この日記には何度も登場する、吉武博通(筑波大学大学研究センター長、ビジネスサイエンス系教授)さんが書かれた論考「教員の力を大学の競争力にどう結びつけるか」(リクルート カレッジマネジメント 172 Jan.-Feb.2012)を引用しご紹介します。
教育研究の質を支える大学教員の意識・力量
あらゆる組織に共通することだが、組織が環境変化の中で社会的存在価値を高めつつ、存続・成長していくためには、戦略、構造(組織構造・制度・システム)、人材の3つの要素が整い、それらが有機的に組み合わされて、全体として機能することが不可欠である。
大学の場合も同様であるが、大学改革に関する論考を見る限り、人材について職員のあり方に焦点があてられることはあっても、教員、とりわけその意識と力量を正面から論じたものは少ない。大学の研究者にとってみれば自らもその一人である教員を客観的に論じることへの躊躇もあるだろうし、学問分野間での違いも大きい。
その一方で、「教員がかわらない限り大学は良くならない」と考える大学関係者は多く、社会の側にも「大学教員の意識は旧態依然」、「教員がますます狭い専門領域に閉じこもり、社会に役立つ教育ができていない」とのイメージが形成されているように思われる。
これらの認識の当否を検証することは困難だが、当事者であるはずの大学関係者自身が慨嘆するだけでは何の解決にも繋がらないし、社会に一つのイメージが定着しているならば、実績を示す中で、それを払拭していかなければならない。
教育研究の質を左右する最も重要な要素が大学教員の意識と力量であることは明らかであり、それらが如何なるレベルにあるかを点検し、その維持・向上のために不断の努力を行っていくことは学生と社会に対する大学の責務である。
大学・学部ごとに教員に求める要件を明確化
「教員がかわらない限り」との大学関係者の認識は、今いる教員自身が変わることと、教員が入れ替わることのいずれかを意味するはずである。前者であれば教員のどこが変わらなければならないのかをはっきりさせ、それを促す施策を具体的に展開しなければならない。また、後者であれば、定年や転出で教員が入れ替わることを見通しつつ、長期的・計画的に教員の底上げを図っていかなければならない。
いずれにしても大学改革が進まないことの原因の一つが大学教員の意識と力量と考えるならば、何が問題なのかを具体的に明らかにする必要がある。
意識についていえば、当該大学・学部における教員の役割の理解、教育や学生の重視、研究への情熱、新たなるものを取り入れ工夫・改善を重ねる姿勢、他の教員や職員との協力、大学・学部運営への貢献、異なる専門分野への関心と連携、社会の動向の理解と対話・連携の姿勢、などが主たる評価の視点となるだろう。
力量という面では、教育の内容・水準、授業・指導の技術・方法、研究の構想力・遂行力と成果の発信力、学生・教職員などとのコミュニケーション能力、自己管理能力などが求められるほか、教育研究活動に付随する業務を処理する能力や組織内の役割に応じた管理運営能力なども問われることになる。
これらの要素をすべて満たすことを求めるのは酷であり、教員の個性や持ち味が多様であるからこそ、多様な学生のニーズに応えられ、教育研究活動が活性化するという面もある。大学や学部によっても濃淡の置き方が変わってくるだろうし、教員のキャリアステージや職階に応じて重視される要素が変化していくこともある。
重要なことは、これらの要素を基礎にしたうえで、教員に求める要件を、大学または学部(本稿では学部・研究科などの部局を学部と総称)ごとに、その置かれた状況や目指す方向も踏まえて明確化しておくことである。このようなベースがなければ、教員の意識・力量のどこが問題なのかは明らかにならない。
大学教員に関する具体的な課題について考える
次に、大学教員の意識と力量について、具体的にどのような課題があるのかを考えてみたい。
まず挙げられることは、採用や昇任を含めて教員の評価が研究業績を中心になされるため、研究偏重や教育能力の不足から教育の質が十分に保てていないという指摘である。研究への情熱や高い研究能力があって初めて質の高い教育が実現できるという面もあるため、一律に論じることはできないが、採用・昇任審査等において、教育に対する意識や能力をこれまで以上に重視する必要があることは確かである。
二つめは、学問分野の分化に伴い教員が一層狭い領域に閉じこもりがちになることから、教育も個々の教員の狭い専門領域の寄せ集めとなり、体系的な理解や俯瞰的な視野が身につきにくいという点である。これまでも指摘され続け、国・大学それぞれのレベルでさまざまな取り組みが展開されてきた課題である。
三つめは、研究活動が低調な教員の存在についてである。過去数年間で一本の論文も書いていない教員がいるという話をきくことが少なくない。教員業績を公開している大学についてはその検証も可能であるが、教授昇任後にしだいに研究活動が低調になるというケースがあるようである。その分が教育や管理運営面での貢献に置き換わるならばよいが、全般に活動が低調になった教員に対する対処の仕方とそのような状況を少しでも食い止める動機づけなどの方策を検討する必要がある。
四つめは、新たな取り組みや組織運営への協力度合いに教員間で大きな差が生じ、負担が集中する教員とフリーライダーともいうべき教員の間で不公平が生じるという問題である。FD活動、教育GP、共同での競争的資金獲得、国際交流など、組織的な取り組みの機会が増える中、特定の教員に仕事が集中する状況が従来以上に顕著になっているように思われる。このような状態が続くと、当該組織の活力や活動レベルを低下させる可能性がある。
五つめとして、教員の組織内行動や人間関係によっては、組織の円滑な運営や健全な職場環境の確保に支障が生じることもあるという点を加えておきたい。表に出にくい問題だが、限度を超えるとハラスメント問題への発展、教育研究や学生への影響など、教員間で解決できない状況に至ることもあり、事態収拾に時間や労力を費やすことになる。
どのような人材を求め、それをどう見極めるか
あえて否定的な面を取り上げてきたが、ここに挙げたものの中には一般的な傾向といえるものと特定の組織や教員層に生じている問題があり、大学や学部によっても状況が大きく異なると考えられる。
個別に見ていけば、研究も教育も熱心で、大学や学部の運営にも協力的な教員が数多いことも事実である。休日もなく働いている教員、研究者らしい好奇心と純粋さで会う人を魅了する教員も少なくない。
ユニバーサル段階にある大学を一律に論じられないのと同様に、教員も一括りにして論じられないということである。
先に述べたとおり、それぞれの大学や学部が求める教員の要件や教員に期待するものを明確にしたうえで、それに対する個々の教員の活動実績や教員組織の状況を的確に把握することができて、初めて教員に関するさまざまな施策を具体的に検討することができる。
個性化や機能別分化が叫ばれ、多くの大学が自校や学部ごとの特色を如何に打ち出すかに腐心しているが、教員の意識や教える内容・方法が変わらないままに組織を組み替えたところで、それは単なる看板の掛け替えでしかなくなる。新設や改編された学部にはこのようなケースが少なくない。
教員を採用する場合でも、論文本数など研究業績を中心にした審査だけでは、教育能力の評価は難しいし、より優秀な教員はいわゆる有力校に集まりがちになり、受験の偏差値と同じような序列に自校の教育力を位置づけてしまうことになる。
大学教員にとって研究への情熱や研究を遂行できる力は必須であり、それが教育の原動力にもなり、学生の興味・関心を惹きつけることにもなる。しかしながら、教員審査の公平性や客観性を担保せんがために、論文本数などの形式要件に過度に依存すれば、教育能力の評価が疎かになるだけでなく、その裏打ちともなる真の研究能力すら見極めることができない恐れもある。
国内外を問わず、研究者を取り巻く環境が厳しさを増せば増すほど、学術雑誌に受理されやすい論文を数多く投稿しようとする意識が強まる。本当にやりたいことを追究しながら、業績を積み上げられるキャパシティをもった研究者がいる一方で、いわゆる業績づくりに翻弄される研究者もいる。
また、学生に個性の豊かさや幅広い教養を求めるのなら、教員についてもバックグラウンドの多様性がより求められていい。米国で見られるように人文科学や自然科学を学んだあとに社会科学を専門とする教員、一定の実務経験を経たあとに大学院で学び学位を取得した教員などが集まることで、教育研究内容は豊かさを増し、学生の多様なニーズに一層応え得る組織になるのではなかろうか。
これらのことを十分に踏まえたうえで、自分の大学や学部はどのような人材を求めるべきか、そのような人材を如何にして見極めるべきかを真摯に問い直す必要がある。このことは採用だけでなく昇任審査においても同様である。
データベースと対話を通して教員と活動を理解する
近年、教員評価を導入する大学が増えているが、専門が異なるものを的確に評価できるのか、評価結果はどう用いられるのかといった疑問も根強く、形だけ整えた結果になっているケースも少なくないのではなかろうか。
教員評価の是非や方法論は別にして、教員の活動実績を把握することは、教育研究の質の保証と適切な組織運営の観点から不可欠である。学校教育法施行規則等の一部改正で教育情報の公表が明確に位置づけられたことも踏まえると、その基礎となる情報をデータベース化し、その維持・改善を定着させていかなければならない。
学部長はそれをベースに学部内を調整し、教育研究の質の確保・向上、将来構想の立案などを行うことになる。このような情報を手元にもたない学部運営は感覚だけに頼ったものとなり、気の合う教員や声の大きい教員の意向に左右される可能性もある。そうなると、次の学部長は自分たちのグループから出そうといった動きも起き、教育研究よりも学内政治に興味をもつ教員も出てくる。
データベースに乗らない情報をどう集めるかも重要である。その基本は対話である。教授会や教員会議で得られる情報は限られたものでしかない。専任教員が50人程度までなら学部長が全教員と個別に対話の機会を持つことも可能だろう。面談などという形式をとらず、相手の研究室を訪ねてもいいし、学部長室に珈琲を飲みにきてもらうのもいい。年最低1回、話し足りない教員とは回を重ねてもよい。相手が年長者ならば知恵を借りるといったスタンスで臨めば会話もスムーズに進む。
対話のポイントは、その教員が最も興味をもち、取り組んでいる研究テーマ、どのようなことを学生に教えたいと思っているのか、学部の現状と将来をどう見ているのか、などであろう。
このような対話を通して、個々の教員の考え方を知り、相互理解を深めることができるし、データベースで得られた情報と合わせることで教育研究の力量を把握することもできる。
このように見てくると学部長の役割がきわめて重いことに気づく。自学部の実力や実態を正しく理解し、学部の将来像を構成員と共有しながら、それに向けた諸施策を着実かつ効果的に推進することが、厳しさを増す環境下で学部長に求められる最大の任務である。教員の意識や力量を知ることはこれらすべてのベースになるものである。
採用・昇任の審査基準とプロセスの有効性を高める
採用・昇任等の人事を中心に大学教員に係る事項は学部自治の領域として、大学ましてや法人には関与させないとの考え方が根強いが、学部自治を尊重したうえで、そのあり方を冷静かつ論理的に考えてみる必要がある。
学部自治にすべてを委ねるべきとする根拠は、憲法が保障する学問の自由と専門領域を同じくする教員による審査などであろう。その一方で、学位授与や認証評価の受審は大学の名において行われ、設置申請、雇用契約、法令遵守などの責任は法人が負っていることも踏まえておかなければならない。また、教員に係る事項を教員だけで完結することはできない。諸手続きの多くは職員が担っており、法人と大学で事務体制が一本化されていることも多い。
学問領域が分化すればするほど、専門領域を同じくする教員の定義や要件も曖昧になるし、同じ領域でも研究方法が異なると互いの評価が難しくなる。さらに、学際的に編成された学部では同じ領域の教員を探すことも困難な場合がある。また、論文業績についても査読付き学術雑誌が少なく、投稿機会自体が限られるといった学問領域もあり、形式要件にこだわりすぎると人材を得られないことも起こり得る。
このような学問領域ごとの特性と学部が求める人材の要件を合わせて、採用や昇任の審査基準をつくるとともに、より的確に見極められる選考方法を設計しなければならない。
これらは学部の責任において自律的に行われることが望ましい。その上で、大学が教育の質の保証に責任を負う以上、審査基準と選考プロセスを定めるにあたっては大学の助言と承認を要件とすべきであろう。そのために全学レベルで人事委員会を設置するなどして、その承認プロセス自体の透明性を高めることも必要と考える。
これらの委員会で確認するのはあくまでも基準やプロセスであり、個別人事はこれまでどおり学部の自律性に委ねることになる。同時に、このような場を活用して、若手教員の育成を含むキャリアステージに応じた人事施策、教員構成の多様化に対応した支援策などを議論することも重要である。
法人はこれらのフレーム全体が適切かつ有効に機能しているかどうかを経営の視点から把握しておかなければならない。学長による理事会への報告や監事監査を
通した確認などがその手段となり得るが、理事会と学部長が率直に対話する機会を設けることなども有益な方法と考えられる。
大学教員といえども個々人は一般の組織で働く人々と本質において大差ないはずである。興味あることをしたい、認められたいといった気持ちは同じである。確かに個人差はきわめて大きく、他者との接点も限られる。だからこそ個々人を丁寧に見ていく必要がある。
大学院や学会のあり方を含めて、研究をどう評価し、教育研究力のある教員をどう育てるかといった大きな課題もある。
18歳人口120万人時代も残り10年足らずである。教員の力を大学の競争力にどう結びつけるか。時間のかかる課題だけに早急な着手が求められる。
http://souken.shingakunet.com/college_m/2012_RCM172_46.pdf