2018年8月10日金曜日

記事紹介|ないものを数えずに、あるものを数えなさい

三浦朱門の知り合いの青年が、高校時代にアメリカに留学していた時のことです。

高校の階段の手すりに腰を掛けて友人としゃべっていて、バランスを崩して転落してしまった。

頭のいい青年でしたが、典型的な優等生ではなくて、少しやんちゃな若者だったらしい。

彼は、その事故で車椅子の生活を送ることになりました。

それで母親が彼を日本に帰すか、アメリカへ行って面倒を見ようとしたら、本人は、「大丈夫。ぼくが全部一人でやりますから」と言って、車椅子で大学を受験して入り、大学での生活もほんとうに一人で乗り切った。

すばらしい人ですね。

その青年も、ケガをした直後は当然いろいろ悩んでいた。

その時一人のカトリックの神父が、彼にこう言ったそうです。

「ないものを数えずに、あるものを数えなさい」

それは慰めでも何でもないと思います。

誰にも、必ず「ある」ものがあるのです。

でも、人間というのは皮肉なことに、自分の手にしていないものの価値だけを理解しがちなのかもしれません。

自分が持っていないものばかりを数えあげるから、持っているものに気づかないんですね。

私は、日本で生活していてもアフリカを基準に考える癖が抜けません。

アフリカには、人間の原初的な苦悩があります。

生きられないということです。

貧乏で食料が買えないから満腹したことがない。

ここ数ヶ月、体を洗ったことがない。

雨が降ると濡れて寝ている。

動物と同じです。

病気になっても医者にかかることができず、痛みに耐えながら土間に寝ている。

そいう人たちのことを思ったら、私たちの暮らしはどれほど贅沢なことか。

世界の貧しい人たちは、1日に1食か2食、口にできれば、それでごく普通の生活です。

日本人は、グルメとか美食とか、食事がどんどん趣味的になっていますが、私など、干ばつに襲われた年のエチオピアで、もう体力のなくなってしまった男の人が地べたに座り込んだまま、まわりに生えていた草をむしって食べていたのを見て以来、どんなものを食べてもごちそうだと思っています。

日本は、山があるおかげで水にも恵まれています。

そのありがたさを普通の日本人は意識しないでしょう。

しかし、砂漠地帯に行けば、水の貴重さがよくわかります。

あらゆるオアシスは必ず特定の部族が所有していて、そこから所有者の許しもなく一杯の水でも飲めば、射殺されても仕方がない場合がある。

水は命の源だから、その管理は信じられないほど厳しいんです。

私たち日本人は、水汲みに行く必要もなく、水道の蛇口をひねれば水があふれるように出て、飲める水でお風呂に入っているし、トイレにも流している。

言ってみれば、ワインのお風呂に浸かって、ワインで水洗トイレをきれいにしているようなものです。

お湯が出るなんて、王侯貴族の生活です。

自分の努力でもなく、そういう贅沢をしていられる国にたまたま生まれさせていただいた。

その幸せを考えないではいられません。

そうすると、少しぐらいの不平や不満は吹き飛んでしまうんですね。

これが私の言う「足し算の幸福」です。

自分にないのものを数えあげるのではなく、今あるものを数えて喜ぶ。

そんなふうにスタートラインを低いところにおけば、不満の持ちようがないと思うのですが。

今の日本は、みんなの意識が「引き算型」なんですね。

水も電気も医療もすべて与えられて当然、と思っているからありがたみがまったくない。

常に百点満点を基準にするから、わずかでも手に入らないとマイナスに感じて、どんどん「引き算の不幸」が深くなっていく。


小林正観さんは、今この瞬間に、一瞬にして幸せになる方法があるという。

それは、「今、幸せだ」と感じること。

 小林正観さんは、 「幸せという状態」があるのではなく「幸せを感じる自分」がいるだけだという。

お風呂にゆっくり入って、手足を伸ばしたとき「ああ、しあわせ」としみじみ感じたら、それが幸せな状態。

炎天下でのどがカラカラのとき、冷たい水をゴクゴク飲んで、「ああ、しあわせ」と感じたら、それが幸せな状態。

つまり、「ないものを数えずに、あるものを数える」ということ。

ひろちさや氏は、仏教では、「即今(そっこん)・当処(とうしょ)・自己」でものを考えるという。

即今とは、「今」。昨日でも、明日でもない、今この瞬間。

当処とは、「ここ」。あちらでもなく、別の場所ではない、この場所。

自己とは、「私」。あなたでも彼でも彼女でもない。まぎれもない自分。

今ここで、この瞬間、他のだれでもないこの自分が、感じる「幸せ」。

あるものを数える「足し算の幸福」を、かみ締(しめ)めたい。

足し算の幸福|人の心に灯をともす から

2018年8月9日木曜日

記事紹介|倒産危機を迎えている文科省

文部科学省が組織としての危機を迎えている。収賄で複数の逮捕者が出ている点は、個人の責任であるとともに、組織としての倫理観の喪失、コンプライアンスの失敗にある。

公務員試験を経て同じように採用された人間が運営しているにもかかわらず、なぜ文部科学省だけが、こうまでみじめな失態を演じているのだろうか?

結論から言えば、組織の病理現象という意味では、倒産危機を迎えている大企業と同じ要因がある。また、中央官庁としての政策立案機能の劣化がある。大きなターニングポイントになったのが、国立大学の法人化である。

文部科学省は、文部省と科学技術庁が統合されて誕生した役所である。文部省は、管理業務こそが行政である、つつがなく任期を全うすればよいという意識が強かった。一方、科学技術庁は政策の立案・実行こそが行政であるというスタンスであった。

文部系では、何を成し遂げたのかわからない役人がなぜか偉くなっていく。本省の仕事が満足にできないノンキャリアも、50代で国立大学の部長くらいにはしてもらっていた。科技系では政策的に何かを成し遂げた人が出世していく。ただし、手柄のためには手段を選ばずという倫理観のない人間もいた。

今でも人事は2系統で行われている。今回の不祥事は科技系の問題であり、文部系のOBには科技系への怒りを隠さない人もいる。しかし、文部系には、人材マネジメントへの理解もなく、組織変革の手法に関する知識もなく、時代の変化に応じた政策を創出する力量もないという重大な欠陥があったのではないか? 悪く言えば、変革を先送りし、危機意識が薄く、人材が育っていない。もしも企業ならば、文部科学省は、とっくにつぶれていたのではないか?

国立大学の法人化から約15年だが、法人化以前は、文部省と国立大学の職員は国家公務員の身分を共有しており、通常の人事で組織間の異動が可能だった。

法人化後は、個々の大学法人が学長の下で独立して人事を行っており、法人化で、文部科学省は、若手の人材供給源と大学の管理職ポストの保証を同時に失ったのである。これを契機に、本省の人事政策は大きく転換すべきだった。

しかし、官房人事課は自らの組織を守り、何ら変革に着手しなかった。文部系の人事担当は、水面下では、これまで通りにやれるという幻想を抱いたまま、変化する現実を直視しなかったのである。しかも、文部系の上層部は、そうした変革への不作為の責任を取ることが、まったくなかったのである。

本省に勤務していた身としては、当時の危機感のかけらもない対応に、唖然とした記憶が残っている。私以外にも、組織の転落が始まったことを、強く意識した人間もいた。その予感は、今や現実そのものになった。

一般に、文部系の職員は、政策を創出するという面では、他省庁の職員に比べて能力が低いと言ってよい。霞が関でも、そうした評価が通り相場である。たまたま、その基準に合致しない人間がいれば、文部系らしくないと褒められる。

文部系は、能力が低くても上司に忠実ならば出世できるので、勉強してセンスを磨いたり、政策でリスクをとったりする必要がなかったのである。国際経験がなく、他省庁等への出向も経験していない人が、組織の出世頭になっているので、時代の流れに応じた政策転換の幅は、大きくなりようがない。

人口減少の時代にも大学の縮小・撤退が推進できないのも、大学の海外への進出や海外からの受け入れの機会を逸したのも、ICTを活用した大学の教育改革への取り組みが遅れているのも、大規模私学のガバナンスが異常な状態であるにもかかわらず放置してきたのも、大学院博士課程での人材育成が世界の落ちこぼれに甘んじているのも、すべて、上層部の勉強不足とリスクを取らない体質を、組織として温存してきたことが原因である。

今や文部系の職員が本省で身に着けられる知識・能力は、大学の現場ではほぼ価値がなく、管理職になって、その改革をリードすることは期待できない。法人化への対応の遅れは、結果として、人材マネジメントにおける両者のギャップを拡大してしまったのである。今やもう取り返しがつかない。

組織の自己改革ができず、内閣府等から政策転換を求められても守旧の姿勢でかたくなに拒否することが繰り返されてきた。

国立大学におけるコンピタンシーがない者は、役に立たないとしても本省に定年まで居てもらうしかなかろう。文部系では、行政分野の専門知識を持たない人間が、主役として舵を握っているのだから、国民に対しても無責任である。いくら学識者を集めて審議会を開いても、行政官が主体性を発揮しなければ、真に創造的な変革にはつながらない。

今後、検討が本格化する省庁再編の中で、文部科学省は、本当に解体されるかもしれない。されるにしても、されないにしても、教育・科学技術・スポーツ・文化の分野において、組織変革への取組み、創造的な政策の立案で、しっかりと成果を上げられることを、心から祈るばかりである。しかしながら、15年以上も眠り続けた組織には、もはや自己改革を成し遂げる力はないのではないか?誠に残念なことである。

なぜ文部科学省は危機を迎えているのか?|NUPSパンダのブログ から

2018年8月8日水曜日

記事紹介|生き抜く力

詩織が小児がんと分かったのは、いまから7年前の3歳の時です。

幼稚園の健康診断で検尿をしたら「タンパクが下りている」と言われ、近くの病院で再検査を受けたのが始まりでした。

再検査の結果、告げられたのは「腫瘍」ということでした。

悪性か良性かはまだ分からないが、とにかく右の腎臓が動いていないから、早急に入院して手術をしましょうと言われたのです。

入院して3日目、その日は詩織が楽しみにしていた幼稚園の夕涼み会でした。

なぜなら、お遊戯があるからです。

「おそらくこれから長期入院になりますから、行ってきたらどうですか」と、先生に勧められ、参加して踊ったのが、詩織にとっての最初の「よさこい」でした。

高知では「よさこい」が1番大きなお祭りです。

子供たちは皆、物心つかぬうちから大人たちに抱っこされて見ているので、「よさこい」を踊ることは高知っ子の夢でもあります。

詩織もそうでした。

まだ3つでしたが「よさこいを踊りたい、踊りたい」といつも言っていたのです。

夕涼み会でよさこいを踊る詩織の姿は、とても楽しそうでした。

詩織の入院は2年余り続きました。

わずか3歳の子供にとってつらい生活だったのではないかと思います。

詩織は、自分が悪性のがんであり、しかも生存率が低いということを知っています。

それは告知をしたというよりも、私自身がとにかく病気に関する情報を得たいと様々な学会などに顔を出していたことから、いつの頃からか自然と気づいていたようでした。

もちろん、本人もすべてを受け入れているわけではなく、体調に異変があれば「自分も死ぬんじゃないか」と不安を顕わにすることはあります。

しかし、「あなたは大丈夫。何があっても私が守るから」と抱きしめながら、今日まで歩んできました。

そんな詩織が地元高知でも有名なよさこいチームである「ほにや」に入ったのは、7歳の時です。

激しい運動は禁止、体育の授業も見学と先生に言い渡されていたのですが、入院している時から「よさこいを踊りたい、踊りたい」と言っていたのです。

もし真夏のよさこい祭りで踊ったりしたら、炎天下の中、かなり体力を消耗することになりかねません。

「そんなことしたら、あんた死ぬかもしれんで」

思わず口をついて出た言葉でした。

しかし、詩織はまっすぐ私を見返してこう言ったのです。

「死んでも構ん、踊りたい」

一瞬、言葉を失いました。

わずか7歳の娘が死んでもいいから踊りたいと言う、その意志の強さに驚いたのです。

そして、あの日心に決めたことを思い出しました。

「そうだ、詩織の望むすべてのことをさせてあげると決めたんだ」。

私は「ほにや」さんに入会を頼みに行きました。

県内屈指の人気チームですから、受かるとは思っていなかったので、病気のことは伏せて申し込みました。

しかし、合格したからには黙っているわけにはいきません。

社長さんに「踊っている途中で道端で倒れてもいいから、やらせてあげてください」とお願いしました。

そうして7歳で迎えたよさこい祭り、詩織は「ほにや」の踊り子としてよさこい祭りに参加しました。

一番のメインストリートである追手筋に入ってきた詩織の姿を見た時は号泣しました。

それまではいつもどこでも「いつ死ぬか、いつ再発するか」と病気のことばかり考えてきました。

しかし、いま詩織がこの大歓声の中で楽しそうに笑って踊っている。

それは詩織の命が精一杯の輝きを放っているように見えました。

「ああ、これが生きているという実感なんだ」と感じました。

今年、4回目の「よさこい祭り」を踊っている詩織を見て、ああ、成長したなとしみじみ思いました。

実は、詩織の発病と同じ頃、実母が冠動脈の手術で入院していたのですが、今年、またステントを入れるために再び入院することになりました。

ある時、詩織が車椅子を押して母を移動させていた時、母のお手洗いが間に合わない時があったそうです。

詩織は黙って汚した場所をきれいに拭いて、母をおトイレに連れて行き、下着を替えて、病棟に戻ってきたと言います。

驚いた私が「看護師さんを呼びに行ったらよかったじゃない」と言うと、「私がいない間におばあちゃんを一人にして何かあったら困るじゃん」と言いました。

「いつの間にこんなに成長したの?」と胸が熱くなりました。

もしも普通の子供だったら、「汚い」といって、同じような行動はしないかもしれません。

おそらくずっと病院にいた詩織には、自分も周りの人たちからたくさんお世話をしてもらって生きてきたという思いがあるのだろうと思います。

同時に私も、詩織がこういう病気でなかったら、他愛ない問題にぶつかって悩んでは、くだらない話をしながら生活してきたかもしれません。

また、「人は必ず死ぬ」ということを意識せず、何も考えずに生きてきたのではないかと思うと、詩織の病気から人生で大切なことをたくさん教わったと思っています。

もちろん、いまも健康な体を授けてあげられなかったことを申し訳なく思うし、できることなら代わってあげたい。

しかし、代わりのいない自分の人生を精一杯生きている娘の姿から、「生き抜く力」と「使命」というものを感じることは少なくありません。

「もしかしたら、この子だからこの病気になったのかもしれない」と、いまは思うのです。

発病から7年、5年後の生存率ゼロ%という宣告をこの小さな体で撥ね返しました。

しかし、いまもがんは完治したわけではないし、貧血で朝起きられないこともある。

不整脈も出始めて、いつどうなるか分かりません。

それでも「よさこい」となると、「私、大丈夫。踊る!」と言って元気に踊り出します。

「死んでも構ん。踊りたい」

あの言葉を思い出すたび、人間の心の強さ、決意のすごさを感じずにはいられません。

そしてその発心の強さが、医学の常識を覆し、奇跡を呼び起こしたのだと思うのです。

詩織はいま、「大人になって、“ほにや”の一列目で踊って、よさこいのインストラクターになりたい」という大きな夢を持っています。

一方、私はというと、正直いまが夢の中なんじゃないかと思う時があります。

私たちには、詩織が小学校に上がることすら夢のようでした。

それが「せめて発病から5年を超えたい」

「せめて10歳まで生きてくれたら」……。

そんな私たちの夢を詩織はずっと叶え続けてくれています。

私たちにとって、生きるとは決して普通の出来事ではありません。

朝起きることも、ごはんを食べて歯を磨くことも、「有難い」世界です。

「生きている」という有難い、夢のような日々を積み重ねて、これからの詩織の成長を見守っていきたいと思っています。

小さな娘の挑戦記|今日の言葉 から

2018年8月7日火曜日

記事紹介|心は見えないけれど心遣いは見える

人間が人間として生きていくのに一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しである。中村天風


心の良い人とは?と聞かれたら、どんな人を想像するでしょうか。

「言志四録」を書いた佐藤一斎は、

『春風を以て人に接し、秋霜(しゅうそう)を以て、自ら粛(つつし)む』

という言葉を残していますが、これも心の良い人の一例かもしれません。

また他人への思い遣りがある人というのも、一つの例として当てはまるでしょう。

宮澤章二さんの詩でも

『「こころ」はだれにも見えないけれど、「こころづかい」は見える。「思い」は見えないけれど、「思いやり」はだれにでも見える。』

自分の内面が放出されたものが、心遣いであり、思い遣りなのですね。

自分が何を人に与えているかに、心を向けてみましょう。

こころ|今日の言葉 から