2019年2月16日土曜日

記事紹介|高大接続が狙う高校、大学の教育改革のゴールは遠い。だが、現場の劣化は、とてもそれを待ってくれないかもしれない

2年後に迫った大学入学共通テストに向け、高校教員を対象にした説明会が各地で開かれている。説明役の文科省職員から、似たような話を聞いた。日く「大学入学共通テストで高得点を取れる授業とは、どんな授業か教えてほしい」・・・。

全くその話に驚けなかった。これまでに、教科書会社が作った「アカ本」なる解説本を片手に授業する教員を、何人も見てきたからだ。目の前の生徒の力をどう伸ばすか、どこでつまずいているかを真剣に考えたら、工夫のーつも生まれるだろう。少なくとも、その生徒たちと対面したこともない教科書会社のアカ本頼りにはならないはずだ。にもかかわらず、授業を取材にきた新聞記者の目の前でアンチョコを広げることを恬として恥じないのは、それが日常だからだ。おそらく同僚たちも同じことをしてぃるのだろう。だとしたら、どれほど生徒たちに「自分の頭を使え」と言い続けたところで説得力を持たないのは自明の理だ。結果、生徒たちは手を抜き、頭を使わないで早く結論にたどり着く手段のみを追い、身につけることになる。

「日本では学生は教室でじっと座っている。先生は土瓶から水を注ぐように上から知識を注ぎ込む。後から後から注ぎ込む。一杯になるまで注ぎ込む。場合によっては受け入れるものがいっぱいになってもまだ注ぎ込む。日本の学生は湯呑みのように扱われている」(「戦後日本の高等教育改革政策」士持ゲーリー法一 著)

1948年に来日したCIEのイールズが、日本の大学教育を評して発した言葉だ。もともとこの表現はイールズのオリジナルではない。米国でも大学教育は同様の状況で、世間から問題視されていた。その後、米国では改革が進み、いまや日本の大学のモデルにされている。

一方、日本では約70年たった今も、相変わらずイールズの表現のままの実態が続いている。高大接続改革が始まったのは、その問題意識に立ってのことだろう。旧態依然とした一方通行型の高校と大学の授業をやめ、自ら意欲を持って考え、学ぶ人を育てる授業改革が理想として掲げられている。そのため、いささか逆説的ではあるが、入試を改革するという手法が選ばれた。改革が発するメッセージを真塾に受け止めれば、自ずとすべきことは見えてくる。生徒が自分の頭を使って考えるようになる授業は、教員自身が頭を使い、工夫しなければ作れないと。

高校ばかりでなく、実は大学側も「面倒はイヤ」なのかもしれない。「国立大学としては新テストの枠組みにおける5教科7科目の位置付けとして認定試験(英語の民間試験)を一般選抜の全受験生に課す」ことを2017年11月、国立大学協会として表明した。にもかかわらず、今頃になって「使わない」と言い出す国立大学が次々に出てくるのは、なぜなのだろう。国大協としての方針を表明する前に、議論を尽くしたはずではなかったのか。それとも、面倒な議論に巻き込まれないよう下を向き、頭の上を風が通り過ぎるのを待っていたのだろうか。

真相はわからないものの、こうした大人たちのありようは、確実に学生に伝わっているように見える。できるだけ面倒なことは避け、楽をして果実を得たいとうそぶく学生が目につくのだ。教室外での学習が多い授業は不人気、黙って座っていれば単位がとれる、しかも好成績がとれる授業が好まれる傾向がどの大学でも根強い。授業中メモを取らない、教科書を持ってこない、どころか教科書を購入すらしていないと嘆く大学教員たちの声は、そうした学生の現状を雄弁に物語っている。

先日、ある私立大学の教員が、学生に教科書を読ませるために期末試験を利用しようという奇抜な発想に立って、試験への「持ち込み可の資料」に教科書を掲げた。

ところが、前日になって複数の学生から寄せられたメールの内容は、どれも「教科書ってなんですか」「どこにありますか」。そこで、タイトルと出版社、図書館にも置かれていることを明記してすべてに返信したにもかかわらず、試験に教科書を持ち込んだ学生はほとんどいなかったとか。教科書を探す手間をかけるぐらいなら、単位を落とした方が面倒がなくていいと判断したようだ。

かたや、意欲のある学生にはあきらめ感が漂う。大学での学びに期待し、苦しい受験期を乗り越えてきたのに、これか。注ぎ込まれるだけの「湯呑み」になりきることもできない。先日、東京都内の難関大学の1年生が「大学は学歴のために通う。高いGPAを保持し、資格を取り、留学もするが、全ては就職のため」と冷めた表情で語るのを聞いた。

高大接続が狙う高校、大学の教育改革のゴールは遠い。だが、現場の劣化は、とてもそれを待ってくれないかもしれない、と危機感を抱いている。

ある大学が、授業をひとコマ90分から100分に改めようとしている。ただなぜか、途中で10分間休憩を入れるという。ああ、学生が座っていられないのだな、とひとり合点してうなずいていたら、「学生だけじやないですよ」と大学職員が残念そうな表情で言った。一方的な講義形式ですら、90分持たせることができない教員が少なくないのだという。

それでも、世問の大学への期待度は下がらない。自民党の行政改革推進本部が今年6月の「骨太の方針」づくりに向け、議論を煮詰めているが、中核にあるのは国立大学法人改革だ。「イノベーション溢れる国家であり続ける」には、やはり大学、それも国立大学が鍵を握ると、本部長の塩崎恭久・元厚生労働大臣は力を込めていた。定員と授業料を各国立大学法人の裁量に任せるなど自由度を高め、運営費交付金頼りではない、自律的な経営体への脱皮を支援したいという。「国立大学が力を発揮できるようにフレームワーク(枠組み)を変えることが、我が国に必要だ。文科省との関係、報酬体系、資金調達力、運用能力・・・。大事なのは、国立大学法人が本来の力を発揮するための仕掛けだ」と語る。国立大学法人は、評価の嵐の中にある。昨年秋に財政審が打ち出した新年度予算の方針も、運営費交付金の10%を評価に基づいて配分する内容だ。国立大学はどうなるのだろう。面倒などと言ってはいられないはず。

取材ノートから 読売新聞専門委員 松本美奈|IDE 2019年2-3月号 から