あちこちの大学のキャンパスで、「ガラス張り」の研究棟を目にする。各階の廊下を歩くと、壁やドアが全面ガラス張りで、室内が丸見えの建物だ。そして、必ずといっていいほど廊下にいくつかテーブルが置かれ、人が集まりやすいよう工夫されている。
先日も、ある公立大学でそうした研究棟を訪ねた。案内役の教員によると、テーブル設置は、教員同士、あるいは教員と学生が集まり、議論する場として構想されたのだという。ご丁寧に給湯装置までついていた。
学部・学科の「タテ割り」の中で自分の専門という「タコツボ」にこもり、隣の研究室の人とすら意見を交わさない「相互不干渉」では、新しい知を創りだすことはできない。みんな出てきて、議論しようよ。アカデミックはそこからだーそんな思いを根底にした建物のようだ。
だが、なかなかそれは伝わっていない。「このテーブルで議論している教員や学生を一度も見たことがない」と教員は言う。よく見ると、ガラスの壁とドアの前に大きな書棚やホワイトボードを置いている部屋がいくつもあった。これでは出入りがしにくかろうに。多少の不便さは我慢してでも、タコツボを守りたいということなのか。
研究室をタコツボに見立てると、もっぱら責を負うべきはツボ主の教員のように感じるが、そうとは言い切れない面もあるようだ。社会と協働で学生を育てる試みを続けている教員がこのところ、「学生が逃げる」と嘆くことが多くなった。
九州のある大学教員は、数年前から地元の農家や漁協などの助けを得て、学生の力を引き出す活動をしている。例えば特産品のカキ養殖では、種付けから収穫、商品開発、販路拡大まで、漁師たちと共に行う。実際に作業をする中で、学生たちは、養殖に悪影響を与える環境の変化や漁業の未来などの大きな社会問題に行き当たる。同時に、現場では多様な考えを持つ人々とぶつかり、時に厳しい叱声も浴びせられる。これまでは、そうした実践を通して、見違えるほど成長していくのを感得できたという。
だが今は、「外部の人に少しきつく叱られると、(履修を)やめさせてください、と泣きを入れてくる」と話す。絶えず温かく励まし、褒め続けないと意欲が低下する。親にすら叱られた経験がないのかと疑いが湧く。一方で、そうした授業内容が、学生の授業評価アンケートで猛批判を浴びるケースも目立つように。教員は「社会に出て行くために力をつけておこう、という思いが通じないのか」と肩を落とす。
「逃げる学生」の存在は、日本特有の問題ではないようだ。『アメリカの高等教育』(デレック・ボック著)によると、宿題や厳しい成績評価は学生に嫌われ、授業評価アンケートでの評価を下げることにつながる。だから、ことに非常勤講師や任期付き教員は「学生による授業評価を上げようと宿題を減らしたり成績を甘くつけたりすることになる」と指摘している。
1966年の漫画「サザエさん」に、こんな作品がある。まず、赤ちゃんを背負ったおばあさんが足袋の爪先をつくろいながら、「あたしゃ女子大の英文科を一番で出た」と言う。庭で犬のノミ取りをするおじいさんも「東大出で銀時計をいただいた」と。そこで場面は再び室内に戻り、壁掛けの時計を気にしながらご飯をかき込むお父さんを横目に、おばあさんは「有名校出たけど、どうってこたアない」とつぶやく。そして、受験生の孫を送り出す。いわく、「きら一くにシケン受けといで」。
まだ大卒がそれなりの価値を持っていた時代でも、この程度。いわんや今は。まあ、大学に期待しすぎなのかもしれない。
水鏡してあぢさゐのけふの色 上田五千石
紫陽花は、「七変化」とも呼ばれる。はじめ白が勝っているが、次第に薄青、のち薄紫に。大学は、社会は、どうその色を変えていくのだろうか。