2009年5月6日水曜日

かけがえのない子どもたち

昨日は、5月5日の端午の節句でした。多くの方はこの特別な日を子どもや家族とともに楽しく過ごされたのではないかと思います。

我が家では恒例により子ども達と菖蒲湯を楽しみました。端午の節句に菖蒲湯に入るという古くからのしきたりの由来は諸説あるようですが、ある説によれば、菖蒲は、古代中国より厄除け効果があるとされ、日本でも奈良時代、平安時代の宮廷において、端午の日には菖蒲を軒に飾り付けたりなどの習慣があったこと、また、端午の節句に菖蒲湯に入る習慣が広まったのは江戸時代からのようです。「ショウブ」は、勝負とか尚武と同音であり、菖蒲の葉の形が剣に似ていることから男の子が武士らしくたくましく育つようにとの願いが込められているそうです。

さて、この日記では、筆者が大学に勤務する者であることから、これまで主に高等教育に関する記事をご紹介していますが、教育的諸課題が益々多様化・複雑化する今日では、高等教育に至る家庭教育、社会教育、初等中等教育等の課題を見過ごすことはできません。将来を担うかけがえのない子ども達の健全な成長は、一貫した責任のある教育体制の下でこそ確実なものとなるでしょうし、そういう意味で、私達大人は、目先の課題解決のみに視点を置くのではなく、子ども達の将来にわたる希望と夢のある道標を示していかなければなりません。

そのために私達大人は、日頃から自分(あるいは自分の家族)のことだけではなく、この世に生きる子ども達のために何ができるのか、何をなすべきなのかを真摯に考え行動していくことが大切なのではないでしょうか。

こどもの日という特別な日を迎えるに当たって、各新聞もいろんな角度から見解を述べています。以下に一端をご紹介します(消去される可能性があるため全文掲載します)。かけがえのない子どもたちの将来を一時の間考えてみませんか。

こどもの日に-世代間負担を見直そう(朝日新聞 社説)

お父さん、お母さん。おじいちゃん、おばあちゃん。今日は私たち、子どもの話を聞いてください。
最近の新聞では、すごく大きな額のお金をよく目にします。「経済危機対策のために予算規模が100兆円を超える」とか、「政府と自治体の債務残高が800兆円になる」とか。
これは、国が借金だらけになることだと聞きました。よくわからないけれど、このお金は将来、私たちや弟、妹たちが払うことになるの?
気になるのは、それだけじゃないんだ。今、おじいちゃんたちは年金というお金をもらっています。私たちがおじいちゃんぐらいの年になったら、同じようにもらえるのかな。
今とくらべて、もらえるお金が減るかも、って先生が言っていました。これ以上やりくりが大変になったら、今の仕組みが続けられなくなるかもしれない、とも聞きました。
私たちは一人っ子も少なくないから、みんなからお小遣いをもらえて、「ポケットがたくさんある」なんて言われる。でも同年代が少ないということは、税金なんかを1人でたくさん払わないといけないってことだよね。
大人になってからの仕事のことも気がかりなんだ。お父さん、お母さんの友だちには、同じ会社にずっと勤める人が少なくなっているんだって。
私たちのころにはどうなるんだろう。今までよりもたくさんお金を払わないといけないのに、ちゃんと仕事がなかったら、困ってしまう。
大きくなったらお年寄りを助けないと。それは、わかっているんだ。でも私たちの未来について、大人たちは真剣に考えてくれているのかな。
国の偉い人にも聞いてみたいけど、まだ選挙には行けないから・・・。

子どもたちの目から財政と社会保障の現状や雇用情勢を見たら、どう見えるだろうか。大人たちに何と言うだろうか。その思いを代弁してみた。
子どもたちの心配は、決して誇張ではない。納税や社会保障などを通じた受益と負担の「損得格差」は、今の高齢者と未成年で生涯に1億円にもなるという試算がある。
また新生児は、生まれた時点ですでに1500万円以上の「生涯純負担」を背負っている。秋田大の島澤諭准教授が世代会計という手法を使って、そうはじき出している。「私たちは将来世代が払うクレジットカードを使っている」と島澤氏は例える。
経済も人口も、右肩上がりの時代ではない。世代間負担の仕組みを根本から見直さなければ、子どもたちの未来は削り取られる一方だ。
この国の将来を支える世代に、どう希望を残すのか。それを考えるのは、参政権をもつ私たち大人の責務だ。
http://www.asahi.com/paper/editorial20090505.html#Edit1


こどもの日 “親業”もプロ目指したい(産経新聞 主張)

新緑の中、さわやかな風を受けて鯉(こい)のぼりの泳ぐ風景は何となく人の心を和ませる。こどもの日のきょう、子供の健やかな成長を願い、また健やかに成長してこられたことに感謝して、家族団欒(だんらん)でお祝いをする家庭も少なくあるまい。そんなほほ笑ましい光景が目に浮かぶようだ。
その一方、親の子殺し、子の親殺しという事件が、新聞の社会面からなかなかなくならない。
先の敗戦によって、焦土と化した日本は、エコノミックアニマルと揶揄(やゆ)されながらも、わずかな間に世界第2位の経済大国として再生した。
しかし、戦前の軍国主義を忌むあまり、修身という観念を置き去りにしてきた。物質的な豊かさは手に入れたが、精神的豊かさはとてもそれに及ばない。道徳は乱れて、自分本位が幅を利かす。
いま、教育の現場で小1プロブレムという現象が全国のあちこちで生じている。先生の話を聞けない、勝手におしゃべりをする、授業中に教室内を徘徊(はいかい)し、教室外へ出て行ってしまう児童もいる。
しつけることよりも、子供の自己活動を重視し、幼児の主体的活動を促す、保育所保育指針や幼稚園教育要領の個性の重視に問題点があったとの疑念なしとしない。同時に、家庭でのしつけがなおざりにされてきたツケであることは間違いない。
子供の健やかな成長とは、当然ながら身体面と精神面の両面でなくてはならない。道徳の教育といっても難しいことではない。二宮尊徳は刃物のやり取りをするのに、刃先の方を自分に向け、柄の方を相手に向けて差し出すことが道徳の基本だと教えている。
小1プロブレム解消のために、幼保小一貫教育が東京都品川区などで模索されているが、どういう子供に育つかは、親が日常生活の立ち居振る舞いにどれだけお手本を示せるかにかかっている。してよいこと悪いことの分別、寛容、謙譲、惻隠(そくいん)の情、規律を守る習慣など、自ら恒常的に学んで“親業”のプロを目指してほしい。
幼児や小学校低学年のうちは脳に柔軟性があって、知識や情操、徳性についてさえ恐るべき吸収力を持っている。自ら学び積み上げた親らしさを十分に発揮して、子供が心身ともに健やかに育つように、愛情を持って子育てに心を砕いてほしい。よい親がよい子をつくるのである。
http://sankei.jp.msn.com/life/education/090505/edc0905050252000-n1.htm


こどもの日 「ありがとう」あふれる社会に(読売新聞 社説)

「ありがとう つたわるこころが うれしいよ」
こどもの日から始まる児童福祉週間の今年の標語は、34歳の男性が作った。若い親の世代から子どもたちへのメッセージだ。
標語を作ったお父さんが勤めている「面白法人カヤック」という会社は、さまざまな人が「ありがとう」の言葉を投稿し、誰でも見ることのできるインターネットサービスを運営している。
そのページを見ると、感謝する人もされる人も、知らない人なのになぜか楽しい。感謝の言葉が数多く飛び交っていると分かるだけで、気持ちは明るくなる。
「ありがとう」という言葉はいい響きだ。だが、感謝よりも抗議や非難の声の方が社会にあふれ、このところ少し耳に届きにくくなってきた。
問題が生じた時にきちんと責任追及することは当然だが、最近はクレーマーと呼ばれる、理不尽に抗議する人も目立つ。
たとえば病院で医師と患者が、学校で教師と生徒・保護者が、信頼ではなく不信を前提に向かい合っているとすれば、それは互いに感謝と思いやりを二の次にしているからではないか。
読売新聞が昨年末に行った世論調査で「家庭でのしつけや教育のうち、きちんとできていないと思うもの」を尋ねたところ、約半数の人が「他人を思いやる気持ちを持つこと」(51・1%)と、「あいさつなどの礼儀を身につけること」(49・2%)を挙げた。
大人はもっと、子どもたちに「ありがとう」の大切さを伝えるべきだということだろう。
文部科学省は今年度、小中学校の道徳教育に用いる教材「心のノート」を改定した。
小学校低学年版に「ありがとうカードをあげよう」という項目がある。家や学校や近所で、お世話になっている人に、感謝の気持ちをカードにして渡す。受け取った大人にはちょっとした“宝物”になりそうだ。
中・高学年と中学生版にも、感謝の気持ちを言葉にしてみる項目が盛り込まれている。とても大切なことだ。伝える手段はインターネットや携帯メールでもいい。
こうした取り組みを学校だけにまかせてはいけない。きょうは、子どもたちが持っている「心のノート」を親子で開き、だれもが多くの人に支えられていることを語り合ってはどうだろう。
大人がまず、子どもたちの良い行いには「ありがとう」と大きく声をかけたい。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20090504-OYT1T00906.htm


こどもの日に考える 拝啓 未来を生きる君(東京新聞 社説)

拝啓、未来を生きる君たちへ。未来はかすみ、悲しみだって避けては通れません。けれども、明日はきっとよくなるという、希望を少し同封します。
「誰の言葉を信じ 歩けばいいの?」
アンジェラ・アキさんは、作詞、作曲を手掛けた「手紙」という歌の中で、繰り返し、そう問いかけます。
「手紙」は、昨年度「NHK全国学校音楽コンクール中学校の部」の課題曲でした。
十五歳の「僕」が未来の自分自身に手紙を書いて、多くの悩みで張り裂けそうな心の中を打ち明けます。大人になった未来の「僕」は、十五の「僕」に返事を書いて励まします-。

未来との往復書簡

二人の「僕」のやりとりにそれぞれの今を重ね合わせてか、「手紙」は中高生だけでなく、世代を超えた愛唱歌として広がりつつあるようです。
アンジェラさんは十代のころ実際に、「未来の自分へ」と題した分厚い手紙をしたためました。
大人になって読んでみて、夢や希望をつづるというより、悩みと愚痴が延々と続く「未来への手紙」に驚きました。
友達や先生の何げないひと言にひどく落ち込んでしまったり、片思いに悩んだり…。ところが今では、片思いの相手の顔さえ、まったく思い出せません。
「正直、『そんなことで悩むなぁ!』と思うことばかり書かれていたけれど、当時の私は『そんなこと』でいっぱいいっぱいだったのだなと思いました」と、アンジェラさんは、コンクールで「手紙」を歌う中学生との交流を記録した「拝啓 十五の君へ」(ポプラ社)で語っています。
「そんなことで」とあっさり言えてしまうのは、今、現に見えない明日におびえて悩む十五の「僕」よりも、二十五歳になった「僕」は十年分だけ、未来を知っているからです。

大人になれば大丈夫?

子どもにとって、大人は未来そのものです。ひと足先に未来をのぞいた者として、大人は子どもに安心と希望を示さなければなりません。希望への道しるべであり続けなければなりません。
アンジェラさんは、その本の中でこんなことも言っています。
「中学生が歌いながら、『自分も大人になったら、きっとこういう気持ちになれるんだ』と思ってくれるように。今は先が見えなくて、苦しくてつらいかもしれないけれど、でもきっと大丈夫だから!」
五月五日の背比べも、もう今は昔でしょうか。端午の節句は、未来への階段を上る子どもの成長を、一年に一度柱の傷を見比べながら、家族そろって確かめ合う日だったのでしょう。
さて、その大切な道しるべ、このごろ特に間違いが多いみたいで気がかりです。
公開中の映画「子供の情景」はイランとフランスの合作です。
撮影当時十九歳だったイラン人女性のハナ・マフマルバフ監督は、アフガニスタンの子どもたちを戦争やテロへ導く大人の影を、リアルに描き出しています。
貧困と孤独の中で、大人と同じ暗い目をして、米国相手の戦争ごっこ、タリバンごっこ、処刑ごっこに没頭する少年たち。
「戦争ごっこなんか嫌い」と叫ぶ少女の悲痛な声は、砂漠の風にかき消されてしまいます。
遠い異国の出来事だけではありません。「先進国」と呼ばれる日本では、食品偽装、エコ偽装、拝金経済、虐待、汚職、振り込め詐欺に環境破壊…。政治家も確かな未来を示すことができません。
世界各地でミツバチが、なぞの大量死を遂げています。
ハチの社会では、外敵に巣を襲われたとき、まず老蜂(ろうほう)が戦います。人間界ではその逆です。
ミツバチは、未来を生きる子孫のために、目に見えない環境異変と戦って、人知れず犠牲になっているのでしょうか。私たちもハチに負けてはいられません。

私の言葉を信じなさい

「誰の言葉を信じ 歩けばいいの?」
アンジェラさんは「手紙」の中で、答えもちゃんと示しています。「自分の声を信じ 歩けばいい」と。でも、それだけでいいのでしょうか。
今、負けそうで、泣きそうで、消えてしまいそうな「僕」や「私」は無数にいます。彼らの肩を抱きながら、大人たちが「私の言葉を信じなさい」と、正々堂々、胸を張って言える社会を築くべきではないですか。
端午の節句。さわやかに泳ぐ鯉(こい)のぼりを見上げつつ、大人としてのひそかな決意を、心の中の柱に深く刻みつけておきました。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2009050502000080.html