2015年9月27日日曜日

政治の貧困と政治家の気概(2)

このたびの安全保障関連法案の委員会採決(参議院)をご覧になりましたか。情けない、あきれてものが言えない醜態でした。これが国権の最高機関のあるべき姿でしょうか。一国民として、とてもこの国の未来を託す子どもたちに説明できるものではありません。


国会議員の資質の劣化については、これまでも幾たびも指摘されてきましたし、国民の政治離れの大きな要因の一つにもなっています。

今回もそうでした。次の三つの記事(抜粋引用)は、当を得ていると私は思います。(全文をお読みになりたい方は、各見出しをクリックしてください。)

政治家の劣化と政治権力の空洞化|2015年7月20日 YamaguchiJiro.com
今、 安保法制と並んでいくつかの重要な政策決定が行われようとしている。それらに共通しているのは、かつて丸山真男が日本の戦争に至る政策決定を分析する中で析出した「無責任の体系」である。丸山によれば、日本における無責任な政策決定には次のような特徴がある。
第一に、現実を直視せず、希望的観測で現実を認識したような自己欺瞞に陥る。第二に、既成事実への屈服。事ここに至っては後戻りできないと諦め、誤った政策をずるずると続ける。第三に、権限への逃避。 誤った政策が事態を悪化させることを認識しても、自分にはそれを是正する力はないと、自分の立場、役割を限定したうえでそこに閉じこもり、政策決定の議論 から逃避する。こうした特徴を持つ無責任な政策決定によって、日本は70年前、敗戦という破局にいたった。
それから70年、最近の重要な政策決定を見るにつけ、政治家、官僚というエリートの無責任体質は変わっていないと痛感する。その悪しき意味での持続性には、驚嘆、嘆息するしかない。
安保法制について言うべきことは多いが、ここでは一点だけ批判しておく。自衛隊の海外における他国軍への後方支援活動は安全だと政府は 言い張る。しかし、野党や多くの識者が指摘しているように、後方支援は武器、弾薬、燃料等の補給活動、すなわち兵站である。兵站は戦闘そのものである。これを安全な後方支援と名付けるのは日本政府の勝手ではあるが、国際的に通用する論理ではない。日本の同盟国と戦っている敵国は遠慮なしに自衛隊を攻撃するに違いない。集団的自衛権を行使して戦闘に参加するならば、最初からその本質を自衛隊員と国民に説明し、覚悟を求めるのが指導者の責務である。自衛隊は武力行使をしているわけではないのだから、敵国やテロリストはこれを攻撃しないというのは、犯罪的な欺瞞である。
皮肉なことに安倍晋三首相は指導者として決断を下すことが大好きである。憲法解釈については私が最終的責任者だと主張し、安保法制については時期が来れば採決しなければならないと言う。決定への意欲が無責任な政策の選択をもたらすのはなぜか。それは政治家や官僚が問題の本質を理解する知力を持っていないからである。日本政治を毒している反知性主義の弊害といってもよい。反知性主義について、佐藤優氏は「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するよ うに世界を理解する態度」と定義している。件の自民党の懇話会で百田尚樹という作家が行った講演は、自分が欲するように世界を理解することの典型例であ る。それをありがたがる議員が安倍首相の親衛隊だというのだから、病は深刻である。
安倍首相は、選挙で勝利し、国会で多数を握っていることで、自分の行為をすべて正当化している。いまや、首相と自民党は多数派であることによって、自分たちの持つ偏見や先入観をも正当化しようとしている。安保法制に関して国会で野党の追及を受けても、最後は、安保法制は合憲で、自衛隊の活動は安全だと「確信している」と言って議論を打ち切る。中世の欧州人は太陽が地球の周りを回っていると信じていた。確信の強さは信条の中身の正しさとは無関係である。確信の根拠と論理を説明するのがまっとうな議論である。
希望的観測や先入観をもとに政策を考えれば、失敗するに決まっている。戦後70年の今、国を滅ぼした無責任の体系を反省するのではなく、反知性主義に染まった政治家と官僚がそれを繰り返し、一層無責任な政策決定を進めようとしている。この風潮をいかに止めるか。反知性主義者に知的になれと説教をすることには意味がない。しかし、偏見をむき出しにして権力を使う政治家を次の選挙で落選させることはできる。また、反知性主義の蔓延をこれ以上広げないために、野党やメディアがなすべきことは多い。沖縄の二つの地方紙がそうしたように、無知や偏見に対してメディアと言論人は徹底的に戦わなければならない。また、野党が今なすべきこと は、中途半端な対案を出すのではなく、政府の欺瞞をあくまで追求し続けることである。

もう前を向いて進もう!・・・自民党に代わる受け皿づくりを|2015年9月22日 江田憲司
自民党が慢心するのも、世論調査で安倍内閣の支持率が一時的に下がっても、法案の衆院通過時にそうだったように、ひと月後にはまた元に戻る。「熱しやすく冷めやすい」「人のうわさも75日」「のど元過ぎれば何とやら」ということわざに象徴されるように、「世論なんてそんなものさ」と高をくくっているのだ。
ましてや、来年夏の参院選までには、国民なんて今回のことはすっかり忘れてしまっているだろう、これからは経済に万全を期していくとでも言っておけば簡単に 国民は騙せるだろう。それが自民党の魂胆なのだ。そういう意味では、これからは、政治家だけでなく「民度」も問われているとも言えよう。

戦争法案可決。あの日、傍聴席から見えたすべて。の巻|2015年9月23日 雨宮処凛 
「アメリカと経団連にコントロールされた政治はやめろ! 組織票が欲しいか? ポジションが欲しいか? 誰のための政治をやってる? 外の声が聞こえないか?  その声が聞こえないんだったら、政治家なんて辞めた方がいいだろう! 違憲立法してまで自分が議員でいたいか? みんなでこの国変えましょうよ。いつまで植民地でいるんですか? 本気出しましょうよ!」
9月18日の深夜2時過ぎ。参議院・本会議場に山本太郎議員の「魂の叫び」が響いた。騒然とする議場。野次。怒号。傍聴席からその様子を見ていた私は、涙を堪えることができなかった。
それから数分後、安保関連法案は可決された。傍聴席に、啜り泣きの音が響いた。本会議場から外に出ると、参議院議員会館前に集まった人々の「廃案!」という 叫び声は一層大きくなっていた。長くて熱い、戦後70年の夏が終わった。だけど、不思議と悲壮感はまったくなかった。ここから、この夏に繋がった人たちとまた始めればいいのだ。それはものすごく簡単なことで、私は春よりも、ずっとずっとたくさんのものを手にしていることに気がついた。
それにしても、怒濤の日々だった。
いよいよ参議院での強行採決が迫った9月16日からは、ほとんど「現場」にいた。午後に開催された地方公聴会に傍聴に行くと、会場の新横浜プリンスホテル 周辺には、びっくりするほどたくさんの人が集まり、「強行採決反対!」と声を上げていた。公聴会の席で、公述人の一人・弁護士の水上貴央氏は、この日の18時からとりまとめの審議・そして強行採決という流れになっていることに対して釘を刺した。
公聴会が採決のための 単なるセレモニーに過ぎず、茶番であるならば、私はあえて申し上げるべき意見を持ち合わせておりません。委員長、公述の前提としておうかがいしたいのですが、この横浜地方公聴会は、慎重で十分な審議をするための会ですか? それとも採決のための単なるセレモニーですか?」。これに対して鴻池委員長は「この件につきましては、各政党の理事間協議において本日の横浜の地方公聴会が決まったわけです。その前段、その後段についてはいまだに協議は整っておりません」 と回答。しかし、この公聴会、結局「派遣報告」も何もなされず「アリ バイ」作りのためのものでしかなかったことは、今は誰もが知る通りだ。
翌17日、委員会で大混乱の中、なりふり構わぬ「強行採決」がなされてしまったことは周知の通りだ。これを受けて、この日の夜から国会で本会議が続いた。野党が抵抗のため、問責決議案を連発したからだ。
あの時(13年12月の「特定秘密保護法」の強行採決)も、そうだった。委員会の議事録には一言も「採決」なんて書いていないのだ。なんの記録にも残っていないのに、ああやってなされてしまう採決。そして更に今回は「開会宣言」すらなく、野党議員は質問権も討論権も票決権も奪われた。「丸裸の暴力」。何人もの野党議員が本会議の討論で使った言葉だ。あまりにも、汚いやり方である。 しかし、これが通ってしまうのだ。憲法違反の法律が、あんな暴力的な方法で通ってしまうのが今の日本の現状なのだ。あまりにも空しい「数」の力である。
この日、傍聴を終えて午前2時過ぎに外に出ると、議員会館前には冷たい雨の中、傘をさして座り込んでいる人たちが大勢いた。また、胸が熱くなった。
そうして、18日午後2時過ぎ。この日も本会議を傍聴していると、山本太郎議員が突然「ひとり牛歩」を開始! 誰一人続く人のいない牛歩は計5回なされ、最後、安保法案へ反対する投票をする直前に叫ばれたのが、冒頭の「魂の叫び」だ。
このひとり牛歩については、いろんな意見があると思う。しかし、私はたった一人、あの空気の中で牛歩をやり遂げた山本議員に、心からの拍手を送りたい。外で連日声を張り上げる人々を思うと、いても立ってもいられなくなったのだろう。
5回の牛歩は、傍聴席から見ると残酷と言っていい光景だった。自民党席からの激しい野次、怒号。「そこまでして目立ちたいのかよ!」「お前いい加減にしろよ!」などの罵声。牛歩をしている山本議員の後ろから、「邪魔!」とばかりにわざとぶつかってくる自民党の女性議員もいた。そんな時は、自民党席からワーッという歓声が起きる。対して山本議員には、野党からの拍手もなく、応援の言葉もほとんどない。ただ、時々牛歩をする山本議員の背中や肩を「頑張れよ」というふうに叩いていく野党議員はいて、そんな時だけ、ほっとする。だけど、本当に本当に「ザ・針のむしろ」な空気感。あれをできる人は、この国に何人くらいいるだろう。しかし、ひとり牛歩する山本議員の後ろには、国会前や全国で声を上げている無数の人々の切実な思いがあるのだ。それを背負っての、牛歩なのだ。
戦後70年の終戦記念日の翌月、この国は、根底から大きく変わってしまった。しかし、それを押し返す力を、今の私たちは既に持っている。その力を、次の闘いで存分に発揮すればいいだけなのだ。




さて、とあるTV番組で、政治家の気概について、政治学者の姜尚中(カン サンジュン)さんはこう語っていました。
政治家になるのは3つの要素が必要になる。
一つめは、気概(情熱、意志の力)
二つめは、見識(歴史がどう動いているかを見定める)
三つめは、責任(応答能力がある、きちんと質問に答えられる)
だんだん政治家が無い無い尽くしになってきたのは、どうしてか。
政治が天職ではなく家業になっている。
家の業を継ぐというか、あるいは、そうでない人はビジネスになっている。
それは、全部(自民)党中央に、お金もポストも公認権もいろんなものが独占化されて、それから世襲化が進んでいく。
こういう状況になっているので、結局、普通の政治家は、票集めの陣笠、イエスマンにならざるを得なくなっているというところに最大の問題がある。

私たち国民は、戦後70年の大切な節目のこの年に、この国の歩むべき道を誤らせた未熟な政治家達の行動を鮮明に記憶に留め、次の国政選挙では、必ずや安全保障関連法の成立に賛成した議員を落選させ、法律の廃止に向け民意を示す必要があると思います。

そして、政治家は、立憲政治に対する国民の信頼を取り戻すためにも、太平洋戦争への突入を目前にして、軍部の独走を許すまじと国­会で時の政府の暴挙をいさめた、あの「反軍演説」の精神を今一度肝に銘じてほしいと思います。