2009年9月9日水曜日

沖縄旅行記 2009 (14)沖縄の苦しみと闘い-米軍基地と安保

シリーズでお届けしてきた「沖縄旅行記 2009」は今回で終わりとなります。
今回は前回に続き、森口 豁(もりぐち・かつ)さんが書かれた「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」の中から、沖縄戦終結後64年もの歳月が過ぎ去った今でも、「沖縄が抱える苦しみと闘い」の一つである「米軍基地と安保」に関して、私が特に皆さんに読んでいただきたいと思った部分を抜粋してご紹介します。

折りしも、今日は、先の総選挙で大勝し政権交代を成し遂げた民主党と社会民主党・国民新党の連立が合意された日となりました。三党の連立政権合意書の中には、社民党の強い主張を反映し、次のような文言が明記されました。

主体的な外交戦略を構築し、緊密で対等な日米同盟関係をつくる。日米協力の推進によって未来志向の関係を築くことで、より強固な相互の信頼を醸成しつつ、沖縄県民の負担軽減の観点から、日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む。

単なるスローガンで終わることなく実効性のある政策転換を図っていただきたいと心から願っています。

沖縄には、未だに米軍が無秩序に打ち込み、地中に埋もれたままの砲弾が住民の命を危険にさらしています。私が愛読しているブログ「渡嘉敷島通信 アイランズ・スケッチ」の今日の記事は次のような内容でした。掲載された写真とともにご覧ください。

ホウダンのカイダン

いわゆる64年前の沖縄戦の時に、まずこの慶良間諸島にアメリカ軍が最初に上陸した。
その時に、渡嘉敷島に撃ち込まれた砲弾は数知れず、今でもたまに不発弾が見つかっているのである。
無人島にもその爪痕はしっかりと残り、所々に錆びた砲弾が、火薬を抜かれて捨てられいるのである。
無人島探索で島を歩くと、山を下る所にも、元?砲弾が階段のように埋もれている。
まさに砲弾の階段である・・・。
http://tokashikijima.ti-da.net/e2789192.html


さて、前置きが長くなりました。「米軍基地と安保」がもたらした沖縄の苦しみと闘いをご紹介します。

暴走するYナンバー 死者たちの安保

「安保」が奪った母子3人の命

3万250-

これは何を表す数字かおわかりだろうか。
なんとこれは日本復帰後の沖縄で米軍人・軍属が引き起こした交通事故の件数(1972~95)である。年平均にすると1260件、一日3.45件である。

日本人の大多数は「安保」を水や空気のような、なくてはならない大切なものと思っているに違いないが、沖縄では「安保」はある日突然家庭のなかにまで飛び込んできて生活を破壊する”凶器”であり、いのちや人権を脅かす危険な存在である。米軍が引き起こす事件や事故とそのてんまつを見ているとつくづくそう思う。

1996年1月7日の白昼、沖縄本島中部の北谷町のキャンプ瑞慶覧(ずけらん)前で、歩道上を歩いていた母子3人が米兵の運転する乗用車にはねられ死亡した。「基地のなかに沖縄がある」といわれる沖縄。3人の海兵隊員が小学校6年生の少女を暴行、沖縄の基地問題が政治問題化し、米軍の綱紀粛正が求められているさなかのことである。(途中略)

この事故は、安保体制下の基地問題の本質をあらためて浮き彫りにした。在日米軍基地の運用と駐留軍入らの地位を定めた日米地位協定が被害者の前に立ちはだかり、彼らを無権利に近い状態にしてしまうのだ。つまり、被害者は暴走するクルマによって殺され、しかも日本とアメリカという二つの国家が結んだ取り決めによって再度殺される。十分な補償さえおこなわれないからである。

米軍人らが引き起こした事件・事故の被害者補償は、加害者の「公務中」に起きたか、それとも「公務外」のことかを分別したうえで処理される。公務中の場合の補償は日米両国が分担して負う(地位協定第18条5項)が、公務外の場合は、日本政府の査定額を米側が受け入れた場合にのみ「米当局」によって「慰謝料」として支払われる(同18条6項)ことが地位協定で取り決められている。

問題は、この慰謝料を米側が「好意的支払い」(Gratuitous Payment)と位置づけ、支払いに応じるか杏かの最終決定権と支払い当事者を「米当局」としていることである。つまり、支払うかどうかは米政府の裁量であり、仮に支払いに応じるにしても、それは「補償金」ではなく、あくまで米政府の善意ということだ。

安保が見える丘

嘉手納基地は沖縄市と嘉手納、北谷(ちゃたん)南町にまたがり、その総面積は1997ヘクタール(成田空港の約2倍)だが、その土地の9割にあたる1841ヘクタールは民有地、つまり個人の所有地である。戦前までここには21の集落があり、約3万人が暮らしていた。当時のことを何もかもよいことづくめとまで言う気はないが、先祖の墓へも自由に行き来できない生活を半世紀以上も強いている政治を正常といえるわけがない。

初めに基地があったのではない。これだけはしっかりとわかっておいてほしい-。
これは「自分たちの土地を返せ」と叫びつづけている人たちの最低限の願いだ。

<カデナ>基地に入る

嘉手納基地を北東から南西へつらぬく大滑走路をクルマを運転して突っ走った。滑走路の幅は91メートル、長さは4千メートル、ちょうど一里。最新鋭ジェット戦闘機や偵察機が離発着し、かつてはB52戦略爆撃機がベトナム渡洋爆撃のため、連日のように発進した巨大滑走路だ。そこをポンコツの”軽”で滑走路の端から端までをフルスピードで飛ばした。ぼくが暴走族かカー・マニアだったら、さぞ満足感に酔いしれたことだろう。だが、軽自動車の限界にちかいスピードで走ってもいっこうに先の見えないその広さに、ぼくは満足感どころか腹立たしさがつのるばかりであった。

基地のなかに入った目的は二つあった。一つは基地のなかのかつての村は、いったいどの程度面影をとどめているかを確かめたかったこと。そしてもう一つは嘉手納基地の内側から周辺の住民地域を見たかったこと。基地のなかに職を持つ者でもないかぎり、普段ぼくら日本人はフェンスの外の風景しか知らない。異なる方角から見る自分たちの住む町、つまり島の主人公でさえ見ることのできない”新しい風景”がそこにあるはずだ。きっとそれは人家のひしめく息詰まるような狭い空間には違いないが・・・。

ところが、その期待はどちらもはずれた。フェンスのなかに残っていたのはわずかばかりのガジュマルの木といくつかの遺跡だけ。そして、基地のなかから周囲に目をやっても何も見えない。”対岸”はあまりにも遠すぎた。まるで別天地なのである。

そこでわかったことが一つある。これでは基地内の米兵たちに、土地を取られた地主らの気持ちを理解しろと言っても無理だ。はるけき彼方へとつづく幅広い滑走路と、随所に敷きつめられた青々とした芝生。両サイドに立ち並ぶ大きな格納庫。そして飛行場地域を離れると、こんどはワシントンの高級住宅地かと見まがうような広い庭の目立つ住宅地。銀行もあれば映画館やゴルフ場、消防ステーションに大学にチャペル・・・。

それにしてもこの人口密度の低さはどういうことだろう。広大な敷地内をハイウエイのように縦横に走る道路にしても、すれ違うクルマはほとんどない。もちろん人影もだ。

目の前にひらける非日常の世界。こんなところで生活していては沖縄の苦悩はわかるまい。そのうえ、基地のフェンス沿いにはよく繁る丈の高い植物が一寸の隙間もないほど植えられている。日本政府が米軍への”思いやり予算”で植栽している。これは基地内の贅沢ざんまいを住民に見られないための目隠しなのか、それとも異常なまでに過密な外界から米兵の目をそらそうとするのか。きっと、そのどちらも当たっているだろう。

沖縄の基地は、かつて米軍が思うがままに鉄条網で囲い込んだ土地を72年の復帰時に政府が追認、ほぼそのまま使わせている。基地が島の2割を占めているがゆえに、ゆがみきった産業構造や人口過密化県の実態を知りながら・・・。

土地は時代とともにその重要性も評価も変わる。基地も例外ではない。以前は許されていた広さであったとしても、地域の社会・経済状況の変化にともない許容度は違ってくるものだ。畑の真ん中に建てたはずの鉄工所や自治体のごみ処理場の周辺に住宅が押し寄せれば、いずれ移転を求められる。既得権を主張しても時代はそれを許さない。大家と店子の関係と同じだ。だから物の貸し借りには昔から一定の契約期限が設けられている。

贅肉ざんまいの<カデナ>の広さは、ぼくの感情を高ぶらせる。地主や地域社会が自分の土地を使いたいと言えば、借り手がそれに耳をかたむけるのは当然だ。しかも返還要求はいまにはじまったことではない。そのような状況に目をつぶって土地を地主に返さず、米国に提供しつづけているこの国の役人と、無批判に提供を受けている米国政府関係者、そしてその土地を我がもの顔で使っている米軍人と家族たちの良心を、ぼくはうたがう。

地域が基地で分断されたため、人口規模からして一つあればよいはずの消防署を2つも3つもつくらなければならない自治体がある。米軍基地が町のど真ん中にいすわる宜野湾市や北谷町である。非常時でさえ救急車や消防車が基地内を走ることを政府も米軍も許さない。このため市民は余計な出費と犠牲を強いられている。これに至っては人道問題、つまり「人の道」に反する問題だ。1996年2月に北谷町の国道で母子3人が米兵の運転するクルマにはねられた事故では、基地を迂回しなければ現場に行くことができないため救急車の現場到着が遅れ、救助活動に支障をきたした。

-もう少し到着が早ければ何とかなったのに・・・。

市職員はこう言う。この事故では、はねられた3人全員がいのちを落とした。



(おわり)



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