大学経営の苦悩-政府・学長・教授会(広島大学高等教育研究開発センター長 山本眞一)(文部科学教育通信 No270 2011.6.27から引用)
国立大学経営に苦労が多い理由
前回、私は「つぶれるかもしれない私立大学の経営が楽しくて、つぶれる心配のない国立大学経営に苦労が多いのは何故でしょうか」と、日本高等教育学会の大会シンポジウムで質問したことを書いた。そしてそれは講演者に対する質問にとどまらず、現在の国立大学が置かれた立場に関係するのではないかと思ったので、そのように書いたのであった。
それではなぜ、国立大学経営に苦労が多いのだろうか。もっとも大会時の二人の講演を単純に比べることはできない。私立大学の経営について述べた静岡産業大学長の大坪檀氏は、中小企業の経営に比べて私立大学は楽だと言ったのであり、国立大学の苦労を述べた国立大学財務・経営センター理事長の豊田長康氏は、以前に比べて国立大学の経営が苦しく、それが教育や研究実績にも影響を及ぼしているという観点から大学経営を論じたのであるから、そもそも比較の基準が違うわけである。
しかしそれにもかかわらず、私には国立大学の経営の苦悩というものを容易に想像することができる。それはなぜか。一つは法人化の設計そのものによるのであり、二つには法人化にもかかわらず変わるべきものが変わっていないということによるのではないかと思うからである。
もともと、国立大学の法人化は、国立大学を政府の一部局から解放して法人格を持たせ、自主自立の精神で効率的に経営を行わせることによって、それぞれの大学に特色ある発展を遂げさせるところに大きな目的があった。法人化以前の国立大学においては、大学自治の絶対視と、教特法によって守られた教官の地位とに支えられて、大学は政府の意向とは関係なく、また社会との関わりも少ないままに管理運営することが黙認されていた。また学内ではいわゆる部局の自治が強く、大学全体としてはまとまりに欠ける場合もしばしば見られた。東京教育大学の筑波移転をめぐる学内の混乱などはその最たる事例ではなかろうか。その上、部局の自治はその部局の教授会による自治であって、学部長はせいぜい同輩教授の中から選出される世話役であり、学長も部局の利害を調整するコーディネーターのような役割であった。
しかし、他方で国立大学は政府の一部局としての位置づけであったから、とくに財務を中心に国の定めた細かい運営規定に制約されて、大学独自の経営判断が働く余地はきわめて少なかった。政府のさまざまな規制や施策の限界をたくみに読み解き、また政府中枢の耳より情報を誰よりも先にキャッチできるような事務局幹部が尊重され、学長も教授会もいわばお釈迦様の掌にのせられた孫悟空のような存在であったといえるであろう。
何に注目して判断するか
この強かった大学自治と政府の制度的規制のどちらに注目するかによって、国立大学の法人化の評価は大きく分かれるであろう。なぜなら法人化以前の大学自治は、政府の庇護の下で自由放任された自治であり、法人化後の大学自治はさまざまなステークホルダーに対する説明責任を伴う自治であるから、そのどちらを心地よいかと問われれば、前者のほうに軍配が上がるからである。とりわけ、それまで部局の自治を謳歌していた教授会メンバーにとっては、法人化によって、大学全体としての社会的責任の発生とともに、大学の経営陣からの圧力というものを感じないはずはないであろう。私が昨秋、ユネスコ関係の調査研究で広島大学の教職員の意識調査をしたとき、各部局に所属する教員よりも、大学本部で仕事をする管理職や一般事務職員のほうが、法人化によってさまざまな活動の自律性が強まったと答えていたことを思い出す。
一方、政府の細かな規制から解放されて大学の自主的判断の余地が強まったという側面に着目すれば、文句なしに法人化は大学自治を強める効果をもたらしたということになるであろう。近年、世界的に大学の自律性すなわちオートノミーが強まる傾向にあるといわれているのはこのことであり、近年の大学自治は、説明責任を伴うという点でかつての大学自治とは異なるのである。
以上のような図式をまとめると、ここに示した図表(省略)のようになるのではないか。つまり法人化以前においては、部局の教授会の勢力が極めて強く、一方で政府の諸規制もまた同じように強かった。ここでは学長あるいは大学の経営層は学内では部局の代表の集まりである評議会そして部局そのものである教授会の撃肘を受け、さらに対外的には政府の強い規制に活動を制限されていた。ただし、学問の自由に関わることがらはまったく別であるので念のため。法人化後は、ベクトルが逆向きになり、学内的には学長は理事等の補佐を受けつつリーダーシップを発揮できるようになり、また対外的には政府の細かな指示を受けることなく大学経営ができるようになった。このようにして、新しい概念でいう大学自治は、従来の部局中心の自治から大学全体としての自治に変貌を遂げたのである。
建前と実態の相違も
ただし、以上はあくまで建前の世界であって、実態はかなり違って見えるというのが多くの関係者の感想ではなかろうか。その原因の一つに法人化の設計そのものがある。つまり国立大学法人は、学校法人とは異なり、必ずしも大きな自由度を与えられているのではない。それは中期目標・計画を通じて、活動の大方針について政府と約束をしなければならないこと、運営費交付金は確かに自由度の高い財源であるが、人件費の公務員準拠その他さまざまな制約が依然として残っていること、中期計画終了時には政府の委員会による評価を受けなければならないことなどに代表される。
原因の二つには、法人化が予想していたようには現実の運用が伴っていないことがある。たとえば、学長のリーダーシップが制度上保証されているとはいえ、多くの異なる専門家集団を抱える大学では、やはり部局ごとの自主性を認めていかないと大学はうまく回っていかない。また、学長自身の裁量権が大きくなったとはいえ、経営の結果責任が問われるということになると、事前に政府の方針や解釈を確認したくなるのも致し方ないところである。そうなると結局は横並びが一番よろしいということになって、法人化のメリットを活かしきれないことになる。
原因の三つには、何といっても政府の予算とりわけ運営費交付金の減額が続いていることである。全体のパイが小さくなる環境下では、いかに有能な学長や理事といえども、その裁量の余地はますます限られたものになりがちである。また、重要新規施策に競争的資金が伴っていることも、大学の自主性を妨げる種が隠れている。
以上のような状況を考えると、私立大学との単純比較は困難だが、確かに国立大学の経営は難しそうである。しかも国立大学はつぶれる心配がないというのも、どうやらかなり怪しい仮定である。つまり私立大学は市場メカニズムに従い、衰えつつつぶれていくというのが普通であるが、国立大学は勢い盛んな場合であっても、何かのきっかけで政治判断がなされると、いとも簡単につぶれてしまうということも全くの夢想ではない。用心には越したことはない。(文部科学教育通信 No270 2011.6.27)
2011年6月30日木曜日
2011年6月29日水曜日
大学の役割の変化
「現代大学論」 教育評論家 梨戸茂史(文部科学教育通信 No270 2011.6.27)
いまさらこんなことを言うのも遅きに失したというべきか、当然というべきか。
実は、この春から、某私立大学で講義を担当することになった。ご想像あれ。ところで今やこの国には、大学数は778校あるそうな(2011年度)。うち600校近くを占めるのが私立大学である。その約4割が定員割れとなっているそうだ。たまたま、講義している大学では定員割れはないそうだが、それでも5月の連休明けには、長期(といってもわずか1か月だけど)の欠席者がいないかどうか、大学当局から調査依頼があったとクラス担任の先生がおっしゃる。つまりは、入学金を払って手続きはしたが、結局、他大学に流れたのか浪人するのか、その大学に通っていない学生がいる。
さてその講義だが、学生の一人が質問。「先生、ノートは持ってきた方がいいですか?」・・・絶句しましたが、その後、「ルーズリーフでいいですか?」。これで解釈したのは、一冊まるまる書くだけの授業の量があるのか、ちょっとメモすれば済むくらいの講義なのか、ということらしい。国家資格などが取れる理系に近い学科やコースがあり、多分、いろいろ配られる資料やプリント類が多いのだろう。自分で全部書くなどという授業はほぼなさそうだ。今どきの先生は丁寧かつ親切だ。
かつて「四六答申」といわれる中央教育審議会の答申(昭和46年)があり、高等教育機関である大学をいくつかのパターンに分けて、それぞれを振興すべきと説いたが、当時の文部省すら棚上げしてお蔵入りにした。だが、今やその状況が現実のものとなっている。つまり、大学には、旧帝大や有力私大の一部が「研究大学」(実際に大学院重点化したわけだが)と「教育」をその任務の中心とする大学、そして高度専門職業人養成の大学(院)などがある。つまり大学は、研究機関だったが、現実には、大学が増え、教育機関と考えなければならない大学が多数を占めているということだ。その教育機関としての大学だが、全入時代を迎えて、学生のレベルはいろいろ。精神年齢も幼く、勉強の仕方から教えなければならない。新入生ガイダンスで授業の取り方を教えたら、「面倒。どうして自分で選ばなければならないの? 決まっていたら楽なのに!」との声が聞こえたそうだ。まるで高校の延長だ。そりゃそうでしょう、「研究大学」の旧帝大は7校だったが、先ほどのようにその百倍以上の「大学」があるのだから。従って、大部分の大学は「教育機関」と考えるべきだ。そして、その教育も、一般教養中心で幅広い教養を身に付ける。さらに勉強、研究したいと考える学生は、研究大学の大学院に行けばいい。そして高度専門職の養成にはその役割を持つ大学院がある。
言い換えれば、多くの大学の役割は、「良き市民たる教養」を教える大学ということだろう。つまりは、もう「偏差値の高い学生はお断り」「できすぎる学生はいらない」といえる大学でしょう。旧帝大モデルではなく自分の大学の役割を見据えて「教育」に徹するということ。そして資格の取れるコースを持つ大学が生き残る可能性が高い。
教育の中身でも、一部の大学は既に取り組んではいるけれど、「日本語」の教育を行うことが大事。レポートを書かせても、誤字、脱字、あげくは「ひらがな」で書く学生が出る。パソコンや携帯のメールで漢字を書く機会が減ったせいもある。学力低下に悩んで「補習」に走るのもお門違い?かもしれない。補習しても(昔のように)期待したレベルに達しないなら、4年間の教養教育に向かうべきだ。先生も「悔い改める」時代かも・・・
いまさらこんなことを言うのも遅きに失したというべきか、当然というべきか。
実は、この春から、某私立大学で講義を担当することになった。ご想像あれ。ところで今やこの国には、大学数は778校あるそうな(2011年度)。うち600校近くを占めるのが私立大学である。その約4割が定員割れとなっているそうだ。たまたま、講義している大学では定員割れはないそうだが、それでも5月の連休明けには、長期(といってもわずか1か月だけど)の欠席者がいないかどうか、大学当局から調査依頼があったとクラス担任の先生がおっしゃる。つまりは、入学金を払って手続きはしたが、結局、他大学に流れたのか浪人するのか、その大学に通っていない学生がいる。
さてその講義だが、学生の一人が質問。「先生、ノートは持ってきた方がいいですか?」・・・絶句しましたが、その後、「ルーズリーフでいいですか?」。これで解釈したのは、一冊まるまる書くだけの授業の量があるのか、ちょっとメモすれば済むくらいの講義なのか、ということらしい。国家資格などが取れる理系に近い学科やコースがあり、多分、いろいろ配られる資料やプリント類が多いのだろう。自分で全部書くなどという授業はほぼなさそうだ。今どきの先生は丁寧かつ親切だ。
かつて「四六答申」といわれる中央教育審議会の答申(昭和46年)があり、高等教育機関である大学をいくつかのパターンに分けて、それぞれを振興すべきと説いたが、当時の文部省すら棚上げしてお蔵入りにした。だが、今やその状況が現実のものとなっている。つまり、大学には、旧帝大や有力私大の一部が「研究大学」(実際に大学院重点化したわけだが)と「教育」をその任務の中心とする大学、そして高度専門職業人養成の大学(院)などがある。つまり大学は、研究機関だったが、現実には、大学が増え、教育機関と考えなければならない大学が多数を占めているということだ。その教育機関としての大学だが、全入時代を迎えて、学生のレベルはいろいろ。精神年齢も幼く、勉強の仕方から教えなければならない。新入生ガイダンスで授業の取り方を教えたら、「面倒。どうして自分で選ばなければならないの? 決まっていたら楽なのに!」との声が聞こえたそうだ。まるで高校の延長だ。そりゃそうでしょう、「研究大学」の旧帝大は7校だったが、先ほどのようにその百倍以上の「大学」があるのだから。従って、大部分の大学は「教育機関」と考えるべきだ。そして、その教育も、一般教養中心で幅広い教養を身に付ける。さらに勉強、研究したいと考える学生は、研究大学の大学院に行けばいい。そして高度専門職の養成にはその役割を持つ大学院がある。
言い換えれば、多くの大学の役割は、「良き市民たる教養」を教える大学ということだろう。つまりは、もう「偏差値の高い学生はお断り」「できすぎる学生はいらない」といえる大学でしょう。旧帝大モデルではなく自分の大学の役割を見据えて「教育」に徹するということ。そして資格の取れるコースを持つ大学が生き残る可能性が高い。
教育の中身でも、一部の大学は既に取り組んではいるけれど、「日本語」の教育を行うことが大事。レポートを書かせても、誤字、脱字、あげくは「ひらがな」で書く学生が出る。パソコンや携帯のメールで漢字を書く機会が減ったせいもある。学力低下に悩んで「補習」に走るのもお門違い?かもしれない。補習しても(昔のように)期待したレベルに達しないなら、4年間の教養教育に向かうべきだ。先生も「悔い改める」時代かも・・・
2011年6月28日火曜日
徹底的に無駄を省き、組織の体質を鍛えなおす
国立大学と私立大学(2011年6月20日 文教ニュース)
国立大学法人が発足してから第一期中期目標期間6年が過ぎた。国立大学法人評価委員会の評価結果では各大学とも教育・研究の推進や経営の効率化に取り組んでいるとされており、国の財政措置への不安など様々な課題はあるものの、まずは無難なスタートだったかに見える。発足当初心配されていたような、厳しい評価により次々に淘汰されていくような極端な事態は今のところは免れている。
しかし先行きを考えると、聞違いなく来る人口減や震災以後さらに厳しさを増す財政事情などから、第二期、第三期は大学の数や役割の見直しなどの構造的な変化を伴わなければ乗り切って行けないような気がする。したがって、どの国立大学にあっても今のままでの存続が保証されているわけではなく、より厳しい環境になった場合どのように対処していくのかという覚悟を持って将来像を考えていく必要があるだろう。とりあえずは徹底的に無駄を省き、組織の体質を鍛えなおすことが必要だ。
一方私立大学から見ると、国立大学は運営費交付金が減っているとはいえたかだか毎年1%程度であり、人件費も施設整備費も国から財源措置されるのは「えらく贅沢ですな」という受け止めになる。時おり私立大学の人が国立大学を訪れてみると、人も大勢いてずいぶん手間をかけて仕事しているし、キャンパス環境や事業の様子も金をかけているという印象を受けるようである。私立大学の経費は8割以上が学納金であり、高い授業料を払ってでも来てくれる学生さんに納得してもらえるよう心がけなければならない。
さらに企業から見れば、国立も私立も、「企業は商品が売れなかったらばったり倒れますねん。大学さんはずいぶんのんびり経営してはりますなあ」ということになる。もちろん私立大学は多様であり、経営効率化の努力を重ねている大学もあれば、高水準の給与と退職金を払い続けている大学もある。どちらの方向に将来性があるかは明らかであろう。
国立大学では、民間的手法の導入が盛んに言われ、一定の努力はされているだろうが、まだまだ改善の余地はありそうだ。まずは私立大学がどのような状況であり、どんな努力をしているかをよく見てみるべきだろう。企業診断でも幹部が広い贅沢な個室で居心地良くおさまっている会社は危ないといわれている。国立大学の日常生活の様々な部分に長年蓄積された無駄がまだまだあるのではないか。
国立大学法人と学校法人は、国の関与の度合いと財源措置が異なるものの、法人のガバナンスや経営改善努力の面では同じ土俵に乗ってきているのだ。
国立大学法人が発足してから第一期中期目標期間6年が過ぎた。国立大学法人評価委員会の評価結果では各大学とも教育・研究の推進や経営の効率化に取り組んでいるとされており、国の財政措置への不安など様々な課題はあるものの、まずは無難なスタートだったかに見える。発足当初心配されていたような、厳しい評価により次々に淘汰されていくような極端な事態は今のところは免れている。
しかし先行きを考えると、聞違いなく来る人口減や震災以後さらに厳しさを増す財政事情などから、第二期、第三期は大学の数や役割の見直しなどの構造的な変化を伴わなければ乗り切って行けないような気がする。したがって、どの国立大学にあっても今のままでの存続が保証されているわけではなく、より厳しい環境になった場合どのように対処していくのかという覚悟を持って将来像を考えていく必要があるだろう。とりあえずは徹底的に無駄を省き、組織の体質を鍛えなおすことが必要だ。
一方私立大学から見ると、国立大学は運営費交付金が減っているとはいえたかだか毎年1%程度であり、人件費も施設整備費も国から財源措置されるのは「えらく贅沢ですな」という受け止めになる。時おり私立大学の人が国立大学を訪れてみると、人も大勢いてずいぶん手間をかけて仕事しているし、キャンパス環境や事業の様子も金をかけているという印象を受けるようである。私立大学の経費は8割以上が学納金であり、高い授業料を払ってでも来てくれる学生さんに納得してもらえるよう心がけなければならない。
さらに企業から見れば、国立も私立も、「企業は商品が売れなかったらばったり倒れますねん。大学さんはずいぶんのんびり経営してはりますなあ」ということになる。もちろん私立大学は多様であり、経営効率化の努力を重ねている大学もあれば、高水準の給与と退職金を払い続けている大学もある。どちらの方向に将来性があるかは明らかであろう。
国立大学では、民間的手法の導入が盛んに言われ、一定の努力はされているだろうが、まだまだ改善の余地はありそうだ。まずは私立大学がどのような状況であり、どんな努力をしているかをよく見てみるべきだろう。企業診断でも幹部が広い贅沢な個室で居心地良くおさまっている会社は危ないといわれている。国立大学の日常生活の様々な部分に長年蓄積された無駄がまだまだあるのではないか。
国立大学法人と学校法人は、国の関与の度合いと財源措置が異なるものの、法人のガバナンスや経営改善努力の面では同じ土俵に乗ってきているのだ。
2011年6月27日月曜日
国立大学の責務と約束
国立大学協会は、去る6月22日、平成23年度第1回通常総会において、「国立大学の機能強化-国民への約束-」(中間まとめ)を決定しました。
(関連過去記事)国立大学の機能強化(中間まとめ案)が見えてきました(2011年5月30日)
前 文
国立大学協会は、第1期中期目標期間の検証を踏まえながら、国立大学がとりわけ責任をもって果たすべき役割や機能の強化のあり方を検討してきた。本報告は、その中間まとめである。
各国立大学法人は、本「中間まとめ」を踏まえて、それぞれの個性・特色を最大限に活かした機能強化の速やかな実現に全力を挙げることを国民に約束し、その成果をもとに、ステークホルダーへの的確な情報発信と対話を通じて国立大学の教育研究への十分な理解と強い支持を得ることにより、日本の希望ある未来と世界の人々が希求する安定的で持続的な社会の構築を導く原動力として中核的な役割を果たす。
目 次
●国立大学の機能強化-国民への約束-【中間まとめ】(本文)
●(参考資料)国立大学の機能強化の方策のための事例
(関連過去記事)国立大学の機能強化(中間まとめ案)が見えてきました(2011年5月30日)
前 文
国立大学協会は、第1期中期目標期間の検証を踏まえながら、国立大学がとりわけ責任をもって果たすべき役割や機能の強化のあり方を検討してきた。本報告は、その中間まとめである。
各国立大学法人は、本「中間まとめ」を踏まえて、それぞれの個性・特色を最大限に活かした機能強化の速やかな実現に全力を挙げることを国民に約束し、その成果をもとに、ステークホルダーへの的確な情報発信と対話を通じて国立大学の教育研究への十分な理解と強い支持を得ることにより、日本の希望ある未来と世界の人々が希求する安定的で持続的な社会の構築を導く原動力として中核的な役割を果たす。
目 次
- はじめに-国立大学の責務と約束
- 国立大学の公共的な役割
- 国立大学として強化すべき機能-ナショナルセンター機能とリージョナルセンター機能の強化
- 機能強化のための方策
- 機能強化を実現するために-政府の役割
- 国立大学協会として
●国立大学の機能強化-国民への約束-【中間まとめ】(本文)
●(参考資料)国立大学の機能強化の方策のための事例
2011年6月25日土曜日
対立なければ決定なし (ドラッカー)
マネジメントの行う意思決定は、全会一致によってなしうるものではない。
対立する見解が衝突し、異なる見解が対話し、いくつかの判断のなかから選択が行われて初めてなしうるものである。
したがって、意思決定における第一の原則は、意見の対立を見ないときには決定を行わないことである。
対立する見解が衝突し、異なる見解が対話し、いくつかの判断のなかから選択が行われて初めてなしうるものである。
したがって、意思決定における第一の原則は、意見の対立を見ないときには決定を行わないことである。
2011年6月24日金曜日
国立大学『協会』の機能強化
震災アピール文の原案、添削教室状態に 国立大学協会(2011年6月23日 朝日新聞)
全国の86国立大学などでつくる国立大学協会の総会が6月22日、開かれた。東日本大震災のあと初の開催。国立大学の今後の役割や機能のあり方をまとめた「国立大学の機能強化 国民への約束」の中間まとめが公表された。同時に、大震災について、国立大学の決意を示すアピール文も発表した。しかし、アピール文をめぐっては、総会で各学長から次々と原案に注文がついて、まるで作文添削教室のような状態になった。
当初配られたアピールの原案は「東日本大震災からの復興支援と日本再生に向けて」というタイトルのA4判1枚。横書き32字で13行。このうち2段落目を紹介すると次のような文案だった。「国立大学は、本日の総会で『国立大学の機能強化 国民への約束』(中間まとめ)を承認し、各国立大学がそれぞれの特色を生かして震災復興と日本再生に全力で取り組むと同時に、全大学が緊密に連携・共同して、より大きく、より広範囲に、より効果的に役割を果たすことのできる『有機的な連携共同システム』として、わが国が直面している困難な課題に取り組む覚悟です」。さらに、最後の段落を「国立大学は(略)実効ある活動を全力で展開することを改めて確認します」としめくくっていた。
これを浜田純一国大協会長(東大総長)が各学長に承認をもとめたところ、次々と意見が出始めた。「外向きの文章なので、最後は『展開する』でしめたほうがいい」「国立大学と、各国立大学と全大学との使い分けをきちんとして文章を整理すべきだ」「タイトルが長い」「2段落目のワン・センテンスが長い。途中で区切るといい」。ほかの意見もあったが、浜田会長らが一つ一つ答えていき、公開された総会のなかでは、30分間というもっとも長く活発な意見が出た場面だった。
その結果、最終的に手直ししたアピールのタイトルは、「東日本大震災からの復興と再生に向けて」と短くなった。2段落目も次のようになった。「国立大学は、各大学がそれぞれの特色を生かして震災復興と新たな日本の構築に全力を尽くすとともに、全大学が緊密に連携・共同して、より大きく、より広範囲に、より効果的に役割を果たすことのできる『有機的な連携共同システム』として、わが国が直面している困難な課題に総力を挙げて取り組みます」。最後の段落の末尾も「全力で展開します」に変わった。
確かに、アピールにとって文章は命のようなもの。大切なのはよくわかる。意見は一つ一つ取り出せば、ごもっとも。前後を比較すれば、文章は少しすっきりした。少し読みやすくなった。センテンスも少し短くなった。決意が少し伝わりやすくなった。
しかし、意見を出すなら、3カ月たっていま現在に出すことの妥当性や、自己責任の省察、政府への主張や批判、社会で暮らしている人や被災地への人への呼びかけを盛り込むよう求めるなど、根本からアピール文を問い直すこともできたのではないだろうか。どうせなら、文章の添削ではなく、深い議論を聞きたかった。もともと、このアピールの原案は事前に各学長に配られていたというから、なおさらだ。
同時に公表された、国民への約束という副題のついた「国立大学の機能強化」の中間まとめは、本体部分はA4判で9ページ。特別につくった委員会がまとめた。こちらは、「大震災と国立大学の責務」の項目のなかで、「研究を継続的に展開し人材育成を推進するための総合的な体制の整備が不十分だったこともあり、『知の共同体』として国立大学がその力を存分に発揮しえなかった。このことを、国立大学として痛恨の思いで受けとめている」と述べている。さらに、国立大学として強化すべき機能として、「卓越した教育の実現と人材育成」「学術研究の強力な推進」「地域振興の中核拠点としての貢献」「積極的な国際交流と国際貢献活動の推進」をあげている。また、機能強化のための国立大学としての方策を5項目、機能強化を実現するための政府の役割を5項目、それぞれ書き込んだ。
かなり練られた中身だが、国立大学といっても、単科大学から、研究拠点大学、地域貢献を期待されている地方の拠点大学まで、さまざまある。最大公約数のように、すべての国立大学に通用するものになっているので、総花的、無難な内容で、いまの国大協の限界を感じさせる。結局、機能をどう強化するかは、各大学それぞれの自己努力に委ねられていく。
むしろ、「国立大学『協会』の機能強化」というテーマで、国大協としての組織改革や社会への約束、政府への注文も、今後のリポートとしてまとめられないか期待したい。
http://www.asahi.com/edu/university/toretate/TKY201106230279.html
(関連資料)東日本大震災からの復興と再生に向けて(国立大学協会)
全国の86国立大学などでつくる国立大学協会の総会が6月22日、開かれた。東日本大震災のあと初の開催。国立大学の今後の役割や機能のあり方をまとめた「国立大学の機能強化 国民への約束」の中間まとめが公表された。同時に、大震災について、国立大学の決意を示すアピール文も発表した。しかし、アピール文をめぐっては、総会で各学長から次々と原案に注文がついて、まるで作文添削教室のような状態になった。
当初配られたアピールの原案は「東日本大震災からの復興支援と日本再生に向けて」というタイトルのA4判1枚。横書き32字で13行。このうち2段落目を紹介すると次のような文案だった。「国立大学は、本日の総会で『国立大学の機能強化 国民への約束』(中間まとめ)を承認し、各国立大学がそれぞれの特色を生かして震災復興と日本再生に全力で取り組むと同時に、全大学が緊密に連携・共同して、より大きく、より広範囲に、より効果的に役割を果たすことのできる『有機的な連携共同システム』として、わが国が直面している困難な課題に取り組む覚悟です」。さらに、最後の段落を「国立大学は(略)実効ある活動を全力で展開することを改めて確認します」としめくくっていた。
これを浜田純一国大協会長(東大総長)が各学長に承認をもとめたところ、次々と意見が出始めた。「外向きの文章なので、最後は『展開する』でしめたほうがいい」「国立大学と、各国立大学と全大学との使い分けをきちんとして文章を整理すべきだ」「タイトルが長い」「2段落目のワン・センテンスが長い。途中で区切るといい」。ほかの意見もあったが、浜田会長らが一つ一つ答えていき、公開された総会のなかでは、30分間というもっとも長く活発な意見が出た場面だった。
その結果、最終的に手直ししたアピールのタイトルは、「東日本大震災からの復興と再生に向けて」と短くなった。2段落目も次のようになった。「国立大学は、各大学がそれぞれの特色を生かして震災復興と新たな日本の構築に全力を尽くすとともに、全大学が緊密に連携・共同して、より大きく、より広範囲に、より効果的に役割を果たすことのできる『有機的な連携共同システム』として、わが国が直面している困難な課題に総力を挙げて取り組みます」。最後の段落の末尾も「全力で展開します」に変わった。
確かに、アピールにとって文章は命のようなもの。大切なのはよくわかる。意見は一つ一つ取り出せば、ごもっとも。前後を比較すれば、文章は少しすっきりした。少し読みやすくなった。センテンスも少し短くなった。決意が少し伝わりやすくなった。
しかし、意見を出すなら、3カ月たっていま現在に出すことの妥当性や、自己責任の省察、政府への主張や批判、社会で暮らしている人や被災地への人への呼びかけを盛り込むよう求めるなど、根本からアピール文を問い直すこともできたのではないだろうか。どうせなら、文章の添削ではなく、深い議論を聞きたかった。もともと、このアピールの原案は事前に各学長に配られていたというから、なおさらだ。
同時に公表された、国民への約束という副題のついた「国立大学の機能強化」の中間まとめは、本体部分はA4判で9ページ。特別につくった委員会がまとめた。こちらは、「大震災と国立大学の責務」の項目のなかで、「研究を継続的に展開し人材育成を推進するための総合的な体制の整備が不十分だったこともあり、『知の共同体』として国立大学がその力を存分に発揮しえなかった。このことを、国立大学として痛恨の思いで受けとめている」と述べている。さらに、国立大学として強化すべき機能として、「卓越した教育の実現と人材育成」「学術研究の強力な推進」「地域振興の中核拠点としての貢献」「積極的な国際交流と国際貢献活動の推進」をあげている。また、機能強化のための国立大学としての方策を5項目、機能強化を実現するための政府の役割を5項目、それぞれ書き込んだ。
かなり練られた中身だが、国立大学といっても、単科大学から、研究拠点大学、地域貢献を期待されている地方の拠点大学まで、さまざまある。最大公約数のように、すべての国立大学に通用するものになっているので、総花的、無難な内容で、いまの国大協の限界を感じさせる。結局、機能をどう強化するかは、各大学それぞれの自己努力に委ねられていく。
むしろ、「国立大学『協会』の機能強化」というテーマで、国大協としての組織改革や社会への約束、政府への注文も、今後のリポートとしてまとめられないか期待したい。
http://www.asahi.com/edu/university/toretate/TKY201106230279.html
(関連資料)東日本大震災からの復興と再生に向けて(国立大学協会)
2011年6月23日木曜日
国立大学法人の改革推進状況(8)-施設・設備マネジメントの推進、省エネルギー対策・地球温暖化対策の推進
施設・設備マネジメントの推進
省エネルギー対策・地球温暖化対策の推進
- 大学の自助努力により、産学連携拠点として創立60周年記念会館「コラボ弘大」や青森市に青森キャンパスとして北日本新エネルギー研究センターを整備するとともに、白神山地に関する総合的研究等の拠点として白神自然観察園を設置して教育を展開しており、計画的な施設整備に取り組んでいる。【弘前大学】
- 時限的・弾力的使用のための共同利用スペースを設置し、全建物面積の10.1%を共有化するに至っている。また、学際的研究、プロジェクト研究及び若手研究者のスペース確保のため約3,000平方メートルの外部研究施設を購入し、「山形大学総合研究所」として運用している。【山形大学】
- 大学院映像研究科の新設に当たり、横浜市と連携して拠点施設の整備を実施している。【東京芸術大学】
- 自然資源を活かしたアメニティの形成のガイドラインとして「緑のフレームワークプラン」等を実行し、周辺環境に配慮し既存の景観を活かした植栽整備等により、財団法人都市緑化基金から第19回「緑のデザイン賞」緑化大賞を授与されている。【大阪大学】
- 全学的視点による有効活用を図るため広島大学版基準面積を作成し、部局間の使用面積のアンバランスを解消するとともに、全学共用スペース(弾力的活用スペース)を確保し、9,974平方メートルをレンタルラボとして教育研究の推進に活用している。【広島大学】
- 「1年単位の全学的な施設のレンタル制」、「共有スペース以外を有料とするスペースチャージ制度」及び「スペース管理システム」の導入を平成16年度に決定(平成17年度から運用を開始)し、「スペースチャージ制度」により生じた空きスペースを、教育研究の重点プロジェクト用のスペースや施設改修の際の代替施設とするなど、有効利用の手法を確立している。【九州工業大学】
省エネルギー対策・地球温暖化対策の推進
- 環境マネジメント学生委員会と環境マネジメント推進室の協働による省エネルギー、省資源の啓発活動及び環境保全活動の結果、全国青年環境連盟(エコ・リーグ)のCampus Climate Challenge実行委員会による大学の環境対策を点数化した「エコ大学ランキング」で平成21年度に全国国公私立大学総合1位を獲得している。【岩手大学】
- 環境マネジメントシステム(ISO14001)にいち早く取り組み、主要4キャンパスで取得している。また、所定のカリキュラムの単位取得後、1年以上環境ISO活動に携わった学生を「実務士」として、平成21年度までに140名を認定している。これらの取組の成果の一つとして、各種の環境関連活動表彰の受賞や千葉大学環境ISO学生委員会がNPO法人格を取得するなど、取組の成果が現れている。【千葉大学】
- 「東大サステイナブルキャンパスプロジェクト(TSCP)」による積極的な取組を推進しており、ハード面では、大型熱源改修、空調・照明改修により、平成21年度では制度導入前の平成20年度と比較して2,264tのCO2を削減(光熱水費換算約1億円/年)している。ソフト面では、国内クレジット制度(国内排出削減量認証制度)において、623tのCO2クレジットを創出し、その売却益をTSCP対策費用へ再投資している。【東京大学】
- 「平成19年度省エネルギー優秀事例全国大会」(財団法人省エネルギーセンター主催)の経済産業大臣賞、「2008愛知環境賞」の優秀賞をそれぞれ受賞し、その後も附属図書館及び動物実験施設のESCO(Energy Service Company)事業により、空調のエネルギーを附属図書館で10.3%、動物実験施設で28.5%削減しているなど効果が現れている。【名古屋大学】
- 学生の提案を受け、大学と彦根駅間を走行する大学専用バスに、バイオ燃料で走る「BDF(Bio Diesel Fuel)バス」を導入し、学生食堂の廃食油を回収・精製したBDFを燃料として利用するなど、環境対策に取り組んでいる。【滋賀大学】
- 学内ESCO(Energy Service Company)事業を実施し、平成19年度エネルギー優秀事例全国大会(財団法人省エネルギーセンター主催)において、「省エネルギーセンター会長賞」を受賞するなど、省エネルギー対策や環境に配慮した取組を継続的に実施している。その後も継続的に取り組み、温室効果ガスの排出削減を目的として、基礎実習棟屋上の太陽光発電設備の増設等の取組を行い、成果を上げている。【滋賀医科大学】
- エネルギー消費量、温室効果ガス(CO2)排出量を原単位ベースで毎年1%削減するための具体的な方策として「京都大学環境賦課金制度」を導入し、エネルギー消費効率向上のための計画的な改修に取り組むとともに、ESCO(Energy Service Company)事業により、平成21年度のエネルギー消費量では、当初計画約3%(3,724GJ)の削減目標を上回る約7.6%(9,473GJ)の削減、CO2排出量では、当初計画約3%(140t)の削減目標を上回る約9.5%(445t)の削減を行っている。【京都大学】
2011年6月20日月曜日
国立大学法人の改革推進状況(5)-管理運営組織の改革、戦略に基づく法人内資源配分の実現
管理運営組織の改革
1 戦略的経営体制の効果的運用(全学的な経営戦略の策定、学長のリーダーシップを高める取組)
2 管理運営組織のスリム化・効率化
3 他大学等との共同実施等の取組
【教育、研究】
大学全体としての戦略に基づく法人内資源配分の実現
1 戦略的経営体制の効果的運用(全学的な経営戦略の策定、学長のリーダーシップを高める取組)
- 平成20年度に10年後の山形大学のあるべき姿を念頭に置き、「山形大学の将来構想」を策定して5つの基本理念と第2期中期目標期間の中期計画を含む今後の進むべき方向を定めるとともに、学長行動指針「結城プラン」で策定した課題について、各理事を中心に改革・改善に取り組んでいる。【山形大学】
- 総長が経営戦略上、特に重視したいと考える項目を「東京大学アクション・プラン2005-2008」として平成17年度に提示し、「自律分散協調系」と「知の構造化」をキーワードに、活力ある大学モデルの構築を積極的に推進するとともに、毎年度、達成状況を検証・反映する体制を定着させている。また、平成21年度には、新総長の就任に伴い、大学としての運営の基本姿勢等を総合的に示した、『東京大学の行動シナリオ FOREST2015』を策定・公表している。【東京大学】
- 平成16年度に「人事計画のグランドデザイン」を策定して、人員削減計画と活力ある人事政策を全学的に明確化し、「政策定員」を確保している。平成19年度には中期的な教職員の削減数とそれに係る凍結解除・削減等に関する基準を定めた「東京学芸大学の今後の人事計画について」を作成し、人件費の削減と学長のリーダーシップによる戦略的人員配置を可能としている。【東京学芸大学】
- 平成18年度に策定・公表した「神戸大学ビジョン2015」を実際に展開するための具体的施策として、20の政策と50の実施項目を設定し、各年度の重点的行動計画を策定している。平成20年度からはビジョン推進経費を創設するなどビジョンの達成に向けた取組を推進している。【神戸大学】
- 山口大学憲章の理念を踏まえ、中長期の将来像として、「明日の山口大学ビジョン」を策定している。また、「山口大学の学術研究推進戦略の在り方(研究推進プラン2007)」に基づき、重点的に推進する研究の選定、評価及び支援方法等のシステムの企画・立案を行っている。【山口大学】
2 管理運営組織のスリム化・効率化
- 産学連携の機能を創立60周年記念会館「コラボ弘大」に集約配置することで、産学連携・地域貢献のワンストップサービス実現に向けての体制を整備している。【弘前大学】
- 管理運営コストの削減に向けて、法人化を契機に89の委員会等を16の委員会及び22の専門委員会に統廃合し、国際戦略本部、広報戦略室、CIO室等の委員会制度に代わる機動的・戦略的な運営組織を編成するとともに、全学の情報化推進体制の確立のため、情報化統括本部及び情報基盤センターを設置し、情報化推進体制を整備している。【一橋大学】
- 学内委員会について、教育研究評議会及び経営協議会に審議機能を集中し、効率的かつ機動的な運営を行っており、関連性のある委員会のさらなる見直し、課長補佐をはじめとする10ポストの削減、重複業務の整理等を行い、業務運営の効率化に努めるとともに、全学的な重要課題については、必要に応じて室等の教職協働体制を組織し、柔軟かつ機動的な運営に取り組んでいる。【北陸先端科学技術大学院大学】
- 56の全学委員会を40に統合整理するとともに、「効率的な会議運営のガイドライン」を定めて会議時間短縮に取り組んだ結果、平成21年度の会議時間は平成16年度比で平均40分短縮されるなどの効果が現れている。【山口大学】
- 効率的で責任ある意思決定体制の構築を図る観点から、学長・理事を補佐する組織として学長室及び理事室を設置するとともに、全学委員会を原則として各理事の下の部門会議に収れんさせ、委員会数及び委員数をそれぞれ約41%削減している。【大分大学】
3 他大学等との共同実施等の取組
【教育、研究】
- 北関東国立4大学の連携において北関東国立4大学研究室紹介(4U)を発行するなど、研究の活性化と外部資金獲得増につなげている。【茨城大学、宇都宮大学、群馬大学、埼玉大学】
- 新潟大学及び山梨大学との共同で「国際・大学知財本部コンソーシアム(UCIP)」を設立し、様々な知的財産の国際展開を行い、海外に向かって事業を推進して国際的な産学連携活動を強化しており、学術研究活動推進に対する戦略的な取組を行っている。【新潟大学、山梨大学】
- 北陸地区国立大学連合(富山大学、金沢大学、北陸先端科学技術大学院大学及び福井大学)間で、単位互換に関する包括協定を締結し、双方向遠隔授業システムを用いた授業や共同研究・研究交流会を実施し、教育研究等の活性化につなげるとともに、医薬品の一部を共同購入している。【富山大学、金沢大学、北陸先端科学技術大学院大学、福井大学】
- 金沢大学、浜松医科大学及び大阪大学による連合小児発達学研究科を設置し、教員の増員を最小限とし、各種会議や授業はテレビ会議システムを活用するなど効率的な研究科の運営を行うとともに、異なった専門領域の教員が連携するなど、文理融合型の教育に貢献している。【金沢大学、浜松医科大学、大阪大学】
- 長野県内の7大学とともに「高等教育コンソーシアム信州」を発足させ、遠隔講義システムを利用した単位互換、ファカルティ・ディベロップメント(FD)活動、リメディアル教育の共同運営等を実施している。【信州大学】
- 公立岐阜薬科大学と連携して、医療・健康・環境分野に関する研究を行う先端創薬研究センターを設置するとともに、創薬科学及び医療情報学に関する教育・研究を行う連合創薬医療情報研究科を設置している。また、「岐阜健康長寿・創薬推進機構」の設置に関する覚書を締結し、両大学の研究支援組織において業務を共同処理することとしている。【岐阜大学】
- 大学間連携について、静岡県立大学、静岡産業大学と共同で遠隔授業システムを用いた授業を実施し、「共同大学院「地域経営戦略研究科(大学院修士課程)」の設置構想(第1次案)」を策定するなど、教育組織の整備を推進している。【静岡大学】
- 京都にある7私立大学や京都府・市教育委員会と連携し、京都教育大学を基幹大学とする連合教職大学院構想の具体化を推し進め、平成20年度に連合教職大学院を開設し、既存の大学院教育学研究科のカリキュラム改革を実施し、二つの大学院を並立させ、有機的に連携させている。【京都教育大学】
- 京都府立医科大学、京都府立大学との連携による教養教育の共同化を目指した単位互換事業、京都府立医科大学との医工連携による教育、さらに、3大学間での共同研究等の促進を目指し、それぞれの大学の教員、大学院生等による「3大学連携フォーラム」を開催したほか、研究を通じた交流の促進及び外部資金の獲得に向けた共同研究の質の充実、研究成果の地域還元等に資することを目的に「3大学連携研究支援費事業」を創設するなど、3大学による地域連携・地域貢献の展開を図っている。【京都工芸繊維大学】
- 九州歯科大学との歯工学連携教育協定に基づき、歯工学分野の大学院教育を実施するため、平成21年度から新たに歯工学連携6科目を開講するなど、他大学との連携強化に努めている。【九州工業大学】
- 道内国立大学の共同事務処理の一環として平成20年度に締結した「北海道地区国立大学法人資金共同運用(Jファンド)」により、資金の効率的な運用を図るとともに、物品等の共同調達に関する協定書を取り交わすなど、今後の物品・サービス等の一括調達において連携を進めている。【北海道大学、北海道教育大学、室蘭工業大学、小樽商科大学、帯広畜産大学、旭川医科大学、北見工業大学】
- 秋田工業高等専門学校と共同して調達を図るなど、事務等の効率化・合理化を推進している。【秋田大学】
- 事務の合理化及び調達価格の低減を図るために、東北大学、宮城教育大学、山形大学及び福島大学との間においてコピー用紙、一般廃棄物収集運搬業務及びトイレットペーパー等の共同調達の取組を行い、管理的経費の抑制に努めている。【東北大学、宮城教育大学、山形大学、福島大学】
- 東京農工大学、電気通信大学及び一橋大学との間において共同調達の連携に係る協定を結ぶなどの取組により、経費削減に努めている。【東京農工大学、電気通信大学、一橋大学】
- 鳥取大学と島根大学との間において、物品等の共同調達を実施している。【鳥取大学、島根大学】
- 北海道地区国立大学法人等が合同で初任職員研修を実施するなど各種研修の取組を行っている。【北海道教育大学等】
- 地方公共団体(名古屋市立大学)との連携・協力に関する基本協定を締結し、今後の人事交流の方策について情報交換を行い、人事交流に向けた取組を行っている。また、民間企業とも人事交流を行い、出向社員として大学に受け入れている。【名古屋工業大学】
大学全体としての戦略に基づく法人内資源配分の実現
- 全学的な見地から教育研究を活性化するために、戦略的な資源配分を行う「重点配分経費」の導入により、学生サービスの向上、キャンパスライフの充実等へ重点的に配分しているほか、大学院博士課程充足率、博士号学位授与率及び外部資金受入状況を評価基準として予算配分に反映させるなど、全学的な視点による戦略的な学内資源配分を行っている。【北海道大学】
- 教員人件費の5%相当(約13億円)を中央枠予算として確保し、世界的に顕著な研究実績を有するユニバーシティプロフェッサーの招へい、戦略スタッフの充実、病院経営への戦略的支援等に活用し、柔軟で機動的な法人運営を実現している。【東北大学】
- 共同研究費、受託研究費及び寄附金の一部を「研究支援経費」として確保する制度について、平成20年度から研究支援経費比率を10%から原則30%に引き上げ、本部管理予算をより効果的に活用できるよう本部管理予算全体を再構成している。【東京大学】
- 大学の管理運営を効果的・効率的に実施するため、教育、研究、社会連携、情報化の4分野にそれぞれ教育実践推進機構、研究連携推進機構、社会連携推進機構、情報化推進機構を設置して一元的に事業を推進し、資金を戦略的に投入した結果、1,000万円以上の外部資金69件、33億3,624万円獲得等の効果が現れている。【徳島大学】
- 5つの基本戦略(「地域に密着した教育と研究が調和した総合大学」、「学生の満足度を高める教育システムの構築」、「高度専門職業人の養成」、「地域的特徴を活かした教育研究の推進」及び「東南アジア・南太平洋に向けた国際戦略」)に基づき、「学長裁量経費」及び「教育研究活性化経費」を設け教育研究費を学長のリーダーシップにより、総合的な観点から戦略的・効果的に資源配分している【鹿児島大学】
2011年6月19日日曜日
学歴無用論
(教育を変えるとき)学歴とは別のものさしで人を見よう(2011年6月19日 日本経済新聞)
東日本大震災の後、各国から寄せられた日本人への励ましの言葉、賛辞は記憶に新しい。それは自制心や勇気、連帯の心、忍耐力など、私たちが持つ資質に改めて気づかせてくれたといってもいい。
また、被災地で働くボランティアの姿に「若者もやるじゃないか」という思いを新たにした人も多いのではないか。教育が、こうした日本人をつくり上げる大きな役割を果たしてきたことは間違いないだろう。
ブランドが人の価値か
しかし、震災からの復旧や復興、そして日本を勁(つよ)い国に再生していくには長い時間がかかる。それぞれの場面でさまざまな個性、能力を持つ人が必要になる。これまでにもまして、学歴や学校歴だけではない多様なものさしで人を見る意識が、教育現場や家庭、企業も含めた社会全体に求められている。
教育を論じるときによく挙げられるテーマがある。一つは、教育のコースが単線型になっていて、誰もが1本のレールに沿って進もうとしている、ということだ。
最近の高校進学率は98%、大学・短大進学率も54%に達している。半世紀前は高校進学率が50%台でヾ割の生徒が工業、商業などの職業科に進んだ。就職を見すえたからだ。
しかし、いまは普通科高校に進む生徒が圧倒的に多い。その高校は偏差値でランク付けされ、なるべくいい高校からいい大学を目指す。それが「単線」の意味だ。高校にとって重要なのは、いかに「いい大学」に生徒を送り込むかであり、大学にとっては就職の実績が大切になる。そこには一つの価値観しかない。
もう一つ、学歴が親から子にバトンタッチされ世代を越えて格差が固定化する、という議論がある。有名大学を出れば就職先に恵まれ高収入を得る。そのお金が子の教育費に使われ、高学歴・高収入が次の世代に引き継がれていくという指摘だ。
年収400万円以下の家庭の4年制大学進学率は31%なのに ̄000万円を超えると62%になるという調査もある。
その結果広がっているのが「学歴信仰」であり、「ブランド教育志向」である。それは企業の採用活動にも見てとれる。社会全体の意識が学歴や有名校というブランドにとらわれ、一人ひとりを見るこまやかな目を失っていないだろうか。
多様な人物を育てるためには、単線型でない教育、学歴が固定しない教育の仕組みを考える必要がある。
高校教育ももっと多彩であっていい。三重県立相可高校では食物調理科の生徒が年間売り上げ約4千万円のレストランを運営、その活動をモデルにしたテレビドラマもできた。
石川県立七尾東雲高校は3年前に演劇科を開設し、全国から生徒を募集、地元の演劇堂で活動する仲代達矢さん主宰の無名塾の指導を受けている。地元企業や市民が「支援する会」をつくり、祭りなどに生徒を招いたり大道具を運ぶトラックを提供したりしているという。
ほかにも、看護・介護や福祉、観光、地元の伝統産業など、特色ある教育をする高校は増えている。その流れをもっと太くし、将来の仕事に結びつく教育と、生徒や卒業生を積極的に応援する社会を育てたい。
まだまだペーパーテスト重視の大学入試にも問題がある。小論文や面接・討論などで合格者を決めるAO(アドミッション・オフィス)入試は年々広がっており、昨年春の入学者のうち、私立大は11%、国立大でも3%を占めている。
手間ひまかけた選抜を
ただ~O入試には少子化時代の学生の取り合いといった意味もあり、合格者の基礎学力不足も指摘されている。学力に加え、個性や多様な能力を見抜くためにはもっと入試に時間をかける必要がある。これからは少子化の時代だ。よりキメの細かい選抜だって可能になるだろう。
同じことが企業の採用活動にも言える。人物本位をうたう「学校不問」、スポーツで活躍したり特殊な資格を取ったりした学生を優先する「一芸採用」を掲げた企業は少しずつ増えているが、看板倒れに終わったのでは意味がない。
富士通はことし4月に「一芸」で12人を採用、来春は30~40人に増やす予定だ。手間はかかるが、「多様な人材で企業を活性化する」という目的にはかなう方法ではないか。
「会社は、実力で勝負しなければならないというのに、そこで働いている人は、入社前に教育を受けた『場所』で評価されるというのは、どう考えても納得がいかない」。ソニーの盛田昭夫氏が著書「学歴無用論」でこう訴えたのは1966年だ。それから半世紀近く。そんな嘆きはもう過去の遺物にしたい。
東日本大震災の後、各国から寄せられた日本人への励ましの言葉、賛辞は記憶に新しい。それは自制心や勇気、連帯の心、忍耐力など、私たちが持つ資質に改めて気づかせてくれたといってもいい。
また、被災地で働くボランティアの姿に「若者もやるじゃないか」という思いを新たにした人も多いのではないか。教育が、こうした日本人をつくり上げる大きな役割を果たしてきたことは間違いないだろう。
ブランドが人の価値か
しかし、震災からの復旧や復興、そして日本を勁(つよ)い国に再生していくには長い時間がかかる。それぞれの場面でさまざまな個性、能力を持つ人が必要になる。これまでにもまして、学歴や学校歴だけではない多様なものさしで人を見る意識が、教育現場や家庭、企業も含めた社会全体に求められている。
教育を論じるときによく挙げられるテーマがある。一つは、教育のコースが単線型になっていて、誰もが1本のレールに沿って進もうとしている、ということだ。
最近の高校進学率は98%、大学・短大進学率も54%に達している。半世紀前は高校進学率が50%台でヾ割の生徒が工業、商業などの職業科に進んだ。就職を見すえたからだ。
しかし、いまは普通科高校に進む生徒が圧倒的に多い。その高校は偏差値でランク付けされ、なるべくいい高校からいい大学を目指す。それが「単線」の意味だ。高校にとって重要なのは、いかに「いい大学」に生徒を送り込むかであり、大学にとっては就職の実績が大切になる。そこには一つの価値観しかない。
もう一つ、学歴が親から子にバトンタッチされ世代を越えて格差が固定化する、という議論がある。有名大学を出れば就職先に恵まれ高収入を得る。そのお金が子の教育費に使われ、高学歴・高収入が次の世代に引き継がれていくという指摘だ。
年収400万円以下の家庭の4年制大学進学率は31%なのに ̄000万円を超えると62%になるという調査もある。
その結果広がっているのが「学歴信仰」であり、「ブランド教育志向」である。それは企業の採用活動にも見てとれる。社会全体の意識が学歴や有名校というブランドにとらわれ、一人ひとりを見るこまやかな目を失っていないだろうか。
多様な人物を育てるためには、単線型でない教育、学歴が固定しない教育の仕組みを考える必要がある。
高校教育ももっと多彩であっていい。三重県立相可高校では食物調理科の生徒が年間売り上げ約4千万円のレストランを運営、その活動をモデルにしたテレビドラマもできた。
石川県立七尾東雲高校は3年前に演劇科を開設し、全国から生徒を募集、地元の演劇堂で活動する仲代達矢さん主宰の無名塾の指導を受けている。地元企業や市民が「支援する会」をつくり、祭りなどに生徒を招いたり大道具を運ぶトラックを提供したりしているという。
ほかにも、看護・介護や福祉、観光、地元の伝統産業など、特色ある教育をする高校は増えている。その流れをもっと太くし、将来の仕事に結びつく教育と、生徒や卒業生を積極的に応援する社会を育てたい。
まだまだペーパーテスト重視の大学入試にも問題がある。小論文や面接・討論などで合格者を決めるAO(アドミッション・オフィス)入試は年々広がっており、昨年春の入学者のうち、私立大は11%、国立大でも3%を占めている。
手間ひまかけた選抜を
ただ~O入試には少子化時代の学生の取り合いといった意味もあり、合格者の基礎学力不足も指摘されている。学力に加え、個性や多様な能力を見抜くためにはもっと入試に時間をかける必要がある。これからは少子化の時代だ。よりキメの細かい選抜だって可能になるだろう。
同じことが企業の採用活動にも言える。人物本位をうたう「学校不問」、スポーツで活躍したり特殊な資格を取ったりした学生を優先する「一芸採用」を掲げた企業は少しずつ増えているが、看板倒れに終わったのでは意味がない。
富士通はことし4月に「一芸」で12人を採用、来春は30~40人に増やす予定だ。手間はかかるが、「多様な人材で企業を活性化する」という目的にはかなう方法ではないか。
「会社は、実力で勝負しなければならないというのに、そこで働いている人は、入社前に教育を受けた『場所』で評価されるというのは、どう考えても納得がいかない」。ソニーの盛田昭夫氏が著書「学歴無用論」でこう訴えたのは1966年だ。それから半世紀近く。そんな嘆きはもう過去の遺物にしたい。
2011年6月18日土曜日
信頼するということ (ドラッカー)
信頼するということは、リーダーを好きになることではない。
つねに、同意できることでもない。
リーダーの言うことが真意であると確信をもてることである。
それは、真摯さという誠に古臭いものに対する確信である。
つねに、同意できることでもない。
リーダーの言うことが真意であると確信をもてることである。
それは、真摯さという誠に古臭いものに対する確信である。
2011年6月14日火曜日
被災地域の国立大学法人への支援
東日本大震災から3か月が経過し、今なお被災地域の復旧・復興が懸命に続けられています。
被災者の皆様が一日も早く元どおりの生活に戻れますよう心からお祈りいたします。
さて、このたび、国立大学協会から、同協会の要請により全国の国立大学法人がこれまでに行った被災地域の大学(東北大学、宮城教育大学、福島大学、岩手大学、筑波大学)への物資支援について、詳細な報告(2011年6月9日現在)が送られてきましたのでご紹介します。
なお、被災地域の大学では、当面は現在の在庫数量で対応可能のようです。
1 災害救護派遣団及び学内避難学生・教職員用
全国の皆様、温かいご支援誠にありがとうございました。
被災者の皆様が一日も早く元どおりの生活に戻れますよう心からお祈りいたします。
さて、このたび、国立大学協会から、同協会の要請により全国の国立大学法人がこれまでに行った被災地域の大学(東北大学、宮城教育大学、福島大学、岩手大学、筑波大学)への物資支援について、詳細な報告(2011年6月9日現在)が送られてきましたのでご紹介します。
なお、被災地域の大学では、当面は現在の在庫数量で対応可能のようです。
1 災害救護派遣団及び学内避難学生・教職員用
- 食糧 70,000食 レトルト100食 ほか
- 飲料水(500ml、1500ml) 61,000本 ほか
- 携帯カイロ 19,800個
- 簡易マスク 184,000枚
- 灯油(暖房用) 3,400リットル
- 家庭用薬品(感冒薬、絆創膏等) 家庭用品多数
- ガソリン 若干
- ゴミ袋 161,000枚
- トイレットペーパー 76,000巻
- 紙皿、割り箸等紙皿・割箸 計280,000
- 簡易トイレ(携帯用) 8,500個
- 電池(単一、単二、単三、単四) 計42,000本
- ストーブ 500台
- 生理用品 9,000枚
- カセットコンロ(ボンベ含む) コンロ110台、ボンベ1,400個
- ブルーシート 1,700枚
- 軍手・毛布多数 灯油20缶 ほか
全国の皆様、温かいご支援誠にありがとうございました。
2011年6月10日金曜日
優先順位を決める原則(ドラッカー)
優先順位の決定には、いくつか重要な原則がある。
すべて分析ではなく勇気にかかわるものである。
第一に、過去ではなく未来を選ぶ。
第二に、問題ではなく機会に焦点を合わせる。
第三に、横並びではなく独自性をもつ。
第四に、無難で容易なものではなく、変革をもたらすものを選ぶ。
すべて分析ではなく勇気にかかわるものである。
第一に、過去ではなく未来を選ぶ。
第二に、問題ではなく機会に焦点を合わせる。
第三に、横並びではなく独自性をもつ。
第四に、無難で容易なものではなく、変革をもたらすものを選ぶ。
2011年6月9日木曜日
政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない
日本財団会長・笹川陽平 これでいいのか、政治家諸君(2011年6月9日産経新聞)
自身の明日を優先するな
見るに堪えない政治の低迷と混乱が続き、国民の憤りと怒りは今や頂点に達している。国会議員諸君、皆さんは国家国民のために身を捧(ささ)げるという高邁(こうまい)な理想を持って政治の世界に入ったのではなかったか。然(しか)るに今や、その志どころか、党利党略さえも忘れ、議員として存在することだけが目的となっているのではないか。
政治が劣化した原因としては、小選挙区制度の欠陥のほか、国民・マスコミを含め社会全体が政治家を育てる努力を怠ってきたこの国の政治風土もある。しかし、それ以前に、政治家になって何をするかより、政治家になること自体が自己目的化した結果、政治家として国家国民に貢献する志より、権力の上にあぐらをかき、「自身の明日」を優先する独善的態度ばかりが目立つようになった。
わが国は今、東日本大震災で戦後最大の国難の真っただ中にいる。未曽有の被害の中で日本人の忍耐強さや礼儀正しさは今回も各国の称賛の的になっている。三宅島の噴火で全島民約3800人が避難した2000年、訪問先のイスラエルでペレス大統領から「どうして日本人はあのように整然と静かに行動できるのか」と問われたことがある。日本人の特性はいささかも変わっていないのだ。
「国民に甘えている」
被災地を訪れてみれば、内向き志向が指摘された若者たちが復旧事業やボランティア活動の先頭に立っている。復興に向けた義援金や支援金に寄せる国民の熱意も高い。その先頭に立つべき政治だけがいつまでも停滞した異常事態がこれ以上、続いていいのか-。これでは被災者は救われないし、国民も同様である。
「もう帰るんですか」。短時間の視察で切り上げようとした菅直人首相に被災者が発した怒りの一言は象徴的であった。同じことは、すべての政治家にも当てはまる。延べ数百人の政治家が被災地を慰問し、「頑張ってください」と言いながら、大震災から3カ月経過した現在も復興計画の青写真すら示されていない。
黙々と働く自衛隊や警察、消防に対する被災者の尊敬と感謝の念は強く、復興の足掛かりとなるNPO(非営利法人)やボランティア活動に対する評価も高い。それに対し政治家への怨嗟(えんさ)の声は今や被災地だけでなく国民すべてに満ちている。彼我の差が政治に対する国民の失望感にあるとしたら、政治家諸君は万死に値する。
米主要紙は「震災後の日本の混乱は政治指導力の欠如が原因」と書き、「下らない政府の下で国民はよく頑張っている」「(混乱は)政治が作り出した大震災」と皮肉った仏紙や中国紙もある。日本政治に詳しいジェラルド・カーティス米コロンビア大教授も東京での講演で「日本は社会がしっかりしているから政治が貧困なままでいられる」「日本の政治家は国民に甘えている」と指摘した。
こうまで言われてなお、政治家諸君は黙っているのか。首相の退任時期をめぐり前首相が現首相を「ペテン師」と非難する政治の姿は語るに落ちたの観ありだ。「国民不在」「単なる永田町のいす取りゲーム」と揶揄(やゆ)されて済む段階は過ぎた。今、被災地には、首相や閣僚より現場の先頭に立つ首長の方がよほどたくましく信頼できるといった声に溢(あふ)れている。真摯(しんし)に耳を傾けるべきである。
大死一番の覚悟を持て
尾崎行雄や犬養毅とともに議会政治に名を残す斎藤隆夫は昭和15年、日中戦争を批判した帝国議会での“反軍演説”で、2年余に3度も内閣が辞職した不安定な政局を前に「こういうことで、どうしてこの国難に当たることができるのか」「身をもって国に尽くすところの熱力が足らない」と政府を批判、衆議院議員を除名された。時代背景は違うが、政党政治の低迷を前に政治家の責任が厳しく問われた点で現在と共通する。
このまま国会が停滞し復興が遅れれば、経済はさらに落ち込み復興財源の確保さえ難しくなる。財政はさらに悪化し外交や安全保障にも悪影響が出よう。政党によって考えが違うのは当然である。しかし震災復興は、外交や安全保障と同様、国の存続にも関わる最重要テーマである。党派を超えて取り組むのが当然である。
震災発生後、多くの国から手厚い支援とともに日本の復興を信じる力強いメッセージが寄せられている。日本はこれまでも関東大震災や焦土と化した敗戦、阪神淡路大震災などあらゆる国難を乗り越えてきた。この国には十分な底力があり、今回も必ず復興する。
しかし、それには政治の再生が欠かせない。「政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない」との格言があるが、このままでは「国民は一流、政治は三流」の汚名を着ることにもなりかねない。日本には恥の文化がある。国家国民のため命を投げ出す覚悟のない政治家は大死一番、潔く議員バッジを外してほしい。こうした潔さが政治家の覚悟につながる。国家国民のためそうした気骨ある政治家の出現を期待してやまない。(ささかわ ようへい)
自身の明日を優先するな
見るに堪えない政治の低迷と混乱が続き、国民の憤りと怒りは今や頂点に達している。国会議員諸君、皆さんは国家国民のために身を捧(ささ)げるという高邁(こうまい)な理想を持って政治の世界に入ったのではなかったか。然(しか)るに今や、その志どころか、党利党略さえも忘れ、議員として存在することだけが目的となっているのではないか。
政治が劣化した原因としては、小選挙区制度の欠陥のほか、国民・マスコミを含め社会全体が政治家を育てる努力を怠ってきたこの国の政治風土もある。しかし、それ以前に、政治家になって何をするかより、政治家になること自体が自己目的化した結果、政治家として国家国民に貢献する志より、権力の上にあぐらをかき、「自身の明日」を優先する独善的態度ばかりが目立つようになった。
わが国は今、東日本大震災で戦後最大の国難の真っただ中にいる。未曽有の被害の中で日本人の忍耐強さや礼儀正しさは今回も各国の称賛の的になっている。三宅島の噴火で全島民約3800人が避難した2000年、訪問先のイスラエルでペレス大統領から「どうして日本人はあのように整然と静かに行動できるのか」と問われたことがある。日本人の特性はいささかも変わっていないのだ。
「国民に甘えている」
被災地を訪れてみれば、内向き志向が指摘された若者たちが復旧事業やボランティア活動の先頭に立っている。復興に向けた義援金や支援金に寄せる国民の熱意も高い。その先頭に立つべき政治だけがいつまでも停滞した異常事態がこれ以上、続いていいのか-。これでは被災者は救われないし、国民も同様である。
「もう帰るんですか」。短時間の視察で切り上げようとした菅直人首相に被災者が発した怒りの一言は象徴的であった。同じことは、すべての政治家にも当てはまる。延べ数百人の政治家が被災地を慰問し、「頑張ってください」と言いながら、大震災から3カ月経過した現在も復興計画の青写真すら示されていない。
黙々と働く自衛隊や警察、消防に対する被災者の尊敬と感謝の念は強く、復興の足掛かりとなるNPO(非営利法人)やボランティア活動に対する評価も高い。それに対し政治家への怨嗟(えんさ)の声は今や被災地だけでなく国民すべてに満ちている。彼我の差が政治に対する国民の失望感にあるとしたら、政治家諸君は万死に値する。
米主要紙は「震災後の日本の混乱は政治指導力の欠如が原因」と書き、「下らない政府の下で国民はよく頑張っている」「(混乱は)政治が作り出した大震災」と皮肉った仏紙や中国紙もある。日本政治に詳しいジェラルド・カーティス米コロンビア大教授も東京での講演で「日本は社会がしっかりしているから政治が貧困なままでいられる」「日本の政治家は国民に甘えている」と指摘した。
こうまで言われてなお、政治家諸君は黙っているのか。首相の退任時期をめぐり前首相が現首相を「ペテン師」と非難する政治の姿は語るに落ちたの観ありだ。「国民不在」「単なる永田町のいす取りゲーム」と揶揄(やゆ)されて済む段階は過ぎた。今、被災地には、首相や閣僚より現場の先頭に立つ首長の方がよほどたくましく信頼できるといった声に溢(あふ)れている。真摯(しんし)に耳を傾けるべきである。
大死一番の覚悟を持て
尾崎行雄や犬養毅とともに議会政治に名を残す斎藤隆夫は昭和15年、日中戦争を批判した帝国議会での“反軍演説”で、2年余に3度も内閣が辞職した不安定な政局を前に「こういうことで、どうしてこの国難に当たることができるのか」「身をもって国に尽くすところの熱力が足らない」と政府を批判、衆議院議員を除名された。時代背景は違うが、政党政治の低迷を前に政治家の責任が厳しく問われた点で現在と共通する。
このまま国会が停滞し復興が遅れれば、経済はさらに落ち込み復興財源の確保さえ難しくなる。財政はさらに悪化し外交や安全保障にも悪影響が出よう。政党によって考えが違うのは当然である。しかし震災復興は、外交や安全保障と同様、国の存続にも関わる最重要テーマである。党派を超えて取り組むのが当然である。
震災発生後、多くの国から手厚い支援とともに日本の復興を信じる力強いメッセージが寄せられている。日本はこれまでも関東大震災や焦土と化した敗戦、阪神淡路大震災などあらゆる国難を乗り越えてきた。この国には十分な底力があり、今回も必ず復興する。
しかし、それには政治の再生が欠かせない。「政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない」との格言があるが、このままでは「国民は一流、政治は三流」の汚名を着ることにもなりかねない。日本には恥の文化がある。国家国民のため命を投げ出す覚悟のない政治家は大死一番、潔く議員バッジを外してほしい。こうした潔さが政治家の覚悟につながる。国家国民のためそうした気骨ある政治家の出現を期待してやまない。(ささかわ ようへい)
2011年6月8日水曜日
政治は政治の体をなしていない
日本の政局 世界の物笑いになるな (2011年6月8日毎日新聞)
内閣不信任案否決後、さらに混迷を深めるかのような政争劇。被災者そっちのけの権力ゲーム。これでは日本の復興を応援したくてもその気がなえてくるのではないか。
主要8カ国首脳会議(G8サミット)首脳宣言が「日本はこの危機から迅速に立ち直り、より強くなることができると深く確信している」と連帯を示したのはわずか10日余り前だ。菅直人首相の退陣表明で来年のサミットにはまた別の首相が出席する。毎年くるくる首相が代わるのはいつもの日本の風景とはいえ、大震災という非常時に「辞める時期は」「次は誰」と時間を空費する政治が国際社会にどう映るか。世界の物笑いにならないことを祈る。
「3・11」で壊滅的な打撃を受けた日本に世界各国は深く同情し、物心両面で復旧を支えてくれた。だがいつまでも同情しているわけではない。日本が早く復興してくれなければ地域の安定にも世界経済にも不都合が生じる。3カ月がたとうとし、国際社会は震災前の厳しい視線で日本を見始めている。世界の善意に甘えるばかりではいられまい。
確認しておきたい。福島第1原発の事故は日本だけの問題ではない。事故や事故後の処理のあり方の検証もそうだが、なにより現在進行中の原子力災害であり、放射能汚染の行方に神経をとがらせている世界中が一刻も早い収束を望んでいる。日本という国家のグローバルな危機管理能力が問われているのだ。「収束のめど」が菅政権の退陣時期を巡る綱引きの材料にされるだけではあまりにお粗末であり、国際的にも無責任とのそしりを免れないだろう。
震災からの復旧・復興でも、もっと世界の目を意識してほしい。多くの最貧国も含め世界中の人たちが支援物資を送ってくれたのは、被災者の毅然(きぜん)とした態度に強く印象づけられたからでもあろう。私たちはそれから勇気と希望をもらった。にもかかわらず、当事者の日本の政治の振る舞いはどうか。連帯どころか「被災者のことを本当に考えているのはこちら」とばかりに相互非難と責任のなすりつけ合い、足の引っ張り合いを繰り返す。支援してくれた世界の人たちの気持ちを裏切ることになるような気がして恥ずかしい。
菅首相がもうしばらく続けるにせよ、大連立に向け与野党の協議が進むにせよ、原発事故の収拾も復興への取り組みも一日一日が勝負だ。国民の大半が一致結束して事態収拾にあたってほしいと願っているのに、それを実現できない政治は政治の体をなしていない。この政争は世界が見ている。震災に「一定のめど」をつけるのは世界への責務でもある。それを忘れないでもらいたい。
内閣不信任案否決後、さらに混迷を深めるかのような政争劇。被災者そっちのけの権力ゲーム。これでは日本の復興を応援したくてもその気がなえてくるのではないか。
主要8カ国首脳会議(G8サミット)首脳宣言が「日本はこの危機から迅速に立ち直り、より強くなることができると深く確信している」と連帯を示したのはわずか10日余り前だ。菅直人首相の退陣表明で来年のサミットにはまた別の首相が出席する。毎年くるくる首相が代わるのはいつもの日本の風景とはいえ、大震災という非常時に「辞める時期は」「次は誰」と時間を空費する政治が国際社会にどう映るか。世界の物笑いにならないことを祈る。
「3・11」で壊滅的な打撃を受けた日本に世界各国は深く同情し、物心両面で復旧を支えてくれた。だがいつまでも同情しているわけではない。日本が早く復興してくれなければ地域の安定にも世界経済にも不都合が生じる。3カ月がたとうとし、国際社会は震災前の厳しい視線で日本を見始めている。世界の善意に甘えるばかりではいられまい。
確認しておきたい。福島第1原発の事故は日本だけの問題ではない。事故や事故後の処理のあり方の検証もそうだが、なにより現在進行中の原子力災害であり、放射能汚染の行方に神経をとがらせている世界中が一刻も早い収束を望んでいる。日本という国家のグローバルな危機管理能力が問われているのだ。「収束のめど」が菅政権の退陣時期を巡る綱引きの材料にされるだけではあまりにお粗末であり、国際的にも無責任とのそしりを免れないだろう。
震災からの復旧・復興でも、もっと世界の目を意識してほしい。多くの最貧国も含め世界中の人たちが支援物資を送ってくれたのは、被災者の毅然(きぜん)とした態度に強く印象づけられたからでもあろう。私たちはそれから勇気と希望をもらった。にもかかわらず、当事者の日本の政治の振る舞いはどうか。連帯どころか「被災者のことを本当に考えているのはこちら」とばかりに相互非難と責任のなすりつけ合い、足の引っ張り合いを繰り返す。支援してくれた世界の人たちの気持ちを裏切ることになるような気がして恥ずかしい。
菅首相がもうしばらく続けるにせよ、大連立に向け与野党の協議が進むにせよ、原発事故の収拾も復興への取り組みも一日一日が勝負だ。国民の大半が一致結束して事態収拾にあたってほしいと願っているのに、それを実現できない政治は政治の体をなしていない。この政争は世界が見ている。震災に「一定のめど」をつけるのは世界への責務でもある。それを忘れないでもらいたい。
2011年6月7日火曜日
政争にうつつを抜かす国会は本当に必要なのか
記憶に留めたいため、転載させていただきます。
この国の政治はなぜかくも劣化したのか-被災地無視の菅内閣不信任騒動で極まった「選良」たちの厚顔無恥と議員内閣制の制度疲労(2011年6月6日ダイヤモンドオンライン)
開いた口がふさがらないとは、まさにこのことだ。しかも、権力の座を巡るごたごたが、「選良」の集まる国権の最高機関・国会で行われているのだから、被災者にはやるせなく、世界に向かっては痛く恥ずかしい。最も、当のご本人たちには「恥」という日本的美徳は、とっく昔にお忘れのようだ。
去る2日に、菅直人首相が退陣の意向(と回りは受け止める)を表明してから、自民党、公明党、たちあがれ日本が共同提出した内閣不信任案を巡る情勢は一変した。与党民主党で、不信任案に賛成する構えを見せていた小沢一郎元代表の支持グループが自主投票を決め、不信任案は民主党の反対多数で否決された。三文芝居もこれで一応幕引きかと思いきや、翌日から菅首相が退任時期を巡って言を左右するのを受けて、首相に引導を渡したつもりの鳩山由紀夫前首相が、菅総理を「ペテン師」呼ばわりする始末である。
中国のある高名なジャーナリストが言う。「いまは国会が一致団結して、国難に当たることが最優先ではないでしょうか。ところが、国会で行われていることは、菅さんが好き嫌いというレベルの争いのように見えます」。こう言われても、反論できない。結局、一連の騒動は、震災と原発をネタに菅首相を引きずり下ろすことが目的の権力闘争だと、判断せざるを得ない。
旧トロイカ三人衆にリーダーの資格なし
政治家に求められる最低限の資質を、結果責任をとる覚悟、自らを客観的に分析する冷静な目、潔い出処進退であるとしよう。
まず菅総理である。
実際、阪神淡路大震災と東日本大震災の復旧スピードを比べると、その遅れは覆い隠しようもない。阪神淡路と比べて今回は被災の範囲が広く単純に比較はできないとしても、電気がほぼ復旧したのは、阪神淡路が震災から6日後の1月23日、これに対して東日本は20日後の3月31日で、約17万戸が停電したままだった(東北電力管内)。象徴的に語られる仮設住宅は震災後43日目で、阪神が7013戸整備されていたのに対して、今回は575戸にとどまる。
阪神淡路では、復旧・復興の骨格をなす復興基本法は40日足らずの2月24日に成立しているが、今回はこれから本格的に審議入りする。おカネの裏付けである補正予算の成立は、阪神淡路の場合、1回目が約40日後の2月28日、今回が約50日後の5月3日であるのみならず、二の矢、三の矢を放つ必要があるのに、一時は国会を閉じて2次補正を先送りしようとした。
東日本大震災が、阪神淡路以上に被害が大規模であり、原発事故が重なった「複合災害」だとしても、それは言い訳にはならない。ある被災県の知事は「官房長官のところにすべてを集約しているので、やはり大変だと思う。大震災と原発事故の対応は分けて、それぞれ担当大臣を置くべきでしょう。そこにリーダーシップのある人を置き、権限と責任を持たせる形にしないと」と、その対応を批判する。
被災地が局地的であろうが、広かろうが、命と生活を維持するための時間は同じである。初めての出来事が多いからこそ、前例にとらわれることなく、官僚や公務員の限界を突破する指導力を発揮すべきだった。それこそが政治主導であろう。
総理の口から出てくるのは、誠意を持って精一杯やっている姿勢を認めて欲しいということばかりである。自らが何に対して、責任を引き受け、その結果に対して、どのような責任をとるのか、その決意はうかがえない。
自らの能力がその任に耐えうるのかを、客観的に評価できるのかどうかも、また政治家の大切な資質である。1956年、鳩山一郎総理の後を受けて総理に就任した石橋湛山は、就任後すぐに病を得た。石橋は「私の政治的良心に従う」とわずか2ヵ月で退陣したのである。
国会で答弁にも立てない政治家が、首相の椅子にしがみついていてはならないと判断したからだ。当時の最大野党であった日本社会党の浅沼稲次郎書記長は、その潔さに感銘を受け「政治家はかくありたいもの」と述べたと言われる。自党すらまとめ切れない首相に、政権運営の能力はあるのだろうか。
次に、小沢一郎元代表である。そもそも「菅首相では、今回の危機は乗り切れない」というのが、反旗を翻した大義名分だとすれば、退任表明しただけで手のひらを返したように、態度を変えることは辻褄が合わない。復興基本法案、第2次補正、終息の見えない原発問題を、菅総理に任せることになるからである。
首相交代とマニフェストの実現が、小沢元代表の信念だとすれば、党を割る覚悟で臨んだはずである。だが、筋を通したのは松木兼公、横粂勝仁両議員の2人だけであった。結局は、長年続いてきた菅氏との遺恨による菅降ろしが目標であり、民主党政権は維持しながら、閣外から政権に影響力を保持するのが目標だったと断じられても仕方ない。
鳩山由紀夫前首相もまたしかりである。「党を割りたくない」として動いたと言われるが、何のために割りたくないのかが明確でない。いまのように政党の体すらなしていない民主党政権であれば、党が割れて下野するのも、また政治家の良心ではないのか。昨年6月の首相辞任から引退の撤回、今回の行動に至るまで、国民は「この人は一体、何を考えているのか」という評価が見えていない。結局、小沢氏と同じく民主党政権を維持し、自らの影響力、存在感を維持することが目的としか思えない。
菅、鳩山、小沢の旧トロイカ三人衆だけではない。民主党の衆参150人及ぶ1回生(新人)議員たちもまた期待外れだ。この議員たちこそ、いま国民(市民)が何を政治に望み、どう評価しているかを、市民の常識を持って感じ取り、それを表明できたはずである。政権奪取後、わずか1年半余りにして、永田町の論理に染まったとすれば、彼らの責任は大きい。
そして自民党を中心とする野党である。菅首相が退陣すれば、なぜ局面が大きく開けるのか、その具体的な展望を示すことができなかった。そればかりではない。特に自民党は、これまで原発推進してきたことに対する真摯な総括すらできなかった。これでは国民から不信任案は菅降ろしだけが目的の政争の具と判断され、支持を得ることができなかったのも、むべなるかなである。
こう見て考えると、政策の優先課題もそっちのけで、低次元の権力争いが繰り返すいまの国会議員に国を運営する資格はないと、国民は三行半を突き付けることが必要なのかもしれない。
国政が復興を邪魔しないための最良の方法は?
では、なぜかくも自民党政権末期以来、政治の質が劣化してしまったのか。一つには人の質の問題、もう一つには制度の問題があるだろう。
そもそもわが国は、政界、財界を問わず、米国大統領のようなトップダウン型リーダーは生まれにくい仕組みになっている。政治においては、議員内閣制をとっているため国会議員である与党の党首が総理大臣になる。その与党の党首は同じ国会議員から選ばれ、国民から直接、選ばれたわけではない。このため政権を維持するための権力の基盤が弱い。
意思決定や政策決定の仕組みは、実質的には官僚が政策とその裏付けとなる法律をつくり、政治家が修正を加えながら、国会で成立させる。ボトムアップ、ミドルアップ型の意思決定システムである。したがって、今回の大震災ような危機が発生しても、官僚は本来的には法律をつくる権限も、超法規的な対策を実施する権限もないため、既存の法律の枠内でしか動けない。だから、法律では想定していない事態に対応できないか、新たな対策を打ち出すまでに時間がかかる。
危機対応では、結果責任を取る覚悟のうえで、超法規的措置をとるか、スピード感を持って法律を成立させて、官僚群を動かすことができるのは、その権限を持つ政治家なのである。だが、例えば、原発事故処理、賠償スキームをみても、前面に立たされるのは東京電力で、政治と国が前面に出て結果を引き受けるという覚悟は見られない。
だから、今回の震災対応にみられるように、現在の議員内閣制がすでに制度疲労を起こしているなら、この国を治める仕組みを改革する必要がある。制度が人を鍛え、考え方に影響を与えるからだ。方法としては、大統領型に近い首相公選制、あるいは各党の代表を首相候補として選挙を戦う(与党首が変わる場合は選挙を行う)といった仕組みが考えられる。この国を治める仕組みの改革が、中長期的な課題である。
短期的には、日本の意志決定には時間がかかることと、政治の不毛を考えれば、国政には多くを期待しないことだ。もちろん、どのような制度をつくろうが、「この人が言うのであれば」「この人のためならば」と人を動かす政治家個人の“魅力”が、最も重要であることは否定しない。しかし、トロイカ三人衆にお引き取り願うのは当然として、いまの政界のだれに期待しろと言うのか。せめて国会は、2次補正、3次補正予算を早期に成立させて、一刻も早く使途限定のない財源を地方自治体に渡すこと、それが復興をじゃましない最良の方法なのかもしれない。
あとは、地方自治体と住民が、自らの未来を自らで決めていくしかあるまい。それが悲劇を通り越して、滑稽とさえ言える我が国の政治の現実である。
この国の政治はなぜかくも劣化したのか-被災地無視の菅内閣不信任騒動で極まった「選良」たちの厚顔無恥と議員内閣制の制度疲労(2011年6月6日ダイヤモンドオンライン)
開いた口がふさがらないとは、まさにこのことだ。しかも、権力の座を巡るごたごたが、「選良」の集まる国権の最高機関・国会で行われているのだから、被災者にはやるせなく、世界に向かっては痛く恥ずかしい。最も、当のご本人たちには「恥」という日本的美徳は、とっく昔にお忘れのようだ。
去る2日に、菅直人首相が退陣の意向(と回りは受け止める)を表明してから、自民党、公明党、たちあがれ日本が共同提出した内閣不信任案を巡る情勢は一変した。与党民主党で、不信任案に賛成する構えを見せていた小沢一郎元代表の支持グループが自主投票を決め、不信任案は民主党の反対多数で否決された。三文芝居もこれで一応幕引きかと思いきや、翌日から菅首相が退任時期を巡って言を左右するのを受けて、首相に引導を渡したつもりの鳩山由紀夫前首相が、菅総理を「ペテン師」呼ばわりする始末である。
中国のある高名なジャーナリストが言う。「いまは国会が一致団結して、国難に当たることが最優先ではないでしょうか。ところが、国会で行われていることは、菅さんが好き嫌いというレベルの争いのように見えます」。こう言われても、反論できない。結局、一連の騒動は、震災と原発をネタに菅首相を引きずり下ろすことが目的の権力闘争だと、判断せざるを得ない。
旧トロイカ三人衆にリーダーの資格なし
政治家に求められる最低限の資質を、結果責任をとる覚悟、自らを客観的に分析する冷静な目、潔い出処進退であるとしよう。
まず菅総理である。
実際、阪神淡路大震災と東日本大震災の復旧スピードを比べると、その遅れは覆い隠しようもない。阪神淡路と比べて今回は被災の範囲が広く単純に比較はできないとしても、電気がほぼ復旧したのは、阪神淡路が震災から6日後の1月23日、これに対して東日本は20日後の3月31日で、約17万戸が停電したままだった(東北電力管内)。象徴的に語られる仮設住宅は震災後43日目で、阪神が7013戸整備されていたのに対して、今回は575戸にとどまる。
阪神淡路では、復旧・復興の骨格をなす復興基本法は40日足らずの2月24日に成立しているが、今回はこれから本格的に審議入りする。おカネの裏付けである補正予算の成立は、阪神淡路の場合、1回目が約40日後の2月28日、今回が約50日後の5月3日であるのみならず、二の矢、三の矢を放つ必要があるのに、一時は国会を閉じて2次補正を先送りしようとした。
東日本大震災が、阪神淡路以上に被害が大規模であり、原発事故が重なった「複合災害」だとしても、それは言い訳にはならない。ある被災県の知事は「官房長官のところにすべてを集約しているので、やはり大変だと思う。大震災と原発事故の対応は分けて、それぞれ担当大臣を置くべきでしょう。そこにリーダーシップのある人を置き、権限と責任を持たせる形にしないと」と、その対応を批判する。
被災地が局地的であろうが、広かろうが、命と生活を維持するための時間は同じである。初めての出来事が多いからこそ、前例にとらわれることなく、官僚や公務員の限界を突破する指導力を発揮すべきだった。それこそが政治主導であろう。
総理の口から出てくるのは、誠意を持って精一杯やっている姿勢を認めて欲しいということばかりである。自らが何に対して、責任を引き受け、その結果に対して、どのような責任をとるのか、その決意はうかがえない。
自らの能力がその任に耐えうるのかを、客観的に評価できるのかどうかも、また政治家の大切な資質である。1956年、鳩山一郎総理の後を受けて総理に就任した石橋湛山は、就任後すぐに病を得た。石橋は「私の政治的良心に従う」とわずか2ヵ月で退陣したのである。
国会で答弁にも立てない政治家が、首相の椅子にしがみついていてはならないと判断したからだ。当時の最大野党であった日本社会党の浅沼稲次郎書記長は、その潔さに感銘を受け「政治家はかくありたいもの」と述べたと言われる。自党すらまとめ切れない首相に、政権運営の能力はあるのだろうか。
次に、小沢一郎元代表である。そもそも「菅首相では、今回の危機は乗り切れない」というのが、反旗を翻した大義名分だとすれば、退任表明しただけで手のひらを返したように、態度を変えることは辻褄が合わない。復興基本法案、第2次補正、終息の見えない原発問題を、菅総理に任せることになるからである。
首相交代とマニフェストの実現が、小沢元代表の信念だとすれば、党を割る覚悟で臨んだはずである。だが、筋を通したのは松木兼公、横粂勝仁両議員の2人だけであった。結局は、長年続いてきた菅氏との遺恨による菅降ろしが目標であり、民主党政権は維持しながら、閣外から政権に影響力を保持するのが目標だったと断じられても仕方ない。
鳩山由紀夫前首相もまたしかりである。「党を割りたくない」として動いたと言われるが、何のために割りたくないのかが明確でない。いまのように政党の体すらなしていない民主党政権であれば、党が割れて下野するのも、また政治家の良心ではないのか。昨年6月の首相辞任から引退の撤回、今回の行動に至るまで、国民は「この人は一体、何を考えているのか」という評価が見えていない。結局、小沢氏と同じく民主党政権を維持し、自らの影響力、存在感を維持することが目的としか思えない。
菅、鳩山、小沢の旧トロイカ三人衆だけではない。民主党の衆参150人及ぶ1回生(新人)議員たちもまた期待外れだ。この議員たちこそ、いま国民(市民)が何を政治に望み、どう評価しているかを、市民の常識を持って感じ取り、それを表明できたはずである。政権奪取後、わずか1年半余りにして、永田町の論理に染まったとすれば、彼らの責任は大きい。
そして自民党を中心とする野党である。菅首相が退陣すれば、なぜ局面が大きく開けるのか、その具体的な展望を示すことができなかった。そればかりではない。特に自民党は、これまで原発推進してきたことに対する真摯な総括すらできなかった。これでは国民から不信任案は菅降ろしだけが目的の政争の具と判断され、支持を得ることができなかったのも、むべなるかなである。
こう見て考えると、政策の優先課題もそっちのけで、低次元の権力争いが繰り返すいまの国会議員に国を運営する資格はないと、国民は三行半を突き付けることが必要なのかもしれない。
国政が復興を邪魔しないための最良の方法は?
では、なぜかくも自民党政権末期以来、政治の質が劣化してしまったのか。一つには人の質の問題、もう一つには制度の問題があるだろう。
そもそもわが国は、政界、財界を問わず、米国大統領のようなトップダウン型リーダーは生まれにくい仕組みになっている。政治においては、議員内閣制をとっているため国会議員である与党の党首が総理大臣になる。その与党の党首は同じ国会議員から選ばれ、国民から直接、選ばれたわけではない。このため政権を維持するための権力の基盤が弱い。
意思決定や政策決定の仕組みは、実質的には官僚が政策とその裏付けとなる法律をつくり、政治家が修正を加えながら、国会で成立させる。ボトムアップ、ミドルアップ型の意思決定システムである。したがって、今回の大震災ような危機が発生しても、官僚は本来的には法律をつくる権限も、超法規的な対策を実施する権限もないため、既存の法律の枠内でしか動けない。だから、法律では想定していない事態に対応できないか、新たな対策を打ち出すまでに時間がかかる。
危機対応では、結果責任を取る覚悟のうえで、超法規的措置をとるか、スピード感を持って法律を成立させて、官僚群を動かすことができるのは、その権限を持つ政治家なのである。だが、例えば、原発事故処理、賠償スキームをみても、前面に立たされるのは東京電力で、政治と国が前面に出て結果を引き受けるという覚悟は見られない。
だから、今回の震災対応にみられるように、現在の議員内閣制がすでに制度疲労を起こしているなら、この国を治める仕組みを改革する必要がある。制度が人を鍛え、考え方に影響を与えるからだ。方法としては、大統領型に近い首相公選制、あるいは各党の代表を首相候補として選挙を戦う(与党首が変わる場合は選挙を行う)といった仕組みが考えられる。この国を治める仕組みの改革が、中長期的な課題である。
短期的には、日本の意志決定には時間がかかることと、政治の不毛を考えれば、国政には多くを期待しないことだ。もちろん、どのような制度をつくろうが、「この人が言うのであれば」「この人のためならば」と人を動かす政治家個人の“魅力”が、最も重要であることは否定しない。しかし、トロイカ三人衆にお引き取り願うのは当然として、いまの政界のだれに期待しろと言うのか。せめて国会は、2次補正、3次補正予算を早期に成立させて、一刻も早く使途限定のない財源を地方自治体に渡すこと、それが復興をじゃましない最良の方法なのかもしれない。
あとは、地方自治体と住民が、自らの未来を自らで決めていくしかあるまい。それが悲劇を通り越して、滑稽とさえ言える我が国の政治の現実である。
日本の首相は賞味期限が短く、地位は軽い
記憶に留めたいため、転載させていただきます。
天声人語(2011年6月7日朝日新聞)
和歌山の「梅娘」がきのう、菅首相に大粒の梅干しを差し入れた。紀州のお嬢さんたちは毎年のように官邸を訪れていて、去年は鳩山さんが辞任を表明した翌日だった。梅娘には気の毒だが、何やら首相交代を告げる初夏の風物詩を思う。
あすが就任1年の記念日なのに、周辺に続投をいさめられ、菅さんも夏に辞める覚悟らしい。これで首相は5人続けて「1年交代」。まるで生徒会長だ。お元気な「元首相」は実に12人に増える。
存命の元大統領や元首相は数人というのが主要国の相場だろう。日本の首相は賞味期限が短く、地位は軽い。吹けば飛ぶから権力争いが絶えない。次もつなぎのようだし、しばらくは連立、分裂、新党、再編といった政局用語が幅を利かせそうだ。
総選挙をやるたびに、約800億円の公費が消える。政治家の使い捨てはもったいないのだが、昨今、国会議員の多くはアタマ数として政局に参じるばかりで、血税に見合う仕事をしていない。大連立にしても、被災地より自党を思ってのことではないか。
ただ、メディアも世論もせっかちは禁物だ。もう誰がやっても同じ、という政治的ニヒリズムが怖い。無力感を突いて妙なリーダーや息苦しい社会が生まれ来ぬよう、憂さ晴らしの暴力を許さぬよう、こんな時こそ目を光らせたい。
梅娘は5年前、小泉首相の最後の年から上京している。梅干しを渡す相手が毎年違うのは、宣伝的には悪くないかもしれない。日本の政治が抱える、酸っぱい現実である。
天声人語(2011年6月7日朝日新聞)
和歌山の「梅娘」がきのう、菅首相に大粒の梅干しを差し入れた。紀州のお嬢さんたちは毎年のように官邸を訪れていて、去年は鳩山さんが辞任を表明した翌日だった。梅娘には気の毒だが、何やら首相交代を告げる初夏の風物詩を思う。
あすが就任1年の記念日なのに、周辺に続投をいさめられ、菅さんも夏に辞める覚悟らしい。これで首相は5人続けて「1年交代」。まるで生徒会長だ。お元気な「元首相」は実に12人に増える。
存命の元大統領や元首相は数人というのが主要国の相場だろう。日本の首相は賞味期限が短く、地位は軽い。吹けば飛ぶから権力争いが絶えない。次もつなぎのようだし、しばらくは連立、分裂、新党、再編といった政局用語が幅を利かせそうだ。
総選挙をやるたびに、約800億円の公費が消える。政治家の使い捨てはもったいないのだが、昨今、国会議員の多くはアタマ数として政局に参じるばかりで、血税に見合う仕事をしていない。大連立にしても、被災地より自党を思ってのことではないか。
ただ、メディアも世論もせっかちは禁物だ。もう誰がやっても同じ、という政治的ニヒリズムが怖い。無力感を突いて妙なリーダーや息苦しい社会が生まれ来ぬよう、憂さ晴らしの暴力を許さぬよう、こんな時こそ目を光らせたい。
梅娘は5年前、小泉首相の最後の年から上京している。梅干しを渡す相手が毎年違うのは、宣伝的には悪くないかもしれない。日本の政治が抱える、酸っぱい現実である。
2011年6月4日土曜日
部下の強みを生かす責任 (ドラッカー)
部下の弱みに目を向けることは、間違っているばかりか無責任である。
上司たる者は、組織に対して、部下一人ひとりの強みを可能なかぎり生かす責任がある。
部下に対して、彼らの強みを最大限に生かす責任がある。
上司たる者は、組織に対して、部下一人ひとりの強みを可能なかぎり生かす責任がある。
部下に対して、彼らの強みを最大限に生かす責任がある。
国立大学法人の検証-ガバナンスの視点
国立大学法人における諸活動を検証し更なる改善に結びつけ、それを公表していくことは、運営資源の提供者である国民への説明責任上、極めて重要なことではないかと想います。
昨年のことになりますが、文部科学省は、国立大学の法人化に関する検証を行い、「国立大学法人化後の現状と課題について(中間まとめ)」を取りまとめ公表しています。また、国立大学協会内部でも検証が行われました。
(関連過去記事)
第一期の変化を踏まえた第二期における課題(2010年9月15日 大学サラリーマン日記)
ところが、この国立大学協会による検証の結果は、私が調べた限りでは、なぜか、国立大学協会会員限定のサイトでしか見ることができません。したがって、社会の皆様はもとより、国立大学法人の教職員ですら、この検証結果の存在を知っている方は少ないと思われます。
せっかく、多くの方々のご苦労により作成されたものですし、もっともなことが書かれてあるのですから公表されてはいかがかと思います。今回は、この検証結果のうち、主に大学のガバナンスに関わる部分について抜粋してご紹介したいと思います。
第一期中期目標期間の検証(平成23年2月16日 国立大学協会)
はじめに
2010年3月末をもって第1期中期目標期間の6年が経過した。各大学は、「国立大学法人」という新たな法人制度の下、大学の裁量の拡大という法人化のメリットを大学改革のために最大限活用するという積極的な発想に立って、新しい国立大学の姿を試行錯誤を繰り返しながら模索し、中期目標に掲げた達成目標を中期計画に記載した具体的な計画の実施により実現すべく最大限の努力を続けてきた。
文部科学省では、2010年7月に「国立大学法人化後の現状と課題について(中間まとめ)」を公表し、法人化以降6年間が経過した国立大学法人の現状分析や今後の改善方策についてとりまとめたが、こうした法人化の検証は、そのプレーヤーたる国立大学法人が自ら行うことが重要であり、ついては、国立大学協会として第1期中期目標期間の検証を行い、国立大学法人制度の導入に当たり期待されていた初期の目的(自立的な環境下で裁量の大幅な拡大を図り、大学をより活性化し、優れた教育や特色ある研究へ向けた積極的な取組を促し、より個性豊かな魅力ある大学を実現する)がどう達成されたのか、あるいは、当初考えていなかった効果や、問題点としてどのようなものが出てきたのかを明確にし、今後の国立大学の発展に役立てることになった。
実際の検証にあたっては、国立大学協会の総力によりこれをまとめるとの方針により、国大協に設置されている委員会(小委員会)ごとに、それぞれの所掌課題について詳細な検証を行い、それを基に整理するというボトムアップの手法によりとりまとめを行った。(途中略)
各大学は、本検証結果も参考にしつつ、第2期中期目標期間において、各大学が目指す個性豊かな大学づくりや教育研究の展開、機動的・戦略的な大学運営の実現を果たすとともに、国民や社会への説明責任を果たせるよう努めていくことが期待される。
「自主行動指針」に照らした事項の検証
指針5 大学の活性化を目指したマネジメント改革
意思決定の迅速化、管理運営の効率化を図る
組織体制(経営)
学長が法人の長となり、教育研究及び経営双方の最終責任者として、トップダウンによる意思決定により、強いリーダーシップと経営能力を発揮することが可能となった。仕組みは有効であったものの、法人化前のボトムアップ型の大学運営からの移行が円滑に行われているとは言い難いため、迅速な意思決定を図ることが必要である。
教育研究面に関する重要事項や方針を審議する教育研究評議会と経営に関する重要事項や方針を審議する経営協議会が設置され、それぞれ概ね適正かつ有効に機能していると考えられる。今後、現状を十分に理解した上で一部の利益にとらわれずに大学全体の発展に寄与する助言を行うことが重要である。
国立大学法人の業務を監査するため監事を置くこととされ、会計制度上の監査機能、業務監査ともに適切に機能し、学長に対して随時意見が提出され、業務の改善等に適切に反映されている。監事は、大学の教育研究の特性について理解を深めるとともに、教職員との信頼関係を構築することが重要である。
組織の見直し(経営)
国の定員管理の枠から外れたことにより、学内組織の改編を各法人の裁量によって行うことが可能になり、教育研究組織及び事務組織の弾力的な改組・再編が可能になった。事務組織では、スタッフ制の導入や部局事務の一元化、中間職制度の整備などの見直しが進んでいる。一方で、行革推進法に基づく総人件費の削減が求められたため、組織体制整備が十分に進められず、既存の教育研究組織の改組・再編等組織の見直しが充分活性化しておらず、法人化のメリットを最大限活用しているとは言い難い。また運営費交付金の削減により、新たな人材の確保が有期的な雇用形態に頼らざるを得ず、優秀な人材の確保にあたっても支障を来している。各国立大学が法人化のメリットを最大限活用できるよう、継続的かつ安定的な制度面・財政面での国のフォローアップが必要不可欠であるとともに、継続的に教職員の意識改革を図ることで、大学改革への取組が促進される環境の醸成に努める等、組織の見直しを促進することが必要である。事務組織についても、更なる業務の効率化を目指し、不断の改革に努める必要がある。
第2期における課題
大学の活性化につながる一層のマネジメント改革
法人制度の導入により各大学での創意工夫や経営努力による資源の効率的利用などが可能になったが、厳しい環境下で経営力の一層の向上による教育研究活動の充実を図る努力が大学側に求められているのはいうまでもない。他方、法人制度は国立大学の公的性格から各種の規制が加えられており、法人の自主性・自律性の発揮と公的な説明責任のバランスを図る観点から制度の運用につき政府側の改善がなされるべき事項も少なくない。そこで、大学側と政府側に区分して課題を整理した。
<大学の課題>
1)経営力の強化
国立大学が法人化され6年を経過した。法制度上は独立した経営体となり、役員会、経営協議会、教育研究評議会等のガバナンス構造も整備された。課題は学長はじめ役員並びに幹部職員の経営能力の向上である。法人制度の遵守の徹底はもちろん、組織のトップマネジメントを担える経営能力の育成と向上が必要である。
2)戦略的な経営管理制度の運用
内部資源管理については基本的に各法人の自主性に委ねられるようになったため、職員の採用・昇進・退職管理や業績管理において大学独自の方式が導入されてきた。国大協等の研修や法人評価を通じて優良事例の紹介がなされ知識の共有化が図られてきたが、第1期はどちらかというとフラット組織・グループ制とかバランスト・スコアカードなど企業経営にならった事例が多く、今後はいかに国立大学に適合した戦略経営を構築していくか、特に企業にない寄附金等の非対価性の収入をどう確保していくかについての戦略が重要になってくる。また、法人評価を学内の計画、実施、評価及び修正行動の経営システムのなかに明確に位置付け、積極的に業務の改善や見直しに反映させていくことが望まれる。
3)教職員の意識向上
法人化以降、教職員は非公務員になり法人職員となった。特に、職員においては移動官職が幹部職員を占める構造から法人内部での人事管理が基本になったことから、法人への帰属意識や職務への動機づけ及び専門能力の向上が課題になっている。自主的な研修参加や大学院講義履修などを通じて改革への意欲も高く専門能力も身につけている職員も増えてきており、今後はこうした動きが全学的に広まっていくことが重要である。また、教員は自律的な専門職として所属大学よりも自らの学術組織への帰属意識が高いといわれるが、法人の使命の達成のため、自らの活動が法人業績とどのような関係があるかに関して理解を深められる工夫が必要である。
4)社会との積極的対話
大学は教育研究及び社会貢献を通じて社会に対してサービスを供給しているが、その財源を学生納付金や政府予算だけでなく、社会の様々な組織からの支援にも依存している。特に国立大学はその財源の過半を政府からの財源措置に負っていることから、納税者に対して十分な説明責任を果たすことが要請されている。加えて、社会への説明責任と教育の質の向上のため学校教育法施行規則が改正され、平成23年4月から大学が公表すべき情報の内容が明確化されたが、これを契機に各大学の情報発信の在り方について見直すとともに、国際化の中で広く所在する地域及び国際社会に対して国立大学の活動や役割を積極的に発信し、利害関係者に理解を得るだけでなく積極的な対話を進めていくことが必要である。
大学が単に人的資源の形成・成長のため公的投資の対象になるというだけでなく、社会にとっても有意義なものであるという共通認識が持続可能な発展を支える原動力になるからである。
おわりに
国立大学は、法人として最初の中期目標期間を終え、第2期を迎えたが、この間、大学を取り巻く国内外の環境は大きく変化してきた。急速に変化する環境下で、国立大学法人はどのような成果を上げ、どのような困難を抱え、どのような課題の克服を求められてきたか、そして、第2期における国立大学の課題は何かを、国立大学協会として検証した。
本検証では、法人化に伴う教育研究や管理運営の状況のみならず、文部科学省の「国立大学法人化後の現状と課題について」(中間まとめ)には触れられていない、広報や研修、国際交流といったものも含め細部にわたり検証を行った。
特に、積極的な情報発信といった広報活動や、国立大学自身による人材育成を推進する研修活動、国際ネットワークの拡大などの国際交流活動等、法人化の特質の一つである「柔軟さ」がどのように発揮されたかも検討対象とした。今回、こうした点も掘り下げることができたのも本検証の特徴として挙げておきたい。
検証を通して、国立大学が果たすべき役割と第2期以降に向けての課題を明確にすることができたと思っている。描き出された課題はいずれも容易に克服できるものではなく、大学構成員の意識変革と真摯な努力の不断の積み重ねが必要であることはもちろんのことであるが、とりわけ大学と社会との積極的対話が不可欠であることを確認するものとなった。
大学を取り巻く社会経済環境の構造は大きく変化し、グローバル化は更に急加速し、大学に求められる役割はますます大きくなっている。各大学におかれては、その機能強化をはかるための挑戦をされているところであるが、その検討の際には本検証結果も参考にしていただければ幸いである。
昨年のことになりますが、文部科学省は、国立大学の法人化に関する検証を行い、「国立大学法人化後の現状と課題について(中間まとめ)」を取りまとめ公表しています。また、国立大学協会内部でも検証が行われました。
(関連過去記事)
第一期の変化を踏まえた第二期における課題(2010年9月15日 大学サラリーマン日記)
ところが、この国立大学協会による検証の結果は、私が調べた限りでは、なぜか、国立大学協会会員限定のサイトでしか見ることができません。したがって、社会の皆様はもとより、国立大学法人の教職員ですら、この検証結果の存在を知っている方は少ないと思われます。
せっかく、多くの方々のご苦労により作成されたものですし、もっともなことが書かれてあるのですから公表されてはいかがかと思います。今回は、この検証結果のうち、主に大学のガバナンスに関わる部分について抜粋してご紹介したいと思います。
第一期中期目標期間の検証(平成23年2月16日 国立大学協会)
はじめに
2010年3月末をもって第1期中期目標期間の6年が経過した。各大学は、「国立大学法人」という新たな法人制度の下、大学の裁量の拡大という法人化のメリットを大学改革のために最大限活用するという積極的な発想に立って、新しい国立大学の姿を試行錯誤を繰り返しながら模索し、中期目標に掲げた達成目標を中期計画に記載した具体的な計画の実施により実現すべく最大限の努力を続けてきた。
文部科学省では、2010年7月に「国立大学法人化後の現状と課題について(中間まとめ)」を公表し、法人化以降6年間が経過した国立大学法人の現状分析や今後の改善方策についてとりまとめたが、こうした法人化の検証は、そのプレーヤーたる国立大学法人が自ら行うことが重要であり、ついては、国立大学協会として第1期中期目標期間の検証を行い、国立大学法人制度の導入に当たり期待されていた初期の目的(自立的な環境下で裁量の大幅な拡大を図り、大学をより活性化し、優れた教育や特色ある研究へ向けた積極的な取組を促し、より個性豊かな魅力ある大学を実現する)がどう達成されたのか、あるいは、当初考えていなかった効果や、問題点としてどのようなものが出てきたのかを明確にし、今後の国立大学の発展に役立てることになった。
実際の検証にあたっては、国立大学協会の総力によりこれをまとめるとの方針により、国大協に設置されている委員会(小委員会)ごとに、それぞれの所掌課題について詳細な検証を行い、それを基に整理するというボトムアップの手法によりとりまとめを行った。(途中略)
各大学は、本検証結果も参考にしつつ、第2期中期目標期間において、各大学が目指す個性豊かな大学づくりや教育研究の展開、機動的・戦略的な大学運営の実現を果たすとともに、国民や社会への説明責任を果たせるよう努めていくことが期待される。
「自主行動指針」に照らした事項の検証
指針5 大学の活性化を目指したマネジメント改革
意思決定の迅速化、管理運営の効率化を図る
組織体制(経営)
学長が法人の長となり、教育研究及び経営双方の最終責任者として、トップダウンによる意思決定により、強いリーダーシップと経営能力を発揮することが可能となった。仕組みは有効であったものの、法人化前のボトムアップ型の大学運営からの移行が円滑に行われているとは言い難いため、迅速な意思決定を図ることが必要である。
教育研究面に関する重要事項や方針を審議する教育研究評議会と経営に関する重要事項や方針を審議する経営協議会が設置され、それぞれ概ね適正かつ有効に機能していると考えられる。今後、現状を十分に理解した上で一部の利益にとらわれずに大学全体の発展に寄与する助言を行うことが重要である。
国立大学法人の業務を監査するため監事を置くこととされ、会計制度上の監査機能、業務監査ともに適切に機能し、学長に対して随時意見が提出され、業務の改善等に適切に反映されている。監事は、大学の教育研究の特性について理解を深めるとともに、教職員との信頼関係を構築することが重要である。
組織の見直し(経営)
国の定員管理の枠から外れたことにより、学内組織の改編を各法人の裁量によって行うことが可能になり、教育研究組織及び事務組織の弾力的な改組・再編が可能になった。事務組織では、スタッフ制の導入や部局事務の一元化、中間職制度の整備などの見直しが進んでいる。一方で、行革推進法に基づく総人件費の削減が求められたため、組織体制整備が十分に進められず、既存の教育研究組織の改組・再編等組織の見直しが充分活性化しておらず、法人化のメリットを最大限活用しているとは言い難い。また運営費交付金の削減により、新たな人材の確保が有期的な雇用形態に頼らざるを得ず、優秀な人材の確保にあたっても支障を来している。各国立大学が法人化のメリットを最大限活用できるよう、継続的かつ安定的な制度面・財政面での国のフォローアップが必要不可欠であるとともに、継続的に教職員の意識改革を図ることで、大学改革への取組が促進される環境の醸成に努める等、組織の見直しを促進することが必要である。事務組織についても、更なる業務の効率化を目指し、不断の改革に努める必要がある。
第2期における課題
大学の活性化につながる一層のマネジメント改革
法人制度の導入により各大学での創意工夫や経営努力による資源の効率的利用などが可能になったが、厳しい環境下で経営力の一層の向上による教育研究活動の充実を図る努力が大学側に求められているのはいうまでもない。他方、法人制度は国立大学の公的性格から各種の規制が加えられており、法人の自主性・自律性の発揮と公的な説明責任のバランスを図る観点から制度の運用につき政府側の改善がなされるべき事項も少なくない。そこで、大学側と政府側に区分して課題を整理した。
<大学の課題>
1)経営力の強化
国立大学が法人化され6年を経過した。法制度上は独立した経営体となり、役員会、経営協議会、教育研究評議会等のガバナンス構造も整備された。課題は学長はじめ役員並びに幹部職員の経営能力の向上である。法人制度の遵守の徹底はもちろん、組織のトップマネジメントを担える経営能力の育成と向上が必要である。
2)戦略的な経営管理制度の運用
内部資源管理については基本的に各法人の自主性に委ねられるようになったため、職員の採用・昇進・退職管理や業績管理において大学独自の方式が導入されてきた。国大協等の研修や法人評価を通じて優良事例の紹介がなされ知識の共有化が図られてきたが、第1期はどちらかというとフラット組織・グループ制とかバランスト・スコアカードなど企業経営にならった事例が多く、今後はいかに国立大学に適合した戦略経営を構築していくか、特に企業にない寄附金等の非対価性の収入をどう確保していくかについての戦略が重要になってくる。また、法人評価を学内の計画、実施、評価及び修正行動の経営システムのなかに明確に位置付け、積極的に業務の改善や見直しに反映させていくことが望まれる。
3)教職員の意識向上
法人化以降、教職員は非公務員になり法人職員となった。特に、職員においては移動官職が幹部職員を占める構造から法人内部での人事管理が基本になったことから、法人への帰属意識や職務への動機づけ及び専門能力の向上が課題になっている。自主的な研修参加や大学院講義履修などを通じて改革への意欲も高く専門能力も身につけている職員も増えてきており、今後はこうした動きが全学的に広まっていくことが重要である。また、教員は自律的な専門職として所属大学よりも自らの学術組織への帰属意識が高いといわれるが、法人の使命の達成のため、自らの活動が法人業績とどのような関係があるかに関して理解を深められる工夫が必要である。
4)社会との積極的対話
大学は教育研究及び社会貢献を通じて社会に対してサービスを供給しているが、その財源を学生納付金や政府予算だけでなく、社会の様々な組織からの支援にも依存している。特に国立大学はその財源の過半を政府からの財源措置に負っていることから、納税者に対して十分な説明責任を果たすことが要請されている。加えて、社会への説明責任と教育の質の向上のため学校教育法施行規則が改正され、平成23年4月から大学が公表すべき情報の内容が明確化されたが、これを契機に各大学の情報発信の在り方について見直すとともに、国際化の中で広く所在する地域及び国際社会に対して国立大学の活動や役割を積極的に発信し、利害関係者に理解を得るだけでなく積極的な対話を進めていくことが必要である。
大学が単に人的資源の形成・成長のため公的投資の対象になるというだけでなく、社会にとっても有意義なものであるという共通認識が持続可能な発展を支える原動力になるからである。
おわりに
国立大学は、法人として最初の中期目標期間を終え、第2期を迎えたが、この間、大学を取り巻く国内外の環境は大きく変化してきた。急速に変化する環境下で、国立大学法人はどのような成果を上げ、どのような困難を抱え、どのような課題の克服を求められてきたか、そして、第2期における国立大学の課題は何かを、国立大学協会として検証した。
本検証では、法人化に伴う教育研究や管理運営の状況のみならず、文部科学省の「国立大学法人化後の現状と課題について」(中間まとめ)には触れられていない、広報や研修、国際交流といったものも含め細部にわたり検証を行った。
特に、積極的な情報発信といった広報活動や、国立大学自身による人材育成を推進する研修活動、国際ネットワークの拡大などの国際交流活動等、法人化の特質の一つである「柔軟さ」がどのように発揮されたかも検討対象とした。今回、こうした点も掘り下げることができたのも本検証の特徴として挙げておきたい。
検証を通して、国立大学が果たすべき役割と第2期以降に向けての課題を明確にすることができたと思っている。描き出された課題はいずれも容易に克服できるものではなく、大学構成員の意識変革と真摯な努力の不断の積み重ねが必要であることはもちろんのことであるが、とりわけ大学と社会との積極的対話が不可欠であることを確認するものとなった。
大学を取り巻く社会経済環境の構造は大きく変化し、グローバル化は更に急加速し、大学に求められる役割はますます大きくなっている。各大学におかれては、その機能強化をはかるための挑戦をされているところであるが、その検討の際には本検証結果も参考にしていただければ幸いである。
2011年6月2日木曜日
怒り!国民無視の国盗り合戦
菅内閣の不信任決議案が昨日(6月1日)衆議院に提出されました。
東日本大震災の被災地を思えばそんなことをやっている場合ではないと怒りがこみあげてくる国民は少なくないのではないでしょうか。
記憶に残したいと考えましたので、記事を3つほど転載させていただきます。
不信任案提出-無責任にもほどがある(2011年6月2日 朝日新聞)
ついに自民、公明、たちあがれ日本の3党が、菅内閣の不信任決議案を衆院に提出した。
いま、国会の使命は東日本大震災の復旧・復興に向けた予算や法律づくりだ。それなのに露骨な権力ゲームにふける国会議員たちに強い憤りを覚える。
内閣不信任案は、野党の政権攻撃の切り札だ。それを切るなら、もっとわかりやすい理由と明確な展望が要る。そのどちらもないではないか。
自民党の谷垣禎一総裁は、きのうの党首討論で、震災と原発事故への対応の不手際などを理由に挙げた。
確かに、原発事故の情報公開は遅れ、迷走を重ねている。だが、自民党がこれみよがしに攻め立てることへの違和感をぬぐえない。情報公開への消極姿勢も危機管理の甘さも、自民党政権でも指摘されてきたことだ。国策として原子力発電を進めたのも自民党だった。
だからこそ、各党が力を合わせて危機を乗り越えてほしい。それが国民の願いだろう。
谷垣氏は菅直人首相が辞めれば、「党派を超えて団結する道はいくらでもできる」という。
だが「菅おろし」に同調するのは、小沢一郎元代表ら民主党の「反菅」勢力だ。両者は、民主党マニフェストの撤回か、固守かで百八十度違う。首相を代える一点でのみの協調であり、その先の政権構想も描けまい。
「急流でも馬を乗り換えよ」と唱えるのなら、せめて乗り換える馬とともに、その行く先を明示しなければ無責任だ。
野党よりもっと、あぜんとさせられるのは、民主党内の動きだ。首相指名で菅氏に投じ、政権を誕生させた連帯責任を都合よく忘れたようだ。
首相に知恵と力を貸し、叱咤(しった)し、政治を前に進める。それが与党議員の責任だ。なぜ、被災地を回り、支援策を考え、首相に実現を迫る努力を、もっとしないのか。
野党が提出する不信任案への賛成は筋が通らない。内閣を倒そうとするのなら、まず離党してから行動すべきだ。賛成しても除名されないと考えているなら、非常識にもほどがある。
不信任にひた走る議員は、可決されても、この震災下では衆院解散・総選挙はできないと踏んでいるように見える。だとしたら、本来の解散権を縛られたような状況のもとで不信任を行使する政治手法に、姑息(こそく)とのそしりも免れない。
こんな不信任騒動をしなければ、政治は進化できないのか。政治全体が不信任を突きつけられる事態を憂う。
政争にかまけている時間はないはずだ(2011年6月2日 日本経済新聞)
自民、公明両党などが衆院に菅内閣への不信任決議案を提出した。民主党執行部は2日の本会議での否決を見込むが、党内には野党に同調する動きも広がっている。東日本大震災への対応を後回しにし、政争を優先するような展開に違和感を覚える有権者は多いのではないか。
自民党の谷垣禎一総裁と公明党の山口那津男代表は1日の党首討論で、菅直人首相に相次いで即時辞任を迫った。谷垣氏は「震災から80日間たったが、進んだのは本部や会議の乱立だけだ。あなたの下では対応は不可能だ」と強調した。
首相は「国民は大震災の復旧・復興、原子力事故の早期収拾に国会が一丸となって当たってほしいと強く求めている」と述べ、退陣要求を突っぱねた。
野党は22日の今国会の会期末をにらみ、震災復興や原発事故などで後手の対応を続ける菅内閣との対決姿勢を一気に強めた。報道各社の世論調査をみても、首相や閣僚の手腕への懐疑的な見方が広がっているのは確かだ。
ただ「なぜ今、不信任案なのか」という疑問はぬぐい去れない。災害対応の理念や組織を定めた復興基本法案は与野党の修正協議が大詰めとなり、赤字国債発行法案の扱いや子ども手当の見直しを巡る調整も遅れている。一義的な責任は政府側にあるが、自民党も接点を見いだすため十分な努力をしたとは言い難い。
さらに理解に苦しむのは、民主党の小沢一郎元代表が不信任案への同調を示唆し、「倒閣」に向けて造反議員の拡大に動くなど党内抗争を激化させていることだ。
小沢元代表は昨年9月の党代表選に出馬し、衆院選マニフェスト(政権公約)の堅持などを訴えた末に菅氏に敗れた。大震災の発生後も政権を積極的に支えようとはせず、むしろ様々な党内調整の足を引っぱるような言動が目立った。
小沢元代表や支持勢力が内閣不信任案に賛成するのであれば、まず民主党を離党するのが筋である。
菅政権の大震災や原発事故を巡る対応はスピード感を欠き、重要政策を巡る調整も遅れがちだ。一方、不信任案の可決を目指す動きからは、首相を退陣に追い込んだ後の新たな政策の軸や後継政権のイメージがほとんど伝わってこない。
まだ10万人を超える被災者が厳しい避難生活を強いられている。今の日本に貴重な時間を政争に費やしている余裕はない。与野党は混乱を早期に収拾し、国政上の課題に緊張感を持って取り組んでほしい。
不信任決議案提出 やはり大義は見えない(2011年6月2日 毎日新聞)
なお10万を超す避難者や、生活再建に取り組む人たちの目にこの攻防はどう映っているだろう。自民、公明など野党は1日、菅内閣に対する不信任決議案を提出した。
衆院本会議で2日に行われる採決では民主党議員の大量造反が見込まれ、党の分裂含みで状況は緊迫している。東日本大震災の復旧のさなか、自民党はあえて倒閣へ勝負に出た。だが、納得するに足る大義名分が掲げられたとは言い難い。
なぜ今、不信任決議案なのか。谷垣禎一自民党総裁が「おやめになってはいかがか」と退陣を促し、菅直人首相が「復興、原発事故収束の責任を果たしたい」と拒んだ党首討論の応酬を聞いても疑問は解消できなかった。
谷垣氏は政権発足以来の民主党の選挙での敗北、米軍普天間飛行場移設の停滞などを挙げ「人徳も力量もない」と首相の指導力を批判した。だが、大震災を経た国会のさなかで決議案を出すからには震災、原発事故対応で「なぜ首相ではだめなのか」、さらに「誰ならいいのか」を十分説明する責任があったはずだ。
被災者支援の遅れなどはもっともな指摘だったが「建設的な意見をいただいた」と首相に逆手に取られた。原発事故の初動対応に問題が生じているのも事実だ。しかし、首相が谷垣氏に反問したように、自民党の従来の原子力政策や安全対策も問われている。
もちろん、この状況を招いた責任は民主党を掌握できない首相にもある。首相は討論で「通年国会」も含め国会の会期を大幅に延長し、2次補正予算案など震災対応に取り組む方針をようやく表明した。今国会でどこまで政権を懸けて復興に取り組む決意があるのか、谷垣氏が真に問うべきはこの点だ。
内閣の命運を決する2日の採決で民主党議員の責任は野党以上に大きい。小沢一郎元代表の系列議員を中心に大量造反が予想されている。いろいろ理由はあろうが、本質は震災でいったん封印された内紛の蒸し返しである。不信任決議案への対応は政党人として極めて重い。野党の提案に同調するというのであれば最低限、離党の覚悟を固めるべきだ。
不信任決議案が可決されても否決されても、もはや相当の混乱は避けられまい。可決の場合、被災地の事情を考えれば首相による衆院解散は難しい。一方で首相を退陣に追い込んだ場合の新政権の展望が谷垣氏から示されたわけでもない。
否決されても民主党の分裂状況は政権の運営に大きな影響を与えることになろう。今、政治がなすべきことは何か。本会議場では議員一人一人が自問し採決にのぞんでほしい。
納得のツイート
不信任案が可決されるかもしれないという情勢に愕然とします。仮に不信任が可決されたとして、解散・総選挙ができるのでしょうか。総辞職の場合、自公は小沢グループと組むのでいいのでしょうか。いずれにしても、私にはさらなる混迷しか見えてきません。見えてくるのは政治家の醜さです。(一色清)
東日本大震災の被災地を思えばそんなことをやっている場合ではないと怒りがこみあげてくる国民は少なくないのではないでしょうか。
記憶に残したいと考えましたので、記事を3つほど転載させていただきます。
不信任案提出-無責任にもほどがある(2011年6月2日 朝日新聞)
ついに自民、公明、たちあがれ日本の3党が、菅内閣の不信任決議案を衆院に提出した。
いま、国会の使命は東日本大震災の復旧・復興に向けた予算や法律づくりだ。それなのに露骨な権力ゲームにふける国会議員たちに強い憤りを覚える。
内閣不信任案は、野党の政権攻撃の切り札だ。それを切るなら、もっとわかりやすい理由と明確な展望が要る。そのどちらもないではないか。
自民党の谷垣禎一総裁は、きのうの党首討論で、震災と原発事故への対応の不手際などを理由に挙げた。
確かに、原発事故の情報公開は遅れ、迷走を重ねている。だが、自民党がこれみよがしに攻め立てることへの違和感をぬぐえない。情報公開への消極姿勢も危機管理の甘さも、自民党政権でも指摘されてきたことだ。国策として原子力発電を進めたのも自民党だった。
だからこそ、各党が力を合わせて危機を乗り越えてほしい。それが国民の願いだろう。
谷垣氏は菅直人首相が辞めれば、「党派を超えて団結する道はいくらでもできる」という。
だが「菅おろし」に同調するのは、小沢一郎元代表ら民主党の「反菅」勢力だ。両者は、民主党マニフェストの撤回か、固守かで百八十度違う。首相を代える一点でのみの協調であり、その先の政権構想も描けまい。
「急流でも馬を乗り換えよ」と唱えるのなら、せめて乗り換える馬とともに、その行く先を明示しなければ無責任だ。
野党よりもっと、あぜんとさせられるのは、民主党内の動きだ。首相指名で菅氏に投じ、政権を誕生させた連帯責任を都合よく忘れたようだ。
首相に知恵と力を貸し、叱咤(しった)し、政治を前に進める。それが与党議員の責任だ。なぜ、被災地を回り、支援策を考え、首相に実現を迫る努力を、もっとしないのか。
野党が提出する不信任案への賛成は筋が通らない。内閣を倒そうとするのなら、まず離党してから行動すべきだ。賛成しても除名されないと考えているなら、非常識にもほどがある。
不信任にひた走る議員は、可決されても、この震災下では衆院解散・総選挙はできないと踏んでいるように見える。だとしたら、本来の解散権を縛られたような状況のもとで不信任を行使する政治手法に、姑息(こそく)とのそしりも免れない。
こんな不信任騒動をしなければ、政治は進化できないのか。政治全体が不信任を突きつけられる事態を憂う。
政争にかまけている時間はないはずだ(2011年6月2日 日本経済新聞)
自民、公明両党などが衆院に菅内閣への不信任決議案を提出した。民主党執行部は2日の本会議での否決を見込むが、党内には野党に同調する動きも広がっている。東日本大震災への対応を後回しにし、政争を優先するような展開に違和感を覚える有権者は多いのではないか。
自民党の谷垣禎一総裁と公明党の山口那津男代表は1日の党首討論で、菅直人首相に相次いで即時辞任を迫った。谷垣氏は「震災から80日間たったが、進んだのは本部や会議の乱立だけだ。あなたの下では対応は不可能だ」と強調した。
首相は「国民は大震災の復旧・復興、原子力事故の早期収拾に国会が一丸となって当たってほしいと強く求めている」と述べ、退陣要求を突っぱねた。
野党は22日の今国会の会期末をにらみ、震災復興や原発事故などで後手の対応を続ける菅内閣との対決姿勢を一気に強めた。報道各社の世論調査をみても、首相や閣僚の手腕への懐疑的な見方が広がっているのは確かだ。
ただ「なぜ今、不信任案なのか」という疑問はぬぐい去れない。災害対応の理念や組織を定めた復興基本法案は与野党の修正協議が大詰めとなり、赤字国債発行法案の扱いや子ども手当の見直しを巡る調整も遅れている。一義的な責任は政府側にあるが、自民党も接点を見いだすため十分な努力をしたとは言い難い。
さらに理解に苦しむのは、民主党の小沢一郎元代表が不信任案への同調を示唆し、「倒閣」に向けて造反議員の拡大に動くなど党内抗争を激化させていることだ。
小沢元代表は昨年9月の党代表選に出馬し、衆院選マニフェスト(政権公約)の堅持などを訴えた末に菅氏に敗れた。大震災の発生後も政権を積極的に支えようとはせず、むしろ様々な党内調整の足を引っぱるような言動が目立った。
小沢元代表や支持勢力が内閣不信任案に賛成するのであれば、まず民主党を離党するのが筋である。
菅政権の大震災や原発事故を巡る対応はスピード感を欠き、重要政策を巡る調整も遅れがちだ。一方、不信任案の可決を目指す動きからは、首相を退陣に追い込んだ後の新たな政策の軸や後継政権のイメージがほとんど伝わってこない。
まだ10万人を超える被災者が厳しい避難生活を強いられている。今の日本に貴重な時間を政争に費やしている余裕はない。与野党は混乱を早期に収拾し、国政上の課題に緊張感を持って取り組んでほしい。
不信任決議案提出 やはり大義は見えない(2011年6月2日 毎日新聞)
なお10万を超す避難者や、生活再建に取り組む人たちの目にこの攻防はどう映っているだろう。自民、公明など野党は1日、菅内閣に対する不信任決議案を提出した。
衆院本会議で2日に行われる採決では民主党議員の大量造反が見込まれ、党の分裂含みで状況は緊迫している。東日本大震災の復旧のさなか、自民党はあえて倒閣へ勝負に出た。だが、納得するに足る大義名分が掲げられたとは言い難い。
なぜ今、不信任決議案なのか。谷垣禎一自民党総裁が「おやめになってはいかがか」と退陣を促し、菅直人首相が「復興、原発事故収束の責任を果たしたい」と拒んだ党首討論の応酬を聞いても疑問は解消できなかった。
谷垣氏は政権発足以来の民主党の選挙での敗北、米軍普天間飛行場移設の停滞などを挙げ「人徳も力量もない」と首相の指導力を批判した。だが、大震災を経た国会のさなかで決議案を出すからには震災、原発事故対応で「なぜ首相ではだめなのか」、さらに「誰ならいいのか」を十分説明する責任があったはずだ。
被災者支援の遅れなどはもっともな指摘だったが「建設的な意見をいただいた」と首相に逆手に取られた。原発事故の初動対応に問題が生じているのも事実だ。しかし、首相が谷垣氏に反問したように、自民党の従来の原子力政策や安全対策も問われている。
もちろん、この状況を招いた責任は民主党を掌握できない首相にもある。首相は討論で「通年国会」も含め国会の会期を大幅に延長し、2次補正予算案など震災対応に取り組む方針をようやく表明した。今国会でどこまで政権を懸けて復興に取り組む決意があるのか、谷垣氏が真に問うべきはこの点だ。
内閣の命運を決する2日の採決で民主党議員の責任は野党以上に大きい。小沢一郎元代表の系列議員を中心に大量造反が予想されている。いろいろ理由はあろうが、本質は震災でいったん封印された内紛の蒸し返しである。不信任決議案への対応は政党人として極めて重い。野党の提案に同調するというのであれば最低限、離党の覚悟を固めるべきだ。
不信任決議案が可決されても否決されても、もはや相当の混乱は避けられまい。可決の場合、被災地の事情を考えれば首相による衆院解散は難しい。一方で首相を退陣に追い込んだ場合の新政権の展望が谷垣氏から示されたわけでもない。
否決されても民主党の分裂状況は政権の運営に大きな影響を与えることになろう。今、政治がなすべきことは何か。本会議場では議員一人一人が自問し採決にのぞんでほしい。
納得のツイート
不信任案が可決されるかもしれないという情勢に愕然とします。仮に不信任が可決されたとして、解散・総選挙ができるのでしょうか。総辞職の場合、自公は小沢グループと組むのでいいのでしょうか。いずれにしても、私にはさらなる混迷しか見えてきません。見えてくるのは政治家の醜さです。(一色清)
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