2011年6月29日水曜日

大学の役割の変化

「現代大学論」 教育評論家 梨戸茂史(文部科学教育通信 No270 2011.6.27

いまさらこんなことを言うのも遅きに失したというべきか、当然というべきか。

実は、この春から、某私立大学で講義を担当することになった。ご想像あれ。ところで今やこの国には、大学数は778校あるそうな(2011年度)。うち600校近くを占めるのが私立大学である。その約4割が定員割れとなっているそうだ。たまたま、講義している大学では定員割れはないそうだが、それでも5月の連休明けには、長期(といってもわずか1か月だけど)の欠席者がいないかどうか、大学当局から調査依頼があったとクラス担任の先生がおっしゃる。つまりは、入学金を払って手続きはしたが、結局、他大学に流れたのか浪人するのか、その大学に通っていない学生がいる。

さてその講義だが、学生の一人が質問。「先生、ノートは持ってきた方がいいですか?」・・・絶句しましたが、その後、「ルーズリーフでいいですか?」。これで解釈したのは、一冊まるまる書くだけの授業の量があるのか、ちょっとメモすれば済むくらいの講義なのか、ということらしい。国家資格などが取れる理系に近い学科やコースがあり、多分、いろいろ配られる資料やプリント類が多いのだろう。自分で全部書くなどという授業はほぼなさそうだ。今どきの先生は丁寧かつ親切だ。

かつて「四六答申」といわれる中央教育審議会の答申(昭和46年)があり、高等教育機関である大学をいくつかのパターンに分けて、それぞれを振興すべきと説いたが、当時の文部省すら棚上げしてお蔵入りにした。だが、今やその状況が現実のものとなっている。つまり、大学には、旧帝大や有力私大の一部が「研究大学」(実際に大学院重点化したわけだが)と「教育」をその任務の中心とする大学、そして高度専門職業人養成の大学(院)などがある。つまり大学は、研究機関だったが、現実には、大学が増え、教育機関と考えなければならない大学が多数を占めているということだ。その教育機関としての大学だが、全入時代を迎えて、学生のレベルはいろいろ。精神年齢も幼く、勉強の仕方から教えなければならない。新入生ガイダンスで授業の取り方を教えたら、「面倒。どうして自分で選ばなければならないの? 決まっていたら楽なのに!」との声が聞こえたそうだ。まるで高校の延長だ。そりゃそうでしょう、「研究大学」の旧帝大は7校だったが、先ほどのようにその百倍以上の「大学」があるのだから。従って、大部分の大学は「教育機関」と考えるべきだ。そして、その教育も、一般教養中心で幅広い教養を身に付ける。さらに勉強、研究したいと考える学生は、研究大学の大学院に行けばいい。そして高度専門職の養成にはその役割を持つ大学院がある。

言い換えれば、多くの大学の役割は、「良き市民たる教養」を教える大学ということだろう。つまりは、もう「偏差値の高い学生はお断り」「できすぎる学生はいらない」といえる大学でしょう。旧帝大モデルではなく自分の大学の役割を見据えて「教育」に徹するということ。そして資格の取れるコースを持つ大学が生き残る可能性が高い。

教育の中身でも、一部の大学は既に取り組んではいるけれど、「日本語」の教育を行うことが大事。レポートを書かせても、誤字、脱字、あげくは「ひらがな」で書く学生が出る。パソコンや携帯のメールで漢字を書く機会が減ったせいもある。学力低下に悩んで「補習」に走るのもお門違い?かもしれない。補習しても(昔のように)期待したレベルに達しないなら、4年間の教養教育に向かうべきだ。先生も「悔い改める」時代かも・・・