2017年5月31日水曜日

記事紹介|国立大学が「改革疲れ」で身もだえしている

憲法23条は、誰のために「学問の自由」を保障しているのだろうか。

直接には「学問をする人」、つまり学者や研究者を対象にした条文だ。だがその土台には、自由に支えられた学術の進展こそが、広く社会に健全な発展をもたらすという思想がある。

明治憲法には学問の自由の保障はなかった。戦前、時の政権や軍部は一部の学説を「危険思想」「不敬」と決めつけ、学者が大学から追われるなどの弾圧が相次ぐなかで日本は戦争への坂道を転げ落ちていった。

法人化が影を落とす

その歴史への反省が、現行憲法が独立の条文で学問の自由をうたうことにつながった。

具体的な表れが大学の自治である。

教員人事や研究・教育内容の決定、構内への警察立ち入りの制限などで、大学が公権力を含む学外の勢力から独立し、自主・自律を保つ。学問の自由はそれらの自治を保障している。

日本は戦後、科学技術をはじめ学術が花開くにつれ、経済発展を果たした。学問の自由に関しては、憲法の理念が実を結んだように見えた時期もあった。

ところがいま、大学、とりわけ税金に頼る割合の高い国立大学が身もだえしている。

発端は、2004年に実施された国立大学の法人化だ。

経営の自由度を高め、時代の変化に対応できる大学への脱皮を促す。文部科学省はそう説明する。

しかし背景に透けて見えるのは、少子高齢化と財政難のなかで、競争強化によって大学のぬるま湯を抜き、お金をかけずに世界と渡り合える研究水準を維持したい。そんな思惑だ。

実際には多くの大学で「改革疲れ」が起きた。

主体的に議論し、自ら描いた将来像に向けて改革を着実に進めるというより、文科省の意向を探り、それに沿って上乗せ予算を確保しようとする動きが広がった。情報収集などの名目で官僚の天下りを受け入れた大学もあった。

日本発の貢献が低下

国立大学の自治は、資金の面からも揺さぶられている。

政府は人件費や光熱費、研究費などの「運営費交付金」を毎年1%ずつ減らす一方、応募して審査を通れば使える「競争的研究資金」を増やしてきた。

だが、世界の主要学術誌への論文で日本発の貢献は質、量とも減り続けている。中国など新興国が伸び、欧米先進国は地位をほぼ維持している状況でだ。

次々に生まれる新たな学問領域への参入も限られ、貢献分野が狭まりつつある。

運営費交付金削減の矛先は、比較的削りやすい経常的な研究費や若手研究者のポストに向かった。一方で競争的資金の応募倍率は上がり、成果のチェックも厳しくなった。

そのあげく、結果が見通せない野心的な研究や、研究費の配分者に理解されにくい新分野への挑戦が減ったとされる。

他方、政府は政策課題研究への誘導は熱心だ。

端的な例が、大学での軍事研究に道を開く「安全保障技術研究推進制度」の拡充である。

防衛省が15年度に始めたこの制度について、日本学術会議は軍事研究に携わるべきではないという観点に加え、「政府による研究への介入が著しい」として学問の自由の面からも各大学に慎重な対応を求めた。

大学と研究者の鼻先に研究費をぶら下げるような政府の手法は、学問の自由の基盤を掘り崩すものだ。

研究者の側も「何をしてもいいのが学問の自由」などと考えるとすれば誤りだ。倫理面を含め、その研究が許されるかどうか、常に多角的に吟味することが社会への責任である。

果実は多様性にこそ

学術会議は05年に「現代社会における学問の自由」という報告をまとめた。

そのなかで、学問研究の世界について、多数決原理が適用できない世界だと指摘している点に注目したい。

真理を探究するうえで、従来の学問にない新たな発見や学説は必ず少数意見として登場するという意味だ。だからこそ学問は公権力と緊張関係をもちやすい。憲法が学問の自由を保障する意味の一つはそこにある。

どんなに民主的な政府であっても、学術の世界に過剰に介入すれば、少数意見の誕生を阻害し、真理の探究、ひいては社会の健全な発展を遅らせかねない落とし穴がある。

「文系不要論」に象徴される近視眼的な実利志向は論外だ。たとえ善意に基づく政策課題だとしても、過度に資源を集中させれば学問の命である多様性を損ない、より豊かな果実を失うことにつながる。

学問の自由の重要性を多くの人々が実感できるよう、社会との対話をさらに活発にする。学問の自由を負託された学術界には、そうした努力も求めたい。

憲法70年 学問の自由は誰のために|2017年5月28日 朝日新聞 から