2012年6月20日水曜日

「大学の学校化」と「高等教育機関の多様化」

桜美林大学大学院大学アドミニストレーション研究科教授の山本眞一さんが書かれた論考「大学の学校化-時代とともに変わる大学像」(文部科学教育通信 No293  2012.6.11)をご紹介します。


大学は他の学校と別物?

数年前、私は欧米の研究者たちと協力して一冊の本をまとめたことがある。その折、編集者から照会があって、私が日本の大学のことを述べた原稿で「学校教育法」(School Education Law)と書いているのは、何かの間違いではないかと言ってきたことを覚えている。その背景には、大学と初等中等教育諸学校とは別物であって、それらを規定する法令も別、すなわちSchoolとは異なる法体系があるのではないかとの思い込みがあったらしい。そういえば、米国をはじめ多くの国では「高等教育法」やそれに類する法令体系があり、また国によっては大学を所管する政府機関が高等教育省や研究技術省のように、教育省とは別に置かれている場合も多いようだ。またわが国でも、戦前は大学令や小学校令など学校種ごとに制度が定められていた。今でも、高等教育局と初等中等教育局とは別フロアに置かれていて、教職員の世界もそれぞれ独自の雰囲気をもっていることは、皆さんご存じのことであろう。つまり、大学は「学校」というよりは、「学問の府」として取り扱われてきて、実態はともかくとして、制度上はこれが色濃く残っているのが世界の現状ではあるまいか。かの編集者からの照会はそのような状況の一端を見せるものであった。

わが国では、大学もその他の学校も均しく「学校」の仲間として、学校教育法という単一の法体系に入れられているものの、大学については研究機能も含めて高等教育機関として特別な扱いがなされている。大学の自主性の尊重から、学習指導要領や教員免許など国として統一された制度はないし、また法人化による変化があったとはいえ、教員人事における教育公務員特例法の精神はいまだに生かされている。しかしながら、現在の大学はわが国を含め、その性格の変化そして多様化が著しい。昭和38年の中教審答申の指摘、すなわち「象牙の塔よりも社会制度としての大学」論をはじめ、その後の大学審や中教審の指摘にあるとおり、これらの変化への対応は、大学改革の中心的課題であり続けている。また、進学率の上昇による高等教育の大衆化とそれによる変化は、マーチン・トロウの発展段階説によってその理論的分析がなされ、われわれ大学関係者にとって常識中の常識になっている。

私は、以前からこのような変化を捉えて、「文部省の霞が関化」、「大学の学校化」という説を唱えている。前者は、今なら「文科省の霞が関化」と言うべきだろうが、つまりは行政当局の大学に対する姿勢が、従来の「全国大学事務局」から霞が関の他の省庁同様の行政機関としての性格を強めつつあること、後者は大学を他の初等中等教育諸学校と同様に行政の対象として見なすことに通じるという「学校化」の現象であると言いたいためである。また実際、大学自身も「学問の府」から「学校」としての性格を強めつつある。前者についてはまた稿を改めて論じるとして、ここでは後者に関していくつかの変化を列挙してみよう。


既知の知識を教えるのが学校

第一に、学校は未知の知識の探求よりも確立された既知の知識の教育を旨とする。研究機関と異なり、学校の役割は、これまでに蓄積された知識を取捨選択して次世代の人々に伝えるところにその重要な役割があるからである。初等中等教育学校の教育内容を考えてみるがよい。そこでは学年や科目別に並べられた既知の知識を、教科書を使いながら教えている。大学においても実学系と呼ぶべき領域では大体がそうであり、国家試験や職能団体による資格授与と結びつくものも多い。例えば医師養成や法曹養成においては、レベルは極めて高度だとしてもそれぞれ実社会の営みに深く関わる職業であり、そのような意味では確立された高度な知識を教えなければならない。米国の大学院は研究能力を養成するグラデュエート・スクールと高度専門職に必要な訓練を施すプロフェッショナル・スクールに分かれており、わが国でも近年、専門職大学院制度が発足したのもこれら「学校化」の一端であろう。


教育内容・方法の規定

第二に、これと関連するが、学校では既知の知識を効率よく教え、人格の形成や人材養成の目的を達するよう、あらかじめ教える内容を体系的に分類整理して、これをマニュアル化しておくことが必要である。このことを担保する意味もあって、わが国では初等中等教育学校を対象として、教育課程の基準である「学習指導要領」が定められている。また、学習指導要領の趣旨に沿って教科書がつくられ、文部科学大臣の検定を受けなければならない。これらは教室における授業内容を決める重要な手段であるばかりでなく、関係者あるいは一般の国民に、それぞれの学校において何が教えられているかを周知する機能を持つ。大学については、これまで制度の外枠、すなわち単位の計算や授業科目の種類などについての規定が大学設置基準にあるのみであったが、近年、大学改革が大学教育の内容・方法に関心を移しつつある中で、たとえば2008年の中教審学士力答申や先般の大学教育部会のまとめでいう学生の学修時間の確保などに見られるように、学生が身につけるべき能力についての具体的検討が進みつつあるようだ。これが学習指導要領のようなものに発展するかどうかは分からないし、大学である以上、そのようなことはないとは思うが、大学設置基準の大綱化が行われたにもかかわらず最近細々した規制が増加しているところからみて、これも大学の「学校化」現象の一つであることは間違いあるまい。


組織体としての大学

第三に、学校はそこで教育に従事する教員に対し一定のルールを課し、組織的な活動が行われることが期待されている。なぜなら、教室での教育は教師と生徒の個人的関係のみで成り立つものではなく、教育の目的に沿って、学校として十分な教育サービスを提供しなければならないからである。未知の知識の探求を目指す研究機関にあっては、研究者の自主性が最大限担保されなければならす、したがって伝統的な意味での大学の自治の精神もここから来ているわけだが、学校という仕掛けを取る以上、大学であることに加えて、教育サービスを組織的に行う教育機関としての責任を負う必要がある。初等中等教育諸学校において学校長の権限と責任が重視されているのと同様、学長のリーダーシップの確立は近年の大学経営の大きな論点である。その点で言えば、教授会や評議会についても、大学の事実上の最高意思決定機関として教員たちの間で共有され続けてきた了解が、近年の制度あるいは運用上の改革によって、教育研究上の重要事項の審議に限定されてきていることも、この学校化の動きと無縁ではあるまい。

以上のほかにも、学校化を特徴づける変化はいるいるあると思うが、その変化が大学としてふさわしいものかどうかについては、識者の間でも意見が異なるようである。しかし、私が思うに、全ての大学がかつてのような学問の府としての性格を保ち続けることは難しいし、またそれは近年のグローバル化、知識社会化、教育の大衆化の中では、望ましいことでもない。一方で学問の府としての性格を色濃く残す大学があってもよいが、他方で国民の多様なニーズに的確に応えられる大学もあってよい。その意味で、大学の学校化は、高等教育機関の多様化と密接な関係をもっものである。先般取り上げた秋入学の論点の本質と同様、これからは「多様化」という視点で高等教育システムをより深く考察したいものである。


致知出版社
発売日:2011-09-16