遅かれ早かれ、死は誰にも平等におとずれる。
だからこそ、やりたいことをやってからあの世に行くのでなければ、なんのための人生かわからない。
だからといって、「やることがない」と、年をとっても、いつまでも第一線にしがみついているのは、あまりにカッコ悪い。
なぜなら、「年寄のほうが世間知らず」だからだ。
これは、「スマホ」や「遊び」の世界を考えればわかる。
子供は楽々とスマホやタブレットを使いこなすのに、ほとんどの年寄はお手上げだ。
そして、遊びも、年寄の頃と今の子供では大違いだ。
また、第一線をしりぞいてからやることがないというのは、現役生活の間に「世のため人のために尽くしてこなかった」、と告白しているようなものだ。
世のために人のために動いていた人は、のちに必ず、まわりからの引きがあるからだ。
自分のことだけしか考えてこなかった利己の人には、誰も仕事や、ボランティアなどの役職を頼まない。
そして、「出処進退」という言葉があるが、安岡正篤師は、人物を見るのに一番重要視されるのが「出処進退」のうちの「退」だという。
「退」とは、職を辞(じ)することだが、そこにごまかしのない「人間性」が出るからだ。
地位にいつまでも執着して「自分でなければできない」、などと言っていないか、だ。
やめるときには、自分ひとりで決断するしかない。
人に相談すれば、必ず「まだまだできますよ。やめるのは早すぎます」と言うにきまっているからだ。
特に社長や政治家の年寄は第一線から早く身を引き、若い人たちにバトンタッチすること。
出処進退があざやかな人でありたい。