挙句の果てには、自らの指導力の無さを棚に上げての学生批判のオンパレード。本質から全くかけ離れた先生方の不毛な議論には付き合いきれません。
さて、今回は、教育評論家の梨戸茂史さんが書かれた「キャリア教育とゼミ」(文部科学教育通信 No319 2013.7.8)をご紹介します。
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いわゆる「アベノミクス」で景気が回復してきているらしい。そのうち給料もあがり、学生の就職難も解消されるかもしれない。所詮、経済は「気分」だからか?
さて、景気が悪くて正規の仕事に就けない若者が多かったリ、三年勤めたら辞める新入社員がいたりと、これはきちんとした労働観や職業に対する意識を学ぶべきではないかと、大学までもが取り組んだのは「キャリア教育」だった。
そもそもキャリア教育とは、表向きには「社会人としてのキャリアを在学中に学ばせる教育」だが、実質的には「就職指導」といった方が当を得ている。大学の増設、少子化で今や大学は供給過多。だから、あれこれと学生向けのサービスをやっているのだけれど、これは、「出ロ」のサービスのひとつ。きちんと就職させようとするプログラム。今や集客(学生募集)には必要不可欠な要素とみなされている。
そのキャリア教育で行われているのは自己診断、自分の見つけ方、コミュニケーションの取リ方、果ては就活の仕方、作法までいろいろ。もし仮に、これをまじめに学んで就活に出たとしても、それは”付け焼刃”。面接で「きわめて礼儀正しい、紋切リ型の答えをする、無能なリクルート学生」になる。そんな中身の無い学生、たいていの企業の人事担当者には「使えない」と見抜かれてしまうのがオチだろう。
しかL本来、キャリア教育の中核は、「労働とは何か」、「市場とは何か」、「資本とは何か」、「共同体とは何か」、「貨幣とは何か」…といった人間社会の成り立ちについての原理的な教育かもしれない。そして、働く意義と労働を通じて自分の社会における位置について自分で考えることだろう。でも、学生たちはせいぜい過去二、三年の雇用状況しか見ずに就活に走る。けれど、労働をめぐる環境ははげしく変化し、「今人気があるから」という理由で選好されている企業のほとんどは三〇年前にはその名も知られていなかったものだし、昔、学生たちが群がった人気企業のいくつかはもう存在Lてさえいない。
かつて(われわれおじさん世代は)、自己分析なんぞという高尚なものはなく、行き当たりばったりで、いくつもの会社を受けたリ、偶然採用されたところで、苦しみながらも仕事の意義など感じられなくともいつの間にか自分の存在意義を見つけて長年勤めたのではないか。向き不向きなんて後から山ほどの理屈とともに出来上がるものだった。今の自分に合った自己実現が可能な職場などというのは幻想だ。どんなところであれ、就職したところが、人生の「持ち場」なはずだ。昔の人は偉かった。「人間至る処青山あリ」といった(幕末の僧、釈月性の詩「男児志を立てて郷関を出ず、学若し成る無くんば復還らず、骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん、入間到る処青山あり」から)。
ところで、学生諸君、就職に必要なスキルはどこで達成されると思う? 君の「ゼミ」だ。そこでは学生にグループワークを課す。教員は研究のための情報やその使い方を教授する。これに基づいて学生たちが活動をはじめ、ブレインストーミングし、議論を収斂させていく。まとまったら今度はこれを発信するためのプレゼンテーションを考え、研究結果として発表する。まさに大学でやる「あたりまえの作業」だ。これを真面目にやればアカデミックスキルが身につき、グループワークや外部とコミュニケーション能力も身につくはず。自分の能力もわかってくる。だからキャリア教育などやらなくても大学が大学としての教育をきちんとやればキャリアは養成されるのだ。つまりはアカデミズムの基本に戻ることなのだろう。