成果は組織の内部ではなく外部にある。救世軍の成果は、アルコール中毒者、売春婦、飢えた人に現れる。教師の成果は生徒に現れる。
意図さえよければ成果はなくともよいか。17世紀から18世紀初めにかけて、イエズス会の修道士が大勢中国に渡った。優れた人たちだった。迫害、苦難、危険に耐えた。懸命に働いたが成果はなかった。たとえわずかの人でも改宗させようとした。天文学、数学、画業において秀でた者もいた。しかし、それは成果のないところへの資源の配賦だった。
神の国では一人の罪人でも悔い改めれば喜びがあるという。だが、神の国でも、資源がミッション、目標、成果に正しく配賦されれば、それだけ喜びも大きくなるはずである。事実、イエズス会も、優れた人たちを空しい夢に注ぎ込むことは、とうの昔にやめている。
もちろん、ミッションからスタートしなければならない。ミッションこそ重要である。組織として人として、何をもって憶えられたいか。ミッションとは、今日を超越したものでありながら、今日を導き今日を教えてくれるものである。ミッションを失った瞬間、われわれは迷い、資源を浪費する。ミッションが明らかでありさえずれば、目標を設定して進むこともできる。
しかし、非営利組織は成果を明らかにして初めて目標を設計することができる。そのとき初めて「なすべきことをなしているか。活動は正しいか。ニーズに応えているか」を判定することができる。何よりも「優れた人材に見合う成果をあげているか」を考えることができる。そうしてようやく、次に大切なこととして「われわれはいまも正しい分野にいるか。変えるべきではないか。いまやっていることは廃棄すべきではないか」を考えることができる。
非営利組織は活動分野ごとに成果を定義しなければならない。主な活動分野を一つひとつ精査していく必要がある。