2008年7月22日火曜日

大学における「会議」というもの

義務教育諸学校はいよいよ今週から夏休みに入りました。大学もそろそろ夏休みモードに入ります。

とはいっても、これは学生と教員だけのことです。大学職員には学生や教員のような長い長い夏休みはありません。学生がいないからといって仕事がないわけでもありません。このことは、社会の皆様がよく誤解されていることのひとつでして、ひっそりとした大学の中でも、実は黙々と働く大学職員の姿があるのです。

大学が夏休みに入ると大学職員にとってとてもいいことがあります。それは、連日のように大学のどこかで開かれている様々な「会議」というものが一時お休みになるということです。

大学には社会や民間企業の皆様から見て実に不思議な世界が数多くありますが、この「会議」というものがそのひとつでして、その種類、数、要する時間の常識を超える多さには、さぞやびっくりされあきれかえることでしょう。

なぜそれほどまでに大学には「会議」が必要なのでしょうか。簡単に申し上げれば、教員集団による悪しき民主主義、合意形成を重んじる教員の自治意識が長きにわたり大学を支配しているからなのです。この大学の特殊性が、非生産的・無責任な議論をはじめ、多くの会議、無駄な時間・労力・費用を産み出しているのです。

学生への教育や研究の高度化を本務とする教員が、例えば、駐輪場を構内のどこにつくるかといった些細な大学の管理運営についての検討に膨大な時間を費やす、しかもそのために、高額な教員人件費、印刷費、光熱費、紙代、資料を作成する職員の人件費等々といった多額の費用が費やされている、このような社会から見て全くの非常識な状態が、大学の中では平然とまかり通っている。皆さん放置できますか?

経験から申し上げれば、大学における「会議」というものは、そのほとんどが、形式、内容ともに無駄なものだと思います。それは会議の成果、つまり責任のある効率的な意思決定を行う場として全く機能していないからです。

学長のリーダーシップの重要性が謳われて久しいわけですが、その理念に従って大学が効果的に機能している国立大学はおそらくわずかでしょう。現実は、多くの教員出身学長が、歴史と文化の異なる各部局への配慮に心を砕き、バランスと調整に奔走しているといったことではないでしょうか。したがって、会議コストの削減や効率的な運営に向けた職員の努力も、残念ながら、学長を含めた教員中心の会議においてはほとんど効果がなく、改革のモチベーションは低下する一方です。

さらに、会議の中身についても、例えば、大学の経営戦略を議論するような重要会議ですら、学長、理事、部局長といった大学の経営トップが顔をそろえていながら、大所高所の議論はおろか、議論が枝葉末節、資料の文言やてにおはの指摘、各部局のご都合論・利害追及に終始し、「部局あって大学なし」といった状況ですし、全入時代を迎え、これからの教育体制をどう強化するのかといった解決が急がれる課題についても、現有教員の学問領域(言いかえれば「生首」)を最優先に議論が行われていて、どういった人材を育てるのか、社会のニーズは何かなど、まず考えなければならない「学生」を蚊帳の外に置いた無意味な議論が展開されています。「教育組織」論ではなく、「教員組織」論という本末転倒の情けない内容の会議ばかりであり、これまた大学を想う職員にとってはモチベーションの低下の一途です。

最後に少々古くはありますが、大学における「会議」というものについて、見事な指摘をされている記事をご紹介します。的確なご指摘に諸氏同感といったところではないでしょうか。

大学における「会議」というものの在り方は、小さいことのようですが、みんなで考え直さなければならないとても大事なことではないかと思うのです。


大学には会議が多い。いろいろな大学があるからこの様に断定すべきではないかも知れないが、私の見聞するところでは多い。

なぜ多いのか、あるいは多くなりがちであるのか。私は、大学の教員が意思決定に関わり過ぎていること、そしてそのことが良いこととする風潮があることに原因していると考える。

大学の自治の在り方は、教員団による自治とする考え方である。教員は自主性、自律性が高く、独立独歩の傾向が強いので、全員参加的な会議を好む向きがあると考える。それぞれの個性を尊重した民主的な決定が大切であるとの主張も会議を多くし、また、長くする原因となる。

教育の在り方や共同的、組織的研究の在り方などその分野の専門家による徹底した会議は、大学として大変結構なことであり、大いに会議を催して欲しいものである。一方、多くの者が参加する会議は、その参加者に時間を使わせることになる。そのため、その犠牲に値する会議でなければならない。教育研究のためには大いに価値があると考えるが、本来の任務として教育研究を担う教員が、多く参加する大学の管理運営の会議となると大いに疑問である。

教育研究推進のため、ファカルティーメンバーと学長等本部執行部、部局等執行部との適切な役割分担によりファカルテイの教育、研究の時間を確保すべきである。執行部の中に事務系職員等が当然含まれる。それら事務職員等と教員との役割分担が必要である。役割分担を実現するためには、両者間の信頼関係が必要であり、特に職員の専門的能力とコミュニケーション能力等の一般的資質の向上が大切であり、それが無いとなると役割分担は不可能である。

従来の国立大学においては、事務職員、特に幹部職員は、文部科学省の人事権のもとにあり、ファカルティーは実質的に大学の人事権と制度的に二分された状態であったが法人化によりその人事権が大学に一元化され、そのことに関する不満は無くなった。また、職員採用も様々な人材を柔軟な仕組みで採用することが可能となった。職員側の分担能力が高まった時、教員の意識の変革が求められる。それを促す学長等のリーダーシップが重要となる。

教育研究の成果を厳しく問う姿勢、そして競争的環境の強化が大学内外において高まることが大変重要となる。(平成17年3月14日 文教ニュース 文部科学時評から)