渡辺和子氏の著書、『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)の中にこんな文章があった。
『自信を喪失し、修道院を出ようかとまで思いつめた私に、一人の宣教師が一つの短い英語の詩を渡してくれました。
その詩の冒頭の一行、それが「置かれたところで咲きなさい」という言葉だったのです。
岡山という土地に置かれ、学長という風当たりの強い立場に置かれ、四苦八苦している私を見るに見かねて、くださったのでしょう。
私は変わりました。
そうだ。
置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり不幸せになったりしては、私は環境の奴隷でしかない。
人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり自分の花を咲かせよう、と決心することができました。
それは「私が変わる」ことによってのみ可能でした。
いただいた詩は、「置かれたところで咲きなさい」の後に続けて、こう書かれていました。
「咲くということは、仕方ないと諦めることではありません。
それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです」』
自分の人生がどうにも、思い通りにいかないとき、我々は、つい、他人や環境のせいにしてしまう。
SNSなどの投稿でも、他人を平気で非難し、バカにする。
では、その批判の矢印が自分に返ってきたときはどうだろう。
「そんなに上から目線で批判してますが、では、あなただったらどうしますか?」と。
そして、今置かれている自分の場所で、何をしているのか。
「置かれた場所で、最大最善の努力をする」という言葉を胸に刻みたい。



























