今、日本は普天間基地の移設問題で揺れています。日本の安全保障の犠牲者ともいえる沖縄。米軍基地の存在が沖縄の自立を阻み、地球に稀なる生物の絶滅を誘う厳しい現実が目の前にあります。
この現実を変えることができる日はいつ来るのでしょうか・・・。
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埋め立ての島
午後の日差しを浴びて、海面の照り返しが目を射抜く。そのまばゆさに慣れると、水平線に重なるように人工的な灰色の護岸が浮かび上がってくる。
沖縄本島の沖縄市東海岸に、泡瀬干潟の埋め立て現場を訪ねた。経済的合理性のないまま事業を進めることは違法だと福岡高裁が判決で断じた後も、市は埋め立てをあきらめようとはしていない。
沖縄が全国有数の埋め立て県だということを知る人は少ないだろう。戦後、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれた米軍による強権的な土地収用により、沖縄本島の2割を基地が占めるまでになった。
嘉手納基地の一部を擁する沖縄市は、市域の3割超が軍用地だ。新たな土地を求める視線は、海へ向かうしかなかった。
頼みの綱が土木事業だけだという現実。これは、基地負担の見返りの巨額公共事業に首まで浸かり、自立の手がかりすらつかめない沖縄経済の一断面でもある。
「春にはアオサを採り、汁にして食べる。昔は海水をそのままにがりにして豆腐を作ったもんだ」。海岸沿いを散歩する地元男性(63)に声をかけると、そんな言葉が返ってきた。この南西諸島最大級の干潟は、サンゴやコメツキガニの仲間など100種以上の希少生物を育む。
米軍基地に追い立てられて、人が海を埋める。まるで陣取りゲームのように。では、海の生き物や、海と共生する暮らしはどこへ向かうのだろう。
男性は目を細めて言った。「埋め立てれば元には戻せんからね」(2009年12月11日 朝日新聞夕刊、論説委員室から)
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泡瀬干潟埋立計画
泡瀬干潟の埋め立て計画は、コザ市と美里村が合併したところまでさかのぼる。海のないコザ市は海を求めて合併したといっても過言ではない。計画が現実味を帯びだしたのは、1984年に起工した新港地区埋立事業に端を発する。この事業では、埋立地に特別自由貿易地域が設置され、港湾には4万トン級の船舶が入港できるようにするため、航路を水深13mまで浚渫する計画となっている。その浚渫残土の処分が課題となり、1986年に残土処理策として泡瀬干潟の埋立構想が現実のものとなり始めた。
当初の構想では、陸続きで219haから340haの海域を埋め立てるものだったが、1989年に泡瀬復興期成会など地元の団体から海岸線と砂州を保全する要望が出て、後に埋立地を沖に出し、人工島を作る形(出島方式)での185haの埋め立てに変更される。
計画では、まず、ほとんど国がその費用を負担するかたちで埋立地が作られる(国が175ha、沖縄県が10ha分を負担)。そして埋立地のうち90haを沖縄市が購入する義務を負い、「マリンシティー泡瀬」として開発する。マリンシティー泡瀬では、ホテルやシュッピング街、情報教育の拠点、住宅地などを民間に分譲する予定になっている。
しかし、出島方式では砂州はそのものは残されるものの、海草などの生育地ともなっている周辺の浅海域が大きく消滅することや、渡り鳥への影響も大きいと考えられることなどから環境への影響が甚大であるとして埋立に慎重な意見が出されたり、反対運動がされるようになった。また、1990年代後半からは、平成不況や自治体の財政悪化の流れから、約650億円と見られている総事業費の負担も問題視されるようになった。
なお、泡瀬干潟の埋立地では、企業誘致や観光開発などの経済効果が期待されているが、隣の新港地区の埋立地(特別自由貿易地域)の企業誘致が低調で遊休地も多くあることや、隣接する泡瀬通信施設影響で土地利用が制限されるなどの事情から、経済効果を疑問視する声もある。
そうした中、1999年3月には沖縄市漁業協同組合と南原漁業協同組合(勝連漁協)との間で漁業補償が妥結。補償額は19億9800万円だった。なお、この漁業補償においては、当初、沖縄県が提示した額が約7億円だったのに対し最終的3倍近くに膨れ上がるなど、交渉の不透明さが報道されている。
2000年12月に、沖縄県知事によって公有水面埋立法にもとづく承認がなされるが、その際にクビレミドロをはじめとする泡瀬干潟の貴重な生物の保全措置を行うこと、漁業生産の基盤である海草・藻類の保全に万全の対策をとること、漁業権の変更や消滅に関する権利者の同意に疑義があることなどの意見が沖縄総合事務局に提出された。
一方、沖縄総合事務局は2001年に「環境監視・検討委員会」を設立。埋立てによって消滅する海草移植(ミティゲーション)などの検討が行われ、2002年には沖縄総合事務局は「海草移植は可能」と判断し、泡瀬地区埋立事業は着工された。しかし、海草移植の検討が不適切であり、手法の確立はできていないとして一部の委員が辞任。日本自然保護協会、WWF、日本弁護士連合会などが意見書を提出。その後も、工事の妥当性をめぐって学会や委員会委員などからも意見書などが出されている。
なお、地元自治体である沖縄市では、2006年4月に埋立事業に対して比較的慎重であると見られていた元衆議院議員の東門美津子が市長に当選。就任後、埋立て事業をはじめとする一連の開発事業のについて市民の賛否が分かれたままであるとして、「東部海浜開発事業について熟慮し、市長としての方向性を示すことを目的として、2006年12月より『東部海浜開発事業検討会議』を設置して検討を行っていた。
民主党は同事業を「環境負荷の大きい公共事業」と位置付けており、自由民主党から政権交代に伴い、2009年10月4日、前原誠司国土交通・沖縄・北方担当大臣より、1期工事の中断と2期工事中止の方針を東門美津子沖縄市長へ伝えた。
また市民など500名以上で構成された原告により県知事・市長を訴え、裁判となった。
- 2005年5月、提訴
- 2008年11月、那覇地裁は経済的合理性を欠くとして、沖縄県知事・沖縄市長は今後、埋立事業の公金を支出してはならないと命じた(原告側一部勝訴)
- 翌日、県知事・市長が福岡高裁那覇支部へ控訴
- 2009年10月15日、福岡高裁那覇支部は一審判決支持し、控訴棄却、公金支出の差し止めを命じた。
普天間飛行場返還を巡る動き
当基地は市街地中心部を占めていること、また、基地建設当時の土地収用の事情から、当初より返還を求める主張があった。沖縄で米軍駐留に対する大規模な反対運動が起こった(→沖縄米兵少女暴行事件)のを契機として、日米で構成する日米安全保障協議委員会(「2プラス2」)は1995年11月、沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会(SACO)を設置する。同行動委員会が在沖縄米軍のあり方を全面的に見直し、検討の結果、1996年12月2日の最終報告で5年後から7年後までの全面返還を発表した。しかし、この全面返還は、条件として「十分な代替施設が完成し運用可能になった後」とし、代替施設として1,300mの撤去可能な滑走路を備えたヘリポート(いわゆる「海上ヘリポート」)を挙げている。
SACO最終報告では、海上ヘリポートの建設地として沖縄本島東海岸沖としか明記されなかったが、1997年には名護市辺野古のキャンプ・シュワブ地域が移設候補地とされた。当初は代替施設建設に名護市議会や市長も反対していたが、北部地域振興策などが提起されるに従い、当該振興策を条件に建設賛成へと市長・市議会の意見も変化した。1997年に行われた名護市条例に基づく「名護市における米軍のヘリポート基地建設の是非を問う市民投票」(名護市民による住民投票)では反対の票が半数を占めたものの、直後の市長選挙では建設推進派の市長が、その後の選挙でも一貫して基地建設推進派の市長が、当選してきた。
また、沖縄県も、当時の大田昌秀知事は建設反対を表明していたが、1998年に初当選した稲嶺惠一知事は、「建設後15年間は軍民共用の空港、その後の返還」を条件として建設賛成を表明した。その際、稲嶺の公約として、施設の概要が「撤去可能なヘリポート」だったのを、「県民の財産になる施設」として、恒久的な滑走路を持つ飛行場に変更された。ただし、ほぼ同時期に進行中であった那覇空港の拡張の検討立案につき、競合する当施設案について稲嶺がその経済的合理性を顧慮した形跡はない。稲嶺は2期8年のあいだ県知事であったが、その間の各種の交渉にあっても、稲嶺の主張する15年期限は米国が容認するものではなく、辺野古での海兵隊飛行場施設案の具体化のみが進行した。結局、15年期限は日米両当局から何の具体的考慮もされることなく、知事の任期切れに先立ち稲嶺は基地建設容認を撤回した。稲嶺後を選択する県知事選挙においては、仲井真弘多は、当基地の危険性除去を主眼とし、15年期限や軍民共用などの条件を最初から付けないという公約を明らかにして当選した。もっとも、稲嶺は自身の後継として仲井真を支持しており、その判断の整合性には批判があった。建設容認を主張する仲井真が当選したことにより施設案の具体化は進められ、固定翼機の飛行ルートが極力海上のみになるよう滑走路2本をV字型に配置した飛行場案に決定し、環境アセスメントもその案に従って実施されることになった。仲井真は、環境アセスメント再実施に至らない範囲の建設位置の沖合移動を主張している。ただし、米国側は、当初の案どおりの実施を主張し、双方の妥協は今のところ見えていない。また、沖合移動の幅も数十メートル程度のものであり、それで仲井真の主張するところの負担軽減が実現するとは言い難い。
一方、2008年6月の沖縄県議会議員選挙で、当該建設案に反対する議員が議会の過半数を占め、その後の県議会で、当該建設に反対する内容の決議がなされた。2009年8月の衆議院議員総選挙でも、沖縄県内の全選挙区において、当該建設案に反対する議員が当選した。これらの複雑な現地事情から、SACO最終報告の発表から10年を経過した2009年に至っても、同基地返還の具体的な見通しは立っていない。
飛行場として使用されてきた土地については、有害危険物質の流出による土壌汚染が懸念されているほか、遺跡の発掘調査や、沖縄戦の際の不発弾の処理も必要である。さらに、沖縄戦とその後の当基地の建設によって形状が変化した土地につき、詳細な測量による地主毎の所有地境界の明確化も必須である。これらの作業のためには、日本側による基地への立ち入りと調査が必要であるが、米軍基地に関する日米地位協定による制限のため、そのような調査は未だ行われていない。また、同協定によって、米国側は土地明け渡しの際に原状回復義務を負わない。加えて、当基地に限らず米軍用地返還の際には跡地利用に関して各業界の莫大な利権が絡むため、その利害調整は極めて難しい作業である。さらに、軍用地料を受けている地主にとっては返還は地料収入が断たれることでもあり、その対策も必要になってくる。このように、基地返還は日米両国政府間の交渉のみでは済まない事情があり、当基地にあっても返還に向けた作業は遅れている。
沖縄に駐留する第3海兵遠征軍の名前の通り、そもそも海兵隊は海外に遠征に行くための組織であり、航空機の航続距離延伸等の技術的革新で、海兵隊が沖縄に常駐する必要が薄れてきているとの指摘がたびたび出されている。一方空軍や陸軍の駐留の是非については海兵隊とは話が別との指摘も多い。(wikipedia)