2009年9月3日木曜日

沖縄旅行記 2009 (11)平和の礎と摩文仁の丘

沖縄県平和祈念資料館を出て「平和の礎」と「摩文仁の丘」に向かいました。手を合わせお祈りを捧げたあと、那覇空港へ向かいました。

資料館から「平和の火」につながる通路が真直ぐにのびています



資料館(奥)と「平和の火」(手前)





「平和の火」(手前)と「平和の礎」(奥)


平和の礎内にある広場の中央には「平和の火」が灯されています。この「平和の火」は、沖縄戦最初の米軍の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」及び長崎市の「誓いの火」から分けていただいた火を合火し、1991年から灯し続けた火を1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し灯したものだそうです。


平和の礎 (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から抜粋)

おびただしい数の戦死者の名を刻んだ屏風状の碑(いしぶみ)が、群青(ぐんじょう)色の太平洋を見はるかす摩文仁の丘の麓に建ち並んでいる。沖縄県が戦後50年の歴史の節目を記念して建立した<平和の礎(いしじ)>である。その数116基、刻名数23万7318人(98年6月現在。一部海外での戦死者を含む)。

ここに刻まれた命の重さにぼくはまず圧倒される。これほど多くの人間を死なせるまで地上戦を続行させたこの国の指導部の人間感覚。加えて、ひとかたまりの職業軍人が見せた国への強い忠誠心。それらが相まってこんなにたくさんの人たちを死に追いやった。しかもその「終戦」とて、自国の政策の非を認め、反省して戦いをやめたのではない。「最後の一人まで」戦わせて終わった、つまり万策尽きて終わらざるをえなかったのである。

<平和の礎>が突きつける痛みの一つは、戦死者の名前のなかに「松田ヒデの子」とか、「宮里(みやざと)長吉の妻」「宮里ヨシ子の母」などと記された”顔のみえない刻名”が目立つことだ。なかには、父親の名のあとに名前の判明しない子が「○○の一子」から7子までズラリと7人も並んでいるケースさえある。この予たちは性別すらわからない。誰もが名を持ってこの世を生きたはずなのに、何歳で人生を終えたのかさえ不明なのである。

沖縄戦は、戸籍制度の確立された近代日本がおこなった戦争である。ところが皮肉なことに、沖縄県が死者の名を石に刻もうとしたら犠牲者の氏名は完全に把握できなかった。戦争から半世紀も経っていたのにである。あれだけの人間のいのちを召しあげておきながら、国は何の手だてもしなかった。

沖縄県は<礎>の建立に先立って全市町村を動員、戦没者の実態調査をおこなった。それにもとづいて作成した全名簿を地元紙に公表、間違いや記載漏れ、そして氏名不詳者解明の手掛かりを県民に呼びかけた。莫大な経費と労力を費やしての作業であった。それでも名前のわからない者は319人に達した。戦災で戸籍が焼失したというのが主な理由とされるが、肉親を失った人たちの不満はそのような理由を示されても解消されるものではないだろう。

「○○の子」「××の妻」「△△の母」-。これは単なる記号だ。人間の顔も見えなければ、存在証明でもない。沖縄の人びとの胸のなかに刻まれた戦争への哀しみと憤りが、50年以上経ったいまなお癒(い)えない理由の一つともいえる。(中略)

「日本軍は沖縄が米軍の支配下に置かれることを予知していた。そのために統治の基礎資料となる戸籍や土地台帳などの焼却を命じた。そのことが戦争で亡くなった人たちの消息確認を難しくしている」(中略)

神奈川県の面積に等しい小さな県で、かくも激しい戦闘が繰り返され多くの死者を出した歴史的事実はやはり重い。それを記録し後世に伝承する方法として<礎>は有効だ。しかもその沖縄には戦争から半世紀を経たいまなお日米両軍の主要な基地が居すわりつづけ、アジア諸国や遠く中近東の国々にまでその矛先を向けている。その冷厳な現実をも<礎>は意識させてくれる。刻印された無数の怨念は沖縄の<過去>と<現在>を見事に結びつけていると考えるからである。(中略)

要は<礎>を単なる慰霊碑にしてしまわないことだ。何のためにぼくらは死者を慰霊するのか-、それをきちんと認識し、語り継ぐ必要もあるだろう。

慰霊の意味が時の経過とともに変質し、せっかく構想された<平和へのいしずえ>がいつの日か”第二の靖国”と化してしまっては元も子もないのである。


摩文仁の丘から見る断崖絶壁の海岸線



平和の丘彫像



平和の情報発信機能を併せ持つ公園としての機能充実を図るため、式典広場の正面に公園の象徴となることを目的として設置されました(2001(平成13)年1月完成)。黒御影石製のアーチは、平和のくさびで、彫像の中心には琉球石灰岩の要石を沖縄に見立てて配置し、下層部はガマ(自然壕(ごう))をイメージ。奥に進むと天井から「平和の光」が差し込む造りになっているそうです。


サイパンからつづく道 (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から抜粋)

摩文仁の丘(八十九高地)に立って南の方角に目をやると、砂糖きび畑のはるか向こうに喜屋武岬がみえる。小さく、薄っぺらな岬の先端が茫洋(ぼうよう)と広がる海のなかに消え入るさまは、なんとも心もとない。戦争末期、牛島満(沖縄守備軍最高指揮官)と長勇(参謀長)はこの丘の頂きに近い横穴状のガマのなかにたてこもった。丘の上からは「舞台がはねたあとの雑踏」のような人の群れが、来る日も来る日も見えたはずだ。米軍が兵を引く夜ともなれば、離れ離れになった親子の叫び声や、砲弾で手や足をもぎ取られた人たちのうめき声さえ聞こえたはずだ。眼下にひろがるこの平地はそれこそ足元から島の果てまで、そのような人たちで埋まっていたのだから。

そんな惨状を目の当たりにしながら、57歳の最高指揮官・牛島満は民のいのちを気づかうことを忘れ、自決の道を選ぶ。

「軍の主戦力は消耗してしまったが、なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の南の果て、尺寸の土地の存する限り戦いをつづける覚悟である。今後貴官に一切を任せる。思う存分やってくれ」(「沖縄玉砕す」「昭和史の天皇」読売新聞社刊)

これは長参謀長を道連れに自決した牛島が、直近の都下に下した最後の命令である。牛島は陸軍士官学校の校長、長は陸軍大学校の教官をつとめた士官学校出のエリートだ。だが二人には、民衆のいのちを軽んじる”前科”があった。満州(中国東北部)の戦闘において旅団長と参謀をつとめていたのだ。そればかりか、長にいたっては南京大虐殺の際、市民の殺戮を直接都下に命じた上海派遣軍の参謀、いわば「三光作戦」の指揮官であった。

一日でも戦闘を長引かせて本土防衛のための時間をかせぎ、大本営に報いたい-。

牛島らが傷病兵や「足腰の立つ島民」らに最後の総突撃を命じたり、自刃(じじん)を決めた過程で、はたしてエリート軍人としての虚栄心がはたらかなかったか。ぼくは気になる。もしそうだとしたら、たった一発の手榴弾やこめる弾さえない銃を手にして、敵の戦車に立ち向かった者たちの死はいったい何だったのだろう。

戦場の住民のあいだに広く伝播した「敵につかまると男は八つ裂きにされ、女は強姦され殺される」という”神話”は、「南京に処女なし」のことばが象徴するように、中国侵攻日本軍の得意芸であった。沖縄に送り込まれた将兵のなかに中国からの転職組が多かったことや、参謀長自らが上海派遣軍の参謀であったことと沖縄戦の”結末”が無関係だといえるかどうか。島尻(しまじり)の果ての小さな岬は、ぼくの胸につかえたさまざまな棘(とげ)をあぶりださせる。


塔と廃屋 (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から抜粋)

慰霊塔は1965年を前後して、本土各府県が競い合うようにして摩文仁周辺に建立した。沖縄では「日本の高度経済成長のシンボル」と揶揄されることが多いのだが、それが単に揶揄にとどまらないのは、その建立過程で靖国派遺族会が果たした役割が少なくなかったからである。多くの碑文に刻まれた「聖戦思想」が何よりもそれを物語る。

殉国(じゅんこく)、皇軍(こうぐん)、偉勲(いくん)、英霊(えいれい)、雄魂(ゆうこん)、愛国、義烈(ぎれつ)、散華(さんげ)・・・。

キーワードは、あの戦争を侵略戦争(アジア・太平洋戦争)としてではなく、西欧列強からの解放戦争(大東亜戦争)と位置づける、誤った歴史観である。戦争や戦死を肯定し、「愛国的な情感」をただよわせた碑文は、46都道府県-「沖縄県の塔」というのはないから-のうち実に37道府県にのぼるのだ。

対照的に、全滅家族の屋敷跡にはただ一枚の表札さえかかげられていない。死者を弔うための香炉を納めた小屋が、門に向かって侘(わび)しげに建っているだけだ。親戚や隣近所の人たちがつくった”位牌なき仏間”である。(中略)

沖縄では碑を建てる気持ちにはなっても、巨大な塔を建てようという思想はなかったのではないか。草むした屋敷跡が語りかけるものは「雄魂」でもなければ「愛国」や「散華」でもなく、敗戦直後に、この国とこの国の民が誓った「不戦」の決意であるように思えてならない。




(つづく)

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