総裁直属の「教育再生実行本部」を設置した。実行本部は11月に「中間とりまとめ」を公表、12月の総選挙で政権を奪取すると、13年4月に第1次提言、5月に第2次提言を公表する。一連の改革は概ねこの第2次提言に端を発する。党の再生実行本部で示された方針(背後には相談に乗った文科官僚がいた)をもとに、官邸で「教育再生実行会議」が肉付けし、制度設計の詳細は「中央教育審議会」に委ねた。中教審は政治の下請け機関化した。

始まりも見送りも、決めたのは政治(官邸)。専門家が訴えた疑義は、制度設計の段階でも実施見送りの決断においても、真摯に検討される事はなかった。重視されたのは政権の目玉政策としての入試改革であり、政権のダメージ回避方策だった。

先輩の政治記者との会話を思い出す。「政治主導と言うが、政治家は本当に政策を吟味して発言しているのだろうか」と問うと、身も蓋もない答えが返ってきた。「政治家の関心は政局だけ。政策じゃない」。まさに慧眼で、それが政治のリアリズムなのだ。

しかも、こうした政治手法は文教政策だけではない。外交や社会保障分野の方が顕著だ。党や官邸が中心となり、政権の目玉政策を次々と打ち出す。確かな成果が出たかどうかの検証もないままに、次のイシューへと乗り換える。その繰り返しだ。

今日の日本は閉塞感に覆われてぃる。それを打破するには、縦割りで既得権益擁護に凝り固まる官庁の旧弊を打破する、トップダウンの政策決定プロセスが必要だとは思う。議院内閣制である以上、政治主導は当然でもある。ただ、今回の騒動は、専門家の知見を無視した"上から目線"一辺倒の改革では限界がある事も露呈した。それにも関わらず政治は、責任を文科省に押しつけるだけで、自らを省みる気配はない。振り回される方は堪ったものではない。

当事者意識はあるのか?

11月末、政府の英語民間試験の活用見送りを受け、全国の国立大が個別試験での対応を公表した。国の方針転換前は、82校中78校が入試で活用するとしていたが、一転して66校が取りやめを決めた。

個々の大学が受験生の成績を取り寄せ、判定に使うのは手問暇がかかる。国の成績提供システムが運用されなくなった以上、活用を止めるのは理解できなくはない。そもそも、民問試験活用に懐疑的な声が燻っていたわけだから。

でも、それで本当に良いのだろうか。大学入試は大学が自らの責任で行うものだ。国が介入する権限はない。国があれこれ言おうが言うまいが、自らの判断で必要ならやる、不要ならやらない。それが大学の矜持ではないか。

民間試験の活用は、入試で英語の4技能(読む・書く・聞く・話す)を測るのが目的だ。一旦は78大学が活用を決めたという事は、それだけの大学が4技能測定の必要性を認めた事になる。萩生田文科相が国立大学の姿勢を「非積極的だ。(活用自体が不適切だという)間違ったメッセージを与える」と指摘したのは無理もない。「国が言うから付き合ってきたが、国が止めるならこれ幸い。止めた!」。そう受け止められても仕方ない。主体性がなさ過ぎないか。対応を変えるなら、今後4技能の測定にどう取り組むのか、大学ごとに具体的プランを説明すべきだ。国が再び方針を出すまで様子見というのは完全な思考停止。「知的専門家集団」の体をなしていない。

今回の迷走の原因は国立大学協会の無為無策にもある。目的も実施方法も異なる複数の試験を、本当に入学者選抜の資料に使えるのか。50万人規模の共通試験で記述式問題の採点を、公平・公正かつ迅速にできるのか。大学が多様化する中で、現状規模の共通試験をやる意味があるのか.....。様々な疑問や不安が噴出し、論点は多くあったのに、個々の大学も国大協も正面からのオープンな議論を避けてきた。個別大学では言いにくい事でも、大学団体なら言える事がある。団体の存在理由はそこにあるのに、「文科省の方針が固まっていない」と言って議論を封印してしまったのだ。

11月の国大協総会では執行部のこんな発言があった。「大臣の表明だけで、文科省から正式文書が届いていない以上、対応しにくい」。そこに当事者意識は全く感じられない。全では文科省の思し召しのまま.....。

近年、国と大学の関係が様変わりした。それは国公私立を問わない。少子化で経営環境は厳しくなるばかり。国際競争力の観点からも教育研究環境の改善は急務だ。資金はいくらあって足りないのに、国家財政は火の車。国の機嫌を損ねたら予算確保で不利になり、大学の存立が危うくなる。大学がそう考えるのは仕方ない面もある。

一方の官僚も潤沢な予算を自らの裁量で分配できる時代ではなくなった。大学に良い顔ばかりできない。文科省自身にも厳しい目が注がれる。「大学に甘すぎると他省庁から批判された」。複数の文科官僚からこんな話を聞いた。入試改革論義には、国と大学の関係の変化、政府部内での文科省の立ち位置の変化が色濃く影響している。

だが、日本を取り巻く国際環境は様変わりした。新興国、特にアジアの成長は著しい。「日本はもはや先進国ではない」とまで言われる。次世代を担う若者は世界を舞台に勝負するしかない。国際ビジネスの標準語である英語は最低限のスキルだ。異なる背景を持つ多様な人々と協働するのに、日本式の腹芸は通用しない。自分の考えを自分の言葉で的確に、相手の立場を尊重しつつ伝える力が問われる。

政治主導云々の話は別として、改革の背景にはこうした問題意識があった。そんな人材を育てるために、大学は何をすべきか、高校卒業までにどんな力をつけて欲しいか。要求水準は大学によって異なる。だからこそ、個々の大学が入試の在り方を真摯に考えるべきなのだ。国の指示を待つだけの大学からは、主体性のない指示待ち人間しか育たない。

(出典)取材ノートから|IDE 2020年1月号