2008年6月17日火曜日

教職協働のための目標設定

大学における教員と職員の連携、いわゆる「教職協働」については、この日記でも、これまで、その重要性や不可欠性とともに、現実としては意識の問題も含めてなかなか進まない実態などについて何度か取り上げました。

つい最近では、「大学経営改革の動向」の中で、英国の研究重点大学で研究支援の要職にあるマイク・グリフィス氏の寄稿「大学経営のプロへの途」をご紹介した際にも、教職協働に触れた次のようなコメントを転載いたしました。

もう一つ、とても大切なことは、チームワークです。協働が生み出す知恵と力はどんな個人にも勝ります。人々の能力は多様です。個々人がどんな能力を持っているか認識し、チームを多様な能力の人材で構成することが大切です。しかし、チームがオープンにかつ十分なコミュニケーションをとっていないと、目標も共有できませんし、チームとしての力も発揮できません。

大学でのキャリアを成功に導くためには、教員との間に良い関係を築かなければなりません。このことは、とても難しいことではあります。教員の中には、事務系職員から指示を受けるのを嫌う人もいますし、はなから事務系職員が役に立つアイデアを持っているはずがないと思っている者もいるのです。とにかく、会って話すことが大事です。とかくメールに頼りがちになる昨今ですが、教員と良い関係を築くためには欠かせません。そして、事務系職員と教員は同等の立場で、大学に貢献するのに、ただ違う能力を持っているのだと言うことを肝に銘じておきましょう。


今日は、久々に、広島大学・高等教育センター長の山本眞一氏が「文部科学教育通信」(2008.6.9 No197)に寄稿された「教員と職員との目標共有」をご紹介したいと思います。
大学の使命達成のために多くの課題解決を求められている同志として、事務職員はもとより、教員の方々にも、「教職協働」について、そろそろ真剣に考えていただくべき時期にきているのではないかと思います。

■教育研究と事務処理と

言うまでもなく、大学の使命は、教育研究を通じて社会に貢献することである。このため大学の活動の中心部分をなすのは、もちろん教育や研究である。その教育や研究は、数ある知識の中でも、未だに知られていない部分をも含めて取り扱うものであり、企業における生産や営業活動に比べてはるかに創造性が要求される仕事である。優れた仕事をするためには、昨日の続きに今日があるというような態度ではだめで、ある意味では前例にとらわれない発想が必要である。しかし前例にとらわれない発想は、時には既存の制度や慣習と衝突しかねない。その衝突とうまく折り合いをつけるということは、大学運営にとって重要な事柄である。他方、仕事を事務処理という観点から見ると、そこには文科省が定めた法令体系や学内で合意したさまざまな規則があり、これに則ってものごとが動くと考えられがちである。

この一見相反する仕事への態度と教員・職員の仕事の分担とはこれまで密接な関係があった。つまり、前者を教員、後者を職員が担うという形で、教員と職員とが互いに相容れない世界を形成しでいたと思われる。教員は彼らと同分野に属する教員・研究者との競争を意識しつつ、ともかくも優れた教育研究を進めることを願い、他方職員は文科省や大学の定めたルールに従い、時には教員の意図とは無関係であっても、勤務場所であるその大学の運営が規則通りに行われることに最大の価値を置いていた。

次に、教育研究というものには、きわめて高い専門性が要求される。専門性を身につけるためには、長くそして厳しい訓練が必要であり、素人が容易には踏み込めない領域であるとも言えるだろう。これは大学に限った話ではない。あらゆる専門領域で、その専門のことは専門家にしか分からないということがしばしば語られる。素人が口出しすることは、その専門領域の権威にかかわると思われているふしすらあって、多くの場合はその素人が批判にさらされがちだ。大学の自治も、結局のところ、知識にかかわるマネジメントはその知識を扱う専門家でなければ分からないという発想がその根本にある。ここでも、教員と職員とは、前者がその専門知識を取り扱う専門家、後者がそこから生ずるさまざまな事務処理をする集団という形で役割分担してきた。

これに加えて、大学というところはさまざまな専門分野の集合体であり、教員間でも専門分野間の違いは大きい。私が以前、この連載で触れたように、文系、理系、医系という三つの大きな分野によって事情が異なるのはもちろんのこと、その中をさらに細分化したような小さな専門家集団がモザイク状に組織化されているのが大学である以上、統一的な目標設定が困難であったと言えるだろう。

■目標の共有化に向けて

以上のように明確な役割分担の中からは、教員と職員とが共有できる目標の設定は極めて難しい。

しかし、近年その前提に変化が見られることは、読者の皆さんも気づいておられることと思う。それは、社会の変化とりわけ1990年代以来の世界的規模での諸変革の中で、大学というものが単に学問の府というだけではなく、社会的制度として社会のさまざまな人々に対して説明責任を果たさなければならないということがだんだん明らかになってきたことである。つまり大学が教育研究を通じて社会貢献をするということが、従来よりもはるかに明確に意識されるようになってきた。より具体的に言うならば、学生に対する教育サービスを充実させたり、企業などとの共同研究を活発化させたりすることが、ますます重視されるようになってきた。国公立大学の法人化は、その大きな契機であったし、私立大学でも経営環境の厳しさの中で、生き残りをかけての大学としての諸活動の充実は喫緊の改革課題である。

このように相手のある仕事については、教員も職員も従来のような固い役割分担にとらわれていては何もならない。両者が力を合わせて大学運営にあたることが望ましいのは当然であり、そのためには共有できる目標の設定が必要である。さしあたりは、学生に対するサービスの充実や、産業界・地域への知的貢献などがそのような目標の例になるのではあるまいか。つまり、これからは教員であるからとか職員であるからというような「立場」で役割分担するのではなく、共有した目標を達成するための「仕事」のどの部分を担当するかということで、それぞれの役割を考えるべきであろう。

これまで、教員は創造性のある仕事をやろうとすればするほど、既存の制度や慣習にとらわれることをわずらわしく思い、また職員は大学という組織を円滑に運営するためには、法令や学内規則に拠ることが大事だと考えてきた。このような状況では、お互いの不信感は生まれても、協働して大学を良くしていこうというインセンティブは湧いてこないだろう。それぞれの大学では、目に見えやすく、また具体的な仕事の目標をいくつか掲げて、それを教員や職員という立場にとらわれず、協働して実現を目指すという態度が必要である。その中で、大学運営に理解のある教員、創造的な仕事の実現に意欲を燃やす職員というものが出てくるものと信じている。

■責任を果たせるような能力開発を

ところで、読者の皆さんの大学では会議の折、職員はメインテーブルに座っているだろうか。それとも後ろに控えていることが多いだろうか。

このことは、一見つまらないように見えて実は非常に大事なことだと思う。従来、多くの大学では、教授会にせよ委員会にせよ、構成員たる教員はメインテーブルに、事務処理をする職員は後方に座るということが多かったのではあるまいか。メインテーブルに座る構成員だけが意思決定にかかわる者であり、後方の職員はそれを聞いているか、あるいは事務的な説明に終始するということが多かったのではあるまいか。これでは、職員に当事者意識が育つことが難しい。もっとも近年は、幹部職員を会議の正式メンバーにして運営している例も多くなっているだろう。しかし、構成員でない場合でも、事務の直接の担当者であればできるだけメインテーブルに座らせて、積極的に発言させることが望ましい。これによって当事者意識が生まれ、必然的にその仕事に対する責任感も生まれるものである。

もっとも、メインテーブルに座るだけで発言する内容がなければ何もならない。構成員であるということは、目標を共有しつつ、積極的にその仕事に関与するだけの能力がなければならないのである。鶏と卵の議論になってしまいそうだが、少なくとも能力開発の契機は積極的に与えるべきだと思うのだが、いかがなものであろうか。