今日は産経新聞に掲載された関連記事「詳説戦後・沖縄の米軍基地」をご紹介します。教科書では学び得ない生きた歴史を知ることはとても重要なことですし、今後多くの国民の皆さんが沖縄問題に関心を持ち、今の平和の礎がどのような経緯でもたらされたのかを正確に知っておくこと、沖縄の犠牲の上に私達日本人の平和がもたらされていること、だがしかし、今でも沖縄は犠牲者であり続けていることを理解し、沖縄の基地問題の解決を自分自身のこととして真剣に考え解決する責務があることを自覚しなければなりません。
沖縄の真の平和や安寧は、私達日本人の強い願いと実行力にかかっているといっても過言ではないのです。
「死にもの狂い」が結実 普天間返還
橋本政権が誕生して1カ月余りたった平成8年2月21日。自民党総裁室に、首相の橋本龍太郎と、地方分権推進委員会委員長を務めていた秩父小野田会長の諸井虔らが顔をそろえた。会談の目的は沖縄問題だったが、報道陣をはじめ外部には伏せられた。
諸井は沖縄県知事の大田昌秀を囲む会に参加しており、「沖縄の思い」を橋本に伝えるために足を運んだのだった。「普天間飛行場の返還を、日米首脳会談で出してくれれば、沖縄の県民感情は和らぐ」。諸井は「大田の話」と前置きした上で、こうアドバイスした。
日米首脳会談は、3日後の23日(日本時間24日)、米国のサンタモニカで行われることになっていた。橋本政権には、沖縄の米軍基地問題の解決が重くのしかかっていた。7年9月の米兵少女暴行事件を契機に、沖縄では米軍への反発が一気に広がっていたからだ。諸井の言葉を受けて橋本は早速、検討に乗り出した。
しかし、首相官邸執務室で開かれた訪米勉強会では、外務官僚が強硬に反対した。「そんなことを首相が言えば恥をかく」「安全保障の『あ』の字も分かっていないと思われる」・・・。橋本の悩みは深まる一方だった。
しかし、橋本は決断した。首脳会談で「フテンマ」と具体名を出し、米大統領のクリントンに返還を迫ったのだ。首相就任後初の日米首脳会談で、安全保障関係を揺るがしかねないテーマを切り出すことは“賭け”だった。
「大統領の沖縄問題に対する真摯な態度がうかがえた。その場の雰囲気で決断したというしかない」
橋本に政務秘書官として仕えた江田憲司(現みんなの党幹事長)は振り返る。
こうして普天間飛行場返還をめぐる日米交渉は始まった。橋本は師と仰ぐ元首相の竹下登に、頻繁に電話をかけて相談を重ねた。当時、竹下の弟で秘書だった亘(現自民党副幹事長)は、竹下がこうアドバイスしていたのを記憶している。
「交渉には勝ちはない。でも負けもない。そういうものだと思ってやりなさい」
駆け引きしながら相手を説得し、双方が歩み寄る形で合意を見いだす・・・。橋本はこのころ記者団に「ボクは本気で、死にもの狂いで交渉しているんだよ」と苦しい胸の内を明かしている。
橋本は4月17日のクリントンとの2度目の首脳会談に向けて、自ら米駐日大使のモンデールとひざ詰めの直接交渉を行った。その結果、日米両政府は普天間飛行場の全面返還で合意。同月12日、首相官邸でモンデールと共同記者会見を行い、これを発表した橋本は会心の笑みを浮かべた。会見を終えて、公邸に戻った橋本は、先回りして待ちかまえていた江田と抱き合い、交渉の成功を喜んだ。
ところが、その後に難しい問題が控えていた。移設先をどこにするかだった。9月初旬、橋本は膠着(こうちゃく)状態に陥った移設先問題で頭を痛めていた。移設先に浮上した嘉手納基地(沖縄県嘉手納町、沖縄市、北谷(ちゃたん)町)やキャンプ・シュワブなどはいずれも、地元の強い反発を受けた。
そんな折、橋本は羽田空港に向かう車中で、海上構造物の技術やコストの検討を江田に命じた。江田は「(海底にくいを打ち込んで櫓(やぐら)を造り、その上に滑走路を載せる)桟橋方式(QIP)なら実用化されているし、生態系を保護でき、いつでも撤去できます」と答えた。橋本も「それはいい」と満足げな表情を浮かべた。
「撤去可能な海上ヘリポートを建設する可能性を、日米両国の技術を結集して研究する」
同月17日、首相就任後、初めて沖縄入りした橋本は、地元自治体関係者ら約250人を前に、海上ヘリポート構想を打ち出した。橋本は「撤去可能とすることで、基地の恒常化を回避でき、地元の理解も得られる」と踏んでいた。
橋本はその後、移設先はキャンプ・シュワブ沖とする方向で検討を進めた。しかし、1年余りたった9年12月21日、名護市で海上ヘリポート建設の是非を問う住民投票が行われた。結果は反対が54%と賛成の46%を上回り、キャンプ・シュワブ沖ヘの移設は難しい情勢となった。
3日後の24日。名護市長の比嘉鉄也は、首相官邸に橋本を訪ねた。重苦しい空気の中、比嘉は決意を伝えた。
「移設を容認します。その代わり私は腹を切る(辞職する)。後任には、助役の岸本(建男)を出して、必ず勝ちます」
橋本は起立して比嘉の言葉に耳を傾けた。「悲壮な決意で国の重い責任について、辞任までして活路を見いだすことに、心から敬意を表します」と答える橋本の目から、涙がこぼれ落ちた。
比嘉は橋本に「メモを1枚ください」と求めると、沖縄に伝わる琉歌(りゅうか)をしたためた。
「義理んむすからん ありん捨ららん 思案てる橋の 渡りぐりしや」
義理捨てがたく、橋を渡ろうか悩んでいるが、渡らなければならないという心境を詠んだものだった。太平洋戦争での沖縄戦の悲惨さ、米軍基地を抱え続けてきた戦後の歴史。しかし、移設先が決まらなければ「最も危険な基地」といわれる普天間飛行場が残る。言うに尽くせない比嘉の苦渋の選択が、普天間返還の歯車を回した。
それから12年。日米合意にこぎつけた普天間移設は、今なお迷走を繰り返している。(肩書は当時、敬称略)
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091223/plc0912231837010-n1.htm
模索続いた辺野古での「共存の道」
名護市議会議長を務める島袋権勇(61)は、辺野古の歴史を振り返ってこう語る。島袋は生まれも育ちも辺野古。戦後の沖縄米軍基地の歴史を目の当たりにしてきたひとりだ。
辺野古が最初に、米軍基地問題と直面したのは昭和31年、キャンプ・シュワブ建設のための軍用地接収だった。当時は米軍基地建設のための土地収用に反対する「島ぐるみ闘争」が展開され、沖縄各地で米軍と住民が激しく対立していた。
しかし、その状況下で辺野古の住民は米軍と協議のうえ、軍用地収用に合意した。それにあたっては、土地賃貸料の前払いや代替地主の生活安定の貸付金制度、軍作業への住民の優先雇用など、住民側の要望が数多く採り入れられた。また、米軍との話し合いの場として「親善委員会」も設置された。
辺野古が米軍用地の収用を受け入れた背景について、島袋は「当時、辺野古の住民は、山から薪を切り出して細々と生計を立てていた。しかし、米軍を受け入れることで、この『山依存の生活』から脱却して、新たなまちづくりをしたいという思いがあった」と解説する。
それでも当初、辺野古住民133世帯のうち13世帯は軍用地接収に反対した。「反対した世帯は戦争で家族を失うなど悲惨な体験をした人々だった。苦渋の決断だったと思うが、最後は地区としてのまとまりを優先して同意してくれた」と、島袋は語る。
以後、辺野古住民と米軍は、親善委員会でさまざまな問題を話し合ってきたこともあり、良好な関係を築いてきた。また、米軍兵や家族が名護市の行事に参加したり、米軍のパーティーに名護市の住民が招かれるなど、交流を深めている。辺野古は米軍と対立するのではなく、受け入れる道をあえて選択し、話し合いや交流を深めることで「共存の道」を歩んできたのだ。
しかし、沖縄全体の戦後の歴史に目を転じると、米軍用地の収用をめぐって住民と米軍が対立を繰り返してきたことは間違いない。20年4月、沖縄に上陸した米国は軍政府を設置し、日本の司法権、行政権の行使を停止、強制的な土地収用による基地建設を始めた。
27年のサンフランシスコ講和条約発効で日本は独立を果たしたが、沖縄は米国の施政下に残った。中国の存在や朝鮮戦争といった極東情勢緊迫化で、軍事拠点としての沖縄の重要性はさらに高まり、米軍は基地建設を推進した。
28年、米国は「土地収用令」を公布。これは米軍が土地を収用する場合、まず協議を行うが、地主が拒否しても、米軍は最終的に収用宣告して土地を強制的に取得できるというものだった。そのため、沖縄住民は各地で米軍のブルドーザーの前に座り込むなどして抵抗した。
これを受け、沖縄住民側は自治組織としての琉球政府や立法院などが、適正補償など4原則を掲げ、米国側と折衝を重ねた。しかし、米国側は31年、逆に新規の軍用地接収を肯定した「プライス勧告」を発表。怒った沖縄住民の反対運動は一気に沖縄全体に広がった。これが「島ぐるみ闘争」である。
その結果、34年1月に「土地借賃安定法」などが公布され、軍用地取得、地代評価と支払い方法などについて一応の制度的な確立がはかられ、「島ぐるみ闘争」も終結した。しかし、これで米軍用地の収用問題が解決したわけではなく、米軍基地拡張が続く中、沖縄住民の反発は続いた。
47年5月、沖縄返還協定が発効し、施政権は米国から日本に返還されたが、同時に日米安保体制のもと、沖縄の米軍基地を維持する重要性も確認された。以降、一部基地の返還や整理・縮小が行われてきたが、日本復帰から今日までに返還された基地は、面積にして18.7%、まだ県全体の10.2%を米軍基地が占めているのが現状だ。
島袋は「日本の国防上も米国の戦略上も、沖縄に米軍基地が必要だという現実は分かっている。住民生活が米軍基地に依存している面もある。それを理解して、辺野古は米軍基地を『良き隣人』として受け入れ、うまく付き合う努力をしてきたのだ」と語る。
基地をめぐって米軍と住民が対立してきた沖縄の戦後。しかし、その中でも「共存」と「協調」という道があることを、辺野古の歴史は物語っている。(敬称略)
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091223/plc0912231842011-n1.htm
不透明な沖縄負担軽減策
安全保障問題に詳しい森本敏・拓殖大大学院教授は「日本政府は移設先の決定を先送りして、他の移設先も検討するということだが、米国は決して妥協はしないだろう」と話す。さらに来年1月に名護市長選を控えており、森本氏は「県外移設を主張する候補が勝てば、名護市への移設は難しくなる」と懸念を示す。
普天間飛行場の移設を前提に、沖縄の海兵隊約8000人(家族を含めると約1万7000人)と海兵隊司令部が米グアム島に移転することが決まっており、米政府はこのための経費を来年度予算に盛り込んでいる。しかし、「普天間移設が決まらなければ、米政府は2011年度、予算措置を講じない可能性が強い」(森本氏)という。
そうなれば、海兵隊のグアム移転も進まず、普天間飛行場が残り続ける「最悪のシナリオ」に陥る。森本氏は「普天間移設は沖縄の負担軽減策とパッケージであり、移設が決まらなければ負担軽減は進まない」と指摘する。
沖縄の米軍基地問題をめぐっては、基地のさらなる整理・縮小、沖縄県振興策、日米地位協定改定など課題が山積だ。しかし、普天間飛行場移設が決まらなければ、これらの日米交渉が進まず、結果として沖縄の負担が軽減されない可能性がある。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091223/plc0912231843012-n1.htm